1942シチリア海峡海戦10
発砲を開始したのは、ボルツァーノの前部甲板に配置された主砲だった。いつの間に指向されていたのか、左舷側に向けられた二基の連装砲塔に収められた主砲が同時に発砲していた。
戦艦の主砲よりもはましとはいえ、8インチ砲の斉射による衝撃は大きかった。どうやら威嚇効果を狙ったのか、砲術長はボルツァーノに搭載されたすべての主砲である8インチ砲4門による斉射を行ったようだ。
主砲の門数はさほど多くはないが、航空巡洋艦への改装によって、後部に設けられていた主砲は、航空艤装に換装されているから、ボルツァーノの主砲は前部甲板に集中している。
だから、艦橋内から見る限りでは、感覚的に主砲の減少はあまり感じられなかった。
主砲が発射されてから、着弾までの間隔はひどく短かったが、それも当然だった。発砲時の主砲は、ボンディーノ大佐の命令通りに、異様なほど俯角をとって、砲身を海面に向けていたからだ。
だから、着弾点は接近するボーファイターや、それを追尾する独立戦闘飛行群の戦闘機からも遠く離れた海面に水柱を上げただけで終わった。
誤射を恐れるあまりに、大きな俯角をとったのだが、久々の主砲発射であるため砲術科の技量も低下しているのか、距離ばかりではなく、方位も接近する敵味方の編隊からずれていたから、空中の機体に与える影響は皆無に等しかったはずだ。
しかし、着弾の直後に敵味方の編隊は、機動そのものは全く異なるが、どちらもボルツァーノの発砲に大きく反応をしていた。
最初に動いたのは、敵ボーファイター編隊だった。恐ろしいことに、着弾からすぐに、編隊が揃ってそれまで以上に高度を下げていた。これではボルツァーノからでは、照準どころか、視認すら難しいのではないのか。
それに対して、味方の独立戦闘飛行群所属らしい機体の反応は、やや遅れていた上に、明らかに腰が引けていた。
ボーファイター編隊が低空に遷移してからも、暫くの間は、戦闘機の編隊はそのままの高度を保っていたが、僅かな飛行姿勢のぶれからも、その搭乗員達が戸惑っているのがルティーニ中佐には察せられるようだった。
友軍艦からの対空砲撃に加えて、敵機の高度が低下したことでさらに襲撃機動をとることは難しくなった。だからさっさと退避したいのだが、友軍を見捨てることも出来ない。あの搭乗員達は、そのように逡巡しているのではないのか。
ルティーニ中佐は、そっとボンディーノ大佐の様子をうかがってから、すぐに後悔していた。
ボンディーノ大佐は、恐ろしく物騒な表情で味方の編隊を睨みつけていた。しかも艦内電話の受話器を手が白くなるほど力を込めて握りしめていた。冗談なのではなく、木製の受話器を破壊してしまうのではないのか。
ルティーニ中佐は、そう考えたのだが、ボンディーノ大佐の表情が、ふっと和らいでいた。だが、ほんの僅かに眉の向きと眉間の皺が変化しただけだから、おそらく付き合いの長い中佐にしか表情の変化は分からなかったはずだ。
慌ててルティーニ中佐が振り向くと、ようやく踏ん切りがついたのか、ボーファイター編隊を追尾していた戦闘機部隊が、翼を翻すようにロールを打ちながら勢い良く離れていた。
すかさずボンディーノ大佐は射撃指揮所を呼び出していた。
「左舷対空戦闘はじめ、主砲以外はあの編隊を指向、主砲は艦首方面に向けて榴弾を装填して待機」
その命令に、ルティーニ中佐だけではなく、艦橋内の大半が怪訝そうな顔をしていたが、ボンディーノ大佐は、構うこと無く砲術長からの復唱の確認もそこそこに、航海長に顔を向けていた。
「航海長、舵もらうぞ。艦長が操艦する。操舵、ちょい取舵、続いて合図あり次第面舵一杯を出すから用意しておけ」
操舵長が素早く復唱して、操舵員に命令するのを聞きながら、ルティーニ中佐は、まだ若い航海長が呆然としながら、段々と青ざめた表情になっていくのに気がついていた。おそらく急に目前で仕事を取り上げられたものだから、あれこれと考え始めてしまったのだろう。
「転舵で回避するのならば、もっと早く舵を切らなければならないのではないですか。あのボーファイターの機動からして、敵機は雷装しているはずです。回避が間に合わなければ、被雷してしまうかと思いますが」
ボンディーノ大佐は、おずおずと口にした航海長に視線を向けることもなかった。ただ、まだ早い、とだけ言うと、他の艦内電話を取り上げていた。
どこか不満、というよりも不安そうな航海長に、逆にルティーニ中佐は苦々しい顔で言った。周りに慌てる人間がいるものだから、逆に自分は落ち着いていくのを感じていた。
「まだ距離がありすぎる。あれほどの低空飛行が出来るほどの手練の搭乗員ならば、こちらの回避行動を読んで、転舵後に側面をついてくるぞ」
そう言いながらも、ルティーニ中佐は一抹の不安を抱きながら、ボンディーノ大佐の顔を見つめた。もしも、これがかつて自分が艦長を務めていたソルダディ級駆逐艦の一隻であるのアルティリエーレのような軽快な艦であれば、同じ状況でも少数の編隊からの雷撃ならば、転舵で回避することは難しく無いと思うが、高速艦とはいえ、より重厚な重巡洋艦であるボルツァーノでどうやって回避するつもりなのかはよく分からなかった。
ボンディーノ大佐は、二人の様子に気がつく様子もなく、機関指揮所の機関長と何かをやりとりしていた。だが、機関長が何か反論していたのか、相当に不機嫌そうな顔で怒鳴りつけるようにしていった。
「何度も言わせるな。両舷半速に落とせ。それから3,4番主機は前進一杯即時待機、1,2番主機は後進一杯即時待機……何、無理か、なら1,2番は軸ブレーキを……それも無理だと。ああ、分かったからとにかく出来るだけ1,2番は回転落とせ……全く生きるか死ぬかの時に文句の多いやつだな」
不満そうな顔で、ボンディーノ大佐は機関指揮所とのやりとりを終えると、ぶつくさと自分も文句を言っていた。
ルティーニ中佐は、そのやりとりからボンディーノ大佐の判断に気がついたが、唖然としているほかなかった。まさかこの速力で、このサイズの艦艇でそんなことが可能だとは思えなかったからだ。
だが、ルティーニ中佐は、反論しようと声を上げかけた航海長を、咄嗟にとどめていた。何故そのようなことをしたのかは自分でもよくわからないが、ボンディーノ大佐への長い付き合いからする信頼であったのかもしれない。
そのボンディーノ大佐は、相変わらず周囲の反応を気にすること無く、不機嫌そうな顔を左舷側を急接近するボーファイター編隊に向けていた。ボルツァーノの対空砲の発砲は開始されていたものの、敵編隊の行動にはさほどの変化は見られなかった。
ボルツァーノの対空砲火は、敵編隊にとってさほどの脅威とはなっていないようだった。超低空を飛行する敵編隊には、対空砲では照準や、発射から炸裂までの信管の調定も難しいのだろう。
それ以前に、航空巡洋艦への改装によって、ボルツァーノの対空砲は半減していたから、他の巡洋艦級の大型艦に比べれば、襲撃機動を取るのは容易では無いのか。ましてや船団内の航行順序の関係から他艦からの援護が得られない状況では、対空砲で敵機を阻止するのは無理かもしれなかった。
だが、対空砲火の影響は以外なところに現れていた。そのことにルティーニ中佐が気がついたのは、敵機からの魚雷投下を報告する見張り員の声を聞いたときだった。
ボーファイター編隊から、ボルツァーノまでの距離は、まだ1000メートルを超えていた。必中を期するのであれば、もっと接近してから投下してもおかしくなかった。
あまり勢いがいいとはいえない対空砲火を恐れて、ボーファイター編隊が魚雷投下を早めたとは思えなかった。魚雷投下後も、機銃掃射をするつもりなのかボーファイター編隊は退避すること無く、高度をやや高めながらも接近機動を続けていたからだ。
両翼にエンジンをそれぞれ一基づつ搭載した双発のボーファイターは、その配置を活かして機首に4門もの20ミリ機関砲を集中して装備していた。同クラスよりもは薄いとはいえ、さすがにボルツァーノは巡洋艦としてそれなりの装甲を有しているから、20ミリ砲弾程度で致命傷を与えられるとは考えられないが、非装甲部に撃ち込まれれば人員の損害は無視できないものになるはずだ。
おそらく、ボーファイターからの魚雷投下が早まった理由は、対空砲火によって巻き起こった水柱群が、超低空を飛行するボーファイターからの視界を遮ってしまった為だろう。だから照準が更に難しくなる近距離での雷撃を諦めただけなのではないのか。
魚雷投下のタイミングは早まってしまったようだが、ボーファイター編隊の照準は正確な様だった。対空砲火による痕跡によって眩惑されて詳細はまだ良くは分からないが、ボルツァーノの将来位置に向けてまっすぐに雷跡が確認されていた。
しかも、魚雷投下直前にボルツァーノが行った両舷半速への減速まで見切っているようで、このまま行けば、敵編隊から扇状に投下された魚雷のどれかが命中するのは間違いないのではないのか。
投下位置からボルツァーノまでの距離を考えると、一分弱ほどで魚雷は到達するはずだったが、重巡洋艦では転舵回避が間に合うとかどうかは際どいタイミングではないのか。
ルティーニ中佐は、背筋が凍る思いで、見張り員からの報告を聞いていた。いまさらのように、敵からの攻撃を受けて、しかもその状況を把握しているにもかかわらず、何の作業もすることが出来ないという立場がひどく恨めしかった。
とりあえず何かの作業をしておけば、この恐怖を感じることもなかったのではないのか。
ボンディーノ大佐は、魚雷投下の報告と同時に大声で複数の部署に命令を下していた。
「面舵一杯、別命あるまで舵そのまま。左舷3,4番主機前進一杯、右舷1,2番主機は後進一杯。砲術長、当たらんでも対空砲は休ませるな、主砲発射のタイミングは貴様に任せる」
慌ただしく艦橋要員や機関指揮所などから復唱する声が聞こえてくるなかで、ルティーニ中佐は、呆然としながらボンディーノ大佐の顔を見つめていた。どう考えても無茶な気がしたからだ。
しかし、ボンディーノ大佐の命令を受けたボルツァーノは、次第にその影響を露わにし始めていた。
最初にルティーニ中佐が感じたのは、右舷への回頭を開始した事による水平線のずれだった。最初は僅かなものだった。ボルツァーノはゆっくりと右舷に回頭を始めたが、艦体は遠心力によって左舷側へと傾き始めていた。
だが、最初は感覚的には水平を保ったままだった。ただ艦橋の窓から見える水平線が、先ほどよりも僅かに傾いていることでようやく気がついたというだけだ。
ボルツァーノの航行による揺れもあるから、気がつくのに遅れたのだが、ルティーニ中佐のように艦橋ではなく、艦内の窓のない区画に配置された将兵は気がつくことも無いはずだった。
ただし、それも水平線のずれは、時間が経つに連れて大きくなっていった。そこまでは通常の急速回頭時とそれほど変わりなかったが、ずれが大きくなっていく様子はいつもよりも格段に早かった。
級数的に傾斜は激しくなっており、艦橋の床も目に見えてわかるほど傾き始めていた。ルティーニ中佐も思わず手近な艦橋構造物の端を掴んでいた。何かにしがみついていないと、そのまま急速に近づいていく左舷の海面に落下していくような気がしていたのだ。
ぎょっとしながら、ルティーニ中佐は海面から視線を離すことができなかった。この鏡面のように穏やかな地中海で、駆逐艦クラスの軽快な艦艇ならばともかく、重厚な巡洋艦でこのような傾斜が生じるとはとても思えなかった。
ルティーニ中佐は、かつて長距離航海実習で一度だけ大西洋で経験した大時化のことを思い出していた。あの時は、穏やかな地中海にしか慣れていなかったイタリア海軍の乗組員達は船酔いで使い物にならなかったのだが、今は、大傾斜にも関わらず、遠くの海面は穏やかだから違和感は大きかった。
だが、穏やかなのはボルツァーノから遠く離れた海面だけだった。ボルツァーノの周囲の海面は、大きく形状を変えていた。というよりも、ボルツァーノの急激な姿勢の変化に、周囲の海面が追いつけずにいいたのだ。
ボルツァーノの傾斜に伴って、右舷の海面は沈み込んで、逆に左舷の海面は大きく隆起していた。そして、鋭く尖ったボルツァーノの艦首によって切り裂かれた海面から吹き飛んだ波飛沫が、艦橋にまで到達して窓ガラスをまるで豪雨の中にいるかのように湿らせていた。
本国近海での航海しか想定していないイタリア海軍の大型艦は、このような大傾斜のことまで想定していないはずだ。冗談などではなく、ルティーニ中佐はこのままボルツァーノが傾き続けて復元できずに沈んでしまうのではないかと思ってしまっていた。
異様な傾斜だけが理由ではなかった。艦体の奥底から鋼鉄同士が軋み合う耳障りな異音が聞こえていたからだ。
その音を聞いたのはルティーニ中佐だけではなかった。艦橋要員の少なからぬ数が顔を真っ青に染めていた。
平然とした、あるいは相変わらず不機嫌そうな顔を続けていたのは、ボンディーノ大佐だけだった。
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