フェイク・ヴィクシム
少しだけ、赤い液体に染まってしまったハンカチ。
MAYUKOの刺繍のちょうど反対側に飛んでいた、赤い液体。
田辺真由子 MAYURIN
この赤い染み…たぶんこのハンカチを拾ってくれた人の血……
田辺真由子 MAYURIN
なぜ、こんな優しい人、ただの落とし物として交番に届けようとしてくれた人がこんな事になるんですか!私はもう、悲しいし悔しいし腹立たしくて仕方がありません!その人がいったい何をしたって言うんですか!
どんな人間を前にしても笑みを絶やさない天性のアイドルが、口だけかもしれないにせよ悲しみと怒りをもろに出している。
まるで親でも亡くなったかのように、複雑でこそないが強い気持ちを吐き出している。
彼女の言う「優しい人」が誰を表しているのか、その答えは皆わかっている。
彼女が絶対に許さないと公言する事が目に見えている存在により、全国区となってしまった名前。
鶴の一声とはこの事と言うべきか、流れが、180度変わった。
※※※※※※
「ちょっと女神!パジャマパジャマ!」
「……あ……」
本来そんな名前を付けたとして責任を負うべきだったはずの人間の指摘を受け、着替えもしないで部屋を出て来た事に気付いた千間女神。
彼女は今、魂の抜け殻になっていた。
あまりにもきれいな笑顔と、メッセージから伝わって来るハッピー・テロリストと言う存在への怒り。
誰よりも心底からのそれを待っていたはずの存在の笑顔。
それをもたらしたのは、あのオッサン。
自分の手であんな汚名を吹っ掛けたも同然のあのオッサン。
いや、それ以上に、自分がまゆりん様のために動くための糧となってもらう予定だった、あのオッサン。
(シアンに恨みつらみがあった訳じゃないけど、文句ならあの堅苦しくてつまんないオッサンに言えばってずっと思ってた。うちの父さんだって傍から見れば似たようなレベルかもしんないけどさ、そんでもあんな人生なんの楽しみもなさそうにしてる訳じゃないはずだった…って言うか、あたしのためのATMになってもらうつもりだったのに……)
千間女神の父親は遠縁ではあるがまゆりんと同じ芸能界の人間であり、具体的に言えば数多のタレントを彩って来たメイクアップアーティストである。その分だけ女神は芸能界にも詳しいつもりだったし、自分はもっとまゆりんとお近づきになれるはずだと思っていた。
芸能界デビューを考えていない訳ではなかったがかつて父親のコネで子役オーディションを受けたさいもエキストラで一度出ただけであり、自分自身無理だと言う事は分かっていた。その上で自分が少しだけ目指した先にあるまゆりんと言う存在を、誰よりも支える存在で居たくなった。と言うか、ただまゆりんと言う存在の一般的なファンに過ぎない自分から抜け出したかった。
そのためにまゆりんのようになりたいとアイドルを希望する人間もいればまゆりんの所属する芸能事務所に入ってマネージャーを目指そうとか言う人間もいたし、それぞれがそれぞれなりの道をまゆりんによって歩もうとしていた。
そして千間女神が選んだ道は、ある種の「廃課金」だった。
まゆりんの下敷き、まゆりんの筆箱、まゆりんのカバン、まゆりんのボールペン、まゆりんとコラボしたコンビニのパンや飲み物。
さらにまゆりんの今時希少品となったCDまで買い、スマホにはまゆりんの曲をアルバムを含め全部突っ込み、写真集まで買いまくっている。それ以外にはびた一文足りとも使わないとばかりにノートに細かく文字を書き、紙一枚すら節約していた。ノートの汚さも我慢するその姿は健気と言うより、いじましく痛々しい物だった。
それが彼女がついこの前キモイと言い捨てたフィルムコンサートに集うようないドルオタたちとどう違うのか、説明など出来ない事に女神は気付いていない。
そしてまゆりんがその死を猛烈に嘆き、加害者を死んでも許さないと非難している存在。
いつも電車ですれ違い、その度に折り目正しく動いていただけで女神をいら立たせた何の罪もない存在。
その存在を、女神はどう扱おうとしていたか。
(少しでも立ち上がったらこっちはわざとらしくならないように寄りかかり、あの直立不動の手に尻を突っ込む。そして思いの丈の音量で叫んでやる。そうすればあっと言う間に犯罪者の出来上がり。あとは示談金と言う名で金でもせしめた上にあの鉄面皮も崩せて人生楽しくなりそうだったのに……)
—————いわゆる痴漢冤罪である。
しかもその動機はここまで汚らしいそれもないと言わんばかりの逆恨みの上にその資金の行き先は全く自分自身の欲望のため。
そしてその自分自身の欲望の先にある存在が、自分が最低の存在にまで貶めんとしていた存在を今どう扱っているか————————————————————。
それだけで、彼女の気力を奪うには十分すぎたのである。




