前編 水の底でしか会えない
最初に耳へ入ってきたのは、濡れた紙を裂くような、やわらかい刃の音だった。音が水で薄まって、なのに刃だけは鋭い。鼻先には塩と鉄と、遠い台所の可可の匂いがうすくまざる。ここは——井戸宇宙。地上のまんなかに穿たれた**水竪穴**の内側で人が暮らし、空は丸いふちに貼りついている。
ぼくの名は、マルヴィオル・ノクト。夜に寄る名、悪意に似る響き。呼ばれるのはたいてい短く「マル」。職業は表向き水理士、裏むきは、まだほとんど誰も知らないぼく自身の正体——災主の器。世界を満たす水を増減させるための、悪役用の心臓。
どうして悪役に心臓なんて贅沢を配るのか。理由は単純で残酷だ。悪が先に動かないと、正義が来ない。正義が来ないと、ぼくは安心して恋ができない。
ぼくの恋人は、日本から迷い落ちてきたひとりの男。苗字からして川筋の運命を背負っている。
光正零。珍しい名だ。光で正す、零で基準。彼は井戸の縁を守る水理士で、職掌は「減らす正義」。過剰な水は奪い、足りない水は呼ぶ。そのために、ぼくの胸に埋め込まれた誓環——銀色の弁輪を、必要なぶんだけ回す。
夕方、井戸口の円い空が紅くなるころ、零はいつもぼくの部屋へ来る。ドアを叩く音は三回で統一、間は等間隔、仕事人の几帳面が可愛い。
「いるか」
「いる。入れ」
濡れた髪をタオルで雑にふきながら、零は真っ先に窓辺の湿度計を確認した。ぼくの体調と世界の機嫌は、だいたい湿度で相関している。
「湿り気が増えてる。きょうは**逆雨**が来るかもしれない」
「上へ昇る雨か。嫌いだ」
「下へ落ちるのは重力の順序。上へ昇るのは、心の未練だ」
零は台所で可可を作る。ミルクを温め、粉を溶かす。甘さは抑えめ。カップの底には、小さな円刻が光る。
「その印」
「工作室の遊びだ。ゼロは始まりでも終わりでもない。ただの基準点。僕はそこに立って、減らす」
「また自分をゼロにしている」
「ゼロが、僕の正義だ」
——水面の向こうで、誰かがノックした。
井戸宇宙では、ときどき水面の裏側から音が来る。死者が生者の水槽を叩くのではなく、生き残った気持ちの方が先に叩く。ぼくは窓へ寄り、耳を添えた。ガラスは冷たく、指腹がきゅっと鳴る。鉄さびの匂いがのぼり、舌の奥に金属の味が滲む。
「マル、下がって」
零が腕を引く。引き方がていねいで、少しだけ乱暴。そこが好きだ。
次の瞬間、天井から濡れた足音が降ってきた。逆さの雨粒が床を跳ね、窓でも扉でもない——空気の膜から女が這い出る。髪は緑藻みたいに細かく割け、目は水銀色。唇が開くと、言葉ではなく泡がこぼれた。
泡はぼくの耳の奥でだけ意味を持つ。
「返して」「深さ」「約束」
胸が、きゅうと痛む。誓環が軋む。
零「——知っている相手か。」
「知らない。けれど、ぼくの“役”だけは、彼女の喉を濡らしてしまう」
零は懐から封糸を取り出し、女の足首へ巻きつけた。糸に彫り込まれた義の字が青白く発光し、泡の発声を鎮める。
「ここは病室じゃない。戻ろう」
女は静かに頷き、天井の水へ溶けた。床には藻の青臭さと錆の重み、そして可可に似た甘い匂いだけが落ちる。記憶の甘さだ。
静けさが戻ると、零はタオルをぼくの首にかけた。
「マル、きょうのうちに点検に行こう。下層の弁室。君の誓環と連動している大弁輪が、勝手に回っている」
「勝手に回るなら、ぼくのせいだろう」
「せいにするための観測じゃない。確認だ。正しく減らすための罪は、僕が持つ」
下層へ降りる通路は、海水と人工照明の匂いが交互に鼻を打った。壁は石灰のざらつき。足裏に吸いつく湿り。踊り場で、ひとりの男が待っている。
淵野戒。救難潜水のエキスパート。肩幅が広く、声はやさしいのに語彙は硬い。
「逆雨の通報が出てる。二人だけで潜るな」
「三人で潜る」
零が淡々と返す。
「その“さ”は、たいてい悪い結果の前置きだ」
戒はぼくを一瞥し、視線を逸らす。彼はぼくの裏を知らない。知らない方がいいひとだ。
弁室は冷たかった。金属のリングが四重に嵌り、中央にぼくの誓環と同型の大弁輪がある。ぼくが近づくと、すこしだけ速く鳴る——心臓に似た機械音。
零「やっぱり君に反応する。」
ぼくは指を伸ばし、弁輪に触れない距離で止めた。触れたら、たぶん、世界は一段落ちる。
「零」
「なんだ」
「もしも、ぼくがほんとうに悪役で、世界を沈める鍵だとして。君はどうする」
「鍵は正しく回すためにある。回し方を誤るのが悪で、鍵そのものは悪じゃない」
「つまり、ぼくは悪じゃない?」
「——君を悪と決める言葉に、僕の声は使わせない」
そのとき、弁室の照明が一斉に消えた。次いで、水の底から笑い声が泡になって浮き、天井の方へ昇る。昇る笑い。逆雨の笑み。
暗闇を裂いて、白い手がふたつ、輪の裏側からすっと出た。指先が爪でなく鰭だ。
戒が吠える。
「離れろ!」
白い手はぼくの胸、誓環の上にぴたりと触れ——冷たい熱が走る。輪が自動で、かちり。
世界が半分、沈んだ。
床から膝まで水が湧く。塩と鉄と可可の匂いが濃くなる。暗闇の中で、零の手だけが確かな温度でぼくの手を掴む。指先の硬いマメ、救う人の手。
「マル。こっちを見ろ」
見た。彼の瞳に映るぼくの顔は、見慣れた悪意の仮面をかぶりかけていた。水がぼくに悪の形を教える。
「僕が君を止める。止めて、また、君を抱く」
零の声は一定だ。怖さを抑えるために一定にしているのが、ぼくにはわかる。
笑い声が止む。かわりに囁きが満ちた。
「まる」「まる」「まる」
ぼくは輪を押さえ、零の手と二重のハンドルみたいにして、ゆっくり逆へ回す。悲鳴のような水音。世界は、沈んだ分だけ、上へ戻る。
照明が戻ると、鰭の手はすでに消えていた。床は濡れ、空気は甘い。
戒「一度は戻せた。だが、今夜は長い。」
零が頷く。
「上へ戻ろう。マルの体温が落ちてる」
階段をあがる途中、ぼくは自分の胸から小さな泡が上がるのを見た。泡は弾けず、光って、消える。泡は言う——
「また来る。」
泡の匂いは、懐かしくて、悲しくて、なのに少し美味しい。
部屋へ戻ると、零は何も言わずにぼくを抱き、濡れた頬に頬を寄せた。触れたところだけ暖かく、触れてないところが急に寒い。
「マル。明日、君に話すことがある」
「今じゃだめか」
「今話したら、君は眠らない。明日話しても眠れないかもしれないが、それでも、ルールは守りたい」
ルール。正義の言い換え。零はそういう男だ。
ぼくはうなずき、目を閉じる。まぶたの裏では、水が上へ降りつづけている。
眠りに落ちる直前、ドアの向こうで誰かが靴の水を払った音がした。軽い足音、短い口笛。
「夜分に失礼」
やや高い女の声。
「私の名はジャスティ・フォリオ。遠海の監視官。仕事は“浸り過ぎた恋人たち”の救出。あなた方、今夜から監視対象」
零の肩が、すこしだけ動く。
「勝手に決めるな」
「勝手じゃないよ。統計だ。恋をすると水は甘くなる。甘い水は腐りやすい。腐った水は、名を失った者を呼ぶ」
監視官の軽口は、むしろ不安を正確に測っている。ぼくはベッドの端で起き上がり、胸に手を当てた。誓環はおとなしい。だが、静かすぎる機械ほど信用ならない。
ジャスティは部屋を見回し、窓際のカップを指さした。
「底の円、きれいだね。ゼロの印。——ねえゼロ、明日、君は減らし方の告白をするんだろう?」
零は答えない。沈黙は、嘘よりも正確に語る。
ジャスティは肩をすくめ、指を鳴らした。乾いた音が水気を切る。
「メモしておくといい。切り離された側の悪性は、器の外へ逃げ場を求める——水が低きへ流れるように。今はまだ前夜。でも、夜はすぐ深くなる」
彼女が去ると、部屋に可可の匂いだけが戻った。ぼくはカップの底の円を見つめる。ゼロは穴でもあり、口でもある。飲み干せば、底に残る。
ぼくと零は、底でしか会えない夜を、これから何度も飲み干すのだろう。
会うたび、少しずつ——正義も悪も、互いに味見するように。