1943シチリア上陸戦9
正確な情報は中々入ってこなかった。鳥海の艦橋基部近くに設けられた指揮所に集められた第一航空艦隊の参謀たちは苛立った顔になっていた。ただ一人の遣欧艦隊司令部からの派遣参謀である村松少佐は指揮所の隅でおとなしくしているしかなかった。
ある意味で情報の乏しさは遣欧艦隊と第一航空艦隊の指揮権の問題でもあったからだ。
マルタ島沖海戦以後、逼塞するように母港トゥーロンに停泊していたはずのフランス海軍主力艦隊が、いつの間にかバレアレス海を南下していた。その姿を最初に目撃したのはこの方面の哨戒、通商破壊戦に投入されていた第6艦隊第5潜水戦隊隷下の潜水艦だった。
ただし、鳥海に入電した通信の送信者は、直接フランス艦隊を目撃した潜水艦でもなければ、その母艦である大鯨型潜水母艦黒鯨でもなかった。
第5潜水隊旗艦の黒鯨は、以前アレクサンドリアに停泊して後方からマルタ島に展開する水上機母艦秋津洲を中継して麾下の4個潜水隊を指揮していたが、現在では北アフリカの前線が西方に移動したことや、東地中海の制海権がほぼ国際連盟軍によって確立されていたことから、自身もマルタ島まで進出して潜水戦隊の哨戒域をジブラルタルに展開する英国海軍部隊と分担して西地中海まで拡大していた。
だが、第5潜水戦隊の主任務は、西地中海全域の哨戒というよりも、アルジェリア西部に後退したヴィシーフランスとドイツ軍残存部隊からなる枢軸軍とフランスやイタリア本国との間を結ぶ航路の遮断、つまりは通商破壊作戦に重点を置いていた。
第5潜水戦隊の指揮下には定数で3隻からなる潜水隊が4個、合計で12隻もの潜水艦が所属している計算だったが、戦闘や長期間の哨戒航行による損耗や不定期の修理工事などによって実際には定数割れを起こしているのが現状だった。
それに第5潜水戦隊に所属する潜水艦は、戦時量産型である呂35型潜だった。呂35型潜は、日本海軍の平時における潜水艦整備方針が、運用の難しい艦隊型潜水艦である海大型から、単独での長距離偵察や通商破壊作戦に従事する巡航潜水艦に重点が移行した際に、戦時における艦隊型潜水艦の数量不足を解消するために計画されていた潜水艦だった。
原型となったのは軍縮条約時代に半ば量産試作のための実験艦として建造されていた呂33号潜水艦だったが、構造的にはその時点で完成されており、量産体制もととのっていたから開戦から建造が開始された呂35号潜の建造数は少なくなかった。
概ね潜水艦部隊である第6艦隊からは生存性や使い勝手の点から高い評価を受けた呂35号型潜水艦は、本来の任務であった艦隊随伴用の潜水艦としての用途以外に、哨戒や通商破壊作戦など本来は巡洋潜水艦を投入する作戦にも多用途に用いられていた。
ただし、呂35号型は原形が主力艦に随伴するために水上航行能力を優先して設計された艦隊型、それも量産性を重視して艦体寸法を切り詰めた海中型に過ぎなかった。
日本海軍の艦隊型潜水艦としては小型の艦体は、意外なほど静粛性が高く、実用性は評価されてはいたが、燃料搭載量や予備魚雷の数は抑えこまれていたから航続距離や継戦能力では不利だった。
だから、第5潜水戦隊は母艦であり、旗艦でもある黒鯨をマルタ島まで前進させたにも関わらず、哨戒網は不完全なものに過ぎず、通商破壊作戦にしてもフランス本国とアルジェリア間の航路を完全に遮断出来ているとは考えられなかった。
問題は第5潜水戦隊の能力が限定的なことだけではなかった。第1航空艦隊の参謀たちは、指揮系統から周辺の海域で哨戒中の部隊が外されている方を問題視しているようだった。
もちろん今も揚陸を継続中の艦隊の周囲に警戒部隊がいないというわけではなかった。巡洋分艦隊指揮下の水雷戦隊は、上陸地点を中心に集結している艦隊の外周で警戒航行を続けていたし、周辺海域を遊弋しながら上陸部隊や艦隊を援護するため航空隊を出撃させている航空分艦隊も、一部の機体を割いて直援戦闘機隊や外装式の捜索用電探を装備した二式艦上攻撃機を哨戒機として出撃させていた。
だが、それらの部隊はあくまでも艦隊に接近する敵機、敵艦を警戒するためのものであり、積極的に広範囲の索敵を実施しているわけではなかった。艦隊自身の哨戒範囲外の警戒は、通常通り潜水艦隊や内地から派遣されてきた哨戒飛行艇部隊などが担っていたが、それらの部隊は第1航空艦隊の直率ではなく、上級司令部である遣欧艦隊に属していた。
これは第1航空艦隊司令部に過大な負担をかけることのないようにとられた措置だったのだが、今回のように即応性の要求される事態に対応できているとは思えなかった。
哨戒部隊が入手した情報は、その部隊の司令部に上げられてから、上級指揮官である遣欧艦隊に報告されることになる。遣欧艦隊司令部では情報を加工した上で必要となる指揮下の部隊に選別して伝達することになるのだが、第1航空艦隊司令部の参謀たちにはその伝達速度の遅れが苛立ちを覚えさせているようだった。
遣欧艦隊司令部が故意に情報の伝達を遅らせているとまでは考えていないにしろ、遣欧艦隊司令部で情報の吟味に時間がかかっているか、あるいは伝達先にもれでも生じているのではないのか、その位は疑っているのではないのか。
もしくは、安全な後方、それも陸上で指揮をとる遣欧艦隊司令部に対する反感があったのかもしれなかった。
面と向かって遣欧艦隊通信参謀の村松少佐を避難するものはいなかったが、無言の圧力に少佐は萎縮するのを感じていた。
だが、階級はさほど高くはないにしても村松少佐は遣欧艦隊司令長官の代理としてこの作戦の推移を現地で見極めるために派遣されていたのだ。ここで第1航空艦隊司令部の面々の前で弱った姿を見せることは出来なかった。
結局村松少佐は部屋の隅で一人佇みながらも、外見は傲然とした態度で押し通していた。もちろんそれは単なる虚勢に過ぎなかったのだが。
第1航空艦隊司令部に入電する情報は、有る一点を過ぎると唐突に増加し始めていた。第5潜水戦隊の呂号潜水艦が一度発見した敵艦隊を、再度別の部隊が発見したらしい。
やはり情報の断絶は遣欧艦隊司令部の能力などに起因するものではなかった。単に哨戒中に敵艦隊を発見した呂号潜水艦が敵を見失ったというだけの話だったのだ。
だが、それも無理はなかった。呂35号型潜水艦は中型潜水艦にすぎない。潜航して敵艦からの攻撃を避けられるという利点はあるが、艦橋は低いから目視による哨戒範囲はそれ程広くはない。
最近では潜水艦部隊でも電探を広く使用するようになってはいたが、基本的には敵哨戒機を警戒するのが目的だから、空中線の位置がどうしても低くなるという不利な点を考慮したとしても、やはり潜水艦に搭載されるのは対空捜索電探だけという場合が多かった。
そのような状態の中型潜水艦が敵艦隊を発見したというだけでも相当の幸運があったと考えるべきではないのか。
しかし、第1航空艦隊司令部参謀たちは苛立たしげにそこかしこで話し合うばかりだった。それだけ送られてきた情報は衝撃的なものだった。
遣欧艦隊司令部経由でフランス艦隊の位置を報告してきたのは、周辺を哨戒飛行中だった二式飛行艇だった。日本海軍がマルタ島に派遣した部隊に配備されていた二式飛行艇は、初期生産型である11型からエンジンの換装や補助フロートの引き上げ機能などの改良を加えた22型だった。
二式飛行艇22型は大型の飛行艇でありながら20ミリという大口径の機銃を複数備えた重武装の上に、1世代前の戦闘機にも匹敵する程の速力を合わせもつ有力な哨戒機だった。
航続距離も長いから、大型飛行艇支援用に建造された水上機母艦秋津島が在泊中で支援体制の整ったマルタ島からならば無補給でジブラルタルとの間を往復することも出来るはずだった。
しかし、二式飛行艇から送られてきたフランス艦隊の現在位置情報に付随する記載を見ると、実際にはそれ程単純でもないようだった。
マルタ島から西地中海に進出するには、シチリア島西端とチェニジア北西端のボン岬半島との間に広がるシチリア海峡を通過しなければならない。この海域の制海権は、北アフリカ戦線をチェニジアからアルジェリア中央部まで西進させた国際連盟軍の手にほぼ移っていたが、未だにシチリア島から北アフリカへの飛行を試みる枢軸軍機がいないわけではなかった。
それにシチリア海峡の中央部にはほんの一ヶ月ほど前に国際連盟軍が奪取したパンテッレリーア島も存在しており、以前は航続距離の短い枢軸軍の戦闘機隊も度々出現していた。
シチリア海峡の先にも、シチリア島と同程度の面積を持つ大きな島であるサルデーニャ島があり、北アフリカ戦線の状況悪化から、最近になってドイツ軍やイタリア軍部隊が増強されたとの未確認情報も入っていた。
そのような状況だから、哨戒機部隊も敵主力戦闘機の哨戒半径を避けて縫うような複雑な針路をとっていた。それもあって二式飛行艇の性能の割にはマルタ島からの進出範囲はさほど伸びていないらしい。
だから、敵艦隊を発見した二式飛行艇を接触機として使用できるのは短時間に限られると判断すべきだった。
指揮所で電文用紙を最後に受け取った村松少佐はざっと用紙に記載された情報を把握してそう結論づけた。二式飛行艇の現在位置はスペイン領マヨルカ島に近かった。
マルタ島からマヨルカ島までの距離や独伊空軍が駐留するサルデーニャ島との位置関係を考えればそれ程おかしくはないはずだ。
だが、村松少佐は指揮所中央部の海図台の上に示された第5潜水戦隊の呂号潜が最初に敵艦隊を発見した位置と、二式飛行艇の現在位置を確認して思わず息を呑んでいた。
最初にトゥーロンから出港したと思われるフランス艦隊を呂号潜が最初に発見したのは、スペイン領バレアレス諸島北側の公海上だった。
その時点ではフランス艦隊はトゥーロンから南西に位置するバレアレス諸島に向かう針路をとっていたらしい。艦隊を発見した呂号潜は、敵艦隊内に確認された駆逐艦からの攻撃を避けるために潜航し、敵艦隊が索敵圏外に去ってから浮上して報告してきたようだ。
その航路自体は、北アフリカ戦線で枢軸軍がアルジェリア西部に押し込まれたあたりから存在が指摘され始めていた。前線で鹵獲された物資の量や内容から、ほそぼそとした量ではあるが、北アフリカ戦線に海上経由の補給路があるのではないかと推測されていたのだ。
おそらくスペインの領海を一部で侵入する航路でフランス本国からアルジェリア西部に直行する航路なのだろうと予測されていた。
今次大戦において中立という立場をとるスペインは、去年頃からの国際連盟軍によって実施された一連の反攻作戦によって風向きを変えつつはあったが、未だに枢軸寄りの姿勢を示していた。
それ以上に第三次リーフ戦争とそれに続くスペイン内戦などでスペインの軍事力、特に海空軍の衰退は著しかった。おそらく基幹戦力の整備にはまだ時間がかかるはずだ。
そのような状態だから、スペインは戦闘行動でもとらないかぎりは枢軸軍の領海内での行動を黙認せざるを得なかったし、長距離航行の可能な大型哨戒艦艇の保有数の乏しさからすれば、黙認以前に高速艦隊の領海通過を察知できない可能性も少なくなかった。
そして呂号潜が確認したバレアレス諸島北部で発見された敵艦隊の針路をそのまま進捗させれば、スペイン領海をすり抜けながら、メルセルケビール海戦の舞台ともなったアルジェリアの大都市であるオランにたどり着くはずだった。
アルジェリア西部にあるオランは、自由フランス軍を中核とした国際連盟軍に追い込まれた枢軸軍にとって残された中では最大の拠点だった。そして現状では枢軸軍が北アフリカで使用できる唯一の大規模港湾施設でもあった。
北アフリカのヴィシーフランス領では、アルジェリアのさらに西部にありアルボラン海に面するモロッコにも幾つかの港町があったが、枢軸軍から英国が奪還した一大拠点であるジブラルタルに近すぎて根拠地として使用することは難しいだろう。
二式飛行艇からの通信が入るまで、第1航空艦隊司令部参謀たちは、今回のヴィシーフランス海軍の出動をオラン防衛を目的としたものではないかと判断していた。
戦艦を含む戦闘艦ばかりが出動したのは異様だが、メルセルケビールを拠点として艦砲射撃の絶大な威力で砲兵火力の点で日英軍には劣る自由フランス軍を圧倒しようと言うのではないのか。
もし自由フランス軍が劣勢に置かれた場合、後詰めにスリム中将麾下の英第9軍が控えているとはいえ、北アフリカ戦線が再度揺れ動く事態はありえないわけではなかった。
北アフリカ戦線を、政治的な介入があったとはいえ自由フランス軍主体に任せたのは時期尚早だったのかもしれない。これまで対地支援任務が少なくなかった第1航空艦隊の参謀たちがそう考えるのも無理はなかった。
だが、事態は予想以上に悪化していた。二式飛行艇が再発見した敵艦隊の針路は、予想されたバレアレス諸島マヨルカ島の西岸をオランに向けて直進するものではなかったからだ。
最初に発見された針路の延長線であるマヨルカ島南西方面を捜索してもフランス艦隊を発見できないはずだった。
戦艦四隻を主力とする大規模なフランス艦隊は、バレアレス諸島の中で最大のマヨルカ島とその北東のメノルカ島の間に位置する水道を通過していつの間にか北東に進路を変更していたのだ。
これが現時点においてさほどの価値が見いだせないサルデーニャ島に向かうというのでなければ、考えられる目的地はそう多くはなかった。
ヴィシーフランス海軍艦隊は国際連盟軍が上陸戦を敢行している最中のシチリア島を目指しているのではないのか。村松少佐はそう考えながら、思わずも唸り声を上げてしまっていた。
高雄型重巡洋艦鳥海の設定は下記アドレスで公開中です
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