1943ローマ降下戦42
後から考えれば奇妙なことが多かった。数日前に急にイタリア本土で再編成作業を行っていたヘルマン・ゲーリング装甲師団の将兵に休暇取り消しや外出制限などが言い渡されていたのだ。
ドイツ軍の上層部の間にはすでにイタリア王国背信の予感があったのかもしれなかった。
だが、ヘルマン・ゲーリング装甲師団の再編制作業はこの時点でそれほど進んでいなかった。シチリア島から撤退してから一ヶ月程度しか時間が経っていないということもあったが、それ以上に戦車や火砲などの重装備の補充が遅れていたのだ。
英国本土から連日のように実施されている激しい夜間爆撃によって、ドイツ本国の生産体制にも無視できない影響が出ていると言う話は聞いていたが、以前にヘルマン・ゲーリング装甲師団が東部戦線から引き上げられて、シチリア島の防衛に投入される頃に行っていた再編成時よりも補充は遅れていた。
最近では爆撃を見越した生産工場の分散とネットワーク化が進められているとも聞いていた。例えば、ある特定の部品を生産する工場が爆撃で灰燼とかしたとしても、代替部品を製造する別工場から製品が組み立て工場に迅速に送り込まれるようになっているというのだ。
最終組み立て工場はともかく各部品の製造工場はドイツ本国のみならず併合したオーストリアやチェコ、占領下にあるポーランドや北部フランスなど欧州の広範囲に分散している上に、規格統一された鉄道網で連結されていたから、大規模な空襲でも一度に壊滅的な損害を与えるのは難しくなっていた。
しかし、そのような生産体制の強化にも関わらず補充は中々進まなかった。既存の四号戦車は、完動品まるごとはともかく部品単位であれば補充品が届かないこともないのだが、新型の五号パンター戦車は消耗品すら中々送られてこなかった。
シチリア島で少なくない数を失ったこともあって、大隊に1個中隊分が先行して配備されていたパンターは、部隊としての運用を殆ど諦めて大隊本部に集約されていた程だった。
シュラウダー曹長はこの補充態勢の遅れに関して嫌な噂を聞いていた。このヘルマン・ゲーリング装甲師団の部隊名称の元であり、同時に師団の個人的スポンサーとでも言うべき立場にあったゲーリング国家元帥が実質上失脚したというのだ。
そのせいで今まで働いていたゲーリング国家元帥による意向がなくなって、ヘルマン・ゲーリング装甲師団への優遇的な補充などが行われなくなっていたというのだ。
そのような噂を肯定する情報は今のところ無かった。ゲーリング国家元帥は未だにドイツ空軍総司令官の地位にあったからだ。
だが、噂には続きがあった。以前より親英、親国際連盟の国際協調路線と共に比較的親ユダヤ的な傾向のあったゲーリング国家元帥を、戦局の悪化に比例して強硬な態度を示すようになっているヒトラー総統が嫌厭し始めていたというのだ。
さらに、ゲーリング国家元帥が実際に国際連盟との講和を唱え始めた為に、ヒトラー総統は国家元帥を更迭したというのだ。
ただし、政権内部のそのような混乱を表面化させるのは対外的にまずかった。そこでゲーリング国家元帥は表向きは留任させつつも、その権限を分散させることで実質上の更迭としてしまったらしい。
実際には空軍総司令部は参謀たちで回されていたし、空軍省は軍需大臣に就任したシュペーアの権限が拡大されている状態であるようだった。
もしもこの噂が事実であるとすれば、ゲーリング国家元帥の護衛部隊が前身である空軍の装甲師団などという胡乱げな存在であるヘルマン・ゲーリング装甲師団の補充が遅れ気味となっていたとしても不思議ではなかった。
そのように再編成作業が遅れ気味だったヘルマン・ゲーリング装甲師団に出動の命令が急遽下ったのは、イタリア王国軍の武装解除を行うためだった。
命令によればイタリア王国はドイツを裏切って国際連盟との単独講和を行うつもりであり、ドイツはこれに対して全軍を挙げて徹底的な対処を行うつもりだった。
イタリア王国軍を完全に武装解除した上で、イタリア半島全土を制圧することになっていたのだ。
これに当たるのは、イタリア駐留の第10軍だけではなかった。予めスイス、オーストリア、フランスの各国境線付近に配置されていたというロンメル元帥率いるB軍集団指揮下の各師団が、すでにイタリア領内に進入を開始しているらしい。
当初はイタリア王国軍の武装解除は順調に進んでいた。部隊によってはドイツ軍がイタリア軍の駐屯地を襲撃したところ、すでに将兵が逃げ出した後で兵舎がもぬけの殻だったところもあったらしい。
だが、ローマ攻略が命じられた頃からその雲行きも怪しくなりかけていた。その時、すでにローマ市街地では特命を受けた遊撃戦部隊が何らかの特殊作戦を実施していたらしい。
その部隊は国防軍ではなく親衛隊指揮下の部隊であるらしいが、詳細はシュラウダー曹長も知らなかった。だが、その部隊から救援要請があったのは事実だったらしい。
最初にこの方面のドイツ軍の総指揮官であるケッセルリンク元帥から命令を受けたのはヘルマン・ゲーリング装甲師団と共にローマ郊外に駐屯していた第2降下猟兵師団だった。
ケッセルリンク元帥の判断は迅速なものだった。状況からして親衛隊の特殊部隊の作戦行動を予め承知していたのではないか。
ヘルマン・ゲーリング装甲師団もこの作戦と無関係ではいられなかった。基本的に地上では空挺部隊は軽装備の歩兵部隊でしか無いから、支援火力が不足していたからだ。
その一方で重装備のヘルマン・ゲーリング装甲師団を全力で出動させるには集積された燃料や弾薬の移動など準備が必要だったから、移動には手間取っていた。
そこでヘルマン・ゲーリング装甲連隊の一部を第2降下猟兵師団に配属させて先発させることとなったのだ。
この時点ではヘルマン・ゲーリング装甲師団司令部も状況を楽観的に捉えていた。ローマ中心街に進出したという親衛隊の遊撃戦部隊は苦戦しているらしいが、それは彼らが少数で行動する特殊な部隊だったからだ。
イタリア軍ローマ防衛司令部の指揮下にある戦力は貧弱なものだった。一応は正規の第10師団ピアーヴェが配属されていたが、散発的な長距離爆撃などを除けばこれまでローマに戦火が及ぶことはなかったから、首都防衛部隊とは言え危機の迫る前線に戦力を抽出されていたはずだった。
首都であるローマには、軍警察であるカラビニエリ部隊も平時からそれなりの数が駐留しているはずだが、彼らは一般警察業務の一部も担当しているからそれほど重装備の部隊が配置されているとは思えなかった。
軽装備で数も少ない親衛隊部隊であれば市街警備のカラビニエリ部隊に数で押されて苦戦する可能性も高いが、戦車が配属された空挺部隊であれば兵員の数が少なくとも集中した火力で圧倒できるのではないか。
それにローマ市街地に投入されるのはローマの南方から進出する第2降下猟兵師団だけではなかった。北方からは第3装甲擲弾兵師団が迫っているはずだった。
装甲擲弾兵師団には正規の編制上に戦車大隊が含まれていたから、降下猟兵師団のように増援部隊の配属を受けることなく自前で近接火力支援が行えるはずだった。
実際には砲塔を有する戦車ではなく、本来は砲兵が運用するはずの突撃砲が代わりに配備される場合も多いが、備砲は戦車と同等の大口径砲だったから、市街地での火力支援に徹するのであればそれほど大きな違いはないだろう。
だが、実際には両師団の作戦は成功していなかった。正規のイタリア軍だけではなく、ドイツ軍の侵攻を知った一般ローマ市民までもが激しい抵抗を示していたからだ。
それでも火力と練度に優れるドイツ軍は一部の部隊が市街を占領していたが、最終的には市街地で孤立するのを避けるために撤退していたようだった。
その頃になると、ローマ市民が駆けつけていた理由も明らかになっていた。シュラウダー曹長は直接聞いてはいないのだが、民間ラジオ局の周波数帯でイタリア市民に徹底抗戦を呼びかける放送があったらしい。
だが、発振地はローマではなかった。ドイツ軍は直ちに放送の妨害を試みたらしいが、放送は飽きることなく繰り返されたという情報もあった。電波発振源は海上を移動する艦隊からではないかという噂もあったが、詳細は不明だった。
問題は、発振源や周波数帯などの技術的なことではなく、その内容にあった。
その海賊放送はイタリア海軍中将ウンベルト・マリーア、つまりイタリア王国皇太子の名で出されていた。
しかも、ウンベルト皇太子はドイツ軍の手によって自らの父親、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が暗殺されたこと、これにより自分が臨時で摂政の地位につくとともに、ドイツとの断交と宣戦布告を宣言していた。
ローマ市民がドイツ軍に熱狂的とも言える態度で抗戦するのも当然かも知れなかった。今次大戦を指導するファシスト党との密接な関係などから、エマヌエーレ3世の人気は高いとはいえない状態が続いていたのだが、それでも自国の国王を害されたことで激昂しているのではないか。
それとも、これまでの海軍将官としての実戦経験や反ファシスト、反ナチス的な言動から父親よりも遥かに人気の高いウンベルト皇太子への敬愛の念が強かったのかもしれない。
時間が経つにつれて海賊放送は下火になっていた。本当に海軍艦艇から発振されていたのだとすれば、安定した地上局が使用できるドイツ軍の方が妨害を行うのも有利だった。
それ以上に地上局を中継に使用していたとしたのだとしても、艦艇から継続した放送を行うのは難しいはずだった。周囲の地形や距離に電波状況が左右されるからだった。
だから航空艦隊司令部付などのドイツ軍通信部隊によって電子的な制圧が出来たのではないか。
しかし、シュラウダー曹長には海賊という呼び名が正しいのかは自信がなかったが、その海賊放送の妨害が意味のある行為であったとは思えなかった。その頃にはすでにローマ市民の口伝いに重要な情報は拡散してしまっていたからだ。
それだけではなかった。ウンベルト皇太子の名で流されていた放送は切っ掛けにしか過ぎなかった。未だ制圧しきれていないローマ市街地からのラジオ放送が開始されていたのだ。
しかもそのラジオ放送を開始したのは、ウンベルト皇太子に並ぶほどの大物だった。最近になって事故死したというムッソリーニ統領に代わってファシスト党の党首代行に就いたバルボ元帥によるものだったのだ。
シュラウダー曹長はイタリア国内の事情にはそれほど詳しくないが、バルボ元帥は北アフリカ戦線の初期に負った戦傷が元で一時期表舞台から姿を消していた。
ファシスト四天王と呼ばれるムッソリーニ統領に次ぐ立場にある上級幹部の中でもバルボ元帥は特異な位置にあった。他の三人がムッソリーニ統領と同世代かむしろ年上の同志とも言える関係にあったのに対して、一回り若いバルボ元帥はムッソリーニ統領の後継者としての役割も果たしていた。
その点ではヒトラー総統とゲーリング国家元帥の立場にも似た存在だったが、バルボ元帥もゲーリング国家元帥と同じく国際協調路線を表明しているという共通点をも有していた。
単に彼らが盲目的に融和的な姿勢をとっていたとは思えない。次代の後継者として正確な情報に接する立場にあった為に、それぞれの自国の限界をも察してしまっていたのではないか。
親英派であったバルボ元帥は皮肉なことにその英国と対峙する北アフリカ戦線の総司令官として赴任していたが、負傷後はローマ郊外の邸宅で療養生活を送っているとされていた。
だが、バルボ元帥はムッソリーニ統領の事故死と時期を合わせるかのように党内に再び姿を表していた。そのバルボ元帥がこの情勢下でファシスト党の党員たちに向けて放送を開始したのだ。
その放送の内容はドイツ軍が期待したようなファシスト党をムッソリーニ統領時代のようにドイツ寄りとするようなものではなかった。
その頃にはすでに移動中であったからシュラウダー曹長も詳細は知らなかったが、ウンベルト皇太子と共にイタリア王国の主権と独立を訴える内容であったらしかった。