1943ローマ降下戦35
航空部隊において隊長機の塗装を派手にするのは、決して伊達や酔狂のためではなかった。隊内や友軍からの識別を容易に行わせるためのものだったのだ。
特に先の欧州大戦においては、当時の無線機の能力が低かったためもあって地上からの敵味方識別を行うために、原色の組み合わせや唐松模様といった特徴的な塗装が部隊ごとに行われていたのだ。
だが、今次大戦においてはそれほど派手な塗装を行う部隊は少なくなっていた。識別のために部隊ごと、或いは個人を示す印が描かれることはあっても、機体に対してそれほど大きなものではないから、地上から個人を識別するのは難しくなっていたはずだ。
それ以上に戦闘時の高度や速度も段違いになっていたから一瞬の内に印を見分けること自体が難しくなっていたのではないのか。
むしろ熾烈な空中戦が続く中で、敵味方識別の容易さよりも被視認性の低下を狙って迷彩効果を狙った雲状などの塗装が施される事が増えていた。
迷彩の効果が期待されていたのは空中戦時だけではなかった。駐機時や低空で地上攻撃などを行っている際の発見率低下を狙って、戦車に施されるような森林や地物に擬態する塗装の機体も少なくなかった。
部隊や軍によっては視認される角度によって迷彩を塗り分ける場合も少なくなかった。つまり地上から見上げられる機体下部は空中に溶け込むような塗装で、逆に上空から視認される機体上部は森林迷彩や海面と誤認されるような色彩で描くのだ。
しかも迷彩に関する知見や理解が広まっていく中で、展開地域の地形や植生に合わせて迷彩塗装を施される事が増えていた。
独立戦闘飛行群でもイタリア国内に展開していた頃は海上での迷彩効果を狙って海軍独自の塗装が施されていたのだが、北アフリカ戦線に転出する際に空軍に合わせたような土色を基本とした塗装に変更されていたのだ。
独立戦闘飛行群においても、群司令機の全体が真っ赤な塗装は異様なものだった。
ただし、その受け取り方には違いがあった。第2独立戦闘飛行群から移籍してきた新兵達は呆然としていたが、以前から飛行群に在籍していた古参の搭乗員たちは呆れたような顔をしただけだった。
勿論、彼らがこの塗装を喜んで受け入れたわけでは決して無かった。ここまで目立つ塗装を、しかも先頭をいく指揮官機に施されてしまっては編隊ごとすぐに発見されてしまって、折角の迷彩塗装も無駄になってしまうだろうからだ。
見るものによっては軽薄ささえ感じられるであろう真紅の塗装は、元々は戦間期に飛行群司令が乗っていた水上機に塗られていたものらしい。ファシスト嫌いでリベラル派を明言していた司令が空軍を追い出されてから、熟練の航空関係者を求めていた海軍に招聘されるまでの間のことだった。
その間に飛行群司令が何をしていたのかは、ビスレーリ中尉も詳しくは知らなかった。一時期ミラノでウンベルト皇太子の飛行教官を務めているのは確かだったし、ミラノ出身の中尉もその頃に真紅の水上機をミラノ郊外で見かけたことが何度かあった。
純粋無垢な少年時代に見た、糸のような飛行機雲を引きながら青空を跳ね馬のように駆け抜ける真紅の翼は、ビスレーリ中尉に空への憧れを植え付けていたが、平和な時代の空に映えた真っ赤な塗装は、戦時に近くで飛んでみると目立って仕方なかった。
これまでも群司令は、何度か機体全体を真っ赤に塗装しようと試みていたのだが、そのたびに他の搭乗員たちで常識論や編隊に与える危険性を懇懇と説いて、何とか識別用に翼端のみの塗装で済ませていた。
だが、今回は以前から気に食わなかったナチスドイツ軍と交戦することになったのがそんなに嬉しかったのか、出撃前の僅かな時間を捉えて勝手に塗り替えてしまったようだった。
あるいは、これでファシスト党とも縁が切れるとでも思っていたのかもしれない。
群司令機は塗装塗りたてのようだからまだ乾燥も済んでいないはずだが、大雑把な司令のことだから空中にいる間に乾くとでも思っているのではないのか。
それに今から再塗装や真紅の塗装を剥がすような時間は残されていなかった。いわば既成事実化を狙っていたのだろう。
その辺りの事情を知らない移籍したばかりの搭乗員達は真紅のRe.2005サジタリオに驚いていたのだが、古参のものは呆れたような顔から、次第に同情するような目をロンギ少尉に向けていた。
ビスレーリ中尉も何度か編隊を組んだことがあるが、下士官上がりで熟練の搭乗員であるロンギ少尉は、今回の出撃における搭乗員割では飛行群司令の列機を務める事になっていたからだ。
ただでさえ飛行群司令は機体を知り尽くしたものにしか出来ない失速限界の激しい機動を繰り返すために、普通に追随して飛行するのさえ困難なのだが、今回は目立って囮にさえなろうというのだから、列機を務めるのはいつも以上に難しいのではないのか。
それがわかっているものだから、ロンギ少尉に同情の目を向けるものは有っても、搭乗員割の交換を申し出るものは誰もいなかった。
そして、今にも戦闘に入りそうな状況でも、ビスレーリ中尉は場違いにも同じことを考えていた。この位置まで敵機に気が付かれずに接近できた事自体が奇跡ではないか、そこまで考えていたのだ。
何とかして僅かな断雲に紛れたり、太陽を背にして欺瞞しながら、独立戦闘飛行群はドイツ軍機らしき編隊が飛行している空域に接近していた。
その編隊を最初に発見したのも飛行群司令だった。未だに艦隊陣形の維持よりも速力を重視して、まばらな隊形でローマに向けて突進するウンベルト皇太子率いる主力艦隊の上空を飛行している時だった。
彼方で雷鳴のような閃光を見たという話が最初だった。しかも飛行群司令に続いて何人かの搭乗員も同じものを目撃していた。距離があったから判別は難しかったが、付近の空域で形成されている雲の形状などの状況からして自然現象とは思えなかった。
おそらくは空中戦による機銃弾の閃光だと判断されたのだが、そうなると実際に交戦しているのは誰と誰なのか。常識的に考えればイタリア軍とドイツ軍となるが、戦力に乏しいローマ周辺に展開するイタリア空軍が海上まで進出できるとは思えなかった。
それに、ドイツ軍がいつ侵攻してくるかわからないナポリから出撃した独立戦闘飛行群の機体はそろそろ残燃料も乏しくなっていた頃だった。ローマ郊外の飛行場は少なくないから、1つや2つぐらいはまだ使用可能だと思うが、実際に自分の目で確かめてみるまでは判断はつかなかった。
状況はどうあれ、これが海軍独立戦闘飛行群最後の出撃となる可能性は低くはなかった。だからこそ余裕のある内に着陸して未熟な搭乗員たちも地上に返してやりたいとビスレーリ中尉などは考えていたのだが、飛行群司令は早々と移動を開始していた。
内心で辟易としながらも、ビスレーリ中尉達もそれに続いていたのだが、目撃した戦闘は意外なものだった。
交戦していたのはドイツ空軍機とイギリス海軍だった。最初は日本海軍の零式艦上戦闘機かと思ったのだが、それにしては塗装がおかしかった。確か日本海軍機の多くは濃緑色で塗装されていたはずだが、上空から見る限りでは日本海軍機よりも白味が強い気がしていた。
だがドイツ空軍のBf109と交戦しているのは、機体の特徴などからして確かに零式艦上戦闘機だった。
妙なことは他にもあった。交戦する日本海軍機の数が少なすぎたのだ。ドイツ空軍機の数は全力出撃した独立戦闘飛行群よりも多いくらいだったから、二桁にも満たない数に見える日本海軍機を圧倒していた。
そのせいで、遥か洋上を航行する艦隊を攻撃しようとしている重爆撃機にはまだ手付かずの直掩機が追随しているようだった。
だが、この方面に展開している日本海軍の空母は多かったし、大型の正規空母を投入しているから1隻辺りの搭載機数も多かった。それに2隻程度の空母に直掩の駆逐艦を含む戦隊単位で運用している場合が多かったから、確認されている零式艦上戦闘機の数からすると搭載機数と釣り合わなかったのだ。
結論はすぐに出ていた。機種は確かに零式艦上戦闘機だったが、同機は英国海軍でも運用されていた。同海軍は大型空母を集中運用する日本海軍とは異なり、水上砲戦部隊の上空援護や哨戒のために単独で空母を運用する場合が少なくなかった。
空母が1隻だけであれば、戦闘機隊がこの程度の数であっても違和感はなかった。
しかし、状況はわかったものの、独立戦闘飛行群がどのような行動を取るべきかは難しいところだった。
常識的にはローマですでに戦闘が開始されているというドイツ軍を相手に戦闘を仕掛けるすべきなのだろうが、正式に講和が成立していない段階で英国海軍がこちらを友軍と認識してくれるかどうか、その保証はなかったからだ。
下手に手を出せば、両軍から共に敵部隊と判断されて期せずして挟み撃ちにされてしまうかもしれないのだ。
だが、飛行群司令の行動は素早かった。機動こそ慎重だったものの、その行動に迷いは全く見られなかった。
両軍の戦闘機同士が激しい戦闘を繰り広げている、というよりも英国海軍の零式艦上戦闘機がその持ち前の機動性の高さを活かして逃げ回っているように見える空域を巧みに回避して敵重爆撃機編隊に対して奇襲を望める位置に遷移していたのだ。
含み笑いさえ聞こえてきそうなほど陽気な飛行群司令の声が無線機から聞こえてきたのは、その高々度への遷移が終了した頃だった。
「まるで誂えたような状況じゃねえか。ジョンブル共に貸しを作る機会なんて滅多に無いぞ。まず俺とロンギが仕掛ける。直援の戦闘機隊が突っかかってくるだろうから、そいつらは俺達が抑える」
ビスレーリ中尉は思わず天を仰ぐような仕草をしていた。飛行群司令の判断は拙速にすぎるのではないのか、そう考えたからだ。
しかし、素早く操縦席前面に据え付けられた計器盤の数値を読み取ったビスレーリ中尉は、思わず眉をしかめていた。酸素瓶が必要となるような高々度まで短時間で上昇したせいか予想以上に燃料の消費量が多かったようだった。
残燃料は乏しくなっていた。この空域から離脱してローマ郊外の飛行場がすぐに使用できるとしても、エンジン出力を頻繁に増減させるために燃料消費率が増大する戦闘機動を行える時間は短かった。
最悪の場合、ローマ沖に急行中の艦隊付近まで戻ってから海上に不時着して、乗員だけ救出してもらうことも考慮しなければならないだろう。
しかし、ビスレーリ中尉達元からの独立戦闘飛行群の隊員達はともかく、機種転換から間もないボルツァーノ組が慣れない機体で海面への不時着を試みれば事故を起こす可能性が高いのではないか。
だから判断に迷っているような時間は元々無かったのだ。ここは高々度からの一撃離脱と割り切って行動すべきかもしれなかった。
奇襲をかける事ができれば損害は極限出来るし、ボルツァーノ組に度胸と自信をつけさせることも出来るかもしれなかった。運が良ければ自分も撃墜数を稼げるかもしれない。
ビスレーリ中尉はそう割り切って操縦桿を握る手に力を込めようとしたのだが、それよりも早く中尉のコールサインを名指しする飛行群司令の声が続いた。
「俺が一撃をかけた後の編隊指揮はローブルに任せる。
……それから勘違いするなよ。敵機を撃墜する必要はないんだ。艦隊を攻撃させなければ良いのだから、爆弾を捨てたような機体はもう放っておけ」
ビスレーリ中尉は了解の声を返しながら気を引き締めようとしていた。だが、飛行群司令の話は終わっていなかった。
「ジョンブル共に貸しを作るだけの戦闘なんだから、決して無理はするなよ。それよりもローマで補給を受けた後はすぐに再出撃するからそのつもりでおけよ」
―――結局それが本音か……
飛行群司令の台詞をそう解釈しながらビスレーリ中尉は一人操縦席で頷いていた。後半は聞き流していた。飛行場が使えるかどうかも分からないのに再出撃など可能性を判断することすら出来ないのではないか。
そう自分に言い聞かせながら、ビスレーリ中尉は機首を翻して急降下を開始した飛行群司令とそれに慌てて付いていくロンギ少尉の機体を見つめていた。自分たちの攻撃開始までもう少しのはずだった。
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