1943ローマ降下戦44
ローマ郊外の海岸に三式中戦車と共に降り立った池部中尉は、特1号型輸送艦の暗い船倉内とは全く違う眩い陽光が降り注ぐ様子に圧倒されていた。
先行していた道案内の海軍陸戦隊の兵に従ってゆっくりと進む三式中戦車の監視塔から身を乗り出した池部中尉は、背後の軋むような物音に振り返っていた。
池部中尉達を海岸に降ろした特1号型輸送艦は、輸送してきた部隊をすべて降ろし終えたのか、早くも離岸を開始していた。
大発を大型化したような外見の特1号輸送艦は、観音開き式の艦首扉の奥に艦内と海岸を繋ぐ道板を備えていた。艦内に積み込まれた車両は、海岸に座礁した輸送艦からその道板の上を自走して海岸に出られるから迅速な上陸を可能としていた。
その一方で艦首覆いがあったとしても抵抗の大きな道板の形状や、座礁が前提のために強化され、なおかつ浅い喫水の艦底部形状など純粋な船としてみると不条理な点も少なくなかった。
座礁式の中でも特1号型輸送艦は最大の艦艇だった。大発に連なる座礁式の揚陸艦艇の多くは、特1号型輸送艦のように単独の艦として扱われるものではなく、移動する浮き船渠とも言える大隅型輸送艦のような揚陸艇母艦の搭載艇として上陸岸付近まで運ばれてくるものだった。
大隅型輸送艦は特殊な構造や艤装品を搭載した艦艇だから船価が高く、陸軍管轄ながら同様の構造を持つ神州丸型、秋津丸型特殊船を含めても建造数はそれほど多くはなかったが、戦時標準規格船の中にも上甲板の上に大発などを搭載した簡易な兵員輸送型とされたものは少なくなかった。
そのような兵員輸送型の場合、上甲板の強化されたデリックで大発などの搭載艇を海面まで降ろした後に、船べりから兵員を搭載艇まで降ろすのが常法だった。
そのような危険な乗艇方式を取ってまで揚陸艇を他の輸送艦に搭載するのは、座礁式の揚陸艇がやはり特1号型輸送艦のように船としては本質的に不合理な形状を取らざるを得ないからだった。
実際、今回のローマ上陸作戦において、シチリア島及びサルディーニャ島から出撃した上陸艦隊の艦隊航行速度を低下させていた原因の一つが、特1号型輸送艦にあったのは間違いようもなかった。
このような座礁式揚陸艦艇の航行速度の遅さは、ここ最近連続していた上陸作戦において得られた新たな戦訓として問題に挙げられているらしいが、抜本的な解決策があるのかどうか、それは池部中尉の立場ではよくわからなかった。
ローマ郊外と言っても良い場所に設定されたこの上陸岸はそのような座礁式の揚陸艇で溢れていた。
海岸だけではなく、制圧済みの港湾も総動員して将兵や、大量の機材物資の積み下ろしが行われているようだが、海岸の混乱が収まる気配は中々ないようだった。ローマ周辺に確保された上陸岸の面積に対して上陸する部隊が多すぎるのかもしれなかった。
モントゴメリー中将率いる英国第8軍が助攻となるカラブリア州を担当したために、今回のローマへの上陸作戦では日本陸軍の遣欧方面軍が主力となっていた。
遣欧方面軍はほぼ全力を投入していたから、空挺軍団に配属された挺進集団や方面軍、軍直轄部隊を覗いた基幹部隊だけで7個師団にもなっていた。
これに自由フランス軍やインド師団、更には帰順したイタリア兵捕虜で編成されたイタリア解放軍まで含まれる多彩な顔ぶれからなる英国第9軍も加えると合計で15個師団という大所帯だった。
勿論、この大軍が一気に上陸できたわけではなかった。政治的な理由でもあったのか、英国第9軍指揮下の一部イタリア解放軍は優先して上陸していたが、自由フランス軍主力の軍団などは輸送船舶数の問題から、未だに出撃地のサルディーニャ島から離れてもいないはずだった。
池部中尉達、日本陸軍第7師団はその中でも比較的上陸順は早かった。機甲化された第7師団は機動力と火力に優れる装備優良部隊だったから、機動歩兵化された幾つかの日本陸軍の重装備師団とともに上陸直後の橋頭堡を拡張する為の部隊に指定されていた。
空挺軍団を除けば、先行する第一波としてイタリア半島に上陸したのは日本海軍の第2陸戦師団だった。同部隊は師団とはいっても陸軍と合わせるための呼称に過ぎず、実際には日本海軍が各地の鎮守府などに設けている常設の特別陸戦隊を集成した部隊だった。
政治的な事情からシベリア―ロシア帝国に駐留する第1陸戦師団は、陸軍における歩兵師団の概念に近い固定された編制の部隊だったが、第2陸戦師団は今次大戦勃発に合わせて編成されていた。
もっとも、海軍では師団級の大規模編成部隊の指揮統制を行えるだけの陸戦隊経験者が乏しかったから、指揮下の各隊はともかく師団司令部要員は第1陸戦師団から抽出された将兵が少なくないらしい。
そのような変則的な編成の部隊だったから、若干の師団直属の支援部隊は加えられたものの部隊の多くは軽装備であり、海軍指揮下の陸戦隊だから駆逐艦を改装した高速輸送艦などで移送するのも容易だった。
重装備の第7師団などを揚陸させる際には、大型の特1号型輸送艦などを使用する場合が多かったが、喫水の浅い駆逐艦や、更に軽量の駆逐艇などの近接支援を受けた第2陸戦師団など上陸第一波の揚陸にはより小型の大発が使用されていた。
つまり数少ない大型艦ではなく、小兵ながら数の多い大発などを用いて海岸を埋め尽くすように一斉に上陸して敵部隊を牽制するのが上陸第一波のやり方だったのだ。
上陸第一波によって確保された沿岸部に対しては、その後は日本陸軍遣欧第1、2軍隷下の比較的軽装備の師団から上陸していた。機動歩兵化されたとは言え、以前は上陸専門部隊や緊急展開部隊としての側面が強かった第5師団や第6師団などだった。
いきなり第7師団などの重装備部隊を沿岸に展開させないのは、その時点では未だ狭いはずの橋頭堡の混乱を避けるためだった。
だが、上陸戦闘に特化した第一波の第2陸戦師団はともかく、第5師団や第6師団が上陸する際には、すでに沿岸部での戦闘は終息していたようだった。海岸線には上陸時の混乱ではぐれた原隊を求めてうろつく兵士達や散在する物資などはあったものの、戦闘による混乱のあとはなかったのだ。
橋頭堡全体で見れば戦闘がなかったわけではなかった。だが、包囲するドイツ軍はまずローマ自体への侵攻を重視していたらしく、市街地では先発していた空挺軍団やイタリア正規軍とドイツ軍との間で激戦が繰り広げられていたらしいが、海岸線に向けられた戦力は少なかったようだった。
すでに、橋頭堡、というよりも国際連盟軍とイタリア正規軍によってローマ周辺に確保された領域は市街全域を越えて広がっていた。
ただし、ドイツ軍がローマ市街地周辺から撤退したとしても、国際連盟軍が追撃を容易にかけられるような状態ではなかった。
上陸部隊や膨大な物資の荷揚げ作業が終了していないこともあったが、ドイツ軍の撤退が計画的なものであると考えられていたからだ。
市街地周辺から撤退したのも、平坦なローマ郊外で火力が優勢な国際連盟軍との交戦を避けて、防戦に有利な周辺の丘陵地帯に戦力を集中させるためだったのではないか。拙速を避けて長期戦の体制に入ったとも言えるだろう
兵力的には国際連盟軍の方が優位なはずだが、それも局地的なものにすぎないかもしれなかった。
シチリア島から対岸のカラブリア州に渡った英国第8軍や、陽動作戦として行われたタラント上陸部隊などは、今のところ順調に作戦を進めてイタリア半島の北上を開始していたが、やはりここでも防衛側のドイツ軍が積極的な戦闘を避けて戦力の温存を図っているとも考えられていた。
ドイツ軍はこの北上した部隊とローマ周辺に点在していた部隊、更にはオーストリアやフランスとの国境線から進出した部隊が合流した後に決戦を挑む、あるいは更に長期的な防衛線の構築を行うつもりなのではないか。
―――無傷での上陸に成功したとしても、本格的な戦闘はまだ先、ということか。
池部中尉は内心で溜息をつきながら振り返っていた。ローマ近くの海岸は揚陸作業待ち、あるいは離岸して指定された待機海域まで航行する多数の揚陸艇や輸送艦、更にはその母艦群などでごった返していたが、遊弋しているのはそのような輸送艦艇ばかりではなかった。
射程の関係から巡洋艦級の主砲の標的となるドイツ軍はすでに存在していなかったが、海岸線から確認することの出来ない彼方の標的に対して日英伊三カ国の戦艦が断続的に発砲を繰り返していた。
やはり海岸からでは確認できないが、水平線の向こう側には大型の正規空母だけではなく、本来は船団護衛用に建造された海防空母を含む有力な空母部隊が展開しているはずだった。
それに加えてローマ郊外の飛行場も幾つかは機械化された独立工兵部隊を集中投入しているようだから、そちらに移動した部隊もあるのではないか。
おそらく戦艦主砲の着弾観測も、そうして使用可能な状態となった飛行場か、飛行甲板を持つ特殊船から運用される回転翼機の二式観測直協機が行っているのだろう。
行動中、と言ってよいのかは分からないが、イタリア海軍の艦艇は戦艦だけではなかった。上陸地点近くの河口から損傷した駆逐艦が引き出されていたのだ。
鮮やかな塗装の、明らかに軍用ではなく民間の船会社で運用されている大型曳船によって引き出されているのは旧式の駆逐艦だった。普段は優美な客船などの出入港支援を行っているのだろう曳船が曳航するにはあまりにその駆逐艦はみすぼらしかった。
剥き出しの単装砲などの艤装方式などからして就役時期は先の欧州大戦から間もないころではないか。最近の駆逐艦は備砲も大口径化していたし、連装砲塔の装備も珍しくなかった。
ただし、陸用とすれば旧式駆逐艦が装備する程度の主砲であっても無視できなかった。重砲とまでは行かないが、弾種によっては師団砲兵隊の榴弾砲程度の火力は期待できるのではないか。
勿論、駆逐艦備砲程度の射程では内陸部の敵部隊には届かないはずだった。それ故にあの旧式駆逐艦は河口からローマ市街地近くまで遡上を試みたのだろう。
だが、それは危険な行為だった。旧式駆逐艦の艦橋は原型がわからない程損傷していた。備砲の幾つかも失われていたようだった。
備砲は砲塔式ではなく、軽易な防盾で覆われている程度だったが、どのみち至近距離から射撃を食らえば弾片防護程度でしか無い駆逐艦の砲塔覆いなど容易に貫通されてしまっていただろう。
そもそも上陸作戦前に配布された兵用地誌の写しによれば、ローマの中心部を流れるテベレ川はそれなり以上の大河ではあったものの、かなりの屈折を有していたはずだ。
いくら小型とはいっても外洋型艦船である駆逐艦では、彼らの地元といっても良いローマを流域とする河川とはいっても、操艦を僅かでも間違えばたちまちの内に座礁してしまってもおかしくないはずだった。
艦橋の損傷具合からすると戦死した可能性はかなり高いが、駆逐艦の艦長は友軍苦戦の報を聞いて相当の決意を持って遡行に踏み切ったのだろう。勿論乗員の士気も高かったはずだ。
この駆逐艦の火力がどれほど戦局に寄与したのかは分からないが、少なくともドイツ軍の火力を引きつける効果はあったはずだ。大口径砲を多数被弾した駆逐艦の損害は大きく、艦齢を考慮すればこのまま廃艦とされる可能性は高いだろう。
鮮やかな彩色の曳船によって河口から引き出されている旧式駆逐艦に代わって、テベレ川には護衛の駆逐艇を先頭とする艇隊が乗り入れようとしていた。
大隅型輸送艦か、特殊船で輸送されてきた大発や特大発の一部はローマ市街地を縦断して北部の飛行場まで河川を移動することになっていた。その飛行場は先行する空挺軍団に所属する英第1空挺師団が占拠していたが、重装備のドイツ軍装甲擲弾兵師団との激戦によって戦力を消耗させていた。
そこで直接飛行場に揚陸艇で部隊を投入して急遽その方面の弱体化した戦線を補強することになったらしい。
池部中尉は、その艇隊を眺めている内に目を見開いていた。イタリア海軍の駆逐艦に向かって、通り過ぎる駆逐艇や大発に乗り込む将兵達が一斉に敬礼していたのだ。
それにつられるように、池部中尉も押し黙ったまま三式中戦車の監視塔から身を乗り出したまま敬礼していた。遥か彼方から殷々と轟く砲声を聞きながら、そうやって中尉は新たな友軍となったイタリア軍のことを考えていた。
三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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特1号型輸送艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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