1940タラント防空戦4
ボンディーノ大佐の違和感は当たっていた。
探照灯を照射したのはヴィットリオ・ヴェネトではなかった。
これまで敵軽快艦艇に備えて待機していたはずのアルティリエーレが、いつの間にかヴィットリオ・ヴェネトと敵艦隊の間に割りこむように機動していた。
そして、アルティリエーレから伸びた探照灯の光芒が、しばし海面を薙いでから、一点で固定された。
すでに探照灯は、主砲を連続して発砲する敵一番艦の姿を捉えていた。
もちろん、これはアルティリエーレにとって危険極まりない行動だった。
一つ間違えば、自らを光源とするアルティリエーレは敵艦から格好の標的となって集中砲火を浴びてしまうだろう。
それに、探照灯の光だけではなく、いまアルティリエーレは敵艦とヴィットリオ・ヴェネトとの間に割り込むことで、照明弾の明かりにも背後から照らし出される形になってしまっている。
戦艦であるヴィットリオ・ヴェネトにとって軽巡洋艦の主砲弾は、余程のことがない限り致命傷とはならないが、ソルダディ級駆逐艦のアルティリエーレにしてみれば、一発でも命中すれば、下手をすれば一撃で撃沈される可能性すらあった。
そのような危険を背負っているにもかかわらず、敵艦を探照灯の光で捕えて離そうとしないアルティリエーレの姿は、まるで決断をためらっていたボンディーノ大佐を艦長代理のルティーニ中佐が叱りつけているかのように感じていた。
主砲指揮所につながる電話を持ち直すと、ボンディーノ大佐は、一字一句間違わないように、決意を込めていった。
「砲術長、主砲敵一番艦。手早く仕留めろ」
砲術長からの返答はなかった。
その代わりに、間髪を入れずに主砲塔が発砲していた。
アルティリエーレの奮闘に答えるように発射されたその砲弾は、今度は命中する。
ボンディーノ大佐はそう確信していた。
やはりボンディーノ大佐の予想は、こんどは当たらずとも遠からじだった。
アルティリエーレの探照灯によって照らしだされた海面上に、数十秒後に次々と発生した着弾点は、敵一番艦には命中も、夾叉もしていなかったが、水柱と敵艦との距離はかなり狭まっていた。
その間も次々と発射される副砲も、ボンディーノ大佐の希望も入り交じっていたかもしれないが、敵二番艦へと確実に近づいているような気がしていた。
ボンディーノ大佐には、これ以上戦況の変化がない限りもう何もすることがなかった。
今のところ砲術長が確実に着弾修正を行うのを信じるしかない。
敵弾は次々と着弾し、その度に何らかの被害をヴィットリオ・ヴェネトにもたらしてはいたが、はるかに格下の軽巡洋艦から放たれた砲弾による被害は、許容範囲内に収まっていた。
少なくともよほど妙なところに命中しない限り、ヴィットリオ・ヴェネトの戦闘能力を奪うことはないだろう。
ただし、このまま命中弾が連続すれば、主装甲が抜かれなくとも、やがて出血多量で人間が死ぬように、ヴィットリオ・ヴェネトも火災と非防護区画の浸水でやがては沈んでしまうはずだ。
そのような事態になる前に敵艦を沈めなければならなかった。
ふとボンディーノ大佐は違和感を感じて首をかしげた。
気のせいか、ヴィットリオ・ヴェネトの周囲に十秒間隔で絶え間なく発生する水柱の数が減っているような気がしていた。
命中弾がいきなり増加したわけではないことは、副長からの報告を聞けば分かったから、実際に敵艦からの発射数が減っているようだった。
しかし、今のところ、敵艦に命中弾を与えたという報告は入ってきていなかった。
つまり、敵艦の砲撃力を削りとったわけではなさそうだった。
嫌な予感がしてボンディーノ大佐は、敵艦の方向に双眼鏡を向けた。
水柱に邪魔されて良くは観測できないが、敵三番艦の発砲がこれまでとはタイミングがずれているような気がした。
―――まさか…敵三番艦の目標は…
「いかん、避けろルティーニ」
無駄だとも気が付かずに、思わずボンディーノ大佐はつぶやいていた。
だが、ボンディーノ大佐が何かを言い終わる前に、アルティリエーレの周囲に着弾による水柱が発生していた。
どうやら敵艦隊は、一番艦と二番艦でヴィットリオ・ヴェネトを、三番艦でアルティリエーレを分散して砲撃し始めたらしい。
しかし、照明弾の反照と自艦の探照灯で、まばゆいばかりの光を放っているというのに、水柱が示す着弾点とアルティリエーレの位置はずれていた。
しかも着弾点のずれは、測角だけではなく、測距方向にも大きくずれているようだった。
もしかすると、英海軍でもレーダーを装備した艦は限られているのかもしれなかった。
少なくとも敵艦隊三番艦は、レーダーを装備していないのか、それともレーダ測距に慣れていないのだろう。
だが、いずれは着弾修正を行った、そして装甲を持たない駆逐艦には危険極まりない15.2センチ砲弾がアルティリエーレに命中する時が来てしまうだろう。
もうボンディーノ大佐には、アルティリエーレが探照灯で照らし出してくれている間に敵艦をかたっぱしから沈めてしまうことを祈ることしか出来なかった。
そして、破局の時が訪れた。
複数の命中弾が、ほぼ同時に発生していた。
最初に、これまでのように、敵一番艦と二番艦からの15.2センチ砲弾がヴィットリオ・ヴェネトに降り注ぎ、その内の二発が命中した。
一発目は、煙突基部近くに命中し、高角砲を一基吹き飛ばした。
二発目は、第二砲塔付近の船首楼甲板と上甲板の間の垂直装甲を貫通した。
だが、かろうじて垂直装甲を貫通した砲弾の運動エネルギーはそこで尽きており、結局最舷側の非防護区画一つに破片をまき散らして終わった。
もちろん二番砲塔のバーベットには全く損害は与えられなかった。
そのお返しとばかりに放たれたヴィットリオ・ヴェネトの副砲は、ようやく15.2センチ砲弾を敵二番艦に命中弾を与えることに成功していた。
命中弾は一発のみだったが、ほぼ同様の砲弾が二発命中したヴィットリオ・ヴェネトよりも損害はむしろ大きいようだった。
艦容に比して巨大なリアンダー級軽巡洋艦の艦橋後部に命中した砲弾は、傍目には小さな穴を開けただけにしか見えなかったが、実際には射撃指揮装置とその操作員に致命的な損害を与えていた。
しかし、このヴィットリオ・ヴェネトと敵二番艦への命中弾は、艦自体への破局とは成り得なかった。
アルティリエーレへの命中弾はそれとは違っていた。
水柱が今度は、アルティリエーレの艦体を包むように発生していた。
ボンディーノ大佐は、確かにその水柱の中で赤く輝く直撃弾の命中を見たと思った。
わずかに遅れ、前方の水柱をかき分けるようにして現れたアルティリエーレの艦容は一変していた。
艦体中央部に命中した砲弾は、艦橋直後の煙突上部を吹き飛ばしていた。
その黒ずんだ煙からすると、その下の機関内部にも被害が出ているようだった。
更にその後ろの第一三連装魚雷発射管も損害を被っていた。
ただし、魚雷発射管内部の魚雷が誘爆する恐れはなさそうだった。
魚雷発射管は海中へともぎ取られて、その基部にギザギザの後のみを残して消え去っていたからだ。
探照灯の眩い閃光も消え失せていた。
煙突を吹き飛ばした砲弾か、あるいは煙突の破片によって艦橋構造物も滅茶苦茶に破壊されていた。
当然艦橋後部の最上部に設置されていた探照灯も何処かへと消え失せていた。
しかし、敵一番艦への探照灯照射は、ヴィットリオ・ヴェネトにとってもう必要ではなくなっていた。
アルティリエーレへの被弾の直後に、敵一番艦への命中弾が発生していたからだ。
炎に包まれつつあるアルティリエーレを沈痛そうな目で見ていたボンディーノ大佐は、更に大きな閃光の発生に気がついて、敵一番艦へとわずかに視線を動かした。
命中弾は二発だった。
一発目は第一砲塔直前にやや高めに命中した。
この距離にしては珍しく、水平甲板へと命中していたのだ。
ヴィットリオ・ヴェネトの高初速50口径38.1センチ砲弾は、この距離では極めて高い垂直装甲への貫通力を持つが、水平装甲の場合は、角度が浅いからはじかれる可能性が高くなる。
もっとも極めて貧弱な軽巡洋艦の装甲であれば高初速の低い弾道であろうがなかろうが関係はなかった。
船首楼甲板の舷側近くから、左舷に向けて斜めに突入した38.1センチ砲弾は、あっさりとその下の上甲板をも突き抜けて、ほとんど左舷へと突き抜けかけた所で炸薬へと点火した。
ヴィットリオ・ヴェネトにしてみれば、水平装甲への着弾はあるいは幸運であったかもしれない。
斜めと突き進むたびに運動エネルギーを失った砲弾が、敵艦内で炸裂したからだ。
艦首部の薄い水平装甲に着弾していた場合、あるいは反対舷へと突き抜けてから炸裂して、僅かな破片と大穴を開けるだけで終わっていたかもしれない。
しかし、艦内で炸裂した砲弾による被害は甚大なものとなった。
左舷側の水平線近くの船殻が、炸裂によって生じた膨大な内圧を逃がすために、舷外へと大きくめくれ上がった。
さらに、構造材も爆発の衝撃と、飛び散った破片によって損害を生じていた。
だから、亀裂は船殻から構造材へと一瞬のうちに拡大した。
ほとんど最大戦速で前進していたリアンダー級の構造材はこの亀裂に耐えられなかった。
自らの推進力と炸薬のエネルギーによって敵一番艦の艦首は、主艦体と分裂し始めていた。
当然、艦首のあった区画からの膨大な水圧が第一砲塔バーベットを侵し始めていた。
浸水は言うまでもなかった。
だが、艦首部の分裂よりも、さらに大きな損害が一番艦を襲っていた。
二発目の命中弾の着弾点は、煙突後部のカタパルト直下の水平装甲だった。
その箇所は機関部を防護するために水平装甲で最も厚くなっている箇所だったが、この距離では600ミリを超える貫通力を誇るヴィットリオ・ヴェネトの38.1センチ砲にとって、リアンダー級の100ミリ程度の垂直装甲など紙のようなものだった。
それでも信管を作動させるには十分であったらしく、砲弾は、水平装甲を貫いて、缶室内部で炸裂した。
砲弾の炸裂によって、その缶室のボイラー全てが破壊されていた。
一瞬の内に破壊された蒸気配管から漏れ出した水蒸気によって機関部の将兵は全滅したが、それよりも早く、炸裂の衝撃で歪んだ艦底部から吹き出した海水が、未だ高温を保つボイラー内部の構造材と接触して水蒸気爆発を引き起こした。
ボンディーノ大佐は、一瞬の内に、艦首部が離脱し、艦中央部で大爆発を起こした敵一番艦を唖然とした表情で見ていた。
信じられないことに、爆発の衝撃でカタパルトと搭載艇引き上げ用のクレーンがくるくると空中を舞い上がっていた。
その吹き上げられた敵一番艦の部材が、海面に落下するよりも早く、一瞬呆気に取られていたボンディーノ大佐は我に返っていた。
自然発生的に、艦橋では歓声が沸き起こっていた。
だが、ボンディーノ大佐はその歓声に加わることなく、命令を周囲の歓喜の声よりも響くような大声で叫んだ。
「主砲目標変更敵三番艦、副砲はそのまま敵二番艦へ射撃続行。左舷探照灯照射初め、目標、敵三番艦」
ボンディーノ大佐が命令を言い終えた直後に、敵艦からの着弾がヴィットリオ・ヴェネトを襲った。
周囲に上がる水柱に混じって、艦橋直前の第二砲塔に命中弾が発生していた。
だが、分厚い砲塔装甲に命中した英15.2センチ砲弾は、赤い鍛造痕だけを残してあさっての方向へと跳ね飛ばされていた。
それを見ると、ボンディーノ大佐は壮絶な笑みを見せた。
確かにヴィットリオ・ヴェネトが受けた命中弾は多かったが、致命傷はまだ一発も受けていない。
だが今の敵一番艦の様子をみるまでもなく、ヴィットリオ・ヴェネトの主砲弾は一撃で敵巡洋艦を葬る威力があった。
アルティリエーレは大損害を被ったようだが、それに代わってヴィットリオ・ヴェネトの探照灯が敵艦を照らし出すことができる。
このまま押しこめば敵艦全てを撃沈するのも不可能ではなかった。
だが、ヴィットリオ・ヴェネトの探照灯の照射は、敵三番艦の舷側を照らし出すことは出来なかった。
それよりも早く、残存する敵艦二隻は、沈みゆく一番艦を放置して、大きく回頭して逃げ出そうとしていた。
探照灯の閃光は、逃げ出そうとする敵三番艦の艦尾に向けられていた。
もちろん、ボンディーノ大佐は、敵艦を逃がすつもりはなかった。
リアンダー級軽巡洋艦は確かに高速だが、ヴィットリオ・ヴェネトも平水面であれば30ノットを発揮する高速戦艦なのだから、追撃戦は不可能ではない。
幸い、後続するアルティリエーレは最大戦速を発揮するのは不可能だが、航行そのものは不可能ではなさそうだった。
だからボンディーノ大佐は、アルティリエーレに損害復旧を命じ、後置して単艦での追撃戦に移行しようとしていた。
しかし、ボンディーノ大佐が逃げ行く敵艦の艦尾を睨みつけながら、具体的な命令を下す前に、右舷見張り員からの悲鳴のような報告が上がった。
「駆逐艦二隻、右舷より急速接近、艦種不明」
慌てて、ボンディーノ大佐も右舷へと顔を向けた。
確かに艦種はよくわからなかった。
敵駆逐艦二隻は、横陣でヴィットリオ・ヴェネトにまっすぐ艦首を向けて突進していたからだ。
この距離からでも、高速航行によって起こる白い艦首波がよく見えるほどだった。
間違いなく、敵駆逐艦は、魚雷による襲撃機動をとりつつあった。
おそらく、相手からは、燃え盛るアルティリエーレや敵一番艦の反照によってヴィットリオ・ヴェネトが浮かび上がって映っているのではないのか。
夜間とは思えないほど、敵艦の襲撃軌道にぶれは全く見られなかった。
しかも、敵駆逐艦は、艦首の砲塔から次々と砲弾を放ちつつあった。
その連装砲塔から、敵艦がトライバル級だとボンディーノ大佐は判断したが、相手がもっと旧式の駆逐艦であっても危険度は大して変わらないのではないのか。
敵巡洋艦を逃がすために突撃に移ったであろう敵駆逐艦の目標は、ヴィットリオ・ヴェネトだけではなく、動きの鈍ったアルティリエーレも含むだろうからだ。
むしろ、ヴィットリオ・ヴェネトをここで足止めするには、僚艦であるアルティリエーレを狙ったほうが有効かもしれなかった。
ボンディーノ大佐が、素早く追撃を撃ち切って、敵駆逐艦の追撃を撃退するのを決意したからだ。
ヴィットリオ・ヴェネトに命中弾を与えるだけに、ここまで奮闘してくれたアルティリエーレとその乗員を見捨てることは出来なかった。
「先の命令取り消し、右舷の探照灯のみ照射初め、目標敵駆逐艦…どちらでも構わん、主砲、右舷副砲、高角砲砲撃初め、主砲は当てんでもいい。敵艦前方に打ち込んで航路をねじ曲げてやれ」
早くも艦橋から見える、1,2番主砲塔が、ゆっくりと右舷に向かって旋回を開始していた。
いまだヴィットリオ・ヴェネトの戦闘は続いていた。