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「男に寄生する女はいらない」と妻を捨てたクズ夫の末路

掲載日:2026/07/15

「君を愛することはない」


 豪奢な天蓋付きの寝台の傍らで、私の夫となった男は冷ややかな声でそう言い放った。

 初夜の寝室。薄暗いランプの灯りが照らし出すのは、ガウシウス侯爵家の嫡男、リット・ガウシウス様の不機嫌極まりない顔だった。


 ほんの数刻前、私たちは大勢の貴族に祝福され、盛大な結婚式を挙げたばかりだというのに。


「はい。存じております。私も同じ気持ちですので、どうかご安心くださいませ」


 私が事務的に答えると、リット様は一瞬、面食らったような顔をした。

 泣き崩れ、愛してほしいと縋りつくとでも思っていたのだろうか。


 もしそうだとしたら、随分と見くびられたものだ。

 愛などという不確かなもので腹は膨れないし、家門を支えることもできない。

 私に求められているのは、妻としての愛情ではなく、次期侯爵夫人としての役割を完璧に果たすこと。そう教え込まれて、私はこの家に嫁いだのだから。



 ーーこの婚姻は、完全なる政略結婚だ。


 私、アリーナが生まれたペンドア子爵家は、歴史こそ古いものの、広大な領地も莫大な財力もない。唯一の強みは、祖父が元財務官僚で、政界や商業組合に少なからぬ人脈を持つことだった。

 一方のガウシウス侯爵家は、近年弱まりつつある王宮での発言力を取り戻すため、祖父の人脈を欲した。


 「愛することはない」とわざわざ言葉にされたところで、「今更何を?」という感想しか出てこない。


「……ふん。可愛げのない女だ」


 リット様は鼻で笑った。


「俺は両親がどうしてもと言うから結婚しただけだ。この婚姻を受け入れることが、次期当主として認められる条件だった。でなければ、お前のような女と結婚なんてするものか」


「承知しております。私も父の命に従ったまででございます」


「どうせお前も、侯爵家の金が目当てなのだろう?」


 彼の口元が嘲るように歪む。


「女はいいよな。自分で稼ぐ努力もせず、結婚さえすれば豪華な屋敷で一生遊んで暮らせる。男の金を当然の顔で使いながら、「社交だ」とか言って、着飾って茶を飲んでいるだけなのだから」


「……」


「後継ぎは親戚から養子を迎える。俺はお前の顔など二度と見たくない。用もないのに話しかけるな」


 そう言い捨て、リット様は寝室を出ていった。


「はあ……」


 愛されないことは想定内だった。

 だが、初日から明確な敵意を向けられ、金目当てと決めつけられるとは思わなかった。


 ……彼は、貴族の女性が何をしているのか、まるで理解していないらしい。


 高位貴族の夫人は、ただ豪華な屋敷で遊んで暮らしているのではない。


 屋敷で働く使用人を束ね、調度品を調達し、修繕計画を立て、予算を管理する。

 冠婚葬祭の手配を行い、招待客の身分や派閥を考慮して席次を決め、失礼のない贈答品を選ぶのも夫人の仕事だ。

 さらに、自家に有益な人脈を築き、必要な情報を集め、問題が起きる前に根回しをする。


 侯爵家ほどの規模になれば、屋敷一つを動かすことは、小さな領地や商会を経営するのと変わらない。


 だからこそ、高位貴族へ嫁ぐ娘は、幼い頃から相応の教育を受ける。


 私も同じだった。

 礼儀作法や刺繍だけではない。領地経営、会計、法律、税制、契約書の読み方……

 貴族へ嫁げなかった場合も想定し、豪商や大商会の跡取りへ嫁いでも役に立てるよう、商会経営についても勉強していた。


 女だから必要ないと言われたことは、一度もない。

 むしろ祖父は、私に繰り返し教えた。


『嫁いだ先が裕福とは限らん。家名と実際の財政状況は別物だ。いざというとき、自分と家を守れるだけの知恵を持ちなさい』


 その教えが、婚姻初日から役立つことになるとは思わなかったけれど。


*****


 翌朝、私は夜明けとともに起き出した。

 執事長のロイドと侍女長のマーサに案内を頼み、屋敷を見て回る。


 現侯爵夫妻は一年前から領地で半隠居の身であり、王都の屋敷の切り盛りはリット様と私に任されていた。


 外から見れば壮麗な白亜の侯爵邸だが、内側は所々ガタがきている部分があった。西棟の天井には雨漏りの染みが見受けられ、大広間の絨毯の裏がすり減っていた。厨房の竈は一基が壊れており、洗濯場の排水溝も詰まりかけていた。


「まず雨漏りと厨房、排水設備を直しましょう。見栄えより、安全と衛生を優先します。ロイド、今年度の夫人予算と家政費の帳簿を見せていただける?」


「それが……」


 ロイドとマーサは気まずそうに顔を見合わせた。


「奥様がお使いになれる予算について、リット様から何も承っておりません。小口金も家政費も、すべて若旦那様の決裁が必要とのことでございます」


 夫人に屋敷を切り盛りさせながら、予算を一切与えない。

 それは、料理人へ食材を渡さず、晩餐を作れと命じるようなものだ。


 その夜、私はリット様の執務室を訪ねた。


「屋敷の修繕と日々の管理に必要な、夫人予算についてご相談がございます」


「はっ。やはり金か。嫁いだ翌日から金の無心とは、さもしい女だ」


「私個人の装飾品を求めているのではありません。雨漏りや壊れた竈を放置すれば、屋敷で働く者にも危険が――」


「言い訳など聞きたくない!俺は、よその家の女を養い、贅沢をさせるために結婚したのではない。何のための支度金だ。あれを使え」


「支度金は婚礼の衣装や調度を整え、ガウシウス家の体面を守るためのものです。しかも、ペンドア家からは別途、持参金も納めております」


「屁理屈をこねるな!」


 リット様は机を叩いた。


「これだから貴族の女は嫌いなのだ。寄生根性が染みついていて反吐が出る。俺の金は一銭たりとも渡さん。侯爵夫人を名乗りたいなら、自分の甲斐性で何とかしろ!俺に寄生するな!」


 何を説明しても、押し問答だった。

 彼は支度金と屋敷の運営費の違いを、理解する気がないのだ。


「承知いたしました。以後、リット様にお金のお願いはいたしません」


「最初からそうしろ」


「ただし、私がどのように屋敷を運営したかは、毎月報告書にまとめます。ご確認くださいませ」


「寄生女が俺の家で何をしているかなど、知りたくもない」


「それでも提出いたします。必ず読んでください」


 自室へ戻った私は、机に白紙を広げた。

 夫が一銅貨も出さないというなら、別の方法を考えるしかない。


 私はひとつの計画を立てた。


*****


 翌日、私は祖父へ手紙を書いた。

 返事は五日後に届いた。


『本気なら知恵と信用は貸そう。ただし、資金は貸付だ。身内だからと甘えるな』


 いかにも祖父らしい文面に、私は笑った。


 『自分の甲斐性でなんとかしろ』と旦那様は言った。

 しかし、今の私に個人資産と呼べるものは何もない。だけどーー


 ーー金がないなら、稼げばいいじゃない。


 夫人予算を与えられずとも、屋敷を放置するわけにはいかない。私はすでにガウシウス侯爵家の一員であり、この屋敷の荒廃は私自身の評価にもつながる。


 何より、壊れた設備の中で働かされている使用人たちを見捨てたくなかった。


 幸い、商売の知識はある。


 貴族の夫人が商売をすることも、この国では珍しくない。

 女性向けの宝飾品や化粧品、香水、菓子、刺繍用品。侍女でも購入できる価格帯のお洒落な既製服や、子ども向けの衣類を扱う商会。

 男性の商人では気づきにくい需要を、女性ならではの視点で見つけ、成功した夫人たちは何人もいる。


 高位貴族の夫人は、そもそも家を管理するための経営知識を身につけている。多くの使用人を束ね、商人と交渉し、年間予算を組む経験もある。

 社交界で築いた人脈は、そのまま顧客や取引先にもなる。

 きちんと教育を受けた貴族夫人と商会経営は、決して相性の悪いものではない。


 私が目をつけたのは、王都の使用人事情だった。


 貴族の屋敷では、信頼できる執事や侍女、料理人が常に不足している。縁故採用が基本なので、なかなか人材を見つけづらいのだ。

 一方、仕えていた家の没落や主人の死によって職を失い、能力がありながら次の奉公先を見つけられない者も多い。


 貴族は身元の知れない者を雇いたくない。

 使用人は、給与を踏み倒す家へ入りたくない。

 ならば、間に立って双方の信用を保証すればいい。


 屋敷を管理する夫人たちと話をしていれば、どの家も人材不足に悩んでいることが分かる。


 料理人が病に倒れた。

 侍女が結婚を機に辞めた。

 急な晩餐会が決まったが、給仕の人数が足りない。

 

 茶会で交わされる会話の中には、数え切れないほどの需要が眠っていた。


 私は祖父の紹介で法律家や商業組合の役員と会い、小さな貸事務所で人材派遣商会を立ち上げた。


 最初の顧客は、祖父の知人である老伯爵夫人だった。

 急病で倒れた料理長の代役を派遣すると、十日後には追加の依頼が来た。老夫人が友人へ噂を広め、侍女を一人、庭師を二人と注文は少しずつ増えていった。


 私は候補者一人ひとりと面談し、経歴と技術を確かめた。雇用先となる貴族についても財政状況や評判を調べ、給与の支払い能力がない家とは契約しなかった。

 働く者と雇う者、双方の信用を担保する。その方針が評判となり、商会は着実に顧客を増やした。


 ある日、私はオルテア公爵夫人が主催する茶会へ出席するため、玄関で馬車を待っていた。

 そこへリット様が通りかかる。


「また茶会か」


 彼は私のドレス姿を見て、呆れたように鼻を鳴らした。


「昼間から菓子を食べて噂話とは、女は呑気でいいな。俺はこれから重要な会議だというのに」


「オルテア公爵夫人の茶会には、外務卿夫人と商務卿夫人も出席なさいます。ガウシウス領の毛織物について、販路を広げられないかお話しする予定です」


「女同士の雑談で、商売が決まるものか」


「正式な契約は商人や担当官が結びます。ですが、話を聞いていただくためのきっかけを作ることはできます」


「くだらない。遊ぶ暇があるなら、屋敷で刺繍でもしてそれを売ってこい」


 リット様はそう言い捨て、私の説明など聞こうともせずに立ち去った。

 その日の茶会では、ガウシウス領で作られている毛織物の話をした。

 商務卿夫人は、王都の仕立屋が丈夫で安価な冬用生地を探していると教えてくれた。外務卿夫人からは、北方の隣国で毛織物の需要が高まっているという情報を得た。


 私は後日、それぞれの商会へガウシウス領の織物業者を紹介した。

 翌年、領地の毛織物の売上は大きく伸びた。


 しかしリット様は、それが私の社交から生まれた取引だとは知らない。

 領地から届いた増収の報告を読み、「今年は商人どもがよく働いたようだ」と満足しただけだった。


 彼は、社交を遊びだと思っている。

 だが実際には、会議の場で初めて顔を合わせた者同士が、重要な契約を結ぶことなど滅多にない。

 日頃から相手の人柄を知り、信用を積み重ね、互いの事情を理解しておく。正式な交渉を円滑に進めるための下地を作る。

 茶会も夜会も晩餐会も、貴族にとっては営業活動の一部なのだ。


 何気ない会話から情報を拾い、それを家の利益へ変えるには、知識も観察力も知略も必要になる。

 ただ茶を飲んでいれば務まるものではない。


 それでもリット様は、私が出かけるたびに「今日も遊びか」と笑った。

 私は訂正することを諦めた。

 説明しても聞かない相手へ、何度も同じ言葉を費やす意味はない。



 昼は次期侯爵夫人として来客を迎え、夜は商会長としての事務仕事をこなす。


 睡眠時間は減ったが、苦ではなかった。努力した分だけ、売上と契約件数になって返ってくるのは、純粋に嬉しかった。


 一方、ガウシウス侯爵邸の財政は悪化していた。

 リット様は帳簿を見ず、交際費ばかりを使った。必要な修繕を先延ばしにし、とうとう使用人たちの給与まで滞り始めた。


「奥様、もう二月分も旦那様から給与を受け取っておりません」


 ある夜、ロイドが深く頭を下げた。

 後ろにはマーサや料理長、庭師長が並んでいる。家族を養う者も多い。このままでは、腕のある者から辞めていくだろう。


「皆さん、ガウシウス家を辞職し、私の商会と雇用契約を結びませんか。その後、派遣従業員として改めてこの屋敷で働くのです」


 私は、思い切って提案した。


「それでは、奥様が給与を負担なさることに……」


「ガウシウス家の支払い分は、私の商会が一時的に立て替えます。が、これは施しではなく事業です。働きに見合った給与を払い、派遣先(ガウシウス家)には後日正当な料金を請求します。別の屋敷を希望する方には、新しい勤務先を探します」


 最初に署名したのはマーサだった。


「奥様がこちらにいらっしゃる間は、私もここでお仕えしたく存じます」


 続いてロイド、料理長、庭師長が署名した。

 結局、ほとんどの使用人が私の商会へ移籍した。

 

 私はリット様へ、契約条件を記した報告書を提出した。

 継続的に役務の提供を受けながら異議を申し立てなければ、契約を承諾したものとみなされる。そのことも明記した。

 だが、リット様は表紙すら読まなかった。


「お前が優雅に毎日遊んでる報告なんて、見る価値もない」


 そう言って、書類を投げた。

 だが私は毎月、活動報告書と請求明細を提出した。


 屋敷の雨漏りが直り、厨房の竈が新しくなり、擦り切れた絨毯が交換されても、リット様は費用の出所を考えもしなかった。


「奥様、先月分、全員への支払いを完了いたしました」


「ありがとう。来月から料理人見習いを一人増やしましょう」


 廊下でロイドと話していると、リット様は鼻で笑った。


「家の中をうろつくだけで業務とは、女は楽でいいな」


「リット様、報告書にある従業員の……」


「お前の遊びに俺を巻き込むな!俺はこれから重要な会議なんだ」


 リット様は手を振り払うように歩みを進め、屋敷のドアを強く閉めた。


*****

 

 そうして三年が過ぎた。


 ある日、リット様は若い女性を連れて帰ってきた。

 鮮やかな赤いドレスに濃い化粧。金髪を流行の形に結い上げた彼女は、リット様の腕へ親しげに手を絡めている。

 名をミニアという。準男爵家の娘で、半年ほど前からリット様の秘書を務めているらしい。


 私は大広間へ呼び出された。

 リット様はミニアを隣へ座らせ、尊大に告げた。


「一週間後、この家を出ていけ。お前とは離縁だ」


「理由を伺っても?」


「我が国の法律では、婚姻後三年を経ても白い結婚が続いた場合、双方に瑕疵なしとして離縁が認められる。今日でちょうど三年だ。これで、忌々しい寄生女とも永遠にさらばだ」


 彼は清々した顔でミニアの肩を抱いた。


「やはり、自分で稼いで働いている女が一番だ。ミニアは俺の優秀な秘書でな。お前のように男へすがるしか能のない貴族女とは違う」


「時代は変わったのです」


 ミニアも勝ち誇った笑みを浮かべた。


「奥様のように、お屋敷に座っているだけのお飾りは、もうリット様には必要ないのですわ」


 働いている女が一番。

 屋敷に座っているだけのお飾り。

 私は笑い出しそうになるのを、扇の陰で堪えた。


「承知いたしました。離縁に同意いたします。一週間後には、私の私財をすべて引き上げ、この家を出てまいります」


「おい、屋敷のものを勝手に持ち出すんじゃないぞ。盗みで訴えてやるからな」


「もちろんです。私個人の財産のみ、持ち出しますね」


 私は冷たく微笑んだ。


 一週間後、侯爵邸の玄関前には何台もの馬車が並んだ。

 私の荷物に加え、ロイドもマーサも、料理長も庭師長も馬車へ乗る。


 彼らは二年前から、私の商会に所属する従業員だ。私が家を去る以上、ガウシウス家への派遣契約も終了する。


「奥様。本当に、よろしいのでしょうか」


 マーサが尋ねた。


「三年間、毎月報告しました。読む機会も、異議を唱える機会も、料金を支払う機会も十分に差し上げました」


 私は最後に一度だけ、侯爵邸を見上げた。


「自分の甲斐性で何とかしろとおっしゃったのは、リット様ご自身ですもの」


 翌朝の侯爵邸がどのような有様だったかは、後に噂話で聞いた。


 厄介払いができた喜びから、リット様はミニアと遅くまで酒を飲み、そのまま熱い夜を過ごしたらしい。


 昼近くに目を覚まし、呼び鈴を鳴らした。

 誰も来ない。

 廊下へ出ても、屋敷は異様な静寂に包まれている。朝食はなく、暖炉の火も消えていた。

 執事も、侍女も、料理人も、庭師も、御者もいない。何十人もいた使用人が、一人残らず消えていた。


 激怒したリット様は、自分で厨房へ行ったが、パン一つ切れず、湯を沸かそうとして鍋を焦がした。

 ミニアへ何とかしろと命じると、彼女は眉を吊り上げた。


「私は秘書よ。女中じゃないわ」


「女なら料理くらいできるだろう!」


「働く女性を評価してくださったのはあなたでしょう?家事を押しつけるために、私を選びましたの?」


 二人は激しく口論した。

 さらに、リット様は翌日に予定されていた会食の準備をミニアへ命じた。

 十名分の料理の手配、食器と銀器の確認、座席の決定、客室の整備、給仕の手配、招待客の好物や禁忌の確認……。

 ミニアは、それらを一つも知らなかった。


「このような仕事、秘書の業務ではありませんわ!」


「アリーナはやっていたぞ!」


「奥様は次期侯爵夫人だったのでしょう!?」


 そこでようやくリット様は、私が三年間、何をしていたのかを考えたらしい。

 しかし、気づくのがあまりにも遅かった。

 会食は中止せざるを得ず、急な取りやめに招待客たちは気分を害した。

 ミニアは「こんな生活には耐えられない」と言い残し、その日のうちに実家へ帰ってしまった。


 手がかりを探して執務室を荒らし回った彼は、引き出しの奥に押し込まれていた報告書の束を見つけた。

 そこで初めて、私が人材派遣事業を成功させていたこと、二年前から屋敷の使用人全員が私の商会の従業員となり、給与も修繕費も私が立て替えていたことを知った。


 報告書の末尾には、毎月同じ一文が記されている。

『本書受領後も役務の提供を受け、七日以内に異議を申し立てない場合、記載の契約条件を承諾したものとみなします』


 彼は一度も異議を申し立てなかった。

 書類を読まずに捨てることは、拒絶とは見なされないのだ。


*****


 数日後、王都で大規模な夜会が開かれた。

 私は濃紺のドレスをまとい、高位貴族の夫人たちと談笑していた。


 侯爵家の元夫人としてではない。王都でも有数の人材派遣商会を率いる商会長、およびその成果が認められ、最近賜った女男爵として招待されたのだ。


「アリーナ!」


 会場に怒声が響いた。

 振り返ると、リット様が立っていた。

 頬はこけ、目の下には濃い隈がある。襟元は曲がり、上着にも皺が寄っていた。


「お前のせいで、屋敷がまったく回らない!使用人を全員引き上げるなど、何の嫌がらせだ!」


 周囲の会話が止まり、何十もの視線が私たちへ集まる。

 私は扇で口元を隠し、穏やかに微笑んだ。


「あら、リット様。おかしなことをおっしゃるのですね。あなたは以前、『家のことをするだけでいいなんて、女は楽でいい』と、私を鼻で笑っていらっしゃいましたよね」


「それは……」


「私がお屋敷に座っているだけのお飾りなら、いなくなったところで何も困らないはずではございませんか?」


 夫人たちの間から、忍び笑いが漏れる。


「それに、ご自分で優秀だと自慢しておられた、働く女性のミニア様がいらっしゃるでしょう。屋敷の管理は、その方へお任せになればよろしいのでは?」


「……ミニアは、家のことなど分からないと言って出ていった」


「まあ。社会に出て働く立派な女性でも、家の経営は難しいのですね。でしたら、家を管理する者の仕事を、楽だの寄生だのと軽んじるべきではございませんでしたわね」


「家の経営だと?」


「侯爵家の屋敷には、何十人もの使用人が働いております。年間の支出は、小さな商会よりも多い。人員を配置し、物資を仕入れ、設備を維持し、賓客を迎え、家の信用を守る。それが経営でなくて何なのでしょう」


 周囲の夫人たちが、静かに頷いた。


「あなたは社交についても、ただ茶を飲んで遊んでいるだけだとおっしゃいましたわね」


「実際、そうだろう!」


「では、ガウシウス領の毛織物に新しい販路ができた経緯も、ご存じないのでしょう」


「何……?」


「オルテア公爵夫人の茶会で、商務卿夫人から仕立屋をご紹介いただきました。北方への輸出については、外務卿夫人から商人を紹介していただいております」


 リット様の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「社交は遊びではございません。家と家をつなぎ、情報を得て、正式な交渉を始めるための営業活動です。それを理解せず、築くべき信用を築かなかったのは、あなたご自身でしょう」


 周囲がざわめき始めた。


「アリーナ様は大きな商会を経営なさっているのに」


「元夫君から一切予算を与えられず、ご自分の利益で屋敷を維持していたのでしょう?」


「使用人の給与まで二年も立て替えさせて、それで寄生虫呼ばわりとは」


「どちらが寄生していたのかしら」


 四方八方から浴びせられる冷ややかな声に、リット様の顔が赤く染まった。


「黙れ!これは我が家の問題だ!」


「いいえ。二年前からは、我が商会との商取引問題です」


 私は扇を閉じた。


「どうしても使用人が必要でしたら、私の商会から派遣いたします。これまでの信用がございませんので、前払いとなりますが」


「前払いだと……?」


「それから、二年間分の人材派遣費、修繕費、資材費も一括で精算していただきます。以前は私がガウシウス家の人間だからこそ、無期限で立て替えていたのですが、一方的に離縁を突きつけられた今、その必要もありません。明日、正式な請求書をお送りいたしますわ」


「そんなもの、払えるわけが――」


 そこまで言い、リット様は口をつぐんだ。

 侯爵家の嫡男が、公衆の面前で支払い不能を認めかけたのだ。


「まあ。侯爵家なのですから、まさか払えないなどということはございませんわよね?」


 私は、かつて彼が浮かべたものと同じ冷ややかな笑みを返した。


「それとも、ご自分の甲斐性では何ともなりませんでしたか?」


 その夜の出来事は、翌朝には王都中へ広まった。

 妻へ家政予算を一銭も渡さず、屋敷の維持費も使用人の給与も自腹で賄わせながら、その妻を寄生虫と罵って離縁した男。


 社交を遊びと決めつけ、妻が築いた人脈から利益だけを受け取っていた男。


 妻が提出し続けた契約書を読むことすらせず、二年分の債務を積み上げた男。


 知らせを受けた現侯爵は、半隠居先の領地から即座に戻り、家名を危機に晒した責任を問うてリット様を廃嫡した。

 彼はわずかな年金だけを与えられ、辺境の小さな屋敷へ送られたという。侯爵家の次期当主でなくなった彼に、ミニアも興味を失ったらしい。



 それから一月後。

 私の商会へ、一人の青年が訪ねてきた。

 リット様の弟、デリック・ガウシウス様。

 新たな後継者となった彼は、兄とは似ていない穏やかな目をしていた。


「アリーナ女男爵。兄が大変なご迷惑をおかけしました」


 応接室へ入るなり、彼は深く頭を下げた。


「未払い分は、修繕費も含め、すべて耳を揃えてお支払いします。そのうえで、厚かましいお願いとは承知しておりますが、どうか我が家へ優秀な使用人を派遣していただけないでしょうか」


「契約条件をご確認いただけますか」


「もちろんです。一字一句、必ず目を通します」


 私は思わず笑った。

 デリック様は本当に契約書を最初から最後まで読み、不明点を質問し、料金と責任範囲を確かめてから署名した。


「契約成立です。今後、私たちはビジネスパートナーですね」


「ありがとうございます」


 彼は安堵したように息を吐いたが、席を立とうとはしなかった。


「まだ何か?」


「……もう一つだけ、お願いがございます」


 デリック様は緊張した面持ちで私を見つめた。


「私は以前から、あなたを尊敬しておりました。兄が何も見ようとしない間、あなたが屋敷と働く者たちを守り、新しい事業まで築いていたことを、王都からの報告で知っていました」


「そうでしたか」


「今すぐ答えを求めるつもりはありません。ただ、もし許されるなら……家同士が決めた形ではなく、私個人として、あなたと一から関係を築く機会をいただけませんか」


 かつての私なら、結婚とは家のためにするものだと答えていただろう。

 けれど今の私は、誰かに養われるために嫁ぐ必要も、家の命令に従う必要もない。

 自分の足で立ち、自分の意思で未来を選べる。


「まずは、お茶からでよろしいでしょうか」


 私がそう答えると、デリック様の顔が明るくなった。


「はい。喜んで」


 愛などなくても生きていける。

 それは今も変わらない。

 けれど、愛を拒む必要もないのだと、今の私は知っている。


 誰かへ縋るのではなく、互いに敬意を払い、手を取り合える相手を、自分の意思で選ぶ。

 それこそが、私が初めて手に入れた、本当の自由なのだ。


お読みいただきありがとうございます!!


---補足など---

侯爵家の教育はどうなってんだ全く!長男の甘やかしすぎですかね。

貴族女は寄生虫だっていうなら、君の母親もだよと教えてあげたいですが、そういうと「俺の母親を愚弄するな!」とか言いそう。ダブスタ。デリックは苦労したんだろうなぁ。

建て替え費用の支払いは現侯爵である両親のポッケから出たので、優雅な半隠居生活とはしばらくおさらばですね。教育はちゃんとしましょうね・・・。


---蛇足---

ーー金がないなら、稼げばいいじゃない。

って社畜すぎるマリーアントワネットだな。いや、マネーアントワネットというべきか?

----


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