1942ベイルート航空戦6
ドヴォアチヌD.520に搭載された出力増強装置は、スイッチを操作して起動させてから実際にエンジン出力が上昇するまで若干の遅延時間があった。だから、プレー軍曹が認識した限りでは最初に発生した異変は自機の加速ではなかった。
唐突に目標の一〇〇式司令部偵察機のエンジンナセルから黒煙が吹き出していた。エンジン付け根付近から伸びた排気管群から一度勢い良く吹き出した黒煙は、すぐに主翼の上下面にそって流れ始めていた。
ここからではよくわからないが、エンジンナセル自身にも変化が生じているような気がしていた。巨大なエンジンナセルを含む主翼全体が微振動を始めたのか、ぶれて見え始めていた。
プレー軍曹は半ば呆然としながらも、異常な現象の正体にすぐに気がついていた。何故ならば、少しばかり始動するタイミングは遅れたが、ドヴォアチヌD.520も外部から観測すれば同じ現象を生じさせていることがわかっていたからだ。
エンジンの振動と排気に混じる黒煙は、出力増強装置を始動させたからに間違いはなかった。
ドヴォアチヌD.520に最後になって搭載されたエンジン出力増強装置の正体は、水メタノール混合液を吸気系統に噴射するものだった。正確には水と凍結防止用のメタノールを混合させた溶液を過給器出口で噴射するための過給器交換部品と、溶液を噴霧状で高圧で噴射させるための加圧ポンプ、溶液タンクなどの周辺機器を含めた総称だった。
原形となったドイツ製の機材には正式な名称は他にあるらしいが、今のところヴィシーフランス空軍に提供されてコピー生産されたものに個体としての名称は与えられておらず、ただ「出力増強装置」とだけ呼ばれていた。
撤去された燃料タンクの位置に配置されたタンク内には、急遽輸送されてきた水メタノール混合液が注入されていたが、さほど大きいわけではないタンクを含めても出力増強装置の総重量は百キログラムを超えており、整備兵達が必死になって行なった軽量化対策をほとんど無にしていた。
むしろ出力増強装置を機体バランスを変更せずに搭載するために、当座不要な機材を手当たり次第撤去したのが今回の改造工事の真相であったらしい。
そんな急場凌ぎの改造機に乗せられる搭乗員達にとっては気の滅入る話だったが、出力増強装置の効果自体は本物だった。装置自体はタンク内の混合液を加圧ポンプで過給器吸気配管内に噴射するだけなのだが、それだけでエンジン出力は明らかに向上していた。
出力増強装置作動中は、ポンプの作動によるものか、あるいはプロペラ回転数の上昇が原因なのかはよくわからないが、絶え間ない微振動と排気管から顕著な黒煙が排出されてしまうが、その程度でエンジン出力が目に見えて向上するのだから、ある意味ではプレー軍曹達が考えていた通りに魔法のようなものだった。
もちろん出力増強装置の原理は魔法などではなかった。
現在、各種航空機に搭載されているレシプロエンジンの多くには排気ガスのエネルギーを利用するものか、エンジンからの軸出力の一部を抽出して駆動する過給器が搭載されていた。
航空機のエンジン出力の増強や、飛行高度の上昇によって、無過給では機体に必要な推力を発生させる程度の燃焼に必要な酸素分子量が確保できなくなっていたからだ。そこで過給器によって取り込まれた空気は圧縮されて、大気圧をそのまま流入するよりもはるかに大量の空気をシリンダー内に送り込むようになっていた。
現在では戦域が高々度まで拡大されたものだから、エンジン本体の開発と同様に過給器の開発競争も盛んになっていた。
ただし、過給器によって圧縮された空気は熱力学的上当然の事ながら高温になってしまう。圧縮率を上げれば上げるほどシリンダーに吸入される空気の温度は高くなってしまうことになる。
内燃機関は低温熱源と高温熱源の温度差が大きいほど効率が良くなるから、過給器出口の温度上昇は好ましい現象ではなかった。それに、高温の吸入空気はシリンダー内に噴射された燃料を圧縮行程中に自然発火させて異常燃焼と振動を招く原因となっているとも考えられていた。
出力増強装置の原理は、この圧縮されて高温となった吸気を冷却させるものだった。過給器出口近くの吸気路に噴射された水メタノール混合液は高温高圧の吸気にさらされて一瞬で気化する。この時の気化熱によって吸気温度を低下させるとともに、さらに圧縮率を向上させることが出来た。同時に異常燃焼を防ぐことも出来た。
改造されたドヴォアチヌD.520は、この出力増強装置の搭載によって水メタノール混合液の噴射持続時間中は、従来を大きく超える毎時600キロ近い速度を発揮することが出来た。
魔法のようにエンジンが発揮する推力を向上させる一方で、出力増強装置にはデメリットも多かった。機体重量の増加もその一つだった。D.520は改造によって軽量化されたにも関わらず、出力増強装置の重量によって機体の離陸重量は大して変わらなかった。
タンク内に詰め込まれた水メタノール混合液は、気化してエンジンからの排気の一部として排出されるが、増加した移送管や加圧ポンプは装置使用後はただの死重量となってしまう。
だから出力増強装置の稼働時間内に何とか一〇〇式司令部偵察機に追いすがって一撃を加える必要があったのだが、例え作戦に成功して日本軍による偵察飛行を阻止したとしても、二度目の迎撃飛行が可能かどうかは分からなかった。
出力増強装置のデメリットは装置の自重だけではなかった。確かに水メタノール混合液の噴射によってエンジン出力は一時的にせよ向上するのだが、シリンダー内に噴射された混合液によって内部が腐食することも確認されていた。
それに、燃料油と比べて、液体の水から水蒸気に気化した際の膨張率は大きいから、液体の状態で吸気とともに流入した水の影響によって、シリンダー内で燃焼時に発生する圧力が過大になるのではないかとも推測されていた。
出力増強装置使用後のエンジンの一部で、シリンダヘッドやピストンリングの異常摩耗やクランク軸の曲がりが確認されていたからだ。
だから、出力増強装置の使用後はエンジンの徹底的な分解整備や摩耗品の短時間での交換が必要となるが、潤沢とはいえない飛行隊の補給態勢で何度もそんな重整備を行うことが出来なかった。
実は、この水メタノール噴射装置はドイツで試作開発はされたものの、現時点では制式採用はされなかったらしい。だからこそ新たな同盟国となったヴィシーフランスにあっさりと供与されたのだろうが、制式採用されなかった理由にはこのエンジンへの過負荷による消耗の増大があったのではないのか。
それに出力増強装置のメリットである異常燃焼を起こさずにブースト圧を挙げるという効果自体は、高オクタン価の燃料さえ入手できればおおよそ解決可能なものだった。
出力増強装置の場合は稼働時間以外にも、現在プレー軍曹が飛行しているよりもさらに高度を上げて実用限界高度近くまで上昇した場合、混合液が凍結してしまう上に、高々度の冷気にさらされて吸気温度が元々低いから、始動しても効果が薄いなど効果を発揮できる制限が多かった。
しかし、当然だが高オクタン価燃料であれば全領域で使用可能なのだから、使えるものであれば高オクタン価燃料を使用したほうが出力増強装置をわざわざ搭載するよりも利便性は高かった。
つまり、出力増強装置とは資源や物資に乏しい側が使用する苦肉の策にすぎなかったのだ。
この無理な出力増強装置を使用した改造機の高速度で一気に一〇〇式司令部偵察機に接敵するのが今回の作戦だったのだが、プレー軍曹は出力増強装置の作動によって、背中を押されるような急加速をかけ始めた愛機から敵機を観測して眉をしかめていた。
予想外に一〇〇式司令部偵察機にも出力増強装置と同じ機構を持つであろう水メタノール噴射装置が搭載されていたことは、作戦の前提が覆されてしまったと思っていたからだ。
改造後のD.520と同程度と予想されていた一〇〇式司令部偵察機が、水メタノール噴射装置を作動させたとすれば想定よりもはるかに高速度を発揮できるということではないのか。
実際に出力増強装置によるエンジン出力向上に合わせて、降下速度も加わっているにもかかわらずプレー軍曹が乗り込むD.520は、中々一〇〇式司令部偵察機との間隔が縮まろうとはしていなかった。
機上で正確な敵速を計測することは困難だが、D.520と同程度エンジン出力が増強されているとすれば、あの一〇〇式司令部偵察機の最高速度は600キロを優に超えて毎時650キロ程度にはなるのではないのか。
もちろんそんな高速度を発揮されれば、これまでの観測結果である毎時600キロ前後の敵速を前提として計画されていた作戦は崩壊したも同然だった。
だが、出力増強装置の作動による機体の振動が激しくなり始めてから、プレー軍曹は深く考えるのをやめていた。ともかく一撃を加えるしか無いと念じ始めたのだ。
最悪の場合はモーターカノンの20ミリ機関砲を射程外からでも残弾すべてをばら撒くしか無い。着弾点は大きな散布界を描いてしまうだろうが、全弾を撃ちこめば、遠距離からでも一発くらいは命中するかもしれない。
やる前から諦めるわけには行かなかった。先発するプレー軍曹が追いつけなければ、後続機が攻撃することなど不可能だったからだ。
しかし、プレー軍曹が決意して何らかの行動に出る前に、ドヴォアチヌD.520の目前に曳光弾の光が走っていた。予期せぬ銃撃だったが、不思議なことに危険は感じられなかった。むしろ何かの合図とも思えた。そうでなければここまでうまく機首前方に銃弾を送り込むことなど出来ないのではないのか。
怪訝に思って、出力増強装置による急加速に耐えながらプレー軍曹が振り返ると、機首を真っ直ぐにこちらに向けた不自然な態勢をとっている僚機の姿が見えた。
この距離からでは詳細は分からないが、グローン少尉が乗り込む小隊長機のような気がしていた。
小隊長機とは予想以上に距離が離れていた。これでは仮にプレー軍曹が一撃を加えて一〇〇式司令部偵察機の機速を低下させることに成功したとしても、よほどの急所を撃ちぬいて急減速させない限り他の小隊機が追いつくことは出来ないのではないのか。
プレー軍曹は唖然として小隊長機を見つめていた。すでに作戦は崩壊しているとしか思えなかった。ここからでは何があったかよくわからないが、不安定な改造機ではあっても、この日のために念入りに整備をこなってきた機体が一斉に調子が悪くなるとは思えない。
小隊長達が一〇〇式司令部偵察機の追撃を断念したのは明白だった。
だが、一体何があったのか、怪訝な顔をプレー軍曹は作り上げたが、雑音だらけだった短距離無線機から、唐突にグローン少尉らしき声が何かを叫んだのが聞こえた。
切羽詰まったような声は、警告しているように聞こえていた。
次の瞬間、プレー軍曹は先ほどの警告のためと思われる射撃とは全く異なる殺気を感じていた。背中に冷たいものが走ったのを感じるが早いか、プレー軍曹は反射的にフットペダルを蹴りこみながら操縦桿を力いっぱい操作してドヴォアチヌD.520を横滑りさせていた。
次の瞬間、D.520が飛行していた空間を凄まじい密度の弾丸が高速で通過していった。
危ういところだった。予想に反して一〇〇式司令部偵察機には護衛の敵戦闘機が随伴していたらしい。これまで未発見だったのは、高度を高くとっていたのか距離をとって身を潜めていたのだろう。
もしかすると、今まで隠れていた敵戦闘機からの警報を受けて一〇〇式司令部偵察機は慌てて水メタノール噴射装置を始動させていたのかもしれない。逃げの一手を打つためだ。
すでに一〇〇式司令部偵察機を迎撃する今回の作戦は破綻していた。おそらく後方の小隊機がプレー軍曹と一〇〇式司令部偵察機の追尾を諦めたのも、敵戦闘機と交戦を開始してしまったからだろう。
しかも先発するプレー軍曹は敵戦闘機の存在に気が付かずに、至近距離への射撃という物騒な警告を事前に受けなければ今頃は戦死していたかもしれない。
おそらく反射的に自分の勘を信じて行動しなければ、今頃敵弾に撃ちぬかれてプレー軍曹は愛機ごと蜂の巣になって撃墜されていただろう。そう確信を抱くほど銃撃の密度は高かった。
プレー軍曹は鋭い視線をコクピットのすぐ脇をすり抜けていくような気がする射弾に向けながら、思わず舌打ちしていた。
高速の一〇〇式司令部偵察機に一時的にせよ追いすがる。ただその一点に絞って改造を行なったものだから、プレー軍曹が乗り込むD.520改造機は対戦闘機戦闘を放棄したも同じだった。
通常機であれば機体後方から撃ち込まれた射弾から搭乗員を保護するために半ば座席と一体化した防弾板などが取り付けられているのだが、今回の迎撃戦闘では敵偵察機に機首を向けて戦闘を行うことしか想定されていなかった。
しかも一〇〇式司令部偵察機に搭載された後部旋回機銃は7.7ミリ程度の小口径のものだったから、防御火力は大したことはなかった。
だから防弾板は真っ先に取り外されていたのだが、これは対戦闘機戦闘では不利に働くことは間違いなかった。いまのD.520では後方から射撃を受ければあっさりと搭乗員を無力化されてしまうだろうからだ。
しかし、状況は危険なものだったが、絶望的では無いはずだった。日本軍がこの方面に投入している主力戦闘機は海軍の零式戦闘機と陸軍の一式戦闘機だった。いずれも千馬力級の空冷エンジンを搭載して機動性に優れる有力な戦闘機だったが、比較的低速軽武装の軽戦闘機寄りの機体であることは共通していた。
最高速度は無改造のD.520と大して変わらないはずだから、出力増強装置を搭載して格段に高速に仕上がったこの改造D.520であれば、水メタノール混合液を消耗し尽くす前に敵機を引き離して戦場から脱出することは出来なくはないはずだ。
だが、ふと気にかかって敵機を確認すべく振り返ったプレー軍曹は、今度こそ絶句していた。そこには、これまで写真や識別帳で見たこともなかった水冷エンジン搭載機がこちらに機首を向けているところだった。
その鋭い機首から何か剣呑なものを感じ取ったプレー軍曹は、思わず身震いしていた。
一〇〇式司令部偵察機の設定は下記アドレスで公開中です
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100sr2.html