1943ローマ降下戦47
ドイツ軍が周辺地域から撤退したことで自分の故郷が事実上解放された。それを聞かされたアルフォンソ伍長は、だが特に何の感慨も抱けなかった。生まれ育ったコムーネがここ暫くどのような状態にあったのか、それをおぼろげながら察していたからだ。
この時期、すでにローマ周辺の国際連盟軍支配地域は上陸直後から大きく拡大していた。すでに、橋頭堡という言葉を使用するにはふさわしくない程だった。
その理由はいくつかあった。
当初の計画ではシチリア島で国際連盟軍に接収されるはずだったイタリア海軍主力が、ウンベルト皇太子に率いられてローマ沖に集結したことから、上陸に前後して火力支援を行う艦砲射撃群が、結果的に計画時よりも強化されていたのもその理由の一つだった。
これもあって日本陸軍を主力とする国際連盟軍は、10個師団を超える大兵力を最低限の消耗で一挙に上陸させることに成功していた。
勿論上陸したのは先発していた空挺軍団のような軽装備の歩兵部隊だけではなかった。大重量の中戦車や自走砲などをふんだんに装備した重装備の機甲部隊や、列車砲のような大物まで含まれていたのだ。
その中でも、工兵部隊の活躍は大きかった。工兵と言っても基地や塹壕などの建設にあたる後方支援の設営部隊ではなかった。中戦車を転用したという贅沢な仕様の工兵車両を装備した機械化部隊だったのだ。
それは元々は前線での障害物爆破や地雷原の処理、擱座車両の回収などを担当する戦闘工兵部隊で使用するための機材だったらしい。機動力の高い最近の中戦車を装備した機械化部隊に随伴するために中戦車の車体を転用したというのだ。
機械化の遅れたイタリア軍からすれば羨ましい限りの車両だったが、この装甲作業車は装備を転換すれば築城機材としても十分な能力を発揮できた。
元が高速性能の高い中戦車だから、馬力が求められる牽引車や土工車両ほどには土木工事を行う際の適正は高くないとも聞いたが、実際には中戦車の巨体からなる余裕で補える範囲なのだろう。
その贅沢な工兵車両が豊富な資材と共に飛行場の修復や拡張に集中的に投入されていたのだ。
その飛行場は、空挺軍団隷下の日英空挺部隊が最後まで占拠し続けていた箇所だった。二箇所の飛行場は、南北方面からローマ市街地に向けて進攻するドイツ軍の進撃路前面にあたっていた。
アルフォンソ伍長たちが同行した特務遊撃隊のような少数精鋭の特殊戦部隊ではなく、飛行場を占拠していた各空挺部隊は師団級の大規模編成だったが、それでも重装備のドイツ軍に対しては苦戦を免れなかったのではないか。
だが、基本的に軽装備の歩兵部隊でしか無い空挺部隊は、粘り強い抵抗により飛行場を確保し続けていた。
ドイツ軍撤退後も激しい戦闘によって荒らされた飛行場は一時的に離着陸が難しい状態にあったようだが、それも機械化工兵部隊の集中投入によって短時間で復旧工事が行われていた。
それどころか、周辺の地形を丸ごと造成し直すような強引な工事によって、滑走路の延長や駐機帯の拡大などの拡張工事が復旧工事に続いて行われていたようだった。
日本海軍は今回の上陸作戦に大型の正規空母だけではなく、本来船団護衛用に建造されていた海防空母まで投入していた。アルフォンソ伍長達の立場では正確な戦力はわからなかったが、搭載機数は合計すれば少なくとも500機程度はあったはずだった。
これによりローマ周辺の局地的な制空権は国際連盟軍によって確保された状態にあった。しかも、日本海軍は空母部隊を支援するために専用の高速補給艦まで投入していたから、陸地からの支援無しでもかなりの期間作戦行動をとることも可能だったのだろう。
そして、空母部隊の継戦能力が限界を迎えるよりも早く、シチリア島を経由して陸軍機も大挙してローマ周辺の飛行場に飛来していた。
以前よりイタリア本土を爆撃していた重爆撃機であれば、爆装状態でも悠々とローマまで飛行できるし、航続距離の短い単発機でも長距離飛行用の増槽を装備すれば進出は難しくなかった。
今ではシチリア島やサルディーニャ島から続々と航空作戦用の物資までもが輸送されていた。その膨大な物資を背景として国際連盟軍の航空戦力は連日出撃を繰り返していた。
このドイツ軍に対して航空戦力と砲兵火力の優越にあることが国際連盟軍の急進撃の理由の一つであることは間違いなかった。
もっともアルフォンソ伍長は、ドイツ軍の撤退は必ずしも国際連盟軍の攻勢を支えきれなかったことだけが理由ではないと感じていた。
実際、橋頭堡の面積拡大に対して上陸部隊の密度は自然と低下していた。ドイツ軍に対して劣勢となっていた場所もあったのではないか。もしも、この時ドイツ軍の指揮官が機先を制して一時的にでも攻勢に出ていれば、戦線に混乱が生じていたはずだった。
だが、ドイツ軍はそのような冒険に出ることなく粛々と自らの防衛線を徐々に後退させていった。それは、まるで当初の計画にそっているかのような行動のようだった。
ドイツ軍の方針が転換したのが何時だったのか、それはわからなかった。一下士官でしかないアルフォンソ伍長には判断に必要な情報が得られなかったからだ。
だが、ドイツ軍がローマの確保を目指した攻勢から一転して防勢に転じたのは間違いなかった。アルフォンソ伍長に備わった最前線で戦う兵士としての勘がそう告げていたのだ。
おそらく、ドイツ軍はローマの奪取が不可能と判断した時点で無理攻めを避けて戦力の温存を図ろうとしたのではないか。部隊を消耗させてもローマを奪取出来ないのであれば、戦線を後退させて艦砲射撃の射程から逃れた上で、戦力を集中させて橋頭堡の拡大を避けるのだ。
ただし、そこからもドイツ軍が本格的な攻勢に転じるとは思えなかった。カラブリア州から上陸した国際連盟軍部隊に対してもドイツ軍が撤退していたからだ。
ドイツ軍が攻勢に転じることがあるとすれば更に後、カラブリア州、さらにはイタリア南部に展開していた部隊と合流して半島全域での戦力比が優位になってからのことになるだろう。
むしろ、ローマ周辺からドイツ軍が撤退したのは、交通の要衝であるローマを確保できないのであれば、イタリア半島東部を縦断する交通網だけでも確保することで半島南北をつなぐ連絡線を維持するためではないか。
具体的には、欧州大陸から突き出した脚部のような形状をしたイタリア半島のなかで、根本に当たるポー平原から爪先に当たるカラブリア州まで、長大な半島を縦貫するアペニン山脈に防衛戦を構築しようとしているはずだった。
ローマ東部には2000メートル級の険山が連なるグラン・サッソなどの険しい地形が広がっていた。勿論、そのような傾斜の激しい地形を大軍が通過するのは難しいから、自然と進路は鞍部に設定された古くからの街道周辺に限られるはずだった。
そのような地形を利用すれば、最小限の工事量で長期間抗戦可能な堅甲な陣地を構築する事もできると考えたのではないか。
ただし、アルフォンソ伍長はそのようなドイツ軍の目論見がそう簡単にうまくゆくとは思えなかった。ドイツ軍はイタリア王国一般国民からの広範囲な敵意を買ってしまっていたからだ。
その原因は言うまでもなくドイツが国王エマヌエーレ3世の暗殺を行っていたからだった。ドイツ側は、宣伝放送で一部イタリア王国軍の叛意を察知したために国王の保護を行おうとした所で戦闘が発生したと表明していたが、それを信じるものは少なかった。
ローマで異変が起こった後、ウンベルト皇太子が即座にドイツ軍の無法を詰り、国民に連帯を訴える放送を行っていた。しかも、同時にムッソリーニ統領事故死後にファシスト党の実権を握っていたバルボ元帥が、王室への忠誠をファシスト党員に促す放送をウンベルト皇太子の放送に続いて流していた。
ウンベルト皇太子はナポリから急遽北上する艦隊から、バルボ元帥はローマ市内に残っていた放送局からそれぞれ放送を流していたようだった。
この両名による放送を聞いて国王暗殺を知った国民の多くはドイツ軍に激昂していた。
それまでは、無謀な戦争を指導していたムッソリーニ統領との密接な関係などから決して人気が高いとは言えなかった国王エマヌエーレ3世だったが、暗殺という事態に際して国民は王室に共感と同情の念を抱いているようだった。
あるいは、もっと単純に王家の人間ながら現役の海軍将官として類稀な戦果を収めたことで人気の高いウンベルト皇太子が、国王暗殺を受けて当座の措置として摂政の地位についたこと、すなわち次期国王となることを国民の多くが期待していたのかもしれなかった。
何れにせよ、イタリアの一般国民はドイツ軍に対してこれまで以上に敵意をむき出しにしていた。しかも、これまでとは異なり、国内にはドイツ軍に匹敵する強大な国際連盟軍が存在していた。
ローマで異変が起こるまでは、ドイツ軍に反感を抱いていたとしても、実行されていたのはせいぜいがサボタージュ行為程度で、フランス占領地帯で盛んに行われているとされる武力を伴った抵抗運動に手を染めるものは少なかった。
だが、今では積極的な行動に出るイタリア国民が増えていた。労務や物資供与の拒否程度ならかわいいもので、少人数で行動するドイツ兵の襲撃といった無謀とも言える行為に乗り出したものも少なくなかったようだ。
また、一旦はイタリア正規軍軍の武装解除に乗り出したドイツ軍に投降、あるいは逃亡した将兵の中でも、抵抗運動に合流したものも少なくないようだった。
特に北部に駐留していたイタリア正規軍は、旧オーストリア及びフランス国境地帯から侵攻してきたドイツ軍に武装解除されていた部隊が多かったが、雲散霧消したと思われていたそうした部隊の構成員達が、ウンベルト皇太子やバルボ元帥の放送を聞いて密かに再集合した場合もあるようだった。
中には正規軍の部隊組織を保ったまま大規模な抵抗運動を編成したものもあるようだが、今もイタリア北部はドイツ軍に占拠されたままだったから詳細は不明だった。
だが、そのような大規模な抵抗運動の組織編成や自由な行動が可能だという時点で、地域住民からの広範囲な指示が寄せられていると考えてもよかったのではないか。
ドイツ軍とは逆に国際連盟軍には絶大な好意が寄せられていた。国王暗殺が判明した直後に国際連盟軍の主力をなす日英からの弔慰が表明されていたからかもしれない。
両国は立憲主義国家だったから、これにシベリアーロシア帝国を含めた三カ国は国家元首たる天皇、国王、皇帝の名でウンベルト皇太子に弔慰を示してたが、これは取りも直さずウンベルト皇太子をイタリア王国の次期国王としてこれまで敵対していた三カ国が認めたということではないか。
これらから国際連盟軍に親近感を抱いたのか、協力を申し出る市民は多かった。ドイツ軍による占領や戦闘による混乱から再編成されているイタリア正規軍に志願するものも少なくないと聞いていた。
後方地帯であれば一般市民による協力は労働力や食料、宿泊の提供が殆どになるのだろうが、全軍に先んじて偵察を行っている特務遊撃隊の場合は事情が違っていた。
少数精鋭で神出鬼没の遊撃戦を行うのが前提の特務遊撃隊は、兵員数で言えば歩兵2個小隊程度の定数にも満たない小編成の部隊だった。
それ故に必要な物資の量はそれほど多くは必要ないし、元々は満州の馬賊上がりだったから野外での宿泊も苦ではないから宿地の提供もあまり意味がなかった。
その代わりに現地のイタリア市民には道案内を頼むことが多かった。特務遊撃隊を含む先行部隊は、アルフォンソ伍長達のように通訳を兼ねて元イタリア軍捕虜が随行していたが、局地的な地理に関してはやはり現地の住民の方が遥かに詳しかった。
その地域の住民でしか知り得ない抜け道のような街道や、一見すると獣道と変わり無いような放棄された旧道を伝って移動することも少なくなかった。
そのような貧弱な交通路は大軍の通過には全く適していないが、山岳地帯での行軍訓練を受けた特務遊撃隊のような小規模編成の特殊戦部隊にはむしろ好都合だった。
現地民の支援が受けられない状態のドイツ軍では知り得ないそのような裏道を通って、密かにドイツ軍の陣地や部隊の移動を把握して後続する本隊に報告するか、相手が斥候部隊程度の小規模な編成であれば予想外の方向から単独で襲撃をかけて殲滅することもあった。
だが、そのような一般国民の広範な指示には明らかにコムーネあるいは集落の単位で斑があった。こちらが呼びかけるまでもなく積極的に協力を申し出る住民たちがいる一方で、彼らが立ち去る時までドイツ軍への協力を惜しまない様子の村落もあったのだ。
しかも、そのような他のコムーネから取り残されたような反応を取る集落は、ローマの平野部から離れて険しい地形が連続するアペニン山脈に近づくに連れて増えていた。
そして、状況からして、アルフォンソ伍長の故郷のコムーネもその一つだった。