1940タラント防空戦6
最後の最後で、搭乗員は目の前の阻塞気球に気がついたのだろう。
慌てたようにソードフィッシュは機首を乱暴にあげていた。
だが、それはそれまでの手練の腕が全く見えない危険な動作だった。
そのままでは、急な機首上げで主翼から揚力が失われて、そのまま失速してしまったのではないのか。
しかし、ソードフィッシュが失速することはなかった。
その前に、機首から阻塞気球に衝突していたからだ。
いくら軽量で、気体ばかりで構成された気球といえども、ソードフィッシュを押しとどめるのには十分だった。
衝突直後に、阻塞気球にのめり込んだように見えたソードフィッシュは、次の瞬間に機体形状を保ったまま真っ逆さまに地上に落下していた。
もちろん阻塞気球の方も無事ではすまなかった。
ソードフィッシュによって穴を開けられたのか、内部のガスをまき散らして、ゆっくりとしぼみながらソードフィッシュを追いかけるように落下していった。
ビスレーリ中尉は唖然としながらその惨劇を見ていた。
阻塞気球と衝突して墜落したソードフィッシュの僚機を撃墜したのつい数分前のことだったが、その時とはまるで気分が違って感じられた。
奇妙なものを見つけたのは、ビスレーリ中尉が目を逸らしかけていた時だった。
ソードフィッシュや、阻塞気球の自壊によるものとは異なる光点が視界に現れていた。
何かが燃えているのは確かだが、爆発によるものとは思えなかった。
それほど燃焼による光量の変化は見られずに一定の光を発していた。
予め計算された燃焼でない限りそのような光になるとは思えなかった。
ビスレーリ中尉は、しばらく首をかしげてその光点について考え込んでいたが、陸地上空から離れる頃になってようやくその正体に気がついていた。
夜間の訓練などで何度も見てきた光だったが、地上近くで発光していたからなかなか気が付かなかったのだ。
あれは航空機からパラシュートを付けて使用する照明弾に間違いなかった。
独立戦闘飛行群は、水上戦闘機を主力とする航空部隊だが、海軍航空部隊の任務のうちには、敵観測機の妨害や逆に味方艦艇の砲撃支援のための観測機任務も含まれる。
砲撃支援任務の中には、艦艇による照準を手助けするための照明弾の投下も含まれており、当然ビスレーリ中尉もそれに関する訓練を受けたことがあったのだ。
その時になってビスレーリ中尉は、たった二機のソードフィッシュ編隊の任務がなんであったのかを理解していた。
彼らはあの照明弾をタラント軍港上空に投下させて、他の主力部隊の攻撃を援護しようとしていたのだ。
だから、僚機が撃墜されて、有力な戦闘機に追撃を受けてもなお他の部隊のためにタラントへの進撃をやめようとはしなかったのだ。
―――と言うことは…主力部隊は他にいるということか
戦慄を覚えるべきなのか、それともうんざりとするべきなのか、よくわからないままビスレーリ中尉は、通信機に手を伸ばした。
まだ母艦を直接視認できる位置にいる筈だったから、短距離用の無線でも意思を伝えることは出来るはずだ。
ビスレーリ中尉は、撃墜されたソードフィッシュが照明弾を投下するための支援機である可能性が高いことを上空からの観察からの推測であると素早く伝えた。
地上や、母艦からの支援は期待できそうもなかった。
今のところ、タラント軍港にはレーダーを装備した基地や艦艇は存在しないから、地上からの目視観測のみでは敵機かあるいは接近する敵艦を発見するのは極めて難しいだろう。
それならば、ビスレーリ中尉のアストーレ単機で捜索するしかなかった。
ようやく味方機であることを認めた探照灯の照射から逃れたアストーレを海上へと抜けださせながら、ビスレーリ中尉は素早くタラント周辺の地図を脳裏に思い浮かべた。
敵機の襲来コースを推測しようとしていたのだ。
まず、照明弾投下機と同じコース、つまりついさっきまでのアストーレの後方を飛行するルートは除外した。
いくら何でもそんな部隊が後方を飛行していれば気がつくだろうし、照明弾の投下位置からすると襲撃に適した光量は得られないはずだ。
タラント南方からの進入も除外してよさそうな気がした。
南方から艦隊泊地に飛行すれば、阻塞気球の群れに妨害されるし、サン・パオロ島やサン・ピエトロ島に配置された防空砲台からの射撃を受けるはずだ。
残る可能性は、本土の海岸線近くを飛行して、サン・ピエトロ島北方と本土との間をすり抜けるルートだった。
これならば防空部隊や阻塞気球による妨害を低減できるし、照明弾が艦隊泊地を後方から照らし出すことで、航空機による照準を容易にさせるはずだった。
照明弾投下機の進入時間からして、敵機がタラントまで到着するまでそれほど時間は残されていないはずだった。
あるいは今もこのあたりを飛んでいる可能性が高かった。
ビスレーリ中尉は、とにかくアストーレをタラント西方空域に向けた。
そして、目を皿のようにして索敵行動に移っていた。
だが、予想に反してアストーレがタラントからかなり離れても敵機の群れは見つけられなかった。
タラントからの飛行時間が、一分、二分と立つにつれて、ビスレーリ中尉は、級数的に焦燥感を強めていた。
自分が軽いパニックに陥り掛けているような気がしたが、コクピットから乗り出すようにしながら周囲を探ってみても敵機の姿は見つけられなかった。
やはり夜間に小さな単発機を発見するのは至難の業であるようだった。
そもそも、先の戦闘でソードフィッシュをいち早く発見できたのも、敵機の整備不良によるものであろう排気炎がたまたま目標となったからだ。
そのような幸運がなければ、地上からの支援のない単座機が夜間に敵機を邀撃するのは、事実上不可能なのではないのか。
あるいは、そのような迎撃システムを構築することのできないイタリア軍の装備体系にこそ問題があるのかもしれない。
海峡を隔てて航空殲滅戦を実施している独英両空軍では、夜間爆撃や逆に夜間迎撃は常態化しているらしい。
しかも、彼らは最近では昼夜を問わず、地上設置の大型レーダからの情報を得た地上管制官からの迎撃誘導を行いつつあるという話だった。
パイロットからすればまるで手綱を付けられるようなものだが、昼間であっても敵機を捜索して迎撃を行うのは決して容易ではない。
捜索を地上のレーダと分担して行うと考えれば、それほど腹も立たずに我の強いパイロットたちにも受け入れられるのではないのか。
ただし、イタリアの国力と技術力でそのような迎撃用のレーダが開発できればの話だったが。
―――やはりドイツから技術やその物を導入しなければならないのか。
そんなことを考えながら、ビスレーリ中尉は、敵機の発見を半ば諦めながらタラントへ引き返そうとして操縦桿に力を込めようとした。
タラント上空からの飛行時間を考えても、今頃こんなところを敵機が飛行している可能性は殆どなくなっていたからだ。
いくら何でも照明弾の投下からこんなに時間が経っていては、タラントの泊地は照空されずに暗くなってしまっているだろう。
背後に妙な気配を感じたのは、操縦桿を倒しかけた瞬間だった。
何かに見られているような気がしていた。
それもこちらを睨みつける敵機のパイロットというわけではなさそうだった。
それよりもずっと厄介で物騒な気がする。
まるで昔祖母から夜の暖炉前で聞かされた恐ろしい物の怪のようだった。
反射的に、操縦桿を操作する手を元に戻すと、ビスレーリ中尉は恐る恐る振り返っていた。
そこには、ビスレーリ中尉の予想通り、片翼をよく目立つ真紅に塗装されたアストーレがいつの間にか飛んでいた。
紅いアストーレは、ビスレーリ中尉の機体にぴたりと張り付くように飛んでいるが、タラント周辺で戦っていた時にはもちろんそんなところに機体はいなかったはずだ。
おそらく防空陣地の戦闘の合間を縫って、タラントの艦隊泊地から発進して、ビスレーリ中尉に追いついてきたのだろう。
こんな強引なことをする人間は一人しかいなかった。
専用機を見るまでもなく独立戦闘飛行群の群司令に間違いなかった。
その専用機の紅い塗装は、十年以上前にビスレーリ中尉が多感な少年時代に故郷ミラノでみたままだった。
違いがあるとすれば、当時は機体全体を紅くペイントしていたのが、あまりにも目立つせいか、片羽のみに限定しているくらいだ。
そういえば、この紅い色に魅せられて自分は空を目指していたような気がする。
故郷から遠く離れた夜の空で、そんなことを思い出した自分が可笑しかったのか、ビスレーリ中尉は、ふと笑みを見せていた。
無線機に繋がれたレシーバーから、群司令の聞き飽きた感すらあるダミ声が聞こえてきたのは、ビスレーリ中尉の顔が笑みを作り上げたその瞬間だった。
咄嗟に顔をひきつらせたビスレーリ中尉は、まさかこの暗闇の中で人の表情を見たのではあるまいな、と思いながら無線に出ていた。
予想に反して、レシーバーから聞こえてきた群司令の声はむしろ弾んでいた。
「よくやったぞローブル」
実家の酒造業者で作っているリキュールの銘柄「ローブル」はビスレーリ中尉のニックネーム、コールサインでもあるが、群司令がビスレーリ中尉にそう呼びかけるのは珍しかった。
群司令にとって「ローブル」の名は、彼にとってミラノで呑むリキュールの銘柄以外の何者でもなかったからだ。
よほど機嫌が良いらしいが、ビスレーリ中尉はなぜそこまで群司令が褒めちぎるのかよくわからなかった。
それほど先の照明弾投下機のソードフィッシュを撃墜したのが高評価だったのだろうか。
よくわからないままビスレーリ中尉は礼を言おうとしていた。
だが、ビスレーリ中尉が口をもごもごと動かす前に、群司令がやはり機嫌の良さそうな声で続けた。
ビスレーリ中尉は、その頃になってようやく群司令の声音が、獲物を前にしたそれであることに気がついていた。
「とにかく俺が一度突っ込んで編隊を散らしてみよう。一機か二機は脱落させてやるから、貴様はそこを喰え」
一体この男は何を言っているのか、さっぱり訳がわからずに返事をするのも忘れてビスレーリ中尉は、不自然な態勢で群司令の機体を見つめた。
次の瞬間に、群司令機は一気に機首を下げると海面に向かって一気に降下していった。
唖然としてビスレーリ中尉は、次の瞬間の破局を想像していた。
いまでもさほどの高度をとっているわけではないのだ。
あのような動力降下では不時着水することも出来ずに海面に突っ込んでしまうのではないのか。
しかし、群司令に限ってそのような無様なまねをするはずはなかった。
それは教科書にのるような、見事なダイブ・ズームだった。
一気に海面近くまで降下して速度を稼いだ群司令機は、僅かな時間をおいて、今度は速度を高度に変えながら上昇を始めた。
ひとつ間違えばそのまま海面にむかって衝突するか、少なくともフロートが海面でこすり上げられていたはずだが、海面にはそのようなあとは全く残っていなかった。
それは、アストーレの飛行特性を知り尽くしていなければ不可能な機動だった。
ビスレーリ中尉も、独立戦闘飛行群の搭乗員達の中でも中堅以上の腕ではあるが、あそこまで海面まで高速で近づくことは出来そうに無かった。
すでに群司令は、中年も終わりかけるほど歳のはずだが、その技量は衰えるどころか、年を取るごとに鋭さを増しているような気がする。
その軌跡を目で追っていてようやく、ビスレーリ中尉は、群司令機の先に、こちらに向かって飛行してくるソードフィッシュの編隊を見つけて一瞬呆然としてしまっていた。
どうやら、群司令の機嫌が良かったのは、敵編隊の近くを飛んでいたビスレーリ中尉がその編隊を発見していたと勘違いしていたからであったらしい。
もちろん、それは偶然にすぎないのだが、その後の大目玉を予想すると、素直にそれを口に出すのはやめたほうがよさそうだった。
それよりも敵編隊を逃さないようにしなければならない。
ビスレーリ中尉は、襲撃後の敵編隊の動きを予想しながら、ゆっくりとアストーレを旋回させていた。
その時には、群司令機が12.7ミリ機銃の銃口を真っ赤に染めながら、ソードフィッシュの編隊に前下方から突き上げるように襲撃をかけていた。
おそらくソードフィッシュ編隊にしてみればこの襲撃は奇襲となったのではないのか。
一気に機銃の射程外で前方にダイブしてきた群司令機を発見できていたとしても、次のズーム上昇に対応できるものはいなかったのではないのか。
何機かのソードフィッシュはそれでも前方機銃で応戦していたが、下方に潜りこむように上昇をかける群司令機に命中しそうな弾道をとる機体は見当たらなかった。
群司令機の襲撃は、ソードフィッシュ編隊との大きな相対速度もあって、短時間で終了していた。
密度は高かったが、消耗した弾薬はそう多くはなかったはずだ。
しかし、その成果は大きかった。
盛大に火を吹いたり、今にも墜落しそうな機体こそなかったが、何機かには確実に損害を与えたらしく、編隊は崩されかけていた。
それに、鮮やかな襲撃のあとでは、ソードフィッシュの搭乗員達は群司令機に集中していた。
その群司令機は、襲撃後に一度ソードフィッシュの後部防御機銃の射程外に出てから、プロペラのトルクを利用した半径の恐ろしく小さな旋回で再び編隊の左後方から襲撃を通うとしていた。
ソードフィッシュ編隊の搭乗員の多くは当然、機体から見て左側で鮮やかな旋回を示す群司令機に注目していた。
そこへ、ビスレーリ中尉は上空でゆっくりと旋回して飛行方向をソードフィッシュ編隊と揃えてから、右後方上空から襲撃をかけていた。
群司令機に続いて、ビスレーリ中尉の襲撃は再び奇襲となった。
ビスレーリ中尉は、群司令の言うとおりに、編隊から脱落しかけているソードフィッシュの一機に的を絞っていた。
その機体は、群司令の先ほどの襲撃で操縦系統か、機関にでも命中弾があったのか、咳き込むようによろよろと飛行をしていた。
自然と、その飛行経路は、次第に編隊を組む他の機体と離れつつあった。
搭乗員達もそれは分かっているのだろう、群司令からの再度の襲撃の前に編隊に復帰しようと、自機と群司令機に交互に視線を動かしながら、機体をなだめすかそうとしているようだった。
そこへ予想外の方向から、ビスレーリ中尉が突っ込んで来た。
搭乗員達は、海面で反響する音響の方角に、最後まで気が付かなかったようだった。
ビスレーリ中尉のアストーレから最初の12.7ミリ弾が発射された時、それに気がついて彼らから見て右側に顔を向けたのは、中席の指揮官だけだった。
最初の12.7ミリ弾は、その中席の搭乗員の体を吹き飛ばしていた。
弾着は、ビスレーリ中尉のアストーレがソードフィッシュの前方に機動するのにしたがって前方へと移動した。
最後にエンジンとプロペラを撃ちぬかれたソードフィッシュは、ビスレーリ中尉機がソードフィッシュ編隊を追い抜かし頃には、推進力を失ってゆっくりと海面に向けて落下していった。
ビスレーリ中尉は、編隊を組む他のソードフィッシュからの防御射撃を警戒して、目標を撃墜後は、鋭く旋回しながら編隊の右前方へと抜け出していた。
しかし、コクピットのすぐ外に括りつけられたバックミラーに映る光景を見るかぎり、編隊からの防御射撃を警戒する必要はあまりなさそうだった。
ビスレーリ中尉が射撃を行ったソードフィッシュが墜落するよりも早く、群司令が再び襲撃をかけていたからだ。
群司令の目標となったのは、編隊の左端で同じようにふらふらと飛んでいた機体だった。
紅いアストーレはその機体を一撃して下方へとすり抜けていった。
そのソードフィッシュは、ビスレーリ中尉の目標よりも派手に、炎を上げながら墜落していった。
燃え盛るソードフィッシュの炎は、海面に落着して吹き消されるまでの一瞬の間、ソードフィッシュ編隊を明るく照らし出していた。
―――わずか二機による三度の襲撃で、敵機二機の撃墜…か。
夜戦によるものとしては、先ほどの単機での襲撃とあわせて驚異的な戦果といってもよかった。
ただし、容易に敵機を撃墜できたのはここまでだった。
その後の戦闘は、飛行群司令の技量を持ってしてもだらだらと続くことになった。
ソードフィッシュが、視界の聞かない夜間にもかからわず緻密な編隊を組んで、防御射撃を有効に活用し始めたからだ。
彼らはまるでタラントに行き着くまでにすべての銃弾を消費しようとしているかのように、のべつ幕無しに乱射ともいえるような密度で盛大に防御機銃を発射してきた。
それ以上に、夜間といういつもとは違う環境で、複数機で多数を襲撃する機動自体が不安定で、危険なものとなっていた。
一度など、同じタイミングでソードフィッシュ編隊に襲撃をかけようとした群司令機と衝突しそうになるほどだった。
技量優秀者が二人集まってこれなのだから、飛行群の若手搭乗員たちまで戦闘に加入すれば対処不可能な混乱に襲われるのではないのか、永遠に続くかのような緊張感の強いられる襲撃機動を行いながら、脳裏の片隅でビスレーリ中尉はそんなことを考えていた。
飛行群司令の声がレシーバーから聞こえてきたときには、思わず安堵の溜息を付きそうになっていた。
「ここまで…だな。もうソードフィッシュの接近経路は連絡してある。対空陣地の馬鹿共に誤射される前に離脱するぞ、ビスレーリ」
すでにタラント沖のサン・ピエトロ島が目視で距離まで接近していた。
対空部隊の照明によるものらしい明かりも感じれた。
ビスレーリ中尉は、衝突を避けるために、慎重に群司令機との間隔を保ちながら、司令に従ってアストーレを上昇させていた。
度重なる襲撃で機数を半減させていたソードフィッシュ編隊は、逆に更に海面近くに降下していった。
もうボロボロの状態のはずなのに襲撃を諦めるつもりは無いようだった。
あれでは防空部隊からの射撃で全滅してしまうのではないのか。
ふと違和感にとらわれてビスレーリ中尉は、タラント湾内に視線を向けた。
次の瞬間にぎょっとしてまじまじと湾内に浮かぶ明かりを凝視していた。
対空部隊の照明だと考えていたものは、探照灯などではなかった。
それは、赤々と燃えさかる戦闘艦だった。
艦橋のある前檣楼に付属するマストは申し訳程度の小さなものなのに対して、後檣楼から伸びるデリックを兼ねたマストは巨大なものだった。
どうやら燃えさかる戦闘艦はコンテ・ディ・カブール級のようだった。
眼の前のソードフィッシュ編隊以外にも別動の攻撃隊がいたことは間違いなかった。
それどころか、戦艦にここまで大きな損害を与えたことを考えると、この編隊はむしろ囮のようなもので、主力はビスレーリ中尉たちが発見出来なかった部隊だったのかもしれない。
考えてみれば、最初に撃墜したソードフィッシュが照明弾投下機だとすれば、この編隊がタラントに到着するタイミングとはあまりにもずれていた。
彼らが照明弾で支援しようとしていた部隊こそが主力部隊であったはずだ。
ビスレーリ中尉は、そのことに気が付かずに、自分の誤った判断に従って囮の編隊に食いついてしまった。
その結果、敵主力を無防備なタラントへと侵入させてしまったのではないのか。
ビスレーリ中尉は、食い入るように燃えさかる戦艦を見つめていた。
まるでそれを近くで見ていたかのように、群司令からの通信が入った。
「自分の判断を悔やむのはよせよ、ビスレーリ。とにかく俺たちは敵主力の第二波を半減させたのは確かなんだからな」
ビスレーリ中尉は、先行する群司令機に視線を向けて。首をかしげながら無線で尋ねた。
「第二波の主力…ですか。あれは囮だったのかもしれませんが」
群司令からの返答はしばらくなかった。
だが無線機がつながっている気配だけは感じられた。
だが、よく聞いてみると、このような状況なのに、群司令は笑っていた
言葉がないはずだった。
「馬鹿かお前は。あとからやってくる囮なんぞいるもんか。間違いなくこいつらは第二波だ。囮も何もない、ジョンブル共は部隊を二分しただけのことだ。
この第二波こそが相手にしてみれば主力で、第一波が撃ち漏らしたり、損害を与えた艦に止めをさそうとしていたのかもしれん。
それとも単に敵空母の数が少なくて、一気に発艦できる数だけで編隊を組んだのかもしれん…それは俺にもわからん。
だが、これだけは言える。貴様が照明弾投下機を最初に撃墜したからこれだけの損害ですんだんだ。
もしも最初からタラントが効果的に照らされていれば、もっと多くの艦に被害が分散してしまっていたかもしれん…始まるぞ」
慌ててビスレーリ中尉は、視線を燃えさかるコンテ・ディ・カブール級に向けた。
まるで、誘蛾灯に引き寄せられた虫のように、ソードフィッシュが戦艦に降下していくところだった。
実際には、煌々と燃えさかる戦艦に眩惑されて、他の標的を見つけられなかったのだろう。
あるいは、数の減った編隊で確実に損害を与えようとしていたのかもしれない。
しかし、彼らの努力にも限度があった。
損傷をうけた機体に向かって次々と対空射撃が行われた。
結局、投弾に成功したのは二機だけだった。
しばらく空中を飛翔した爆弾は、続けてコンテ・ディ・カブール級の周囲で起爆していた。
少なくとも一発が命中したらしく、炎の向こうからどす黒い煙が立ち上がったのが見えた。
だが、艦上構造物への着弾は、頑丈な構造の戦艦にとって必ずしも致命傷とはならない。
傾斜を見るかぎり、第一波には魚雷搭載機もあったようだが、投弾されたのは幸いなことに爆弾搭載機だけだったらしい。
ビスレーリ中尉は、対空射撃を背に受けながら離脱していくソードフィッシュ編隊と、ぐずぐずと燃え上がるコンテ・ディ・カブール級に目を向けながら、不幸中の幸いにとりあえず安堵のため息をつこうとしていた。
奇妙なものが燃え上がる戦艦の横に見え始めたのはその瞬間だった。
ため息を付くのも忘れて、ビスレーリ中尉はまじまじと湾外に向けて移動しようとしているようにも見えるその艦を見つめた。
もちろん、見つめるまでもなく、その艦の正体はすぐにわかっていた。
見慣れた自分の母艦を見間違うわけもなかった。
母艦は、前後を曳船に引かれてゆっくりと移動していた。
最初は再度の空襲を恐れて湾外に出港しようとしているのかと思ったが、それにしては姿勢が奇妙だった。
それに、見間違いかもしれないが、後部の巨大なカタパルトが稼働しているよう様な気がする。
群司令機からの無線が再びつながった。
しばらく別の相手と話をしていたらしい。
「ビスレーリ、貴様の機の残燃料はどれぐらいある」
そう言われて慌ててビスレーリ中尉は、自機の計器盤を見ながら残燃料を大雑把に申告した。
戦闘機動を連続したわりにはそれほど燃料は消費されていなかった。
不思議に思って時計を見ると、発信してから驚くほど時間が経っていなかった。
報告を聞いた群司令は即座にいった。
「それだけあればどうにかなるだろう。貴様ちょっと彼奴等を追いかけてこい」
ビスレーリ中尉は首をかしげた。
彼奴等とはタラントから離脱しようとしているソードフィッシュのことを言っているのだろうが、追いかけてこいとはどういうことなのか。
ビスレーリ中尉が何かを質す前に、ソードフィッシュに向けられていた砲火がやんだ。
一つ、また一つと、探照灯も消えていった。
黙りこんだビスレーリ中尉に言い聞かせるように群司令が続けた。
「やられっぱなしというのも癪だからな。今度はこちらから仕掛けるとしよう。
いまファルコの方で攻撃隊を編成している。本当なら俺が直率したいんだが…慌てて出てきたもんだから燃料が足りねぇ。
とにかく、貴様が送り狼になってソードフィッシュが帰る空母までついていくんだ。
攻撃隊は今ソードフィッシュが向かっている方向に向けてとりあえず飛ばすから、無線誘導を絶やすな。
それと…わかっているだろうが、発見されるのは構わんが、間違ってもソードフィッシュを落とすんじゃないぞ。それは奴らのねぐらがわかるまで厳禁だ」
一気にそう言うと、群司令機はすっと高度を下げながら、母艦に向かっていた。
その母艦は、群司令が説明する間にいつの間にか大きく姿勢を変えていた。
カタパルトが稼動しているのは気のせいではなかったようだ。
大きく舷側に向けられたカタパルトには、早くも射出機が載せられようとしていた。
それに、前後に付けられた曳船も、母艦を曳航しようとしていたわけではなさそうだった。
単に、狭いタラント湾内からの射出に都合のいい角度に母艦を持っていくために使われただけのようだ。
それをしばらく見てから、ビスレーリ中尉は大きくため息を付いてから、暗闇の中に消え行こうとしているソードフィッシュに向かってアストーレの機首を巡らせはじめた。
この夜間飛行はまだまだ続きそうだった。