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中編 ゼロの減法、悪の加速度

 朝。天井は静かで、逆雨は降っていない。けれど湿度計の針は昨夜より一目盛り高く、空気にうっすらと可可の甘さが残っている。冷めたカップの底の円が、窓の光で白く縁どられた。


「話す」

 光正 零が短く切り出す。

「君の誓環は、僕の所属する調律局が設計した。——正確には、世界水位の“基準点”と直結するよう作られている」


「善悪は?」

「設計書には書けない。配分は関係で決まる。僕がゼロに立つほど、君は“役”を引き受ける。僕が誰かのために減らすほど、君の中の水は——増える」


 言葉は乾いているのに、喉の奥がしょっぱくなる。ぼくは胸の誓環に触れ、昨夜の冷たい熱を思い出した。


 窓辺では、いつから居たのか、監視官ジャスティ・フォリオが片足を上げてストレッチをしている。口笛が細く、軽い。

「恋をすると水は甘くなる。甘い水は腐りやすい。腐った水は名を失った者を呼ぶ。はい、統計」

「帰れ」

 零が言う。

「帰りたいけど、今回は正式監視。昨夜の“天井からの侵入者”、報告が上がってる」


 扉が叩かれ、|淵野 戒が現れた。救難潜水士の防水バッグを肩に、分厚い紙束を抱えている。

「昨夜の白い鰭の手、正体は溺名(ドレネーム)。名前を喪った死者の呼び名だ。呼ばれたい者が、水位の上昇に引かれてこちらを叩く」

「誰が呼んだ」

「たぶん——二人で」

 視線がぼくと零を往復する。胸の内側がひやりと狭まった。


「対処は二択だ」

 戒が指を二本立てる。

「一、弁を封鎖して物理的に遮断。二、誓環の再調律——君の“悪に寄る加速度”を半分だけ遮断する」

「封鎖は応急で、戻りの反動が大きい」

 ジャスティがすかさず口を挟む。

「個人的には二番。ついでに予算も通りやすい」

「不謹慎だ」

 零が淡々と返す。

「だが合理的だ。——マル、行こう」


 下層。弁室は海の底の図書室みたいな匂いがした。湿った紙、濡れたインク、鉄の舌触り。四重のリングが重なり、中央に大弁輪が青く鈍る。ぼくが近づくと機械音が少し速くなり、心臓の鼓動が真似をする。


 搬入された調律ユニットから、アームが蛇のように伸びる。ジャスティが操作席、戒は安全弁に手を添え、零はぼくの正面に立った。

「モード提案。半減遮断。善の伝達は保持、悪性の加速のみ阻止——」

「待て」

 零がかぶせる。

「基準は僕が決める。ゼロの責任だ」

「了解、共同裁定に切り替え」

 ジャスティが肩をすくめ、ダイヤルを回した。


 アームが誓環を囲い、金属の冷たさが皮膚を通過して骨まで降りてくる。零の掌が上から重なる。人の温度は、冷たいものより先に沈む。

「マル、僕の声を聞け。ここから先は、僕が減らす。君は——」

「——増やすな、だろ」

「いいや。わかりたくないと言え」

 唇が勝手に笑ってしまう。

「わかりたく、ない」

 本音だ。ぼくは彼を愛していて、彼の正義が時々、憎い。


 切断が始まる。誓環の内側に微細な震え、金属音が重なって音階みたいに並ぶ。視界が少し暗くなる。肋骨の内側を薄刃が撫で、熱が半分だけ削がれる。

 その刹那、床から泡の輪が次々と生まれた。輪と輪が繋がり、梯子を組む。

 梯子を上って来るのは女たち——昨夜の“彼女”と、よく似た顔が七。違うのは瞳の色だけ。色の数だけ、哀しみの向きが違う。

「返して」

「深さ」

「約束」

 泡言語が耳の内側で翻訳され、舌にしょっぱさが滲む。


 戒が前に出る。ジャスティがセーフティを外す。零だけが動かない。ぼくの胸へ手を置いたまま、目で女たちを数え終え、短く息を吐く。

「名がない。名づければ、沈む場所を間違えなくなる」

「誰が」

「僕だ。ゼロは減らすために、まず一つにする」

 ジャスティがユニットの補助機能を起動する。

「名づけ補助オン。誓環パターン同期」


 零が耳もとで囁く。

「——愛」

「短い」

「短いほど、落ちにくい」

 ぼくは頷く。泡の女たちに向き直り、胸の内で字をなぞる。愛。それはぼくの悪にも、彼の正義にも、最短距離で触れる名だ。


 一体ずつ、女たちは梯子を降りた。降りるたびに室内の匂いが乾いていく。最後のひとりが去る前、こちらを振り返る。

「まる。腐るのは、生きている証拠」

 それは慰めというより、残酷に誠実な事実だった。


 計器の針が落ち、アームが静まる。胸は軽く、同時に空洞みたいだ。

「半減遮断、成功。いまのところ、君の“悪の加速度”は小さい」

 ジャスティが報告する。

「いまのところだ」

 零は手を離さない。

「夜になれば、甘さは戻る」


 戒が安全弁を確認しながら言う。

「夕刻以降、再侵入の可能性が高い。手は二枚目を切る。弁封鎖は最終手段として、それまでに上層の輪口を監視したい」

「輪口?」

「井戸口の円縁。あそこに、誰かが輪を置けば——こちら側に“入口”ができる」


 ジャスティが片手を挙げる。

「それ、ちょうど予算要求中。特別対処:未練源の顕在化。俗称、元恋人の召喚。呼ぶ気がなくても、呼ばれてしまうことがある」

 零の頬が、ごくわずかに強張った。

「呼ぶ気はない」

「水は、いつだってフェアじゃない」ジャスティは肩をすくめる。「必要なら、私が輪の監視を引き取る。——口笛で合図するから」


 弁室を出ると、通路の空気はひんやりとして、さっきより匂いが薄い。ぼくは胸に手を当て、削られた半分を確かめる。軽い。だが、物を乗せたい衝動がすぐに湧く。空洞は、埋められたがる。


 階段を上がる途中、零が言う。

「怒っていい」

「怒ってる」

「僕は君の悪を、切った。君の優しさの形で」

「知ってる。だから怒りは、君に触れた指の温度で静かになる」

 零は小さく笑った。笑いの中に、砂粒みたいな痛みが混ざる。ぼくはそれを舌の裏で転がし、飲み込む。


 部屋へ戻ると、可可の匂いがまた少し強くなっていた。ジャスティは窓辺を守り、戒は装備の点検を続ける。ぼくはカップの底の円を見つめ、指先でなぞった。

 ——切り離された側の悪性は、器の外へ逃げ場を求める。水が低きへ流れるように。

 昨夜、監視官が言った注意を、自分の声で復唱する。胸の奥で、その言葉が空洞の壁に響いた。


 夕刻。井戸口は琥珀色に光り、金属の縁が温度を持つ。窓の外、輪の影がふっと走った気がして、ぼくは思わず息を止める。

 ジャスティが指笛を一度、短く。

「予算、通りそう」

 冗談めかした声の底に、硬い予感が沈んでいる。ぼくは胸の誓環に触れ、零と視線を結んだ。

 夜は、長くなる。いい。長い夜なら、長いぶんだけ抱きしめる時間が増える。


 ただ、その長さは、きっと代償で計られる。可可の甘さがわずかに強くなり、舌の先で鉄が笑った。

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