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1935建艦計画変更始末

 1


 海軍艦政本部から、三菱重工長崎造船所に最上型軽巡洋艦5番艦の主席監督官として、派遣されていた大佐の下に軍令部から電話があったのは昭和10年の初めの頃だった。

 だが、電話を受けた大佐は、首をかしげながら話を聞くことになった。

 電話の相手が言っているのは相当に奇妙なことだったからだ。その相手は軍令部に所属する海軍兵学校の同期生だった。

 彼は、長崎造船所で行われている新船渠の拡張工事を、主席監督官として三菱長崎造船所に要請して一時停止しろといっていた。


 そのころ海軍休日と呼ばれる軍縮条約時代が終わろうとしていた。正確に言えば条約の失効は1935年のことだった。

 もちろん、それは1930年に批准されたロンドン軍縮条約の期限が切れるというだけにすぎない。

 だから実際には、その前後から列強各国によって軍縮条約の延長が協議されることになるが、ワシントン軍縮条約から続く軍縮条約のさらなる延長が、実際になされるかどうかは不透明だった。


 数年前に、ドイツ共和国首相の座についたヒトラー首相によってジュネーブ軍縮条約からドイツは脱退していた。

 また、その直後に国民投票での大多数の支持を受けたヒンデンブルク大統領とヒトラー首相は、国際連盟からのドイツの脱退を宣言していた。

 条約の制限下にあるとはいえ、巨大な戦力を誇るイギリスやフランスに対して、現状でまるで大人と子供のような力関係にあるドイツが、それに拮抗できる戦力を整備することが出来るとは思えないが、そうであればこそ足かせとなる軍縮条約の破棄に踏み切ったのかもしれなかった。

 今のところ、ヒンデンブルク大統領らは、ドイツ国内で未だに強い勢力を持つ軍部に対する求心力を発揮させるために軍縮条約の脱退を制限したと推測されていた。

 だが、日本国の意思とは関係なしに、欧州での政治情勢が大きく変化しており、それは欧州列強のパワーバランス、ひいては軍事力の再編成をも予感させるものだった。

 このような状況では新たな軍縮条約を締結することには各国も二の足を踏むのではないのか、そう推測するものは少なくなかった。



 長崎造船所でも軍縮条約の失効を見越して船渠の拡大工事に入ったところだった。

 軍縮条約が破棄された場合、新たに建造されるであろう新造戦艦は、条約時代に開発された新技術がつぎ込まれた基準排水量で四万トンを越える大型艦になるだろうといわれていたからだ。

 現在日本海軍に所属する戦艦のうち、最新鋭である長門型は条約の制限上排水量三万トンをやや超える程度におさめられているが、条約破棄を見越した改装計画では、四万トン近くになるだろうと想定されているらしかった。

 だから新造戦艦の排水量が四万トンというのは予想としてはおとなしい方だった。

 というよりも、16インチ主砲を装備した上で、攻防速のバランスを取った戦艦を三万五千トンという軍縮条約の規定内に収めるのは実質上不可能だったのだ。

 だから、想像力豊かなもののうちには、日本海軍の個艦優越主義を理由に挙げて、新造戦艦の排水量は五万トン位にはなるのではないかというものもいた。



 長崎造船所では、いずれ来るであろう新造戦艦に関する海軍からの要求を見越して船渠の拡張工事を行っていたのだ。

 行われているのは単純な船渠の新設だけではなく、建造船渠周囲のクレーン揚力の増大を含む大規模なものになる予定だった。

 この船渠自体は計画段階で破棄された八八艦艇計画に伴って建造されていたものだったが、現状では長門型の入渠で手一杯となるサイズだった。


 軍令部からの要求ではその拡張工事を中断してほしいというのだ。

 だが拡張工事を行わなければ、現在の造船所で建造できるのは最大でも長門型程度の戦艦になってしまうだろう。

 建艦思想に急な変化でも現れない限り、建造可能な船体の規模は変わりようがないから、この事実に代わりは無いはずだ。



 電話を終えた大佐は判断に困る表情をしていた。

 艦政本部から出向している大佐に軍令部が命令を下すことは出来ない。

 だからあくまでも今の電話の内容は要請ということになる。

 それに造船所の監督官に、軍令部が口を出してくるというのは明らかに職務を逸脱する越権行為であるとも言えた。

 本来であればそのような命令は軍政を担当する海軍省隷下の艦政本部からくだされるはずだった。

 第一、たしか今の相手の所属は、情報を担当する軍令部第三部だったはずだ。

 本来、新造艦に関する要求などは軍備を担当する第二部から出るはずだった。


 しかし海軍艦艇を実際に設計し、建造に携わる行政を行うのは艦政本部であるにしても、それを要求、認可するのは軍令部の仕事だ。

 もしかすると軍令部第三部では何らかの新造艦に関する情報を入手しているのかもしれない。

 実際に新造戦艦の規模が長門型程度の排水量におさまるのであれば、拡張工事は無駄に終わってしまうだろう。

 拡張工事自体は長崎造船所の自社事業ではあるが、拡張工事にかかった費用は、いずれ新戦艦建造価格の上昇という形で国費に跳ね返ってくるのだ。

 これが拡張された船渠でないと建造できない大型艦に使用するのならばまだ意味もあるが、現状の船渠でも建造できるサイズの戦艦を建造するのであれば、拡張工事分の価格上昇は単なる無駄にしかならない。


 つまり、この電話を単純に越権行為であるといって無視するわけにもいかなかった。

 だからといって、ここで拡張工事を中断してしまうとその後の建造計画は大きく狂ってしまうだろう。



 しばらく悩んでから大佐は別の同期生に電話をかけた。軍令部が何故こんな要請を出したのか知りたかったからだった

 一体、海軍の艦政に何が起ころうとしているのか、それが知りたかった。

 畑違いなのはその同期生も一緒だったが、彼は自分などよりもはるかに行動力があるし、それにある意味における政治力は、一監督に過ぎない自分とは比較にならない。

 どうにかして情報を掴んできてくれるだろう。



 2



「建艦計画が大きく変更されたという噂は本当か」

 艦政本部の施設が入った海軍省の廊下で、唐突に背後から声をかけられた宮元造船中佐は、慌てて振り返った。

 いつの間にか近づいていた声の主は、宮元中佐のすぐ後ろにたっていた。


 声の主である伊原大佐は、硝煙と汗の染み付いた陸戦衣を着込んだまましかめっ面をしていた。

 確か伊原大佐は、去年昇進してすぐに横須賀鎮守府付から古巣であるシベリア駐留特別陸戦隊に異動になったはずだった。


 日本海軍が、将官クラスを指揮官とする大規模な常設の特別陸戦隊をシベリア−ロシア帝国に駐留させるようになってから、すでに十年以上が経っていた。

 それに付き合わされるように、日本陸軍も一個師団を基幹とするシベリア派遣軍を駐留させていたから、日本軍全体がシベリア―ロシア帝国に派遣している戦力は二個師団弱という大規模なものとなっていた。



 伊原大佐は、シベリア特別陸戦隊が編制される以前から、シベリア―ロシア帝国に駐留する陸戦隊に一貫して所属し続けていた古強者だった。

 というよりも、伊原大佐自身が、日本海軍がシベリア―ロシア帝国に特別陸戦隊を駐留させざるを得ない状況を創り上げた一人だったのだ。


 元々日本海軍は、欧洲大戦への介入前までは陸戦隊をさほど重視していなかった。

 帆船時代のような斬り込み戦術を行うのでもない限り、大規模な陸戦部隊を海軍が抱え込む必要性はさほど無かった。

 欧州大戦時に大規模な陸戦隊が編成されたのも、元々はガリポリへの上陸時にいち早く橋頭堡を確保するために編成されたものが、ズルズルと解隊されないまま常設化してしまっただけだと明言するものもいた。

 欧洲大戦終結時点の日本海軍は、いつの間にか大規模になってしまった陸戦隊を、平時においては、大戦で得た貴重な戦訓を維持し続けるための教導部隊的な性質をもつ小規模なものへと縮小させる方針だったらしい。

 部隊の核となる下士官を多く集めた教導部隊さえいれば、有事の際に短期間で再び大規模な部隊を編成するのは難しくないはずだった。

 十分な教育を受けた士官や下士官達を中核として、動員された兵員を指揮させれば精強な部隊を編成することが出来るからだ。



 だが、このような海軍の方針は、シベリア出兵に参加した小規模な陸戦隊が上げた成果によって大きく狂わせられることとなった。

 伊原大佐が当時所属していた陸戦小隊を含む特別編成の戦隊が、シベリア地方まで脱出してきたロシア皇帝の遺児であるマリア皇女とアナスタシア皇女を救出することに成功したのだ。

 この成功自体は、海軍にとって、ボルシェビキゲリラの鎮圧に成果をあげていた陸軍に対しても誇りうる大きな成果だった。

 しかし、その代わりに日本海軍にシベリア―ロシア帝国への関与を強要される切っ掛けともなった。


 マリア皇女が女帝として即位したシベリア―ロシア帝国は、その成立直後からボルシェビキが支配するモスクワ政府との内戦を余儀なくされた。

 1920年代にはバイカル湖周辺が、シベリア―ロシア帝国とソビエト連邦との事実上の国境として固定化されたが、それが危うい均衡によるものであるのは間違いなかった。

 これに対して日英を始めとする国際連盟諸国は、ロシア帝国への軍事援助を惜しまなかった。

 彼らにとって、シベリア―ロシア帝国は、異質の政治体制であるソビエト連邦に対する防波堤であったからだ。


 シベリア―ロシア帝国に対する援助は軍事的なものには限らなかった。

 援助というのには語弊があるが、1922年には、イギリスは欧州諸国の王族とも血縁関係を持つルイス・マウントバッテン卿を、マリア女帝の王婿として婿入りさえていた。

 これにより、イギリスはロシア帝室を見捨てないという政治的なメッセージを送ったとしても過言ではなかった。

 また、遠隔地故にイギリスは、直接の戦力をロシア帝国に派遣することはなかったが、最新の技術や金融関係でロシア帝国を援助していた。


 これに対して、日本国は、近接する隣国ゆえか直接的な兵力の派遣に踏み切っていた。

 というよりも、ロシア帝国の方から、皇族救出に功のあった日本海軍陸戦隊の駐留継続を打診してきたのだ。

 勿論、シベリア―ロシア帝国をソビエト連邦に対する緩衝地帯として維持し続けたい日本国政府はその条件を飲んでいた。

 政治的には勿論、シベリア―ロシア帝国は日本製の兵器を大量に輸入する貴重な顧客でもあったから、財政界からも軍事力の展開によるシベリア―ロシア帝国の支援は強く支持されていた。



 日本海軍が特別陸戦隊を派遣する以上は、対抗上陸軍も師団級の部隊を派遣せざるを得なかった。

 かくして、陸海両軍あわせて二個師団規模にもなる大規模なシベリア派遣軍が編成された。

 勿論、シベリア派遣軍の規模は、平時におけるものでしかなかった。

 海軍シベリア特別陸戦隊は、ほぼ編制通りの充足態勢だったが、陸軍がウラジオストックに駐留させている第二十師団は、各連隊共に大隊単位の欠員があった。


 だから、いざバイカル湖で大規模な兵力衝突が起こる際には、陸軍はさらに数個師団を内地からシベリア―ロシア帝国に派遣する態勢を整えていた。

 そのために、初の陸海軍共同部隊となったシベリア派遣軍司令部は、平時に有する戦力は海軍シベリア特別陸戦隊と陸軍第二十師団でしかないのに、有事の移動が難しい補給部隊や派遣軍直轄の砲兵などは平時から充実させていた。

 その中には、日本陸軍砲兵の虎の子とも呼ばれる列車砲まで含まれていた。



 こうして日本海軍にしてみれば、政治上の利害関係から強要されたような形で始まった特別陸戦隊の編制であったが、否応もなく始まった長期の駐留は、海軍に独自の軍警察である警務隊の編制を強要させるなど、組織の再編成を促す切っ掛けともなっていた。

 陸軍によらない軍内部犯罪の摘発を目的として編制された海軍警務隊であったが、編制開始から十年近くが経った今では、独自の諜報網を有する、陸軍憲兵隊と並ぶ情報組織へと成長した。


 ただし、日本海軍の主力戦闘部隊が戦艦を基幹とする連合艦隊にあることは今も昔も代わりはない。

 艦隊勤務者がシベリア特別陸戦隊に向ける目は冷ややかなものだった。

 国策と化したシベリア―ロシア帝国への支援そのものに対して露骨な批判を加えるものは少なかったが、若手士官達にとってシベリア特別陸戦隊への辞令が左遷と同義語である事実に変わりはなかった。


 日本海軍の上層部が伊原大佐に向ける視線は、さらに複雑なものだった。

 伊原大佐が皇女達を救出した功績は大きいが、彼のせいで大規模な陸戦部隊を抱え込む羽目になってしまったのだともいえたからだ。

 だから、伊原大佐が日本海軍の主流である艦隊勤務や連合艦隊司令部といった司令部参謀へと転任する可能性はなかった。

 ロシア皇帝から直接勲章を賜った英雄を海軍から追い出すことはできないが、彼の居場所がシベリア特別陸戦隊にしか無いのも事実だった。


 奇妙なことに、後発であるはずの陸軍の若手士官達の間では、シベリア派遣軍司令部直轄部隊や、第二十師団への転属は決して悪いコースではなかった。

 通常陸軍部隊は、編制地付近の出身者が所属する郷土部隊制度をとっているが、駐屯地がウラジオストックにある第二十師団は、近衛師団などと同様に日本全国から集められた将兵で編成されている。

 元々朝鮮半島で編制が開始された第二十師団は、その当時から実際には駐屯地ではない日本本土から補充されていたのだが、ウラジオストックという間違いようもない外地に駐屯するようになって、その傾向は完全に固定されていた。

 だから、第二十師団には志願した将兵も多く、外地に展開すること手当も大きかったから、士気や練度は本土に駐留する部隊と比べても高かった。

 日本政府がシベリア―ロシア帝国への支援を本格化するにあたって、その派遣軍も重要度が高まっていったから、士官級の将校にとっても、シベリア派遣軍への転属は一種のエリートコースとなっていたのだ。


 同じシベリア派遣軍に戦力を展開させてはいても、陸軍と海軍、さらには海軍本流とシベリア特別陸戦隊との間には、長い駐留期間の間にかなりの温度差が生じていた。



 3



 宮元中佐は、伊原大佐に、恐る恐る声をかけた。

 伊原大佐は性格ゆえか、いつも単刀直入に本論へと斬り込んでくるから、下手な事を言えば、すぐさま不機嫌になってしまうのだ。


「大佐は…シベリアにいたのではないのですか」

 伊原大佐は、しかめっ面のまま陸戦衣に縫い付けられているシベリア特別陸戦隊の隊章を言わずもがなと言いたげな様子で示しながらいった。

「シベリア帰りだ。内地には今日の朝ついたばかりで、特急を乗り継いで東京に着いたのは一時間前になる。…それで、建艦計画の変更とはなんなのだ」

 声はぶっきらぼうだったが、機嫌が悪いわけではなさそうだ。

 長い付き合いからそれを悟った宮元中佐は胸の中でそっとため息をついた。

 常にしかめっ面をしているせいで勘違いされやすいが、普段の伊原大佐は別に付き合いにくい性格というわけではなかった。

 しかし通常軍衣の勤務者ばかりの艦政本部の中では、陸戦衣を着込んだ伊原大佐は目だってしょうがなかった。

 別に探られて痛い腹があるわけではないが、シベリア帰りの大佐と密談するなどという妙な噂を立てられては面倒だった。

 しばらく周囲を見渡した宮元中佐は、空き部屋に伊原大佐を引き釣り込むようにして入れていた。



 部屋に入るなり、宮元中佐は伊原大佐に負けず劣らずのしかめっ面を作り上げると伊原大佐を質した。

「建艦計画の変更などという話は一体どこから聞き込んできたのですか」

 その話はまだ軍令部の一部と艦政本部にしか伝わっていないはずだった。

 情報の出所は外務省だが、まさかそんなところからロシア帝国とソビエト連邦との最前線にいた伊原大佐に話が伝わってきたとは思えなかった。

 いくら長い付き合いの友人であるとはいえ、軽々しく話せる内容の話でもなかった。



 だが伊原大佐は何でもなさそうに返した。

「民間の造船所に監督官として派遣された同期の奴からそれとなく探ってくれといわれてな。やはり計画変更は本当なのか」

 それを聞くなり、宮元中佐は眉をしかめた。

 おそらく民間の造船所とは三菱の長崎造船所のことだろう。

 建造予定の新造戦艦は、呉海軍工廠と三菱重工長崎造船所で同時に起工する計画があったからだ。

 まだ計画変更の話は造船所にまでいっていないはずだったが、軍令部かどこかかから話が漏れたのかもしれない。

 三菱重工長崎造船所では、それに合わせて拡張工事を実施してるという話だったから、その流れから漏洩したのかも知れなかった。

 そこまで考えると、宮元中佐はため息をついていた。

 このように畑違いの大佐にまで話が伝わるくらいだから、すでに機密は有名無実と化していると考えるべきかも知れなかった。

 むしろ、すでに海軍内部に正確な情報を伝達すべき時点に達しているのかもしれない。

 不確かで曖昧な情報が伝わるよりも、そちらのほうが混乱は少ないのではないか、そう考えていたからだ。


 しかし伊原大佐は何故建艦計画に興味を示したのだろうか、それが宮元中佐の新たな疑問だった。

 兵学校卒業から経歴のほとんどを陸戦畑で過ごしてきた伊原大佐と、軍縮条約が破棄されるにせよ、継続されるにせよ建造されるであろう新造戦艦のイメージがどうしても結びつかなかった。

「いいでしょう。建艦計画の変更については他言無用という条件で説明します。そのかわり大佐が何故戦艦の建造計画に興味を持ったのか、教えてくれますか」

 しばらく伊原大佐は珍しく戸惑った顔をしたが、最後には無駄に重々しくうなずいた。

 その建造所にいる大佐の同期生には少なくとも話は伝わってしまうだろう。

 宮元中佐は、再びため息をつくと話し始めた。



「最初に大佐にお伺いしますが、軍縮条約の延長に関する会議がジュネーブで行われているのはご存知ですか」

 わずかに身じろぎしてから伊原大佐がうなずいた。

「ワシントン軍縮条約の延長だったかな。軍令部やGF司令部の一部は条約延長に反対しているとかいう噂は聞いたことがある」

「それが一転して条約の延長に賛成する将官が増えているそうです。いまだ決定はされておりませんが最終的には海軍も総論として軍縮条約の延長に賛成するという形になると思います」

「それは…一体何があったのだ」

 伊原大佐は驚いた顔をした。



 元々ロンドン、ワシントンと続いた海軍軍縮条約に反対する勢力は大きかった。

 軍縮条約で課せられた対米比七割に制限された戦力では、仮想敵である米国海軍の本格的な交戦に不利であったからだ。

 特に軍令部員には軍縮条約に反対するものが多く、艦隊派として、軍縮条約が締結された後も、条約に反対し続けて破棄を訴えているらしい。


 だが、軍縮条約締結当時も海軍中枢から遠く離れたシベリアにいた伊原大佐に入ってきた情報からでも、艦隊派の主張には無理が有ることは明白だった。

 彼らは八八艦隊計画のような軍備拡張計画を支持していたが、これは相当に無茶のある計画だった。

 八八艦隊計画は、建造費だけで当時の国家予算の1/4を使う物になっていたという。

 勿論艦隊はただ建造すれば良いというものではなく、建造した艦にはしかるべき教育を受けた人間が乗員として必要だったし、維持に係る予算も膨大なものになったはずだ。


 海軍予算の増大と、これによる国家経済の圧迫は、日本一国だけではなく、程度の大小はあっても、米国や英国でも同様であった。

 そのまま漫然と軍拡を続けてれば、各国共にいずれ経済が破綻し些細な切っ掛けから戦端が開かれていたのではないのか。

 それを防いだだけでも軍縮条約の意義は極めて大きかったはずだ。



 確かに対米比では日本海軍の戦力が制限されたのは確かだが、軍拡を阻止されたのは米海軍も同様なのだし、シベリア―ロシア帝国という共通の支援対象をもつ英国とは一蓮托生ともいえる日本が、ただ一国で米国との戦争に突入する可能性は極めて低かった。

 だから、実際には対米比の戦力は、日米で7対10ではなく、日英と米とで17対10とも言えるから、日本海軍が、太平洋と大西洋の両海洋に戦力を分けて展開させなければならない米国海軍に対して一方的な不利とは言えなかった。


 当時の艦隊派は、欧州大戦を契機に大きく飛躍した日本経済をすれば、大規模な軍拡を続けることも可能だとしていたが、伊原大佐の目には現実を無視した空想的な文句としか思えなかった。

 確かに日本経済は空前の好景気を示していたが、それはあくまでも欧洲大戦という戦争による特需効果にすぎない。

 実際に輸出されている品目は圧倒的に軍需物資ばかりであり、それは大戦の終結と同時に需要が著しく低下していたのだから、下手をすれば逆に戦後恐慌に陥る可能性も高かった。

 当時の大蔵大臣による内需の拡大や、シベリア―ロシア帝国という新たな軍需輸出先の出現がなければ、実際に大規模な不況へと突入していたのは間違い無いところだという経済学者は少なくなかった。


 艦隊派は、八八艦隊構想で建造されていた艦艇の廃艦こそ予算の無駄使いではなかったかと指摘していたが、伊原大佐には必ずしもそうは思えなかった。

 条約の規定によって保有量を越えてしまった艦艇の少なからぬ数が、シベリア―ロシア帝国を始めとする友好国に売却されて外貨を稼いでいたし、巡洋戦艦として建造されていた天城と赤城は揃って空母改装されている。

 純粋に廃艦となった加賀、土佐の2戦艦も実艦砲撃標的となって、平時では得られない貴重なデータを提供してくれた。

 この砲撃実験はかなり込み入ったもので、加賀と土佐の艦内には、乗組員を想定して豚などの獣を配置して、生物に対する砲撃の影響を観測することまで行われたと聞いていた。

 だから、廃艦とはなっても、この2戦艦は日本海軍に多大な貢献をしたことは間違いなかった。



  4



 しかし、軍縮条約の失効を直前として、条約の延長に反対する艦隊派の勢いが再び拡大してきているらしい。

 軍縮条約が締結された当初とは、軍事予算を支える日本経済はさらに進捗しているから、米国海軍に対抗するだけの大艦隊を無理なく揃えることは決して難しくはない。

 対米比は英国と共同で当たればこちらが有利というが、米海軍はパナマ運河を利用して自在に短時間で戦力を移動させることが出来る。

 だから、実際に対米比は七割で考えるべきだというのだ。

 軍令部総長の座につく伏見宮博恭王を始めとする艦隊派はそう訴えているという。

 実戦経験をもつ皇族将官という伏見宮を筆頭にいただく艦隊派の勢力は大きく、その主張は極めて強かった。


 だから、伊原大佐でなくとも、その艦隊派の主張を抑えつけて、軍縮条約延長に踏み切る可能性が高いという話に驚くのは無理もなかった。

 下手をすれば、条約延長に賛成する条約派によるミスリードを狙った怪文書ではないのかと疑われてしまうだろう。


 宮元中佐は、困惑顔の伊原大佐に軽くうなずくといった。

「何でも外務省ルートで英国からの申し入れがあったという情報が入ってきたのです」

「英国から…だと」

 伊原大佐は、しばし首をかしげた様子だったが、ふと合点が行ったような顔になった。

「ということは英国から日本海軍の制限を緩めるための支援があるということなのか」

「そうだと思います。英国としては軍縮条約を延長することで海軍予算を抑制したいという狙いがあったのでしょう。

 具体的には、帝国の海軍力を対米英比で現在の五対三から五対四とすることに協力するというものだったらしいです。

 まぁロシア帝国と中華民国への武器輸出は順調ですから、今の帝国には無理をしなくともそのぐらいの艦艇を整備できるだけの鉄鋼生産量はあるといえます」


 そこで言葉を切ると、宮元中佐はここから先は私見ですがと言ってから続けた。

「英国にしてみれば、ここ最近の米ソ間の接近に脅威を感じているのかもしれません。

 数年前に外務委員のトロツキが渡米したのは大々的に報道されていましたが、最近確認されたソ連海軍のキーロフ級重巡には、明らかに米国の技術支援の影響がみられるそうです。

 このまま米国の支援によってソ連が軍拡に転じれば、英国は米ソによって包囲されてしまうのではないのか、そのような観測もつよいのではないでしょうか。

 だからこれに対抗するために我が方の陣営も強化する必要がある、具体的には日本海軍を増強することによって太平洋側から米国を牽制する…英国の考えはこのようなものなのではないでしょうか」

「だが、米国が日本海軍の増強を黙って許してくれるかな、米国にしてみれば、逆に日英によって包囲されるように感じているのではないのか」

 宮元中佐は、苦笑しながら答えた。

「どうでしょうね、そこまで行くと我々の判断できる範囲を超えてしまいますが、英国にしてみれば、米国による対ソ支援を攻めつづけていればいずれ米国は折れると考えているのかもしれません。

 米国にしてみても、日英が揃えて軍縮条約を脱退して軍拡に転じるよりもは、日本海軍の戦力拡大を制限したほうがまだ有利と判断するかもしれませんし」



 伊原大佐はそこまで聞くと、納得したように何度か頷きながら言った。

「なるほどな…いずれにせよ条約が延長されれば実質上は対米比八割ということか、それで艦隊派を納得させられるな。これで条約は延長ということになるのか」

 宮元中佐は、そこで苦笑いしながらかぶりをふった。

「それが面倒な話になっているそうです。艦隊派では条約に縛られない大型戦艦を欲する一派がまだあるそうです。なんでもその戦艦は六万トンを越える大型戦艦になるとか言う噂があります」

「軍縮条約では戦艦の上限は…」

「排水量三万五千トン、16インチ以下ということになります」


 眉をしかめた伊原大佐を横目で見ながら、宮元中佐はさらに続けた。

「艦隊派がまだ何を言うか分かりませんが、おそらく条約は延長されるでしょう。

 その場合帝国海軍は三万五千トン級戦艦を三隻新造するということになるでしょう。

 また旧式艦の代艦建造も許可されるという噂ですから各国三乃至四隻がさらに代替として建造されることになります」


 伊原大佐は、また難しい顔になりながら旧式艦の顔ぶれを思い浮かべた。

 おそらく代艦を建造されるのは最も旧式の金剛型ということになるだろう。

「ということは合計で七隻程度が建造されるということか」


 宮元中佐は軽くうなずいてから記憶を確認するようにいった。

「新型戦艦は新造三隻と練習艦となっている比叡を除いた金剛級の代艦で三隻、計六隻が建造されるという計画です

 このクラスだと呉工廠、三菱長崎造船所、横須賀工廠あとは川崎造船神戸で建造が可能ですから同時に三隻を起工するという、まぁここまでくると単なる構想段階ですがね

 それに戦艦だけ造ってもバランスの悪い艦隊になってしまいますから巡洋艦や駆逐艦、それに空母もやはり建造されるでしょう

 これによって帝国海軍は一回り艦隊規模を…大佐?」

 伊原大佐は頭を抱えながら近くのいすに座り込んでしまった。宮元中佐は慌てて大佐のそばに近寄った。



「何てこった…それじゃしばらく予算は建造費に持っていかれてしまうではないか」

 意気消沈した様子の伊原大佐に、宮元中佐は首をかしげながら恐る恐るたずねた。

「大佐は…何故建艦計画の変更に興味を示したのですか…」


 それこそが宮元中佐が抱いた疑問だった。

 陸戦畑を進んできた伊原大佐と、戦艦の建艦計画はあまりにもイメージが重なり合わなかったからだ。

 伊原大佐は、やる気のなさそうな顔を上げるとぼそぼそといった。

「いや、新戦艦が小さくなるのならその分の予算を陸戦隊にもらえないかどうかと思ってな…だが艦隊の規模を大きくするなどというつもりなら期待は出来んだろうな」

「陸戦隊の予算をですか…しかし何か予算が必要なものがあったのですか。それほど大きなものでなければ今の海軍予算なら通るでしょう」

 宮元中佐は首をかしげた。

 政治的には傍流だが、シベリア特別陸戦隊の予算規模は決して小さいものではなかったはずだ。


「必要なものは…戦車だ。それも警備や捜索用の軽戦車では話にならない。装甲と火力を併せ持った戦車でなければならんだろう」

 宮元中佐は呆気にとられた。そんな戦車が海軍に必要だとはとても思えなかった。


 確かにシベリア出兵とシベリア−ロシア帝国の成立以来、常設の特別陸戦隊の増勢が行われてはいたが、基本的に陸戦隊は要地警備や海外邦人の救出が任務なのだ。

 重量級の戦車ではそのような任務を行うのは難しいだろう。

 それどころか輸送などの運用面での問題が多すぎて部隊の足を引っ張ることになるのではないのか。

 宮元中佐は造船が専門で、陸戦はあまり詳しくは無いが、それぐらいは予想できた。


 だがそのことを質すと伊原大佐はなんでもないようにいった。

「それは認識がいささか不足しているな。最近のソ連軍は機甲化を進めようとしている。国境紛争などの最前線で戦うとその雰囲気が感じられるよ」

「ソ連軍の戦車ですか…」

「うむ。国境紛争などででてくるのは軽量のBT戦車だが、彼らは戦うたびに確実に戦訓を得ている。我が陸軍やロシア帝国軍も八九式中戦車を投入してはいるが、いかんせん機動力に劣る八九式では防衛は出来ても高速のBT相手では追撃戦は出来ん。

 陸軍さんだって戦車部隊の数は限られている」

「それで陸戦隊でも戦車をということですか…しかし実際のところ陸戦隊は軽装備によって機動力を高めているのではないですか。

 戦車などの重装備を部隊に持たせた場合、肝心の機動力を低下させることにはなりませんか」

 伊原大佐は眉をしかめた。それからしばらく考え込んでからいった。

「必ずしもそうとはいえないのではないのか。例えばその装備すべき戦車だが装甲と火力、機動力を併せ持った設計を行うことは不可能ではないはずだ。

 それにこれからは内燃機関の時代となるはずだ。

 アメリカではすでに自家用車が珍しくないらしい。帝国でもこれからさき民間でも自動車の保有数が増えてくるだろう。

 第一、すでに陸軍では重砲はトラクターで牽引しておるんだ。

 陸戦隊でも戦車だけではなく部隊全体の機械化率を高めることで機動力を高めるという手法をとるべきだろう」


 宮元中佐は再び呆気にとられた。どうみてもそんな重装備は陸戦隊には不釣合いだ。

 それに常設の特別陸戦隊ならばともかく、艦隊が臨時に編成するような陸戦隊ではそんな装備は不可能だ。

「常識的に考えてそれほどの重装備では陸戦隊の任務を果たすことは出来ないのではないですか…

 そんな装備を抱えたままでは警備任務や上陸戦など不可能です。そのくらいならば対戦車兵器を充実させたほうが効率が良いのではないでしょうか」

「別に艦隊陸戦隊まで重武装しろといっておるわけではないんだ。特別陸戦隊向けだけでも重装備を揃えるべきだ。

 それに簡便な対戦車兵器の充実は確かに不可欠だがな、よく考えてみろ。今でさえ速射砲は馬匹で牽引しなければならんのだぞ。

 この先、さらに重装甲になってくる戦車を撃破できる速射砲が要求されるだろうが、それは馬で引っ張れるようなものではなくなる。

 そんな大型火砲を運搬する為にどんどん大型化していくトラクター…それくらいなら最初から戦車を運用したほうがマシだ。

 現実的にいって最も有効な対戦車兵器は戦車だよ」

 宮元中佐は伊原大佐の言うことに一応は納得できたものの、釈然としない思いは残った。やはり機動力を重要視される海軍陸戦隊にはそんな重装備は認められないのではないのか。そう思っていた。


 だから、伊原大佐がふと気がついたように自分のことを見つめてこういったのには閉口した。

「そうだ、貴様その海軍戦車を設計してみないか。貴様は今戦艦を担当していると聞いたが、その戦艦が小さくなるなら設計家の数も少なくなるんだろう。

 ならその分貴様も手が空くじゃないか、その分を戦車の設計にいかしてみないか」

 これまでの憂鬱そうな表情が嘘であったかのように伊原大佐はにこにこと微笑んでいた。

「確かに予算は制限されるかもしれんが、試作車両を研究目的で作ることは出来るはずだ。いざとなったらそれを量産できるだけの体制だけでも今から整えておけばいんだ。

 考えてみれば平時から戦時標準規格船を研究しているのだってそういう目的なのだしな」

 宮元中佐は、呆れたような顔になっていった。いくら何でも伊原大佐の言っていることは無茶苦茶だった。


「いくら何でもそれは無茶でしょう。いや、試作車両の建造自体はできるかもしれませんよ」

 伊原大佐の政治的な権限、いやゴリ押しを前提とすればだが、宮元中佐は胸中でそう考えながら続けた。

「しかし私の専門は造船です。戦車どころか陸上兵器の設計などお門違いですよ」

 だが、宮元中佐は、伊原大佐がきょとんとした顔をしているのを見て絶句した。

 どうやら伊原大佐は本気で言っていたらしかった。

「だが、最初の戦車は陸上戦艦として海軍で考案されていたらしいぞ。それに戦車というものは、言ってみれば装甲で出来た箱に強力な大砲と内燃機関を押し込んだものだろう。

 そこだけとれば戦艦と一緒じゃないか。細かな設計手法は陸軍さんのものを転用すれば良いんだし、大砲や装甲板は海軍自前で調達できるんだから、後はそれを組み合わせればいいだけなんじゃないのか」

 宮元中佐は、本当に伊原大佐は戦車のことを理解しているのだろうか、ぼんやりとそう考えていた。




 まさかそれからすぐに、本当に伊原大佐によって自分が艦政本部から引きぬかれて、海軍技術研究所の別室扱いでシベリアに編制された戦車開発班の班長に任命されるとは思いもよらなかった。

 ましてや、艦政本部の上層部が、シベリア―ロシア帝国との関係が強すぎる伊原大佐と親しいという理由で、宮元中佐を特に引き止めなかったとは考えもつかなかった。

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