1943謀略、大連―ベルリン2
関東州大連市にある大連港の船客待合所から手続きを終えて一歩外に出た帆崎は、戸惑った顔で周囲を見渡していた。
毎朝新聞に勤める帆崎は、大陸での勤務が長かったせいで社内外で中国通として知られていたが、彼の長期中国滞在経験は10年ほど前のことだった。
もっとも、帆崎が違和感を感じたのは、中国滞在に空白期があるからだけではなかった。大連港の構造や街並みの様子が他の大陸の都市とは大きく異なっていたのだ。
帆崎のここ10年間に渡る経歴の大半は、毎朝新聞を辞してからその人脈や知識などを評価されて近衛前総理大臣の嘱託として内閣に参加していたのだが、その間も何度か以前勤務していた毎朝新聞上海支局や南京などの中国内の主要都市に出張することも少なくなかった。
帆崎は中国滞在記者としての経験を活かして内閣嘱託となっていたから、国共内戦やそのどさくさに紛れた形の満州共和国建国といった大きな変化の続く中国情報の収集に大陸に赴いていたのだ。
帆崎の内閣嘱託という職は、今次大戦に日本帝国が参戦する直前に総理の座を元海軍軍人の山本に譲って近衛内閣が解散した際に失われていた。
近衛前総理の個人的な顧問と言っても良い立場にあった帆崎には、政党間や元老達の駆け引きに関する詳細な事情は知らされなかったが、山本に首相の座を譲り渡した理由は薄々理解していた。
近衛家は公家の頂点たる五摂家の一員だった。いわば華族の中の華族と言っても過言ではない名家だったから、宣戦布告を行う戦時内閣となることが殆ど決まっていた時期を避けられたのではないのか。
近衛に代わって総理となった山本は、海軍軍人として先の欧州大戦で戦地に赴任していたが、大戦末期のドイツ帝国軍による春季攻勢時におった戦傷がもとで負傷除隊となり、代々旧長岡藩家老職を務めた山本家に婿入して養父の地盤を継ぐ形で政界入りしていた。
衆議院議員となってからも負傷除隊による退役軍人という境遇を逆手に取って、兵学校同期などの伝手を駆使した海軍との連携という強みや、同じ境遇の傷痍軍人、障害者対策といった地道ながらも大衆向けに報道受けする政策を提案することで存在感を増していった。
現役軍人による組閣を避けて、今次大戦を政党内閣で乗り切ろうとするのであれば、海軍との折衝に長けているうえに国民からの受けも良い山本は最善の選択肢だったのではないのか。
その一方で、欧州大戦への介入を行うために組閣されたと言っても良い山本内閣に中国の専門家である帆崎の居場所はなかったのだ。
ただし、内閣嘱託を離れた帆崎が政治の場から完全に離れたわけではなかった。近衛内閣解散直後に古巣の毎朝新聞に復職していたからだ。
もちろん、毎朝新聞の上層部が帆崎を招いたのも近衛内閣での経験を活かして政党や政府、更には中国問題に関する報道に期待してのことだった。
だから、この10年間の間は所属は変わっても中国で動きがある度に現地で情報収集や取材をするために幾度となく大陸に赴いていたのだ
だが、その時にもいま感じているこのような違和感は無かったような気がする。長年暮らしていた上海はともかく、他の都市でもそうだったのだから、これは大連特有のことなのではないのか。
近衛内閣の嘱託として勤務していた時も、大連を訪れたことは少なかった。船便で満州に向かう際の中継地として通過したことはあっても、最終的な目的としたことはなかったはずだ。
それに、大陸を訪れた最初から上海に駐留していたものだから、大陸奥地に入り込む時も経由地として首都南京などへの交通路が充実している上海を選択する方が土地勘もあるし都合が良かったのだ。
日本本土から上海へは千キロもない最短距離の長崎発であれば船便でも一日程度で着くし、渡航費が高額とはなるが最近では航空便も増えていたから上海を訪れるのは容易だった。
ただし、帆崎がそのような利便性とは関係なく、日本の租借地である関東州にある大連やその先の反共主義を掲げる満州共和国を避けていたことは否めなかった。
元々帝大の学生だった頃から密かに共産主義のシンパだった帆崎は、毎朝新聞上海支局時代に接触したコミンテルンの細胞でもあったからだ。
世界革命論を唱えるレフ・トロツキーを最高指導者とするコミンテルンは、表向き各国の共産主義革命家の連絡組織であったが、実際にはソ連による諜報機関としても機能していた。
帆崎もこれまで中国通の新聞記者の経歴をもつ忠実な近衛総理の側近としてつかえていたが、その真実の姿は共産主義者の諜報員だった。
もっとも、不定期に連絡を取り合うコミンテルンの機関員を除けば帆崎の正体を知るものはいなかった。
新聞記者としての評論を通しての世論の誘導や近衛内閣嘱託として政治家や官僚などへの勉強会などを通じた密かな思考誘導と言った地道な活動を除けば、情報収集に専念していたからだ。
情報収集と言っても官憲から怪しまれるような積極的な工作活動を行うことはなかった。そんなことをしなくとも、新聞記者出身の内閣嘱託という帆崎の立場であれば黙っていても一般には公開されていない正確な情報を入手することが出来たからだ。
だが、そのような帆崎のソ連諜報員としての活動も近衛内閣の嘱託の地位から離れてからは低調になってきていた。単に政府職員としての供給される情報に接することに出来なくなった帆崎から提供できる情報が減少したこともあったが、接触してくるコミンテルンの機関員自体も減ってきていた。
最初は自分の情報細胞としての価値が低下したせいかと落胆していたのだが、事実は少し違っていたようだった。一年ほど前に唐突に接触してきた機関員によれば、開戦前後から日本国内が戦時体制に移行したせいか、防諜体制が格段に強化されていたらしいというのだ。
それは帆崎を戦慄させるのに十分なものだった。
もしもそのことに気が付かなければ、共産主義革命に積極的に参加するためにこれまでの慎重な活動から、危険を伴う積極的な情報収集に乗り出していたかもしれかったからだ。
だが、実際には単に政府職員から在野の記者に帆崎が戻った時期と防諜体制が強化された時期が重なっていただけだったというのだ。
そのことを示唆した機関員は、今後の接触方法を帆崎に伝えると慌ただしく出国していった。
だから帆崎も連絡があるまでは諜報員としての活動を控えて、本業の新聞記者としての職務に専念する他無かった。
それに最近では帆崎の評論が取り上げられることも少なくなっていた。
報道が欧州大戦での動きに集中していたこともあったが、帆崎はこれまで共産主義の主柱たるソ連防衛の観点から対独戦の主張や不誠実な満州共和国、中華民国との断交を含む強硬姿勢を論調としていたのだが、前者はともかく後者が一般大衆に受け入れられることは少なかった。
近衛内閣時にも周囲から怪しまれないように積極的な介入は避けたものの、満州共和国に反対する姿勢を示していたのだが、それが意味を成すことはなかった。
満州地方に浸透する共産主義者への対抗として奉天軍閥を中核として誕生した満州共和国だったが、日本帝国は従来の親日的な奉天軍閥への援助の延長線上から満州共和国への支援を継続したものの、その姿勢は主体性に欠けたものでしか無かったからだ。
政治的に満州共和国の成立に積極的に介入したのは、長大な南方の国境を無防備で共産主義者と接する危険性を感じたシベリア―ロシア帝国や中国で古くから活動していた英国の2カ国で、その友好国であった日本帝国は支援を行ったに過ぎなかった。
だから、帆崎がいくら活動を行っても満州共和国の成立に与えた影響は無視できるものでしか無かったのだ。
その帆崎が久々に大連市を訪れることになったのは、表向きは本業の新聞記者としての社命だった。この港から出港する船団に乗船する部隊に関する報道取材を行うためだった。
帆崎がかつて拠点としていた上海が近代的都市としての姿となったのは、清国が前世紀半ばのアヘン戦争による敗北で締結された条約で開港を余儀なくされたのが切欠だった。
だが、上海市は大都市に成長する条件をそれ以前から満たしていたとも言えた。
後に国民党政権の首都となった大都市である南京にもほど近いから、陸路、海路を問わず交通の要衝となり得たし、その時点で市場としての価値に余地のあった日本や朝鮮半島に進出する根拠地としても絶好の位置にあったからだ。
それに古来から中国内の交易水路として使用されていた長江の河口に位置しているだけのことはあって、もともと港町としての機能を有していたのだ。
その後に各国列強が相次いて租界を設けたことが、上海を中国のみならずアジア圏でも有数の大都市の位置に押し上げていた。欧米などの金融機関や大企業などがアジア圏の拠点としての機能を持たせるために続々と進出していたからだ。
中国国内が清国の崩壊や軍閥の勃興で荒れ果てている間も上海は成長を続けていた。不平等条約で租界に認められた治外法権を根拠に成立した工部局警察や列強の植民地軍の介入によって上海市内の治安は維持されていたからだ。
そのように一世紀近くの間、列強と中国との微妙な力関係の隙間で発展を続けてきた歴史を持つ上海と比べると、大連を含む関東州の歴史はまだ浅かった。
日露戦争では激戦区となり現在は日本海軍の要港部が置かれている旅順が清国北洋艦隊の根拠地として整備が開始されたのが前世紀末のことだったから、上海の半分、半世紀にも満たない歴史でしか無かったのだ。
満州鉄道の終着駅を兼ねた貿易港としての機能をもたせた現在の大連市が作られ始めたのも、日露戦争を挟んでのことだったから本格的な事業として始められたのはロシアから日本に租借権が譲渡されて関東州が成立した今世紀初頭のことといってもよかった。
しかし、現在の大連を含む関東州は日本の租借地であるにも関わらず、満州共和国とシベリア―ロシア帝国の二カ国を有機的に連結する通商網の結節点となる一大貿易港として急速に整備されていた。
元々満州地方に敷設された満州鉄道は、旧ロシア帝国がヨーロッパとアジアを結ぶシベリア鉄道の支線として計画したものだった。
その後満州南部の南満州鉄道は日露戦争後に日本に譲渡されたが、北満州の東清鉄道は先の欧州大戦後も日本や英国の後押しでシベリア―ロシア帝国に経営権が維持されていた。
ソ連とシベリア―ロシア帝国の国境に位置する防衛の要となるウラン=ウデ、更にはその後方拠点となるチタと満州を繋ぐザバイカル鉄道線や、ウラジオストック北方のウスリースクと綏芬河を経由して哈爾浜に向かうウスリースク線は、東清鉄道本線と合わせて日本などからの支援物資の輸送を行うシベリア鉄道を補完する軍事鉄道としての側面を有していたからだ。
日本本土と大陸の最短距離となるのは、日本海と黄海を分断するように大陸から突き出された朝鮮半島となるのだが、政治的に不安定ながら中立を保っている大韓帝国領内であることを除いても、連絡の悪さから有力な通商路として半島内の鉄道網を使用するのは困難だった。
半島全体を領土とする大韓帝国が敷設した鉄道網は、半島を横断する幾つかの支線を含めて朝鮮半島を縦断するように存在するものの、満州共和国とシベリア―ロシア帝国間のように有機的に連結することは出来なかった。
大韓帝国の国境内に路線がとどまっていたために両国間の駅の間隔が大きかったこともあるが、仮に隣接していたとしても車両を通すことは出来なかった。
清国などの顛末を教訓として列強による植民地支配を防ぐために、大韓帝国は日本やロシア帝国による鉄道敷設権を頑として拒否して独自の民族資本によって路線を建設していたのだが、民族資本の大韓帝国鉄道は資金力に乏しかったために安価ではあるものの大陸内の他の鉄道と互換性のない狭軌で完成していたからだ。
日本本土のように険しい地形が連続する朝鮮半島内で、列強の介入を避けるために短期間で鉄道網を行き渡らせる為には、狭軌での敷設は致し方ない側面もあったのだが、結果的に大陸側との連結の可能性を失ったのも事実だった。
おそらく大韓帝国鉄道が敷設した狭軌と他の大陸内の鉄道が採用した標準軌では、台車の交換を含む強引な手段を取ったとしても車両の相互乗り入れは困難なのではないのか。
だが大韓帝国内に鉄道網が整備された頃には、満州を実質上支配下に置いたことから日本帝国による朝鮮半島への領土的野心が薄れたこともあって、半島内の鉄道では同様の狭軌を採用していた日本製の車両や設備が積極的に輸出されるようになっていたのはある種の皮肉であったかもしれなかった。
英露日が奉天軍閥に援助を行って成立した満州共和国の建国後は、満州共和国領土内の東清鉄道はシベリア―ロシア帝国から同国に経営権が譲渡され、それと連結する南満州鉄道も近い将来日本から満州共和国に譲渡されることが確定されていたが、このように最短距離となる朝鮮半島経由の鉄道網との連絡ができないこともあって、その重要性はいささかも揺らいでいなかった。
大正期に重装備化と引き換えに師団の廃止や予備化を断行していた日本陸軍が関東州の大連とウラジオストックにそれぞれ第19師団と第20師団を配置し続けていたのも、この2つの都市が有事の際に日本本土やその他の友好国からシベリア―ロシア帝国や満州共和国内の前線に高速で移動可能な鉄道網の起点となっていたからだったのだ。
勿論この2大都市は鉄道の起点となっているだけではなかった。有事においては軍用物資、平時においては貿易物資、資源の集積拠点ともなる巨大な港も建設されていた。
その点では、ウラジオストックよりも大連の方が自然環境の観点から見ると有利な面が多かった。水深の深い天然の良港となりうる地形もそうだが、ウラジオストックよりも朝鮮半島を挟んで南方にあることから、完全な不凍港であったからだ。
ウラジオストックも近年では大型の砕氷艦が配備されているから年間を通して入港が不可能となることは殆どないのだが、荒天の多い日本海を越えて厳冬期に航行するには場合によっては輸送船も高価な耐氷船型を要求されることもあった。
黒潮から分岐する暖流が黄海に流れ込むせいか、大連の場合は砕氷艦の必要性など無いし、港湾の整備された北九州からでは、大連とウラジオストックで日本本土との距離の差は殆ど無いから、複数の一万トン級を超える大型貨客船の接岸が可能なほど大規模な大連港が整備された今ではシベリア―ロシア帝国に向かう荷の一部も取り扱うようになっていた。
現在、新京と哈爾浜を結ぶ京浜線を延長して佳木斯を経由して最終的にハバロフスクと連結する路線が敷設中だったが、このハバロフスク線とでも言うべき満州共和国を縦断する直通路線が完成すれば、大連港の需要は更に拡大されるのではないのか。
そして、戦時中の現在では大連港は満州共和国から国際連盟軍の前線へと向かう軍需物資の積出港としても機能していた。
工業化の端緒が開き始めたばかりとは言え、軍閥が保有していた工廠を転用すれば小銃や小口径砲用の弾薬や被服程度の生産であれば現在の満州共和国でも余剰生産能力はあったから、積み出し量は少なく無かった。
だが、大連から出港する日本製の戦時標準規格船で運ばれるのは物資だけではなかった。ソ連との緊張関係から軍主力を迂闊に動かせないシベリア―ロシア帝国や、共産党との内線の続く政治上の本国であるはずの中華民国を尻目に、満州共和国は欧州に大規模な部隊を派遣しようとしていたのだ。
帆崎が大連を訪れたのも、表向きはその取材を行うためだった。その一方で、彼の懐には最近になって接触してきた名も知らぬコミンテルンの細胞から渡されたずっしりとした重みを感じさせる拳銃が忍ばせてあった。
そのベルギー製の小型拳銃と共に言い渡された任務は帆崎を重苦しい思いにさせていた。