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1867御陵衛士

 斎藤は、目の前に広がる光景を見て、思わず眉をしかめていた。

 長円寺内の屯所には続々と旅装の男達が現れていた。男達の数は多く、5,60人ばかりもいるようだった。

 なかには屯所の中に入れずに、長円寺の外でこちらの様子を伺っているものもいた。

 それに、刀を抜いて確かめるまでもなかった。

 男達がかなりの戦闘力を有していることは、様子を見ているだけで分かった。

 周囲を鋭い目で探っているものもあれば、休んでいるものもいる。

 おそらく見張りと休息役という役割分担が自然と出来ているのだろう。

 これほどの数の人間がいるというのに、勝手に旅装をとるようなものはいなかった。


 かなりの長行軍であったらしく、旅装はくたびれてはいたが、よく整備された跡があった。

 それに資金も豊富なようだった。

 旅装はかなりの重装備だった。

 それに斎藤が見る限りでは男達は全て同じ様な旅装をしていた。

 また、何人かは武具か何かでも入れているのか長持を運んでいるものもいた。

 長持は行軍のために用意されたのか傷だらけだったが、頑丈なものだった。

 それに製作者か問屋の印なのかわからないが、目立たないが上品な印がつけられていた。


 つまり旅装も含めて彼らは同じ場所で装備を調達したことになる。

 彼らは三々五々と集まってきたのではなく、ある集結地からまとまって行軍を始めたのだ。

 その集結地は江戸程ではないにしても、かなりの大都市であることは間違いない。

 そうでなければ、このように大量量産された装備を、一挙に調達することなど不可能だ。

 おそらく大藩の城下町が彼らの本来の根拠地であり、出発点だったのではないのか。

 勿論このような装備を予め整えることができたということは、彼らが無計画な脱藩者ということはありえない。

 すくなくとも役人たちの、それも藩内でもかなりの上位者の黙認がなければ、このような大人数が装備を整えることなどできないのではないのか。


 ―――伊東がつれてくるといった援軍とはこれだったのか

 御陵衛士創設頃に、伊東甲子太郎は盛んに援軍を呼んであるとか、同志は我々だけではないと言っていたのを斎藤は思い出していた。

 しかし斎藤を含め、御陵衛士のうち伊東の側近を除く大半の人間がそれを信じていなかった。

 伊東にそこまでの人脈があるとも思えなかったし、そもそも新選組に伊東はずいぶんと多くの人間と一緒に入隊しているのだから、伊東の同志はそれで全てだと思われていたのだ。

 だが、目の前の男達が本当に全て援軍なら、伊東の人脈は大したものになる。

 今のところ御陵衛士はわずか15人を数えるばかりにすぎない。

 この男達が、全て御陵衛士に合流すれば戦力は倍増どころではない。

 在京の集団としてはかなりの戦力と組織力を持つことになるのではないのか。


 伊東はこれだけの人数を集合させることに成功した。

 それも斎藤たち御陵衛士の他の面々には全く知られること無くことを進めたのだから、斎藤や近藤局長達が思っていた以上に伊東は策士ということになる。


 だが当の伊東本人は旅装の男達に盛んに声をかけている。その様子はとても御陵衛士の首領には見えなかった。

 次々と男達の間をまわっていると、まるで彼らに媚を売る御用聞きのようだった。

 おそらく当たらずとも遠からじなのだろう。

 彼らの行動にしても伊東が声をかけたから上洛したという単純な話だとは思えない。

 伊東の援軍がどうだという話があったとしても、それは単にきっかけか、あるいは上洛の口実に過ぎないのではないのか。



 斎藤が眉をしかめながら考えていると、老人とその伴らしい若者と話し込んでいた伊東がふと振り返った。

「ああ…斎藤君、こちらへきてくれないか」

 どうやら伊東は御陵衛士の面々を売り込もうとでもしているらしい。老人に斎藤たちを紹介しようとした。

「藤田先生、彼が斎藤君です。この若さで新選組で組長まで務めた逸材ですよ」

 あまりに媚びへつらうような調子の台詞だった。

 褒められているはずだが、斎藤は白けながら聞いていた。

 だが、伊東は、そんな斎藤の様子には気がついていないようだった。

 老人が伊東や斎藤をどう評価しているかは分からなかった。


 奇妙な老人だった。年の頃はおそらく60は越えているのではないのか。

 見た目だけならば枯木のような体に見えるが、一刀流を修めた斎藤には老人の気迫が感じられた。

 それに旅装の汚れ具合を見ても、男達はかなりの長旅を終えたばかりのはずだったが、老人にも伴の若者にも疲れは見えなかった。

 老人は真っ直ぐに斎藤を見つめているが、その目からは感情が読めなかった。

 感情がないというわけではない。

 ただそれを普段はしまい込んでいる。そんな印象を受けた。


 それに対して、若者の方は分かりやすかった。

 年の頃は斎藤と同じか、すこしばかり年上だろう。

 若者は斎藤に挑むような、あるいは値踏みするような視線を向けてきている。

「斎藤君、こちらは藤田東湖先生と御子息の小四郎さんだ」

 思いがけない名前に、斎藤は思わず目を見開いていた。

「藤田です」

 老人は短く名を名乗りながらも、斎藤から目を離さなかった。




 藤田東湖の名前は斎藤も知っていた。

 水戸学と呼ばれる水戸藩で形成された学問、あるいは学問体系があったが、藤田東湖はその水戸学の大家だったはずだ。

 しかし藤田東湖の名を世に知らしめているのは、水戸学の大家というだけではなかった。

 藤田東湖は、現在の水戸藩藩政の方向性を作り上げた実質的な指導者であったと考えられていた。


 もともと藤田たちは、先代の水戸藩藩主徳川斉昭の元で尊皇攘夷を唱える改革派であったらしい。

 だが、彼ら天狗党と呼ばれていた改革派は、徳川斉昭が幕政から失脚すると共に、藩政の権限を保守派に奪われていた。

 彼ら改革派が天狗党と呼ばれ始まったのもこの頃のことらしい。

 上士の多かった保守派が、下士達もが加わっていたこれまでの藩政に対する鬱憤を晴らすために、天狗になっている者共という意味を込めて呼び始めていたらしい。

 もしもそのままの状況が続けば、彼ら天狗党は激昂して挙兵するか、それとも歴史の闇に人知れず消えていったはずだ。



 そのような状況が一変したのは、今から三年ほど前、ちょうど新選組がその前身である壬生浪士組を結成させる頃のことだった。

 水戸城からも程近い港町の那珂湊において、水戸藩とアメリカ合衆国海軍とが交戦したのだった。

 実のところ、何故そのアメリカ合衆国海軍のフリゲートが、水戸藩と交戦することになったのかよくわかっていなかった。

 水戸藩によれば、卑怯にもアメリカ合衆国海軍フリゲートが、那珂湊の街を奇襲砲撃したことから戦闘が開始されたことになる。

 しかしフリゲートからの対地砲撃以前に、那珂湊の陸地での白兵戦闘が行われたのが住民等によって目撃されており、水戸藩の公式見解とは食い違いを見せていた。


 水戸藩の公式見解に対して、アメリカ合衆国海軍は、この交戦は、水戸藩がアメリカ南部連合に加担したため、それを阻止するために行われたと説明していた。

 つまり、内戦状態にあるアメリカ合衆国と各国との通商路を破壊するため、太平洋で戦闘行動をとっていたアメリカ南部連合海軍の艦艇に対して、水戸藩が密かに補給を行っていたため、その警告として砲撃を行ったというのだ。

 これが正しいとすれば、陸地での戦闘は警告文の布告行為か何かで上陸した陸戦隊と、水戸藩兵とのあいだに起こったものであると考えられる。


 しかし、事態の埒外にあったために、逆に第三者の視線でこの戦闘を分析することのできた斎藤たちからすれば、アメリカ合衆国海軍の説明も奇異に感じられた。

 彼らの説明を信じれば、水戸藩はアメリカ南部連合海軍艦艇に対して補給を行ったことになるが、そのような行為の証拠をアメリカ合衆国海軍フリゲートがどうして得ることができたのか。


 那珂湊への砲撃を行ったのはフリゲート一隻だけであったらしい。

 情報収集力の限られる単艦行動で、アメリカ南部連合艦艇による補給活動の実態まで調べるのは相当困難ではないのか。

 第一、そんな証拠が得られるほどアメリカ南部連合海軍艦艇の動向を把握しているのであれば、むしろ海上で敵艦と交戦する方を選ぶのではないのか。

 アメリカ合衆国海軍フリゲートの目的が、本当に南部連合からの通商路保護であるのならば、それこそが目的であり、敵艦の補給路を絶つというのは手段でしかないはずだ。

 だが、今に至るも日本周辺の海域でアメリカ合衆国海軍とアメリカ南部連合海軍が交戦したという情報は伝わってこなかった。



 それ以前に、水戸藩がアメリカ南部連合への支援をすることに、何の意味があるというのかが全くわからなかった。

 南部連合艦艇に支援を行ったところで水戸藩に得るところは何も無いのではないのか。

 いや、それどころか当時の大多数日本人たちにとって、アメリカが合衆国と南部連合に別れての内戦状態にあるという状況そのものが興味の埒外にあった。

 むしろアメリカ合衆国海軍による那珂湊砲撃後の通告によって、初めてアメリカが内戦状態にあることを知ったものも多かったはずだ。


 実際には補給を求めたのはアメリカ合衆国海軍フリゲートの方で、それを那珂湊に駐留していた水戸藩の役人たちに断られたために戦闘となったのではないのか。

 斎藤は事件前後の状況や双方の公式な見解からそう判断していた。

 

 あるいはこの当時は薩摩や長州でも外国艦船との交戦があったから、この戦闘はこれらに関する交渉に対して何らかの影響をおよぼすために行われたのかもしれない。

 真実は今のところ闇の中にあった。




 いずれにせよ、この戦闘は水戸藩のみならず尊皇攘夷を掲げる諸藩にとって大きな影響をあたえることとなった。

 奇襲的な海上からの砲撃とはいえ、水戸藩の戦力では米合衆国海軍のフリゲートただ一隻の行動を阻止することが出来なかったためだ。

 いくら準備の整わない平時とはいえ、那珂湊は水戸城からわずか数里しか離れていない。

 水戸藩は、根拠地から出撃したにもかかわらず、那珂湊が灰燼と化してから砲兵を含む主戦力が前線に到着するような始末であったらしい。

 この前後に薩摩藩や長州藩が行った戦闘でも同様であったが、現在の日本国の戦力では先進国との戦闘は極めて困難であったのだ。


 それ以前に、この戦闘の結果、水戸藩の藩政は大きく揺れ動くこととなった。

 当時の藩政を担っていた保守派の諸生党は、改革派の天狗党から戦闘の不始末を大いになじられることとなった。

 那珂湊にあった財産を焼けだされた在国の商人や漁民たちもこれに同調していた。

 これで諸生党は大きく影響力をそがれることとなった。

 だが、那珂湊での戦闘結果を見れば、天狗党が掲げるような過激な尊皇攘夷を安易に実施するのは自殺行為としか思えなかった。

 もしも天狗党がそのまま諸生党を抑えこむ形で、攘夷を前提とした藩政を行うような態勢になってしまえば、さらなる戦火が水戸藩を襲うことになってしまったのではないのか。



 この混乱する状況の中で久々に藩政の舞台に復帰してきたのが藤田東湖だった。

 前藩主徳川斉昭の側近であった藤田東湖は、他の天狗党の面々と違って諸生党が藩政主流となるよりも早くに幕政、藩政から退いていた。

 十年近く前の安政の大地震で大怪我を負った為に、隠居し、長期の療養を行っていたためだ。

 しかし水戸学の大家として、また今は亡き徳川斉昭の側近として天狗党の面々からの信頼は厚かった。

 それに長年藩政から退いていたから、諸生党から過度に危険視されることもなかったらしい。

 このような自身の曖昧な立場を利用して、藤田東湖は諸生党と天狗党との間を取り持つことに成功した。


 どうやら現藩主である徳川慶篤による要請で藤田東湖は動いたらしいが、その成果は絶大なものがあった。

 藩の重鎮である藤田東湖に説得された天狗党と諸生党は、お互いの主張をすりあわせることに成功した。

 現在では水戸藩は、藩主徳川慶篤のもと、現実的尊皇派とも言うべき立場を貫いているらしい。


 だが、これが将軍というよりもは、現在の幕閣たちの警戒を促すこととなった。

 藩政に再び返り咲いた藤田東湖が、再び隠居生活へと戻ったのは、幕府からの監視の目を和らげるためでもあったらしい。


 だが、今斎藤の目の前に再び隠居生活に入ったはずの藤田東湖の姿があった。

 息子である藤田小四郎を伴っているということは、周囲にいる男達はかつての天狗党で藤田を慕っていた者たちなのだろう。

 もちろん、これだけの人数を送り出した水戸藩も彼らの存在を認知していることは間違いない。

 実際には、彼らはここ京都で近いうちに大きな政変が起こると見た水戸藩が送り込んだ私兵集団であるのかもしれない。

 おそらく現藩主である徳川慶篤が幕府との衝突を恐れて、藩公認によるものではなく、藤田の私兵集団のようにみせかけて送り込んだのではないのか。




 ―――これでは近藤局長の企みも無駄に終わるな

 自分が関わっている策謀であるというのに斎藤は他人事のように考えた。

 元々は、新選組のさらなる綱紀粛正のために、伊東甲子太郎らの離脱を認めたと近藤局長から斎藤は聞いていた。

 伊東を何らかの理由をつけて殺害することで、新選組の人員に裏切り者の末路を教えようというのだ。


 しかしこの策が成功するには条件があった。

 裏切り者たちの戦力が新選組に対して十分に小さいものであることが必要だったのだ。


 新選組の兵力が二百人を数えるとはいえ、御陵衛士も十名を超えるそれなりの集団となっている。

 御陵衛士の分裂後も、新撰組から脱退したものが十名程度はいると聞くから、彼らの戦力はさらに低下しているはずだ。

 新選組と御陵衛士のお互いの隊士の行来を禁止する約定を設けたのも、御陵衛士の戦力拡大を阻止するためだった。


 しかし、斎藤の前にいる旧天狗党の男達がみな御陵衛士に合流すれば、御陵衛士の人数は一挙に膨れ上がる。

 未だ新選組のほうが多数とはいえ、その戦力差は格段に新選組側に不利となるだろう。


 さらに、粛清される伊東の立場の問題もあった。

 伊東はあくまでも裏切り者たちの首魁として斬られる必要があった。

 新選組の隊士によって粛清されるのが、役も持たない単なる平隊士のような小物であれば粛清による綱紀粛正という効果は薄くなってしまうだろう。


 だが、これから先、伊東が御陵衛士の指導者として影響力を発揮することは無いのではないか。

 人数から言えば旧天狗党の男達のほうが現在の御陵衛士の隊士よりもはるかに多いのだし、何よりも混乱した水戸藩を唯一人でまとめ上げた藤田東湖と、どさくさに紛れて御陵衛士を創り上げた伊東では、あまりに格が違いすぎる。

 それに伊東もかつて水戸学を学んだと斎藤は聞いたことがあった。

 いわば水戸学における大先輩でもある藤田を、伊東が建前上でも自らの配下に置くとは思えない。

 しばらくは軍師か何かについてもらうにしても、いずれは藤田こそがこの集団の長となるだろう。

 いずれにせよ旧天狗党の男達がそう簡単に伊東の指揮を受け付けるとは思えない。

 これでは逆に御陵衛士こそ旧天狗党に吸収されるようなものではないのか。


 しかし、そのような新体制となったあとでも、伊東や斎藤たち御陵衛士を立ち上げた者たちが、排除されるとは思えなかった。

 真実はどうであれ、藤田たち旧天狗党は伊東甲子太郎率いる御陵衛士に招かれて上京したという建前を貫くのではないのか。

 幕府から水戸藩への批判をかわす事は出来なくとも、表向き脱藩者ということにしてしまえば辻褄合わせぐらいは出来るだろう。

 それに御陵衛士という孝明天皇御陵を守護するという任は、幕府側からの圧力をかわすのには便利なのではないのか。

 だから、天狗党の男達も、伊東と御陵衛士という既存の組織を出来る限り利用し、保存しようとするのだろう。



 だが、下手をすれば伊東は倒幕派と佐幕派双方から粛清される可能性があった。

 新選組からは当然狙われているし、旧天狗党の脱藩者も、事態が急変すれば、すべての責任を伊東に押し付けて帰国してしまうかもしれない。

 伊東がそこまで理解しているのかはわからない。だが、この先、伊東が生き残るためには旧天狗党の男達を盛り上げて、勤皇派に取り入るしか無いのだろう。

 そこまで考えると、伊東がやたらと藤田たち旧天狗党の男達に下手に出ているのもうなずけるような気がしていた。



 斎藤が藤田東湖に頭を下げて挨拶をしようとするよりも前に、屯所の門に新たな気配があった。

 ざわざわとした声に斎藤が振り向くと、天狗党の男達の様子を伺う二人の男達が見えた。

 一人は斎藤よりも少しばかり年上のようだが、それでもまだ三十にはなっていない若い男だった。

 身の丈六尺はありそうな大男だったが、総身に知恵が回りかねということはなさそうな、教養と自信にあふれた顔だった。

 もう一人は中背のやや華奢な男だった。

 こちらは斎藤よりも若そうだった。

 若い方の男は軽薄そうな表情で、屯所の中をじろじろと見回しているが、斎藤は男の身のこなしや視線の動きから、この男も並々ならぬ剣術使いであると判断していた。


 男達が何かを言う前に、藤田小四郎が声を上げた。

「久坂さん、瀬戸口君じゃないか。二人とも京に戻っていたのか…」

 どうやら二人の男達は藤田小四郎の知り合いらしかった。

 小四郎は笑みを浮かべながら藤田東湖に向き直った。

 父親に旧友を紹介しようというのだろう。

 しかし、小四郎が口を開くよりも早く藤田東湖が軽く手を上げて制した。


「少し疲れた。信、それよりもお前の友を伊東さんに紹介してきなさい」

 藤田小四郎は、あまり疲れているようにも見えない藤田東湖を怪訝そうな目でみやったが、すぐに頷くと伊東に目を向けた。

 伊東は戸惑った顔で小四郎と東湖、それに門の前の二人を交互に見ていたが、最後にはぎこちない笑顔で藤田小四郎に顔を向けて頷いた。


 藤田小四郎と伊東が連れ立って門の方に向けて歩いて行くのを斎藤はぼんやりとした顔で見送った。

 伊東は、肝心の売り込みのために斎藤を藤田東湖に紹介することを忘れてしまったらしい。

 このまま藤田東湖のそばにいるべきか、それとも伊東達についていくべきか、斎藤は珍しく迷っていた。

 そして、斎藤が何らかの結論を出す前に藤田東湖の声が響いた。

「斎藤さん、わたしは一度あなたと話をしたいと思っていたのです」


 どこか巨大な穴の底から響くような声だった。

 何故か斎藤はそう感じた。そして次の瞬間勢い良く藤田に向き直っていた。

 つまり藤田は伊東に紹介されるまでもなく、斎藤を以前から知っていたということになる。


 もちろん若輩者とはいえ、新選組の組長として斎藤の名は、それなりに京では知られていたはずだ。

 だが、今の藤田の言葉にはひどく重みがあった。

 単に新選組の若手構成員という知識だけで斎藤を知っているというわけではなさそうだった。


 斎藤は思わず鯉口へと手を伸ばしかけた。

 実のところ斎藤は、新撰組の近藤局長が御陵衛士へと送り込んだ間者としての顔を併せ持っていた。

 それがこの藤田に知られているとすれば危険が身に迫っている。

 最悪の場合、藤田を斬らなければならないだろうか。

 しかし、頭目が斬られて激高するであろう50人からの男達の囲みを破って脱出することなどできるのか。

 斎藤の背にひやりとした汗が走った。


 だが、緊張する斎藤とは対照的に、藤田東湖は悠然としていた。

 それどころか、表情に柔和ささえ現れ始めていた。

「実は水戸を出る直前に古い友人から斎藤さんのことを聞いたのです。一度、かつてのように彼と腹を割って話しあってみろ、とその友人は言っていました。それが近藤さんと話し合うことにもなるのだから…とも」


 斎藤は呆然として藤田の言うことを聞いていた。

 藤田の台詞を信じるとすれば、すでに斎藤が新選組の近藤が送り込んだ間者であることを把握しているということになる。

 しかし、斎藤が呆然としている理由はそんなことではなかった。

 ―――古い友人…だと

 斎藤を強烈な既視感が襲っていた。



 その男と再開したのは半年ほど前、京の街がまだ雪に包まれていた頃のことだった。

 所用で外に出た帰り、斎藤は茶店の軒先で声をかけられた

 どこかで聞いたような声で、ただ「やぁ」と声をかけた男を斎藤は怪訝そうな顔で見た。

 年の頃は三十路前後か、薄ぼんやりとしたお世辞にも美男子とは言えない顔だった。

 さりとて不細工という程でもない。

 雑踏に紛れれば一町も行かぬ間に見失ってしまうだろう特徴のない男だった。

 斎藤はしばし男の顔を見つめてからようやく彼が古い友人であったことを思い出した。


「随分と久しぶりだね山口君」

「いや…今は斎藤と名乗っているのです」

「ああ、そうでしたね斉藤君」

 思わす怪訝そうな顔になった斎藤の肩に白いものがかかった。

 斎藤と男が空を見上げると再び雪が振り落ちてくるのが見えた。

 かなりの本降りになりそうだった。

 斎藤は男の手招きに従って茶店に入った。

 それから暫くの間、雪が小降りとなるまで熱い茶を飲みながら男と話をしていた。


 どんな話をしていたのかはあまり覚えていない。

 おそらくたいした話ではない。世間話に過ぎなかったのだろう。


 だが、男には世間話に混じって近藤局長からの極秘の命令を相談していた。

 局内どころか、局長と自分だけが知る秘中の秘のはずだったが、斎藤は男に口を開いていた。

 それが何故だったのか、どうしてそんな話になったのか、斎藤はまるで覚えていなかった。

 たわいもない世間話の合間にためらいもなくこう打ち明けていた。


「いま、近藤さんから間者になってくれないかと頼まれている」

 斎藤は、新撰組屯所の奥深くで囁くような声で近藤が言ったことをゆっくりと思い出していた。

 今日のように雪の降る夕刻、茜色に染まるでもなく、ただ薄暗い部屋で陰謀を企む近藤の目だけが鈍く輝いていたのがひどく印象的だった。

「何でも新選組から離脱しようとしている伊東さんたちに従うふりをして組織内の情報を集めて欲しいということなんだが…」

 さすがに斎藤は次の言葉を濁らせた。


 だが、友人はそんな斎藤を弾劾するかのように鋭く斬り込んできた。

「それだけ…なのかな。情報収集のためだけに、これまで多くの隊士を粛清してきた斎藤君を戦線から離脱させようというのは不自然ではないか」

 斎藤はぎくりとして友人の顔を見つめた。

 表情の浮かんでいないその顔は、まるで最近はやりの怪談集にあったのっぺら坊のようだった。


 一息つくと、斎藤は周囲を見渡してから小声で言った。

「あなたの言うとおりだ。近藤さんは情報を収集しながら、機会があれば伊東さんを斬るつもりでいる。いや、伊東さんの同志たちも粛清することで綱紀粛正をはかろう…ということらしい」

「だが、斎藤くんはあまり愉快に思っていないようだが」

「それはそうだ。これはただ隊士を粛清するというのではない。彼らは何かの悪事を働いたからそこで斬られた。しかし、伊東さんたちに潜り込んでじっくりと情報をつかんだ上で暗殺するというのは明らかな陰謀ではないのか。どうにもさっぱりとした戦いにはならないだろうな」

 そこまで言うと斎藤はしばらく雪の降る外を見た。

 白い雪が外界の不浄なものを覆い隠すかのように降っている。


 だが、それは覆い隠すだけだ。本質は未だ雪に隠されながらも存在している。

 斎藤はぼんやりとそんなことを考えていた。

 しばらくそれに付き合うかのように押し黙っていた友人は、しばらくしてから口を開いた。


「だが、君は結局そこに行くことになるだろうな」

「局長の命令だからね。そうだ結局は是非もないことさ」

「しかし…」

 友人は首をかしげながらいった。

「しかし、斉藤君、君こそがいずれこの国の行く末を左右する糸になる。僕にはそう感じられる」

 斎藤は呆気にとらえて友人の顔を見た。

 いくら何でも「この国の行く末」とは言いすぎだろう。

 しかし斎藤はすぐにそのことを忘れていた。



 今、藤田東湖に向き直って始めて、古い友人との会話が鮮明に思い出されていた。

 もしかすると「この国の行く末を左右する糸」とは今、この状況のことを指し示すのではないのか。

 そうだとすれば…少なくとも近藤局長のつまらない陰謀の片棒を担がされるよりもは面白そうだった。

 何しろ自分こそが「この国の行く末」を決定する権限があるということなのだから。

 退屈だけはしなくてすむだろう。


 気が変わったのか、うっすらと笑みを浮かべる斎藤一を藤田東湖は見つめ続けていた。

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