1943馬渡―ショルフハイデ1
海軍航空本部が陸軍水戸飛行場の敷地内に借り受けていた建屋の中で、今日の分の投下試験を終えて帰ってきたばかりの久慈少佐は、呆れたような顔で矢坂大尉を見つめていた。
そろそろ昼に鳴く蝉よりも、秋の虫の声の方が目立つような季節になっていたが、まだ気温は高かった。それにユ号班の班員達は技術将校や技師といった技術者ばかりだったから、軍衣も動きやすい略装姿の方が多かった。
現地の責任者である久慈少佐自身が、率先して本来は海軍の戦地勤務用の略装である第三種軍装を着込んでいるほどだった。陸軍から派遣された要員の多くも、涼しそうな開襟の防暑衣姿のものが多かったはずだった。
だが、久しぶりに水戸飛行場に姿を見せた矢坂大尉は、詰め襟の軍衣をきっちりと着込んで居たものだから相当な違和感があったのだ。
ユ号班は、陸海軍共同研究という異例の体制をとっていた。
正式には海軍航空本部と陸軍航空本部の二者の指揮下にあるのだが、研究内容が内容なものだから、実際には両軍の航空本部だけではなく、海軍航空技術廠や陸軍航空技術研究所といった純粋な研究機関に加えて、艦政本部といった一見すると畑違いに見えなくもない組織から出向している要員も少なくなかった。
ユ号班がこのように変則的な体制となったのは、開発対象が従来の航空兵装の枠組みに収まりきらずに、無線技術や航空力学と言った幅広い分野の高度で最新の技術の導入が必要不可欠だったからだ。
以前であれば、このように各組織を横断するような集団を構成するのは非常に難しかった。官僚化が進んでいた日本軍では、陸海軍間どころか各部署間の縄張り意識が強かったからだ。
そのせいで電波関係などの新技術開発に関しては、各部門で同時に似たような研究をお互いに知らずに進めている場合も多かった。
そのような事情が変化し始めたのは、陸海軍の最高司令部である参謀本部、軍令部を束ねる統合参謀部が設立した頃だった。軍令機関が統合したものだから、研究機関でも同じような事情があったのだろう。
もっとも、久慈少佐には一研究員という自覚しか無かったから、上層部の政治的な事情はよくわからなかった。それに実際には陸海軍、さらには艦政本部や航空本部の間でユ号班の編成にはかなりの駆け引きがあったらしいとも聞いていた。
試射を実施する現地責任者に久慈少佐が任命されたのも、少佐が航空本部に出向してはいるものの、両者とは無関係な海軍技術研究所に籍をおいていたからではないか。
だが、少なくとも水戸飛行場に駐留するユ号班試射班の班内には、そのような政治的な事情を重んじるものは少なかった。
陸海軍という2者協同の研究体制が開始された当初こそ習慣や用語の違いなどからかぎくしゃくすることも少なくなかったが、現場責任者である久慈少佐が純粋な研究者であったためか、軍属の技師達も所属を気にすることなく職務に打ち込んでいた。
あるいは、単に技師たちが組織の縄張り意識などを思い出させないほどに、ユ号班の研究内容が特異で興味深いものであったためかもしれなかった。
ユ号班の名称は単純なものだった。誘導爆弾の頭文字を取っただけだったのだ。陸海軍でそれぞれ研究が開始された当初は、各軍で全く異なる秘匿名称が付けられた時期もあったらしいが、久慈少佐が着任する頃には両軍の多くの機関が関係していたせいか、単純で分かりやすい名称になっていたらしい。
実際に開発されている誘導爆弾の名称は別に存在していたが、用途ごとに分かれているせいか、あるいは研究段階で次々と試作品が投入されているせいか、各弾頭の名称は複雑なものが少なくなかった。
その中でも久慈少佐が担当しているのは、対艦誘導爆弾の誘導装置に関わるものだった。試験結果を受けて逐次改良されつつある弾頭を使用した投下試験を行っていたのだ。
ユ号班の中でも投下試験を実施している久慈少佐達は、水戸飛行場の敷地内に間借りしていたが、実際には飛行場は水戸市内ではなく近隣の那珂郡前渡村に位置していた。
この建屋は以前は馬渡村と呼ばれた場所にあるらしいが、詳細は久慈少佐も知らなかった。このあたりは幕末に米海軍のフリゲートによって砲撃された那珂湊に近い所だった。
徳川御三家という親藩中の親藩であるはずの水戸藩に政策変更を促した程の大事件の舞台となった場所だったが、現在ではただの漁港であるらしい。水戸飛行場がここに開設されたのも、大規模な市街地から外れていたからではないか。
もっとも、水戸飛行場と呼ばれる飛行場は実はここだけではなかった。本来は水戸市の南方に位置する別の飛行場が水戸飛行場と呼称されていたらしい。
現在は水戸南飛行場と呼ばれているその飛行場も、元々は空中勤務者のうち通信や戦技などの同乗者の教育を行うための飛行学校として開設されたものだったが、今次大戦の開戦に前後して行われた航空関係部隊の拡大に伴って手狭となっていた飛行学校の機能を強化するために新たに設けられたのが、この水戸東飛行場だった。
しかし、この水戸東飛行場を含む水戸飛行学校の施設が本来の目的に従って運用された期間は短かった。水戸飛行学校が開設されたのは開戦前のことだったが、実際には欧州におけるナチスドイツ政権の躍進などの政治事情を受けて、想定される欧州有事に対応するためのものだった。
要するに今次大戦の勃発を想定して開設されたのだが、実際には航空部隊の拡充は当初の計画を大きく上回る規模で行われていた。
想定とは異なり陸軍大国であるフランスが早々と戦線から脱落したことで国際連盟軍が欧州大陸における拠点を失ったことや、北アフリカで行われたような激しい消耗戦に対応するためだった。
教育の充実と規模の拡大を求められた陸軍航空本部は、大量増員された生徒数に対応可能な各学校のさらなる施設、規模の拡充とともに、専門化による効率化でこれを実行しようとしていた。
この方針に従って水戸飛行学校も機上通信に関する教育部門を分離して、機上での旋回機銃の取扱などの戦技に関する教育に特化することになった。
水戸東飛行場もこの方針に従って造成されたものらしいが、この方針もまたすぐに破綻することとなった。今度は教育の特化や生徒数の増大が原因ではなかった。
それよりも滑走路を含む設備自体が現用機材に対応できなくなっていたのだ。
水戸飛行学校の開設時期に教育用機材として主に使用されたのは九七式軽爆撃機だった。同時期に採用された九七式重爆撃機が双発ながら大型の高速重爆撃機であったのに対して、九七式軽爆撃機は単発複座の軽量な機体だった。
九七式軽爆撃機は安価で実用性の高い機体だったものの、運動性や速度などの点で性能不足は否めなかった。
同世代といっても良い九七式重爆撃機がエンジンの換装や機体構造の強化を断続的に図って未だに一線機としての性能を保っているのに対して、九七式軽爆撃機が早々に部隊配備が解かれていったのもそのあたりに原因があったのではないか。
また、実戦機としてのそのような評価を抜きにしても、九七式軽爆撃機は空中勤務者用の教育機材としても魅力に乏しい機体だった。稼働率は高いものの、乗員定数が二人でしか無いために飛行一回当たりの教育効率が悪すぎたのだ。
操縦者の教育用ならばともかく、大量育成が必要な同乗者の教育には多発多座の機体が要求されていた。
間が悪いことに、水戸飛行学校の機能拡大時期に前後して日本陸軍は本格的な実戦機としては史上初めてといっても過言ではない4発機を導入していた。九七式重爆撃機を上回る高速性能と重火力、重防護を兼ね備えた一式重爆撃機だった。
制式採用前後は、一式重爆撃機は高価で配備数も少ないだろうと考えられていたが、今次大戦の戦線拡大や、重武装重防護故の生存率の高さなどから生産数の拡大、配備部隊の増加が図られていた。
最新の一式重爆撃機四型であれば大口径の20ミリ機関砲計10門を備える従来では考えられないほどの重火力を有していた。だが、その強力な重火力も熟練した空中勤務者の数があればこその存在だった。
大量育成が必要となった同乗者の教育を効率良く行うには、多発多座の機体を用いる必要があった。
勿論、陸軍にそのような練習機が無いわけではなかった。輸送機に類似した機体形状を持つ一式双発高等練習機だった。この機種には操縦や航法訓練用のものの他に、銃座を増設した射撃、通信訓練用の機体が存在していた。
水戸飛行学校でも旧式化した九七式軽爆撃機などの後継として一式双発高等練習機を運用していたが、同機は使い勝手の良い一種の万能機として重宝されていたが、やはり性能不足は否めなかった。
射撃訓練用の機体であっても訓練で使用される銃は7.7ミリ旋回機銃でしかなかった。以前は日本陸軍の多座機でも後方銃として多用された口径の旋回銃だったが、最近ではこれを使用する機種は激減していた。
その程度の豆鉄砲では高速化、重装甲化が進んだ新鋭機に対抗するのは難しいし、双発複座機であれば後部銃座を廃して同乗者を搭載する電探等の操作に専念させる機種も多かったのだ。。
それに規模や操作手順が違いすぎるから、これを一式重爆撃機の実機が装備する多連装の20ミリ機関砲座の教育用に用いるのは難しいのだろう。
さらに取得価格の低減が求められた一式双発高等練習機が搭載するエンジンの出力は低く、最高速度は毎時400キロに満たなかったが、実用機であれば最低でもそこから100キロ程度は上回っていた。
これでは感覚的にも大きな違いがあるのではないか。輸送機程度の操縦訓練であればともかく、高速重爆撃機を想定した操縦や射撃の訓練に用いるには難しくなっているはずだった。
実用機の急速な性能向上に取り残される形になるが、その名に反して一式双発高等練習機は高等訓練に用いるには性能がすでに不足していたのだ。
幸いなことに、各飛行学校の学生が増員される頃には高等訓練に使用できる機体の目処が立つようになっていた。初期に生産された一式重爆撃機が性能向上型の配備に伴って返納されるものが出てきていたのだ。
そうした機体は前線で使用する実用機としては旧式化していたものの、練習機として使用するにはまだ十分な性能を有していたし、爆弾倉を空にすれば乗機させる訓練生を増員することも可能だった。
元々一式重爆撃機には、爆弾倉の寸法に合わせた簡易型の取り外し式座席なども用意されていた。空中挺進用とも言われていたが、構造は簡易的なものだったから、生産は容易だった。
これを用いれば一度に実機よりも多数の要員を乗せることも出来た。
だが、一式重爆撃機を練習機として運用するには問題が一つあった。一式双発高等練習機などの性能に劣る練習機の運用を前提として設営されていた既存の飛行学校の設備では、高速かつ大重量の一式重爆撃機を運用するには負担が大きすぎたのだ。
開設が比較的近年の水戸飛行学校も例外ではなかった。結局、水戸飛行学校は一式双発高等練習機を用いた初等教育に専念するとともに、実機を用いた高等教育は北方の仙台にさらに新設された飛行学校に学生を送り込んで行われることになっていた。
折角増設された水戸東飛行場も最近では稼働率が下がっていた。それで実際には教育用の飛行場というよりも、本部とも言える水戸南飛行場を支援するための射爆場として運用されているようだった。
誘導爆弾の研究を行うユ号班が飛行学校の施設を借用できたのも、同班の研究内容が優先度が高かった他にもそのような事情が存在したためだった。
もっとも、実際に水戸飛行場の施設や立地を目にした久慈少佐は、高等教育の場が仙台まで移ったのは新鋭の実機が運用できないことそれ自体にあるのではないと考えていた。
単に滑走路や他の設備が高性能な機体に対応できないというだけであるならば、設備を拡張すればいいだけの話だったからだ。
陸軍には機械化された独立工兵部隊が存在していた。戦地に投入された部隊も多かったが、飛行部隊と同じく教育部隊もまだ内地で活動していたから、それらの部隊を転用すれば十分な工数が確保できるはずだから、短時間で飛行場を拡張するのは不可能ではなかった。
つまり、水戸飛行場にはそれ自体に設備を拡大できないだけの理由があると考えるべきだったのだ。
九七式重爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。
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一式重爆撃機二型の設定は下記アドレスで公開中です。
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一式重爆撃機四型の設定は下記アドレスで公開中です。
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