第5話「ヴェルクトゥ」
薄闇に沈む蒼いゆらぎ、時の流れに取り残されたかのような地底の湖畔で、アイエルはいつになく興味深げに新地淅帰りのネーロの話に耳を傾けていた。外の世界で様々な見聞を得てくる彼女ら特別なレネリィ達の存在はともすれば寂しさに押しつぶされそうになるアイエルにとって何よりの慰み、そして、初めて無事にラーマへとたどり着いたハンター、フェレロとの突然の出会いは、閉ざされそうになっていたアイエルの心に小さな光を灯していたのであった。
「そう、チェカの街でそんなことが……うん、私もそう思うの、忘れたことなんかない、あの優しい瞳……彼はフェレロ……フェレリオ・ミ・ディ・キャストレ……」
ちょっとはにかんだ横顔を見せるアイエルに、一緒に聞いていたネーロ達はいっせいに翔き冷やかしの声をあげる。輝く湖、泉の奥深くから湧き出てくる惶のきらめきに舞い飛ぶ彼女らの彩りが添えられた水面の華やかさは、ここが闇に閉ざされた朧の森だと言う事を忘れてしまう程に光を放ち、アイエルはその中に忘れ得ぬあの日……王宮での婚礼の日の光景を見い出すのだった。
「……ここに閉ざされて、もうどれほどの時が経ったのでしょう、フェレロ、またあなたに逢えるなんて、アイエルは夢を見ているのでしょうか……生きてて……元気そうでよかった……あなたのコトネはまだ聞こえないけれど、私はそれだけで充分です。けど……けど本当は今すぐ会いたい……この暗い檻からあなたのもとへ羽ばたいてゆきたい……」
アイエルは膝に乗せた小さな子の髪を優しくといてあげながら寂し気につぶやいた。うつらうつらしていたネーロはそれを聞いてポゥと光ってアイエルの方に振りむくと、何やら耳打ちをしてキラッと笑った。
「え?助けに来る?王子様だから?クスッ……そういえばむかし、そんなお話、フェレロといっしょに読んだなぁ……」
ネーロの無邪気な激励にアイエルは木々の梢の先、はるか頭上に丸くくり抜かれたヴ−の空を見上げた。あの……あの先に行けばフェレロ達の所に行ける……けど……けど私は……惶の力を司る種族、故に新地淅において惶のない地域では急速に老化が進んでゆくソラウィという存在……アイエルは、自分ではどうする事も出来ない運命を嘆かずにはいられないのであった。
「どうして……ここで人知れず朽ちてゆく事に何の未練もなかったはず……けど……今はここから出たい……死んでしまうかもしれないけど……いえ、それはだめ、こわい……だって、死んでしまったら、もうあなたには……ああ……フェレロ……アイエルはどうすれば……」
渡りゆくヴーに思いの丈をたくして、アイエルは今日もコトネをその流れに委ねる。巡り巡って愛しい人の心に届くように、本当のフェレロに、また出会える事を信じて。
「おい!アレ、あのマッキナ、ゴランとこの坊主じゃないのか?」
「帰って来た?本当だ、手を振ってる……あんた、はやく旦那に知らせておいでよ!」
「あ、ああ、わかった」
ひときわ眩しい惶波を振りまきながら一機のマッキナがオーデル上空へとさしかかる。入りくんだ細い道の両脇に広がるわずかばかりの田畑、その端にしがみつくように点在する民家の村人達はみないっせいに空を見上げ、鈍色の空に描かれてゆく機体の航跡を指さした。フェレロはその光景に少し照れくさくも誇らしい気持ちになった。
「何か、すごく久しぶりみたいな気がするね……みんな、心配してただろうな」
「ただいまー!帰って来たよー!」
「ようし、ビクトリーロールだ」
「……?え?きゃああ!」
中央広場の噴水の上空でF/Fは派手な3連続ロールを披露してみせる。知らせを聞いて家の外へと飛び出したゴランは歓喜の声をあげた。
「フェレロ!あいつめ、帰ってきやがったか!」
いったん村を通り過ぎたフェレロは減速のためF/Fを旋回に入れた。村はずれの草原から風上に向かって高度を下げてゆく。その場周飛行の最中、フェレロは草原に見た事もないような巨大なマッキナが着陸しているのを見つけた。F/Fの50機分はゆうにあろうかという翼幅、随所に設けられた放熱口から放たれる惶は機体の大きさに比肩して強大で、小さなオーデルの集落の隅々までを照らしていた。下部に開放している巨大な扉の元には大勢の翼士隊のソラウィが整列しており、一部は村内へと進入を始めている。ハナは心配そうにフェレロに聞いた。
「ねえフェレロ、村でなんかあったのかな……」
「すごいな……あれ、マッキナなんだよね……飛ぶんだよね……」
「フェレロ……そっちじゃなくてッ」
大型飛行機械に目が釘付けになってしまっているフェレロをハナは小突いた。見てよ!あんなに沢山のソラウィが村の中に入って来ているのに!フェレロはその縦隊の上を低空でかすめつつスキッドを展開し着陸態勢に入る。頭上を突き抜ける乾いた機関音に行軍中の翼士隊は即座に警戒体勢を取った。
「上空にマッキナ!」
「対空防御!君将をお守りしろ!」
数人の従者によって瞬時に張られる惶の掩体、その周囲を取り囲んでいる屈強な翼士がF/Fに向けて惶波を撃とうと身構えるのを、全面滑らかな純白の鎧に身を包んだソラウィが手をかざして制止した。
「よせ、手出しは無用だ」
「何故です?君将!危険であります!」
「わからぬか、あの美しき揺らぎ……見事な惶ではないか……」
その声は女性であった。見れば頭部のほとんどを覆っている冑の首筋からは黄煌色の長い髪がたなびき、ソラウィの象徴でもある七色の翼に重なりベイルのように長く風を孕んでいる。まるで花嫁のような清楚で艶やかな佇まい、しかしそれとは裏腹に胄の間隙よりわずかに覗く燃え滾る瞳、そして厚い装甲の裏からでも透過してくる惶の光芒は並み居るソラウィの比ではなく、その力をもって国を統べる種族の長にふさわしい威厳と畏れに満ちている。「白き甲冑の皇女」は先ほどF/Fを撃とうとしていたソラウィを呼びつけて命じた。
「貴公、あの者の居所を確保せよ」
「はッ!拘束致します」
「そうではない、あの機体、カロンの報告にあったマッキナかもしれないのだ。もしそうであれば協力を仰ぎたい」
「協力……?」
従者の翼士は怪訝そうな表情を見せた。このリエラにおいてソラウィとヒュピィアの間には厳然とした格差が存在しており、いわば劣等民族といえるヒュピィアに対してソラウィは蔑みにも似た感情を抱いているのだった。
「何もあのような卑しい者の助力を得なくとも……それに君将、あのような小民のマッキナにヴェルクトゥを浮上させる力があるとはとても思えませぬ」
「そうか、貴公はあの機体に何も感じなかったのだな……ソラウィともあろう者が……それでは我が望を共に成し遂げることなど出来ぬ。もうよい、私が赴く」
「ネ……ネュピアス君将!」
白き甲冑の皇女、ネュピアスは肩より靡かせた翼を大きく広げた。溢れんばかりの惶波が周囲を覆いつくし、彼女の白輝の甲体は遥か高空へと舞い上がった。俯瞰する小さな集落、村はずれの平坦な草原をバウンドしながら滑走しているF/Fを見つけたネュピアスは、遅れて随伴してきた翼士たちにそのマッキナを指し示した。
「お一人では危険でございます!」
「フン、行くぞ、遅れるな」
わざわざ通常の手順での着陸を試みたフェレロは、十分に推力を絞れない新しい妖精機関に戸惑いながらも、なんとか失速に入れて荒っぽく機体を接地させた。急激な沈下により二度三度バウンシングしたF/Fは前縁で原野の草を刈り飛ばしつつゴランの家の庭へと向かう。ハナはまたまた落っこちそうになってフェレロに叫んだ。
「ななななななんて着陸するのよーッ!」
「あつつ……特別なマッキナって思われるのはまずいよ、だってさっきの……あれはソラウィの……あれ?」
「ねえフェレロ、前ッ!家にぶつかっちゃうよ!」
「……うん、止まんないみたい、アイドリングに出来ないのかな、この機関」
「えー!せっかく帰ってきたのにこんなのいやー!」
一度満ちたチェンバーの内圧は類いまれなレネリィ、ルゥラの過剰な惶の供給によりなかなか低下しない。あふれ出す残存推力はあらゆる手段を講じてF/Fを減速させようとするフェレロの操作など全く受け付けずに機速を保ち続ける。フェレロは伝声管に叫んだ。
「ルゥラ、緊急パージするよッ!」
「アイ?」
動作異常時にレネリィの安全を確保するため、妖精機関には大抵脱出装置が備わっている。フェレロは黄色で縁取りされた赤いカバーを跳ね上げ、その奥の取っ手を思いっきり引いた。機首のカバーが飛散し、むき出しとなった機関部の中央から円筒形のシリンダーが勢いよく射出され宙を舞う。白煙と共に突然推力を失ったF/Fはつんのめるように地面へと突き刺さり、周囲の柵をなぎ倒してようやく止まった。急停止で計器盤の縁にいささかおでこを打ちつけてしまったハナは涙目でフェレロにわめく。
「いったー……もーいつもこうなんだから!フェレロのヘタくそ!」
「は〜止まった……ごめんハナちゃん、痛かった?ハハ、赤くなってる」
「うぅ、あたりまえだよー!」
「ハナ!よく無事で戻ったな!フェレロも……」
駆け付けたゴランは、二人のいつもの掛け合いにホッと胸をなで下ろした。あれだけ派手な着陸を敢行したにもかかわらず、華奢なはずのF/Fの損傷はほとんど皆無であり、ゴランは改めてフェレロの飛行感覚に感心した。
「ただいま戻りました、ゴランさん」
「うむ」
「ねえパパ、あのね、あのね!」
フェレロははしゃぐハナに気づかされて上を見た。ヴーの薄い明るいオーデルの空、通常なら降下傘を展開して着地の衝撃を和らげるはずの妖精機関のシリンダーは、なぜか射出された形状のままでふわふわとこちらへと漂ってくる。ゴランはその光景を見て驚いた。
「!……な……なんでシリンダーがひとりで浮いているんだ?」
「へっへー、すごいでしょ、すごいでしょ!」
ハナは早く話したくて仕方のない様子、フェレロは近づいて来たシリンダーを手にすると、ゆっくりと地面に置いて鈎を解放した。隙間から鮮やかな惶波が溢れ出し、眩い光球と共に元気な声がひびいた。
「アイアーイッ!」
「な……こいつがあの重いシリンダーを浮かせてたと言うのか……しかも……この輝きはいったい……」
「うん、この子はルゥラ。でもね、ネーロなんだよ!」
「何い……お前ら……まさか、本当にラーマへ降りたのか?」」
「はい、そこでこの子はネーロにしてもらったんです」
ラーマがどんな所かをよく知るゴランには、半人前の彼らがあの谷底に行って戻ってきたなんてとても信じられなかった。しかし目の前でフェレロと戯れる蒼の光に包まれたルゥラは、確かに無限の惶を持つと言われる最上位のレネリィ、ネーロの姿に間違いなかった。ゴランは周囲に目をやると、荒っぽく手招きしてフェレロ達を招き入れた。
「村外れにソラウィの巡惶艦が不時着してるんだ、取りあえず皆中へ入れ、話はそれからゆっくり聞こう」
「ああ、あれが……わかりました」
「ごはんだごはんだ〜!行こ、ルゥラ」
「アイ……イ?」
ルゥラが何かの気配を感じて振り向いた、そこには真紫の軍装を纏った従者に守られた、大リエラ翼士隊君将にしてその頂点に立つソラウィの指導者、ネュピアスの姿があった。
「少年よ、その話、私にも聞かせてもらおうではないか」
簡素な佇まいのゴランの住居、広くはない居間でネュピアスとその従者からの詮索を受けているフェレロを、ゴランとハナは台所で調理のふりをしながらちらちら覗き込んでいた。リエラの指導者……フェルビナクを滅亡させ、一代でこのソラウィの国家を築いた圧倒的な力を持つ種族、新地淅において自らの惶の消費を押さえるために着用している全身を覆う甲冑は、二人にとって忘れる事のできない憎悪の対象なのであった。ゴランは手にした調理用のナイフを握りしめてこみ上げてくる激情に耐えていた。
「あいつ……!出来るなら、今すぐにでも切り捨ててやりたいぜ……」
「……パパ、だめ、そんなことしたら……でも……ハナだってくやしいよ、見てるだけなんて!」
「毎晩エレナや国王、そして焼かれて死んでいった多くの民の声が聞こえるんだ。フェルビナクを返せと……なのに……」
「おい、俺たちはソラウィだ、食事ならいらねぇぜ。変なこと考えてないでこっちへ来い」
随伴してきた翼士が台所でこそこそ話しているゴランとハナに声をかけた。フン!口なし鳥のエサなんか誰がつくるか!フェレロ……フェレロにはわかんないんだよね……私たちのこの気持ち……ハナは複雑な気持ちで居間のテーブルの面々を見つめた。フェレロは凛とした態度でネュピアスとの交渉に臨んでいる。ゴランはそんな物怖じひとつしない彼の度量に頼もしささえ感じていた。
「つまり、出力不足で不時着してしまったあなた方の巡惶艦を動かすのに、ルゥラを差し出せということなのですか?」
「出来ればそうして欲しいが、強大な惶を秘めているネーロの意思を無視してむりやり従わせるのは無謀というもの、我々も貴重な艦を失いたくはない。ヴェルクトゥが首府に戻れるだけの力を貰えればいいのだが、協力してもらえないだろうか?」
冷酷非道で知られるネュピアスらしからぬ穏健な交渉に従者は首を傾げた。その惶波をもって広大な国土を瞬時に焦土と化した翼士隊、彼らにとって"普通の"レネリィなど脅威でも何でもないのであった。一向に進捗しない交渉にいら立った翼士のひとりが、やおらルゥラをわしづかみにしてネュピアスに進言した。
「ア、アィィィ!」
「君将!こんな奴さっさと頂いて帰りましょう!」
「馬鹿者!やめんか!」
次の瞬間、その翼士の身体が一気に膨張したと思うと、無数の光の球となって爆散した。冷たく燃えながら部屋中に飛び散るソラウィの肉、程なくそれは燃え尽きて光を失い何も残さずに消滅した。側にいた従者達は恐れおののいて後ずさりする。
「な……き……消えた……」
「愚かな……惶力においてネーロはお前達より遥かに高位の存在なのだ。いいか、絶対手荒な真似をするな……すまないフェレロ君、無礼をお詫びする」
「い……いえ……ルゥラ……何も……」
「アイ!アイ!」
初めて見たネーロの力の凄まじさにフェレロも言葉を失った。純粋であるが故の容赦ない惶の放出は一人のソラウィをやすやすと消し去ってしまったのだ。フェレロはぷんぷん腹を立てているルゥラにおそるおそる話しかけた。
「ねぇルゥラ、さっきの人はあれだけど、この人たち、マッキナが飛べなくて困っているんだって、助けてあげられないかな?」
「アイ!」
「うーん……だめ?」
ぷいと横を向くルゥラ、余程さっきの手荒な扱いが気に障っているようだ。苦笑いしてそのくるくるした巻き髪をつっつくフェレロにさえ仏頂面を決めつけている。しかしそんなルゥラの心に、どこからかかすかに助けを求める同胞のコトネが響いてきた。
「ア……アイ……」
「ルゥラ?どうしたの」
「アイアイ!アーーーーーーイッ!アイ!」
ルゥラは突然悲痛な表情でフェレロに叫んだかと思うと、庭で半分めり込んでいるF/Fへ向かって飛び出していった。フェレロはあわててその後を追う。
「ルゥラ!」
シリンダーの射出された妖精機関の中央部の孔を指差してルゥラが呼ぶ。フェレロははっと気がついて足下に転がっている円筒を拾うと、今にも泣き出しそうなルゥラのもとへ走っていった。
「……たくさんのレネリィがあの巡惶艦……ヴェルクトゥの中で焼けている?そうか、あの機関にはオーギュメンタが……わかった、すぐ上げるよ!」
フェレロはシリンダーを機関に元通りに装着した。ルゥラは待ちきれないかのように自ら機関を始動させ、F/Fは暖気もないまま臨界に達した。
「おい貴様ら!どこへ行く?」
ゴランの住居の外苑を警備していた翼士達が、今にも浮上しようとしているF/Fの行く手を阻む、フェレロはルゥラの心の声を背後のネュピアスに向けて叫んだ。
「あなたたちは気に入らないけど、同胞が苦しんでいるのを助けたいって言ってます」
「わかった、感謝する。かまわん、通せ」
「し…しかしっ……」
「ルゥラ、巡惶艦へ!」
「アイ!」
F/Fは一瞬翼を傾けたかと思うと、閃光を残して村外れへと消えていった。そのあまりの速さに翼士達はなす術がない。ただ呆然とその航跡を見送っている彼らを、ネュピアスが激しく叱咤した。
「なにを惚けているか!追え!ソラウィを名乗るなら追いついてみせろ!」
「ハ、ハイッ!」
慌てて後を追う随伴の翼士隊達、しかしその駿さの差は歴然で、ネュピアスは自らの種族の力の衰退を悟らずにはいられなかった。
「急がねば……もし、あのレネリィがラーマからもたらされた物だとすれば、その元凶は……」
そう言うと、ネュピアスもその後を追うべく高く虚空へと舞い上がった。
見上げるほどの高い両翼、首府の礼拝堂かと思えるほどに広大な機体の動力室に案内されたフェレロとルゥラは、その床面を埋め尽くすおびただしい数の妖精機関を目の当たりにして言葉を失った。ルゥラの輝きに気付いて顔を上げ、二人のもとへと歩いてきた研究者風の男……どうみてもヒュピィアなのだが……その男は興味深げにルゥラを注視するとフェレロに右手を差し出した。
「やあ、協力感謝するよ。私はハース・ラニガン、リエラの技術者だ。よろしく頼む」
「これは……い、いったい何基の妖精機関があるんですか?」
「片舷120基、浮上用も合わせると計302基になるな。それでも慢性的な出力不足だよ」
フェレロは差し出されたハースの右手に気がついてあわてて握り返した。
「これだけあっても足りないんですか?」
「ああ、どうもレネリィの惶波を過大評価していたみたいでね。過熱で次々とダメになってゆくんだ。今まともに稼働しているのは6割くらいだな」
「ダメって……それじゃ中のレネリィは……」
フェレロはF/Fで赴いたラーマの底での出来事……限界以上の惶を放出してしまったルゥラの悲惨な状態を思い出して戦慄した。馬鹿な……ここにはあんな状態のレネリィがいったい何人いるって言うんだ!フェレロはハースの胸ぐらにつかみかかりたい衝動をぐっとこらえて指示を促した。
「どうすればいいんだ?早く!このままじゃみんな死んでしまう!」
フェレロの切迫した言葉を受けたハースは、それでも飄々として手近のいくつかの妖精機関を点検して回った。そのうちの一つ、完全に出力が途絶えてしまっている機関の前に立ったハースは、シリンダーの横に突出している排気弁のコックを捻った。
「ん?全然圧がない……これは焼失してしまってるな。丁度いい」
ハースはシリンダーを解放した。高熱でゆらぐ筒内にはレネリィの姿はなく、ただ鼻を突く匂いがその主の運命を物語っていた。フェレロはこみ上げる異物感に思わず口を押さえた。
「ここを使ってくれ。全ての妖精機関に直通している部位だ」
「あの……オーギュメンタ、切ってもらえませんか……おぇ……」
咽ぶフェレロの姿を冷ややかに見つめるハースは、表情一つ変えずに循環ポンプの接続を断った。
「余熱でしばらくは熱いがそのうち冷える。ネーロの出力、見せてもらうよ」
「……はい……ルゥラ、こっちだ」
怒りと不快感でおかしくなりそうな頭を何とか正気に保って、フェレロは示された妖精機関にルゥラを呼んだ。筒内に残る気配に気がついて目を伏せるルゥラ、でも鼻を押さえてひと思いにシリンダー内へと身を投じた。ハースが起動位置へと操作輪を回す。
「頼む、フェレロ君」
「……ルゥラ、コンタクト」
「アイ!」
「な……なに?」
不意に動力室内の妖精機関の出力が総て途絶えてしまった。機内の全照明が落ち、外部へと放出されていた大量の惶の放出もぱったりと止まった。深刻な事態に騒然となるソラウィ達、彼らにとって惶の供給を断たれるという事は死活問題である。ヴェルクトゥへと戻ってきたネュピアスは艦に発生した異変を知り、狼狽える部下達に詰問した。
「おい!何をやっているか!」
「は、と、突然機関が停止してしまいまして……」
「何だと……あの小僧、何をしてくれたというのだ」
ルゥラの発する強烈な惶の波動を察知したネュピラスは一瞬にしてその場から消えた。機体の中央部、重心位置の床下に設けられた動力室に忽然と現れた彼女が見たものは、暗闇に閉ざされ、眠っているように静まりかえった妖精機関の縦列だった。
「ハース!どうなっている?」
「おや、これは君将、どうやら一旦全ての接続を遮断してしまったようですな」
ハースは隣に現れたネュピアスには目もくれずに、生体組織のように相互に結合された妖精機関群を凝視していた。やがて仄かな惶の発光がひとつ、またひとつと灯りはじめ、それは見る見るうちに全てのシリンダーへと伝播していった。微かな振動音と騒然と飛び交うレネリィ達のコトネ、その高まりが頂点に達したとき、各々の妖精機関が一斉に燦然と光芒を放ちはじめた。
「うわっ!」
「き……来た……」
轟々と唸りを上げるヴェルクトゥの主機関、過給圧は許容範囲を振り切ってなお高まってゆく。蒼光に目も開けていられないほどの多量の惶の放出の中で、ハースは身震いしながら計器盤に目をやった。
「す……すごい!今までの稼働率を遥かに超えている!」
フェレロはしばし機関の周囲に巡らされた導惶索を走る多様の惶波の往来に目を奪われていたが、その中で交わされているコトネの中に聞き覚えのある声を感じて、慌ててルゥラの飛び込んだシリンダーに駆け寄って叫んだ。
「ねえ!ルゥラ!大丈夫なの?」
「アイ♪」
「……よかった、うん、今出してあげるね!」
フェレロはホッとして機関からシリンダーを排出した。さっきとは違って冷ややかな感触の円筒から飛び出てきたルゥラの輝きはさすがにちょっと弱々しく、ふらふらとフェレロの肩に止まると安心したようにその首筋にもたれかかった。室内の妖精機関の隅々にまで行き渡ったルゥラの惶波は生き残っていたレネリィ達の命数をネーロ並みに回復させているようで、フェレロはアイエルから連綿と受け継がれている惶の連鎖に運命的なものを感じながら、頬を寄せてくるルゥラに優しく言った。
「ありがと、ルゥラ」
「アイ」
「うん、みんな元気になったんだね。よかった……ルゥラ、帰ろうか」
「アイアイ♪」
今までにない強大な力をその手中にしたハースは完全にその虜になってしまっていた。各部署に次々と指示を出し、再びこの巡惶艦を浮上させるという野望で恍惚としている。フェレロは彼に対する嫌悪感を残しつつも、ルゥラを伴って動力室を後にした。
「フェレロ君、どうやら礼を言わなければならないようだな」
「え?……い、いえ……お役に立てて良かったです」
一部始終を見守っていたネュピアスがフェレロに労いの声をかけた。リエラの、ハースのやり方は確かに気に入らないけれど、少なくとも大勢のレネリィを助けられたことはフェレロにとって何よりも嬉しいことなのであった。手厚い警護に囲まれて機外へと歩み出てきたフェレロとネュピアスを、走って追いかけてきたハナとゴランが出迎えた。
「フェレロ!」
「ハナちゃん、上手くいったよ」
「アーイッ♪」
巨大なヴェルクトゥの翼の下、まるで観閲式のように整然とならんだソラウィの隊列を背に、従者を従えて歩いてくるフェレロ達にハナとゴランは目を見張った。
「フェレロ……なんか……ソラウィの英雄みたい……」
「ああ……好かんな……」
護衛してきた翼士が敬礼をして引き下がり、共に向かい合ったフェレロに向かってネュピアスは質問した。
「フェレロ君、どうやら君はマッキナの操縦に長けているようだな。今度のジャントゥユには出場するのか?」
「え……ええ、一部予選からですが」
「なるほど……首府に到着したら我が居城に立ち寄るといい。寝所と食事を用意させよう」
「え?……は、はい、し……しかし……」
思いもよらぬネュピアスの申し出にフェレロは驚いた。ソラウィの、そして一国の王とも言える人物による王宮への招待、それはかつてヒュピィアでは誰も受けた事のない最大級の歓待であった。返答に臆しているフェレロを残し、ネュピアスはヴェルクトゥ発進の檄を飛ばした。
「では、健闘を期待している。ヴェルクトゥ、発進だ!」
「あ……はい、ありがとうございます」
ネュピアスは護衛を伴ってヴェルクトゥの機内へと戻っていった。居並ぶソラウィ達が整然とそれに続き、解放された扉がゆっくりと閉じてゆく。フェレロ達は次第に強まってゆく惶の噴出に慌てて距離をとった。
「ねえ、どうだった?あのマッキナ」
「ハナちゃん……うん、よくわかんないんだ……大勢のレネリィに無理させて、どうしてあんなに沢山のソラウィを乗せなきゃいけないんだろう」
「フェレロ、あれは、恐らく他国かどこかを侵略するために建造されたものだ……惶のない地域において兵を活動させるための、いわば空飛ぶ惶泉ってところだろうな」
ゴランの洞察はたしかにその巨大な巡惶艦の任務を暴いていた。草原に吹きすさぶ惶波の中、フェレロは浮上してゆく大きな影に得体の知れない畏怖を感じずにはいられなかった。
「ネュピアス……首府で……いったい何が待っているっていうんだ……」