1943シチリア海峡航空戦1
ふと誰かに呼ばれたような気がして、ジャン・ル・プレー曹長はドヴォアチヌD.525の操縦席から思わず振り返っていた。
だが、当然のことながら原型機と変わらないD.525の大して良くもない後方視界に入ったのは、次第に小さくなっていく離陸した滑走路の頼りなげな姿とプレー曹長に遅れて離陸した僚機しか見えなかった。
無線機は短距離の隊内通信にセレクターを合わせており、航空戦を指揮する基地やレーダー搭載機からの通信は飛行隊長であるリシャール大尉か、プレー曹長を含む小隊指揮官のグローン中尉にしか入らないから、この段階で入電があるとも思えなかった。
やはり気のせいだった。そう結論付けるとプレー曹長は視線を前に戻していた。
どうやら慣れない土地での戦闘、しかもこの機体に搭乗してからの戦闘経験は少ないから緊張してしまっているようだった。
滑走路のある航空基地から1キロほど離れたところには少しばかりの市街地が広がっていたが、サルディーニャ島に赴任してからプレー曹長だけではなく第3戦闘機大隊の隊員たちは基地から外出することを禁じられていたから、市街地にどんな家や店が並んでいるのか、それどころか街の名前すら知らなかった。
長大な滑走路を持つ航空基地と、市街地を除けば周囲には低い山と海岸に囲まれるようにして畑が広がっていたが、収穫の前後で土色と緑色に綺麗に分かれている畑にはやはり何が植えられているのかは分からなかった。
サルディーニャ島や隣接するコルシカ島では険しい山岳地が多いから、農業よりも放牧が盛んだと聞いていたのだが、この辺りは例外らしい。もっともそれほど低空で基地周辺を飛行したことはなかったから、耕作地に見えるだけで実際には緑色に見えるところも牧場かも知れなかった。
分からないことだらけだったが、仮に基地外への外出許可が降りたとしてもプレー曹長は市街地に出かける気には慣れなかっただろうし、おそらくは大隊員の大半も同じようなものだったはずだ。
会話など無かったし、地域の住民を見るのは遠目だったにも関わらず、住民からは強い隔意を感じ取っていたのだ。
だがそれも無理も無いことだった。
今次大戦序盤においてドイツのフランス侵攻に乗じて、イタリアもフランスに宣戦布告を行っていたが、実際には侵攻したイタリア軍は第二次エチオピア戦争、スペイン内戦への干渉といった相次ぐ戦闘によって被っていた損害からの復旧もままならない状態だったらしい。
イタリアが対フランス戦で戦勝国に名を連ねることが出来たのは、単に主要交戦国であるドイツ軍の尻馬に乗っただけのことであり、それを証明するようにアルプス方面ではフランス軍はイタリア軍を押し返していたのだ。
しかし、現在ではフランスとイタリアの立場は大きく変化していた。長引く戦役にイタリアは大きく疲弊していく一方なのに対して、対英、対日感情の悪化から昨年度新たに参戦したヴィシー・フランスの存在感が増していたのだ。
東部戦線で多くの熟練した兵士を失いつつあるドイツ軍にとって、敗戦によって一度戦力を制限されたとはいえ、軍拡に転じた大陸軍国のヴィシー・フランスに対する期待は小さくなかった。
ヴィシー・フランス政権の枢軸側にたっての参戦の表明と同時に、割譲されていたアルザス=ロレーヌの返還と共に独伊進駐地域の縮小も図られていた。
そして現在、戦勝国であったはずのイタリアの領土であるサルディーニャ島には、敗戦国であったはずのフランス軍が貧弱な現地防衛線力を補強するために派遣されているのだから、現地住民が面白く無い思いをしていても不思議ではなかったのだ。
だが、プレー曹長は住民たちから感じる隔意はそれだけが原因ではないと考えていた。
サルディーニャ島の住民の大半は、第二次エチオピア戦争から数えて10年近くも断続的に続く戦争、あるいはそれを指導するファシスト党そのものに対して反感を抱いているのではないのか。そう考えていたのだ。
サルディーニャの名は、現在のイタリア王国にとって特別な意味を持っていた。ナポレオン体制崩壊後のナショナリズムの勃興が招いたイタリア統一によってイタリア王室となったサヴォイア家は、元々はサルディーニャ島と現在のピエモンテ州などを領土とするサルディーニャ王国を統べていたからだ。
実質上の首都や経済の中心地が大陸側のピエモンテにあったとはいえ、名目上の首都はサルディーニャ島に置かれていたこともあり、島民は概ねイタリア王室にも敬意を払ってはいたが、それだけに逆に現在のイタリア政治を牛耳るファシスト党には冷淡なところがあった。
暴力を伴うイタリア統一の過程や、経済格差などによる南北間の隔意とは別の意味で、最短部で僅か数キロしか無いメッシーナ海峡で本土と遮られただけのシチリア島などよりも物理的に首都ローマとの距離があるサルディーニャ島は、本土との文化的な独自性もあって政治的には無関心なところがあった。
おそらく、大半のサルディーニャ島の住民はムッソリーニ統領が始めた戦争には無関心だったはずだ。それが相次ぐ枢軸軍の敗走によって戦場が接近したこともあって反感を抱いているのではないのか。
確かにかつての敗戦国であるヴィシー・フランスに属する空軍が自分たちの庭先に展開したことへの不快感もあっただろうが、これが島内に防衛線力の増援として送り込まれたのがイタリア正規軍であっても状況はそれほど変わりはなかったのではないのか。
一方でサルディーニャ島の防衛体制が貧弱極まりないのもまちがいのない事実だった。
というよりも、枢軸軍首脳部にとってサルディーニャ島を含むイタリア本土が戦線の遥か後方であるという認識が改まるよりも早く、戦局が予想を超えて悪化したと考えるべきだったかも知れなかった。
伸びきった枢軸軍の戦線を反映するかのように、イタリア軍は戦力の大半を海外に派遣していたが、装備優良の一線級の部隊が最前線に投入される一方で本土防衛用の部隊の強化は一向に顧みられることはなかった。
長引く戦役によって疲弊したイタリアの国力では進攻用の戦力と防衛戦力を同時に整備することなど不可能だったのだ。
だが、たとえドイツ軍の尻馬に乗る形であったとしても、枢軸軍の戦線が欧州本土から離れた北アフリカやロシアの平原に極限されている間はこの問題が表面化されることはなかった。
航続距離の長い重爆撃機隊による単独侵攻を除けば、国際連盟軍を海外派遣された戦力で抑えこむことが出来たからだ。
だが、北アフリカ戦線の劇的なまでの後退によって状況は一変していた。北アフリカのイタリア領はすでに奪取されており、北アフリカの海岸地帯でイタリア本土に最接近するチェニジアも国際連盟軍の支配下にあった。
それどころか戦線はヴィシー・フランス領のアルジェリア奥深くにまで移動しており、降伏は時間の問題だったから国際連盟軍が北アフリカに展開する戦力がイタリア本土に向けられる可能性は高まっていた。
これまで北アフリカ戦線でも実質上の主力となっていたドイツ軍の支援はそれほど期待できなかった。彼らにとっての主戦場とも言える東部戦線でも枢軸軍の後退が明らかになっていたからだ。
一時はソ連首都のモスクワから百キロ近くの距離まで攻め込んだ枢軸軍だったが、米国の支援を受けたソ連軍の本格的な反攻作戦の開始によって戦線は次第に西へと押し戻されており、既に黒海北岸の保持も難しくなってきているらしいとプレー曹長も聞いていた。
予想されるイタリア本土上陸に対して、イタリア軍の増強は後手に回っていた。精鋭であった北アフリカ派遣部隊の大半が撤退するドイツ軍の殿として残された結果、国際連盟軍の捕虜となっていたからだ。
本土に撤退できた部隊も、重装備を放棄して人員のみで撤退していたから、部隊を再編成して損耗した機材を配備させて再戦力化させるにはイタリアの工業力ではかなりの期間が必要だった。
ドイツも未だに完全には長期戦に対応した生産体制の確立には至っていなかったし、自国で生産される兵器の大半が東部戦線での一大消耗戦に投入されていたから、ドイツ製兵器のイタリアへの供与も期待できそうに無かった。
現在のイタリア本土防衛戦力の数的な主力は、3個沿岸防衛歩兵連隊と1個沿岸防衛砲兵連隊で基本的に編成される沿岸警備師団だった。
このサルディーニャ島でも3個沿岸警備師団が編成され、国際連盟軍の上陸がサルディーニャ島以上に予想されていたシチリア島では計5個師団が編成されていたらしい。
だが、師団の数はそれなりのものになったものの、実戦力はあまり期待できそうもなかった。
沿岸防衛歩兵連隊の兵員は、ファシスト党の民兵組織を母体とする黒シャツ隊や現地の住民を再召集させた予備役兵が大半だったから、平均年齢も高くさらに装備も倉庫から引っ張り出してきたような老朽品ばかりだった。
沿岸警備師団は、そのような二線級の部隊だったから陸軍の正規師団のように機動力と打撃力を併せ持つ歩兵師団として運用するのは難しかった。
現に、国際連盟軍が上陸を敢行したシチリア島では、沿岸警備師団が敵橋頭堡への反撃に投入されて大損害を受けた結果、部隊は離散してしまったという噂が流れていた。
サルディーニャ島の防衛線力がそのように貧弱極まりないものでなかったとすれば、イタリア軍も屈辱的なヴィシー・フランス軍の国内への展開を許容することは無かったはずだ。
この時点で、相対する国際連盟軍、ソ連軍の両軍に対して劣勢に追い込まれつつある枢軸軍の中でヴィシー・フランス軍の存在感が急速に増しつつあった。
ここ数年の敗退によって急速に戦力を消耗したドイツ、イタリア両軍は、長引く戦役によって兵役適齢にある青年層自体が枯渇し始めた為に、予備役の老兵や最近では青少年団体であるヒトラーユーゲントから選抜した少年たちまで兵士とせざるを得ない状況に陥っていた。
これに対して1940年の敗戦以後戦力を制限されていたヴィシー・フランス軍は、皮肉なことに休戦軍の名のもとに規模や戦備を制限されていた為に、再軍備の必要はあったものの青年層は温存されていたから、国際連盟軍への戦線を布告した今では潜在的には大軍を要することになるからヴィシー・フランス政権の政治的な発言力が高まっていたのだ。
問題は休戦から国際連盟軍への宣戦布告までの数年の間に進化していた各種先端技術を欠いていたことだったが、それもドイツからの技術供与が場合によっては新型レーダーなどの現物の輸出という形で進められて、ヴィシー・フランス領内の工場ではライセンス生産などの形で先端技術を組み合わされた改良兵器が続々と生産されていた。
プレー曹長が乗り込むドヴォアチヌD.525もそうして急遽開発された機体だった。
原型となったD.520はフランス降伏の直前に制式化された当時の新鋭機だったが、その後の枢軸軍と国際連盟軍のエンジン出力向上競争に遅れを取っていた。
実際、国際連盟軍の支援で激化した内戦の中で最終的にヴィシー・フランス軍が一方的に敗退する形で終わったシリア、レバノン地域での戦闘で、プレー曹長も国際連盟軍新鋭機に追いつくことも出来なかったD.520の性能には嘆かざるを得なかったのだ。
そのD.520の改造機であるD.525は、原型機が搭載したイスパノスイザ製エンジンを、ダイムラー・ベンツからライセンス供与を受けたルノー社で生産されたDB605に換装したものだった。
現在では、同様の手法でエンジンを換装したアミオ359などと共に、ドイツ占領地域を含むフランス本土での最重要生産機種に指定されていた。
ただし、D.525を新たな愛機としたプレー曹長は、原型機から遥かに向上したエンジン出力による高速性能には満足していたものの、全体的な性能には不満がないわけではなかった。
D.520は元々イスパノスイザ製の水冷正立V型エンジンを搭載していた。休戦前にエンジン換装計画もいくつかあったらしいが、対象はイスパノスイザ製の改良型か、英国ロールスロイス製マーリンエンジンだったから、エンジンの方式自体は同一のはずだった。
それに対してD.525に新たに搭載されたエンジンは水冷倒立V型エンジンであるDB605だった。
V型エンジンでは、出力軸となるクランクシャフトに対してシリンダーを上下のどちらかに配置するかによって正立と倒立の方式の違いが出るのだが、これはどちらにも利点と欠点があり、各国、各製造業者の思想の違いによって構造を選択していた。
正立エンジンと倒立エンジンではエンジン全体でみた時の出力軸の位置などが著しく異なるから、エンジンを換装する際も同型のエンジンを選択するはずだし、置き換えるのであれば機体構造からかなりの見直しが必要なはずだった。
だが、現在のヴィシー・フランスは急速な再軍備を求められたことから、製造工程に混乱を招き生産数を低下させる機体構造の大幅な変更は認められず、結果的にD.525はエンジン架付近以外は基本的にD.520と同一形状のまま正立エンジンを倒立エンジンに換装したどこかいびつな機体となっていた。
だからプレー曹長は激しい負荷のかかる戦闘機動時にD.525がどのような挙動を示すのか、不安を抱いていたのだ。
同時に、フランス製の旧式な機体構造にドイツ製の最新エンジンを無理やり搭載したこのD.525の姿そのものが、政治的な発言力を有しつつも結局はドイツの言いなりにならざるを得ない現在のヴィシー・フランスの状況を反映しているようにプレー曹長には思えていたのだった。
ドヴォアチヌD.525の設定は下記アドレスで公開中です。
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アミオ359の設定は下記アドレスで公開中です。
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