初恋の匂い
先日咲いたばかりの花から悲鳴が聞こえて、少し錆びた鋏をその肌にそっと押し付けた。心臓に妙に汗をかく。同時に鼻腔を裂くような香りが駆け巡る。
鉄のようで、少し油っぽい香り。心地良くもあり、それでいて不快だった。
私はあの子と出会ってから、胸に異物が混入している。刺々しく、それでいてシルクのような、相反するもの。
世界の他の全ての美しさが損なわれて、心が縛られている。ただあの子には惹かれる。人ならざる生命力を感じさえする。
花は残酷であり、時には美しい。見向きもせずに去っていく傲慢さと、艶やかな姿に目を絡め取られるほどの、独特の世界を持ち合わせる。
心に訴えかけてくる。生きているのだと。ただ、その訴えに答えることは、もうできない。私の中には元々あった何もかもが、変わった。
一つ私の側にあるのは、声をあげることのなくなった「花」である。
20を過ぎた年であったが、生まれてからおそらく世間で恋と呼ばれる経験を持ち合わせていなかった。
小さい頃に、花を見るのが好きになった。母が生け花を嗜んでいたこともあり、椿や牡丹のような花には親しみもある。
生命力をひしひしと感じさせるところ、凛とした見た目や鋭くも柔らかい香りが心を擽る。土という、広くて狭いところに世界が存在しているという事実に、興奮すら覚えた。
砂場で燥ぐ子どもを横目に、花を愛でる。真珠よりも、宝石よりも、月の方が綺麗で、心が満ちる。そんな子どもだった。
世界が遠くて、手を伸ばしても触れることさえ叶わない自分というものが、なんだがわからなかった。ぼんやりとした輪郭をなぞってみても、水滴が消えていくだけ。
感謝をされても、「ありがとう」という文字としてしか受け取れない。手のひらからは「ありがとう」というインクが溢れていくし、誰かの手をとっても、脈は乱れない。
私の心は、俯いて通り過ぎる小石を数えていた。
あの子と出会ったときは、少し春の訪れを予感させる時期だった。珍しく極寒の冬で、逃げるようにして春が擦り寄って来る。不思議と嫌悪感はなかった。
イヤーフォンをしていたのに、桜が今にも産声をあげているのが聞こえる。寒がりな私は、時宜に合わない外套を羽織っていた。
そんなときに、あの子は私の前にぼうぼうと命を輝かせていた。暖かかった。暗がりで燃える暖炉そのものだ。
そのときはまだ、特別な感情を抱いていなかった。偶然共通の友人を持っており、お互いを人間として認識しただけ。初めは軽く挨拶をしたのみで、胸の高鳴りは起こる余地もない。
ただ、あの子には明確に惹かれる理由が存在した。見た目や仕草も去ることながら、ほのかに森の香がする。
彼方此方に木の実が落ちている。こっちにおいでと、熊やリス、梟が声を掛けて、呼んでいる。そこにいないはずの人影さえも。苔むして藻が張った池では、鯰が縄張り争いをしている。
そして何より、花の香りがするのだ。香水などではない。普段から、花に触れている匂い。親しみが持てる。
気味が悪く、それでいて芳醇な香りである。
寒さが緩むのに合わせて、春先に纏っていた外套はクローゼットに帰っていった。
「明日」という言葉はどうしてこんなにも魅力がないのだろう。同じことを繰り返す、という意味の言葉だ。
明日のことは始まる前からもう決まっている。
朝起きたら、電車に揺られているだろう。肌が触れ合うひどい不快感。湿った体温が、重くのしかかってくる。もちろん、体ばかりで心が震えることなどない。
身体だけが無為に運ばれていく。
親から離れたかったから、その場しのぎで入れそうな地方の大学に進学した。特別な苦労もなく収まってしまった。そんなところに、意味は見出せない。
壊れたラジオに電池を入れて、カチカチとスイッチを叩いても鳴らないのと同じだ。
窓から外を覗くと、ベランダのアネモネが数輪こちらに気がつき、微笑みかけてくる。それだけが心地が良かった。
明日が来たらしい。良い夢は見れなかった。
近くではっきりとは見れなかったが、あの子の華奢だが女性らしい体躯や少し長い髪、すらっとした横顔ははっきりと私に語りかけてきた。
少し荒れた肌、化粧で隠しきれずうっすらと残る目の隈、虚ろな目で頭をぐったりと机に押し付けるさまは寧ろ、ありのままのあろうとする、直向きな姿に見えた。
遠くにいるのに、あの子の匂いは鼻にいる。残っている。目と鼻が出会う、体の奥の奥に、甘くて不思議な匂いが刺さったままだ。教授の声だけが響く閑静な講堂に、ブラウンの髪が映えている。
美しい女性はいくらでも見たことはあるが、薄汚い部分がベール見え透いている。洗っても洗っても取れない汚れがこびりついた顔。美しくても、震えない。
理由は全くわからないが、あの子はまだ、それが見えない。初めてだ。あまりにも美しく、目が離せない。
講義は相変わらず退屈だった。どんな内容だったのかも頭に入っていない。ただ、少し面白くはあった。同じ空間で同じものを届けても、届くものが違うという事実は、歪んだ自然を象徴している。
あの子はすごく綺麗なのに、薄く儚い蜃気楼の様で掴みどころがない。そのうえ、内側もほとんど見えもしない。
そうして何事もなく帰路についた。桜の花は所々開き始め、人々に春を告げるために花弁が空を走り回っていた。
ようやく春らしくなった。随分と寒い冬をこじ開けてきたので、短くなりそうだ。
この日は友人とカフェで談笑をしていた。注文した珈琲はいつもより冷たくて、苦味に舌が驚く。今度数人で旅行に行く、その旅程の相談だ。予定では、下呂温泉に向かうことになっている。
私は、合掌村に寄りたい。合掌村にいけば、自然の豊かさに心が潤うだろう。都会の荒んだ世界とはまるで違う、格調高い美しさ。
そんなことを話している、すごく楽しい時間だ。楽しみなのは、旅行ではなく、都会を離れるという行為にある。彼らは足湯巡りや食べ歩きの話をしていた。話の内容は遠くを飛んで、話題を載せた飛行機は消えていく。
ぼーっとしていると珈琲に塩を入れてしまった。不思議そうな目が、いくらか私の方に向いて居る。
私の心は、あの子の方に少しばかり傾いていた。周りからみても気づかないくらいに。
まだ、数回会釈をしたくらいなのに、その度に心が互いに触れ合って、得意になる。ただ、ずる賢いと云うか、上手いと云うか、私の心を手に入れようと、適度な距離を保たれる。あの子が話しかけてくることも有れば、完全にそっぽを向く日もあった。
頻繁にリップを塗り直しているその肉厚な唇は、果実が実った花の優美さを生き写したようで、唇が動く度に息が詰まる感動がある
化けの皮を被ったまま、人付き合いが始まり、被ったまま終わる。避けられる悪寒、手中にあるものがポロポロと溢れていく絶望感。人からの拒絶と云うのは、世界を錯覚させる。
旅程の話をしながらあの子のことを聞くと、快く連絡先をくれた。直接聞けば良かった。
少し日が経ち、桜はついに咲き誇る。周りには人が虫のように群がっている。
普段は花に興味を示さないのに、宴だけを楽しみに、花見だからと固定観念に突き動かされるままに、桜のもとにやってくる醜い人間ばかりで、酔いそうだった。
桜の樹は困っている様子だったけれども、どうしようもできなかった。
あの子の連絡先はもらったが、スマホに触れる指が無意識にそこを避けて、一度も連絡はしていない。顔を隠したアイコンは、現代の女性を体現したものだ。そこに移る髪も、写真とは思えないほどの動きがあり、風に靡いている。
相変わらず退屈な日々が通り過ぎる。講義のとき、その内容にかこつけて話しかけてみた。甘い蜜を吸いに来た蜂の気分になる。
「今日の授業は課題とかないですよね。」
「ないと思う。あんまり話聞いてなかったの?」
話してみると耳がぬるま湯に浸かっているような、不思議さが残った。あの子の声はクリアに聞こえる。目には隈が以前より残っており、疲れているのか甘く冷たい返事が返ってきた。
講義の内容について、少しだけ会話をしたら、寿命を迎えた花が、最後の力を振り絞って、美しい花弁を散らした。あの子は静かに何処かへ去って行った。
同じ日に、ある男が私に話しかけてきた。帰る方面が同じだったので、少しだけ話しながら帰った。街角では子ども達が互いを追いかけながら走り回っている。公園の桜が舞い、通り道を美しく飾る。花弁が反射した光が眩しくて、しばしば目を閉じていた。
話の内容は、どうしてかほとんど覚えていない。
自立している花を見ると、この世界から解放される気分になる。1人で生きている。なんの助けも受けずに、自然のままで。
太陽の方に向かって、気持ちよさそうに花弁を揃えて差し出している。空の乾いた青に、混色のアネモネが色を添える。なんとも美しい光景だ。
人間と花とでは根本から違う。周りからの享受がないと生きられないくせに、自分一人で生きていると、自立していると、恥ずかしげもなく云うような、我が物顔で世界に鎮座している人間とは。
遠くからあの子に届くように、液晶に向かって指を動かしてみた。これもまた、講義の内容についてだった。ここに明確な因果は存在しないはずだが、相変わらず講義そのものはつまらない。
「レポートのことで少し相談あるんですけど、問題はないですか?」
経済についての講義。老骨にムチを打ちながら、退屈そうに教授がいつも講義をしている。きっと研究にしか興味がないのだろう。大学の都合で講義をしているだけです、と云われている気もする。
経済の営みとは、元来自然にはなかったものだ。人間のが作り出す利己的なもの。こんなものを学んでも、世界についての理解が進むわけではない。自然の思いも、聞こえないままだ。興味がないから、本当に内容を覚えていなかった。
返事は来たのだろうか。心臓をギュッと潰されて、思わず机に突っ伏してしまう。なんとも気持ちが悪く、酷い痛みだ。
スマホを持つ手に、不思議と力が入っていた。あの子からは、レポートの内容について暖かく返事が来た。
「全然いいよー。どうしたの?」
ハートの絵文字がついていて、指先にはほんのりと温もりが残る。木の温もりのような、優しく包み込むもの。文字を媒介とした会話でも、温もりがあるとは思わなかった。
スマホから異様な音が聞こえた気がする。キシキシと軋んでいる。久しぶりに人に連絡などしたからだろうか。使い古された置物のようだ。スマホを置くと、緊張から緩んだ手が悲鳴をあげていた。
友人同士の何気ない会話のつもりだったのに、微かに人の温もりがわかる。眼の前にあるのは、人類が生み出した心のない機械だというのに。
ただ、無性に、惹きつけられる。心があの子に向いてしまう。心の内側がまだ隠れているだけの、人間のはずなのに。目に移る世界は、あの子の周りはそっと輝いている。
明日が来た。やることは決まっていたから、心地よくはなかったけれど、新鮮ではあった。鳥たちが歌を口ずさんでいる。合わせて一緒に歌おうかとも思ったが、人目を憚った。
大学には、お礼を言いに行った。
「連絡どうもありがとうございました。」
「全然大丈夫だよ!助けになったのなら良かった。」
苦しみから解放されるような苦笑いを浮かべている。人当たりが良く、干されている布団が、陽の匂いを発するときのような心地よさがある。少し指先が切れているようで、絆創膏が貼ってあった。やはり、耳のあたりはぬるま湯に浸っている。
前に進んでいるのか後ろに進んでいるのかもわからないけど、心がひとりでにどこかに向かっていく気がした。
桜の花は段々と散り始め、それでいて新しく花が芽吹いくような姿を見せていた。
私は小さい頃、なんでもハイと返事をする馬鹿ではなかったが、十分素直な子どもだった。親戚と会うと、若いのにしっかりしているねと、よく褒められたものだ。
あるときかつての級友の1人が故意に、共同の花壇を踏み荒らした。周りでヘラヘラと雑音もしたのに、私には命を踏みにじる音がより鮮明に聞こえてくる。6つか7つのときだ。
よく覚えている。赤いサルビアが踏み潰されていた。土の上には血痕が残されていて、胸が傷んだ。鉄が混じった血生臭い香りが、未だに残っている。
帰りのホームルームのときに先生からはその言及があった。待たされているクラスメイトへの罪悪感からか、踏み潰した罪悪感からか、真相はわからない。
「あそんでいたら、すべってころんじゃいました。わざとじゃないです。」
何かを守っているのかという錯覚さえ覚えるような、必死な証言。
私はどうして嘘をつくのかも分からず、見た事をありのまま話した。
「わざと踏んでいました。自分からです。」
級友の視線に強くぶたれた。先生はきっと、私が真実を言っていることを知っていたのだろう。面倒事を避けるために私のことを否定した。人間だから。
「嘘はいけませんよ」
と耳に残る言葉がかけられる。生ゴミを想起させる異臭でもしたのか、私の発言はゴミ箱に放り投げられた。お前が間違いなのだと。
そうして有耶無耶になったままその時が終わった。死んだのに、いや、殺されたのに弔いの言葉もかけられないんだなと可哀想になり、その酷い死姿を憂いてから帰った。力強い赤と緑のコントラストが、冷めた土の上で一際目立っていた。
次の日からの周りの対応は、ひどいものだ。至る所から棘がささり、じわじわと痛む。遠くから石を蹴られる疎外感。苛立って踏まれる地面のような。
純粋なフリをしているだけで、皆、禍々しくグロテスクな塊を、必死に仕舞おうとしている。
自然とは根本的に違う。ありのままが、許されない。花たちはあんなに自由に生きている。虫や動物と対話をしながら世界を作ってきた。自然の摂理だ。それなのに人間は対話ができない。
仮面を被ったまま生きて、他人の心の中に私を置き去りにすることもできなくなった。そこ明確な境界が存在する。表には喜怒哀楽は存在する。無限に続くマトリョーシカのように一番外側がめくれるだけ。ホンモノには辿り着けない。心のうちから湧き出るものではない。
少し大きくなってからでも、人との間には壁がある。硬く大きく、内側になるほど、厚くなる。
壁の一番外側には、私の仮面が存在した。世界から見れば、それが私自身となるように。友達はいるが、心の何処かで人間性を疑っている。信じることはできない。
この頃から、花を眺めると心が落ち着くようになった。
あの子からも、人間の香りがした。ただやはり、森のような香りが、許可も取らずに鼻に入る。甘い胞子のような、花というよりは寧ろ生い茂る草木のような、生きた香り。
朝になると、珍しく霧が立ち込めていた。昼前になるとすぐに晴れたが、朝方は見通しが悪く鬱陶しくもあった。人間とは対照的に、花達は、湿った空気に嬉しそうに見えた。久しくシャワーを浴びていないようで、雨乞いをしている。
最近気づいたことなのだが、あの子は軽音のサークルに入っているらしい。ドラムの音、ギターの音が耳に触れる。下手くそなのか、雑踏に聞こえる。どこかからバチーンとギターの弦が切れる金属音が耳をつんざいた。
ヴォーカルの声も遅れて届く。小慣れた様子でその声を脳に響かせ、調和を取るかのように耳の中で楽器とのセッションを起こす。
あの子のバンドも見つけた。窓は近くにないのに、有象無象の中で特別陽の光が差していた。ルッキズム的なものではない。此方を見てくれと言わんばかりに月明かりを帯びていて、目が離せない。人間の中に混ざる天使の姿を見ると、心が潤う。
あの子がギターの音を響かせる。無機質な金属に、生き物のように命を芽吹かせる。手慣れているのか、圧巻の指捌き。顔には少し疲れがあり、周りと同じで暗かった。
バンドについては、敢えて触れなかった。薔薇の茎を持つことを躊躇うのとまるで同じだ。
あの子がギタリストだったこともあり、ドラムを始めることにした。家にドラムセットも買った。狭い家だから見苦しいが、心には広々と青空が広がっている。
重低音が鳴り響き、ハイハットの音がその隙間を縫い合わせるように介在した。だが、一度音楽が始まると、むしろ音楽に支配されている。自由が与えられず決められたリズムを打ち続ける理不尽。音楽を支配する存在であり、それでいて音楽に支配される。自由にドラムを始めたのに不自由を与えられる。やはり、ここは社会の縮図だ。
それから毎日、ドラムに音を芽吹かせるように、ドラムスティックが踊る。音が宙を舞う。まだ不規則であるが、アネモネもこのリズムに喜んでいる様子だ。
だが近頃、ドラムスティックの手の焦点が定まらないことが増えた。疲労や倦怠感ではない。ただ何か、異物に対する抵抗のような、変化を嫌う音。指先から手首、肘に至るまで、痺れる感覚に苛まれる。クスリでもしているかと錯覚させる震えだ。
どうしてこんなにも、あの子が心に残っているのだろうか。仕草一つを取っても、どこか生命が感じられる。
帰りの空は、どんよりとした様子だった。通り雨に遭ったが、幸い折り畳み傘を持っていて濡れることはなかった。
明日がきた。講堂に入ると、人と机が戯れるように至る所で混ざり合っている。均一に作られ、整然としている講堂よりも、整地されずに荒れたままの道の方が、幾分か綺麗だ。
歪みというのは私の趣向と合致する。自然界には、直線はほとんど存在しない。
部屋、机、その上に置かれた本、その中の一ページ、その中の文字。一つ一つが直線を帯びている。奇妙だ。何もしていないのに整頓されたかのような顔をして、堂々としている。
机一つを取っても、一つ一つに命が宿っている。ひび割れや傷は、継ぎ接ぎされた木同士が、折り合いが合わないと、不満を言っている証拠だ。
同じものが複数あるのも、好ましくない。自然ではありえない。寸分違わず、同じ商品が量産されていく。草木や人は、何一つだって同じものはない。それぞれが、個性で溢れたまま歪んでいる。ありのままとは何かというのを、まざまざと語りかけてくる。
月だってそうだ。球体ではない。たとえ満月でも球体ではない。その上、日によって形を変えるし表面には凸凹だってある。歪だから綺麗だ。それに対し、硝子玉というのは球である。色を差し込まれる具合によって独特の色味になっているが、人間の行為の結果にすぎない。根本から違うのだ。命は吹き込むものではなく、芽吹くものだ。
できることなら、静かな洞窟で暮らしたかった。山菜を採り、動物と共生する暮らし。花を愛で、月に思いを馳せ、詩に興じることが趣きとされる世界にいたら、どれほど良かっただろう。
やはり、歪みというのはどうも、心を擽ってくる。今日も、ベランダのアネモネは此方に微笑んでいる。最近、ブルーサルビアを花壇に植えた。アネモネや白いパンジーを見つめながら、そっと佇んでいる。ほんのり紫がかった花弁は一枚一枚が独特の形、向きをしていて、心に生命力を訴えてかけている。
一輪一輪の茎や、葉の筋でさえ、一つとして同じものはない。不均一が均一を呼び起こし、針の上に風船を置くかのような調和を保っている。
外の桜は、もうすっかり緑に変わってしまった。桜であった面影を感じさせまいとするように、ひっそりと、それでいて堂々と生きている。もう周りに興味を持って群がる虫もいない。通り過ぎる人ばかりだ。
地面に散った花弁は、依然としてその神秘を此方に認識させてくる。
暫くして、梅雨が訪れた。
桜の樹は水に濡れ、枝葉の節々に至るまで雫を垂らしている。ドラムの音は雨に打たれて、ハイハットは傘を差すかのように耳まで直接音を届けに来る。湿った音は、時々耳の中に潤いを与える。
珍しく晴れた日に、近くの植物園に向かった。雨で灰一色になる世界を絵筆で塗り直すように、鮮やかな花達が此方を見つめている。日向ぼっこが心地よさそうだ。
何か、花に紛れて特別な香りがした。鼻腔に語りかけてくる匂い。植物と対話をしている人間の匂い。色とりどりの紫陽花が、ブラウンの髪を映えさせる。
胸にあった異物が、「俺」はここだと言わんばかりに主張をする。仮面の下から、何かが疼いてくる。あの子も、私と同じで、綺麗な心を携えているのだろうか。
少し遠くから、あの子の事を覗いてみる。花よりも、何よりも、世界に彩りを与えてくれる。キャンバスの近くにパレットは置いてないはずなのに、絵そのものは完成する。花達は自ら色を塗るだけなのに、あの子は絵そのものとして私の美術館に存在する。
少し移動すると、花菖蒲が辺り一面に咲いていた。その花弁の一本の筋が、私の仮面の目に映る。光が中まで眩しく照らす。紫の花弁に残る黄色のコントラストに、目を奪われる。「あの子の方に向かえ」と言われている。
ガーデナーが、アガパンサスの花を切っているところを見かけた。一定テンポの鉄の音が、静かに園の中に響く。誰も彼も、花の見た目ばかりに気を取られ、自然ありのままを愛してはいないことを再認識させられる。
幸いにもあの子は一人で花を愛でていた。デジタルカメラに、絨毯のようなアナベルを収めている。
「偶然ですね。一緒に回りませんか。」
「いいね。君も花には生命を感じる?」
心は燃えていたが、できるだけ平静を装った。近くには沢山の命が咲いている。その中でも一際輝く花を手に添えながら歩みを進める。
「あ、この花知ってる?クチナシって言うんだよ!果実が熟しても身が破れないから、クチナシって言うんだって!」
他愛もない話が、私の心の仮面にヒビを入れる。鋭く、そして柔らかく、私の仮面に言葉一つ一つが触れてくる。実家が花屋だそうだ。花を見る目も優しく、本当に優しく愛でている。花に慈愛があることが、心に触れなくてもわかった。
「もう十分綺麗なのに、必要以上に手入れされて、少し可哀想だね。」
私の心にポッカリ空いた穴にコンクリートを流し込んで、隙間一つ無いように埋め始めた。やはり、そうだった。あぁ、同じ思想を持つ人間が生きる世界は、こんなにも美しいのか。クチナシの濃い香りが鼻の中にずけずけと向かってくる。
八重咲きしたタチアオイが、遊歩道で私達を出迎えている。空では梅雨らしくどんよりとした黒雲が積もり始めた少しすると、雨が降ってきた。
雨宿りも兼ねて、温室に入る。アンスリウムやブーゲンビリアで、赤く染められた空間。あの子は華やかさに燥ぐようで、軽い足取りで踊っている。
蜃気楼のようで掴みどころの無かった輪郭が、目の前に浮かんできた。
雨は先程よりも強く降ってきた。相変わらず、よくリップを塗っている。どんな果肉よりも魅力のある唇だ。
「そう言えば私ね、ペットを飼ってみたいんだ。猫ちゃんが飼ってみたいんだよね。」
何を言われたのかわからなかった。動き続ける世界で、思考のみが停まる。アクセルを踏んでも進まず、電池を入れても動かない。詰まったと思ったコンクリートは、ただの水となって流れていく。
「そうなんですか?」
「うん!小さい頃から猫を飼うのに憧れててね。やっぱりすごく可愛らしいよね。それにあたし、小さい頃からずっと植物とは接してきたから、今度は動物とも心を通わせたいんだ。」
「猫を飼う生活って、君は憧れないの?動物と一緒に暮らせるのって絶対に幸せだと思うよ。あたしは特にマンチカンが飼いたくてさ。」
仮面のヒビは、自然と元に戻り、それどころか以前よりも異形になった。命と接してきた人間が、動物を飼うことの意味が分からないはずがない。
「大変にはならないですか?」
「あたしこう見えて面倒見も良いつもりだし、何より飼いたくて飼っているから、大丈夫だと思う!」
熱帯スイレンの雄蕊が、稲妻に見える。轟音が耳を擦り、寒気が血液のように体を巡る。裏切られた。
理解ができなかった。命を支配することが。自然は、ありのままであるべきなのだ。人間色に染めることは許されない。花を愛でることとは違う。ありのままを、人間の手で歪めることは、自然の摂理ではない。
動物を飼うと言うことは、その命を人間の生贄として捧げること。時計の針を、自らの尺度で進めること。花を踏み躙ることに他ならない。
自然にはいない、人間のエゴで品種改良をされた猫を可愛いと神格化する行為は、私に針を刺してくる。なぜ動物に首輪を付けるのか。命を軽んじるのか。彼らの自由を奪う権利は、人間にはない。奴隷が許されないことと、何も違わない。
異物が段々と大きくなる。今度は仮面に内側からヒビが入る音が聞こえた。醜い金属音。
たが、この憤りは仮面を突き破ることはなかった。あの子からは、まだ森の匂いがする。まだ間に合う。植物園の草木の匂いではない。独特の匂い。森が此方を呼んでいる。
雨は止み、雲の隙間から陽が差し始める。杜若が光に照らされる。水に反射した紫の、光との対比は、舌触りが心地よい「猫を飼うのは、良いと思いますよ。」
「やっぱり君もそう思うよね!」
嬉しそうにして、スマホの画面を見せてくる。
「マンチカンって猫ちゃんはこんな感じだよ!すっごく可愛くない?このちっちゃい感じが、すごくいいんだよね!」
「可愛いですね。良いと思います。」
短い前脚は、人間の支配欲を完全に反映していた。しかし、嘘で取り繕うことしかできない。私の中の私は、もはや見せることができない。この選択を拒絶することは、あの子自体を拒絶することになる。月の雲隠れのように、人間ではどうしようもできないところまで到達してしまった。心は蓮子のよう、水に浮かんだままで、言葉は耳を通っていく。蓮子は、通っていく魚に干渉することはない。
歪んだ世界は、美しい。ただ、歪むことは自然で、必然でないといけない。人間の手で歪めることは、ありえない。支配は禁忌で、欲望は悪だ。人間のままだと、それに気づくことが出来ない。
あの子と居ると、心が奪われる。ただ、奪われると共に、明確に異物も生まれた。あの子の心は、今はもう此処にない。動物に向いている。人間に、近づいている。
蜃気楼はそっとその姿を隠し、ぼんやりした輪郭さえ、私から逃げようとしている。鳥兜がひっそりと佇む。青紫吸い込まれるような花に、身の毛がよだつような興奮を覚えた。
やはり、自分に嘘はつけない。
数時間経ち、植物園から立ち去った。帰り際に狐の嫁入りに遭い、少し濡れてしまった。桜の樹は、生命力に溢れた緑を携えて、堂々と聳え立っている。
狂っている世界は、直そうと止まることはない。命に救済の手が伸びることはない。間違ったまま進む。そんな世界は、あってはならない。
無情にも、明日は来た。葉桜は、その深緑を見せつけて、生きていることを心に刻みつけている。私の傷を癒す時間はなかった。先を急ぐ兵士のように、傷ついたまま進む。
大学につくと、あの子がいた。
周りにも人がいくらか居て、談笑をしている様子に見えた。講義が始まると、あの子も静かに教授の話を聞く。退屈なのか欠伸をしている。いつもより化粧は薄く、ありのままの姿に近いようだ。
あの子は今日は一段と、花のように見える。根のように、細くてしっかりとした脚。茎のように、滑らかで凛とした首筋の肌。花弁のような笑顔。
やはり、まだあの子は綺麗だ。世界に染まりきっていない。仮面がなく、本当の私に似ている。
講義が終わった。
私は、あの子を救う使命がある。新しく命が芽吹く音が聞こえる。
「公園に行って、二人で昨日のことを話しませんか?」
「いいね!話そう話そう!」
夕陽が差す街を二人で進む。私の家の近くの公園に行くことになった。家の方面に近づくに連れて、葉桜は私達を待っていたかのように、その樹皮を輝かせている。
胸の中の異物は、抑えられないほど大きくなり、遂には仮面を突き破る音さえ聞こえた。心臓の鼓動は、かつて無いほど早くなっている。今日は、新米のドラマーが叩いているようだ。
あの子には特別な様子はない。私はもう、すっかり変わってしまったと言うのに。私の家の前にある静寂の公園で、会話はひっそりと響く。周りに人はいない。
もう、救うと決めたのだ。あの子の方を向く。
「そういえば、本当に猫を飼うんですか?」
「うん!もうマンチカンを飼おうかなって思ってるし、猫ちゃんのお名前も決めてるんだー。」
決意が揺らぐことのない返事がきた。早くしないと、取り返しのつかないことになってしまう。ようやく、私だけの「花」を見つけたのに、手元から溢れてしまう。このままだと、枯れてしまう。
「そうですか。ありがとうございます。」
「君は何か飼ったりしたことはないの?」
顔を覆うベールには、少しの汚れが見えかけていたが、まだ取れそうだ。きょろきょろと動かす大きな目に移るのは、咲くことを諦めた葉桜だった。
「もう駄目そうですね。これからは私が君を守りますよ。」
そうして、立ち上がる。
「守るって、急にどうしたの?」
あの子の頬が赤らむが、目には少しの迷いが残る。
私は、少し錆びた鋏をそっとその茎(首筋)に押し付ける。鉄の匂いと血の匂いが混じる。冷たい刃先には、僅かな温もりが滲んでくる。人の温もりとはまた違う、太陽の、花の温もりが手に伝わってきて、気分が高揚してくる。
「え?」
あの子の目は取り返しのつかないほど怯えていた。それでも、まだ森の匂いは残っている。今なら、間に合う。
「大丈夫だから、笑ってください。その方が、綺麗ですから。」
「あたし、まだ生きれる。まだ…。」
そう言われたが、私はそのまま「花」を切った。
美しいままで保存することの意味が、漸く分かった。私も仮面を打ち破り、ありのままの姿で生きることができるようになった。あの子のおかげだ。
心の中には、もう異物は残っていない。これこそが、愛情なのだ。綺麗なままで置いてあげることができた。
ベンチには、血痕が残されていたが、あの頃のサルビアとは違い、胸を痛めることはない。私は「花」の手入れを済ませた。草木のざわめきが耳に入る。私の美術館には、新しい「花」を所蔵することが決まった。丁寧に手入れをして、きちんと愛でよう。
「花」は、美しいままで保存するものだから。




