アサジロウズ・レピュテーション
「稲田が…ですか…」
浅次郎の母と娘が家族としてショックを受ける中、浅次郎の勤め先の会社は大きな反応をしなかった。
稲田浅次郎は大卒後ずっとこの会社に勤めておりそれなりに出世街道を登っているはずだったが、四十四だと言うのにまだ係長だった。営業課に属していた彼は表に出る事はなく基本的に後方支援とでも言うべき役どころで平社員にすら腰低く振る舞う男だった。
「あの人が、かぁ……」
「でもハッピー・テロリストにやられるって事は何かやってたんじゃないの?」
「そうそう、あんな家族第一みたいな人でもさー、なんかさー……」
「うちの上司はブチギレてますけど」
そのせいでもないだろうが、同僚や部下たちの言葉は冷ややかだった。ただでさえハッピー・テロリストの犯行とその経緯が広まっていただけにそんな事かよとか言う調子であり、神田太一が凄んでも詩音のように怯みはしない。
最初の営業課長の反応が最大のそれであり、社長を含む幹部たちもなぜこんな事になったんでしょうかと所在なげに言うだけでそれほどまで惜しんでいる様子はなかった。去り際にもう一度柏原の頭に血が上っている旨を伝えても誰も動揺せず、実に淡々とした反応だった。
※※※※※※
「まゆりーん!」
コンサートホールにて田辺真由子に向けられる声援。
太かったり、軽かったり、高かったり、低かったり。
様々な声援が飛び交う。
「なにキモこの連中、あんなのでも公平に接するなんてやっぱまゆりん様って神だよね。あ、あんなのだと知らないからか」
「まゆりんは公平な人だよ!」
「そうだよね、ごめんごめん。でもこういうとこがあたしとまゆりん様の違いなんだよね、あたしだったらとてもとても…」
「と言うかよくまゆりんグッズ代があるよね、遠征にも行くんでしょ」
「他に何にも使わないから」
そのコンサートのニュースを仲良しのクラスメイトと共に見ていた稲田詩音の同級生の千間女神は、このキャパシティ1000人にも満たない「コンサートホール」にて熱狂するまゆりんのファンの男性たちをあからさまにバカにしながら笑っていた。
その「コンサートホール」に、まゆりんは足を運んでいない。プロモーションビデオがスクリーンに流され、アイドルとか言う四文字とはあらゆる意味で縁遠そうな働き者な事が取り柄の中年男性、タレントでも何でもない商店街のオジサンが蝶ネクタイにキラキラしたスーツを身にまとって派手に騒いでいるだけでありほとんどまゆりんありきの安っぽいショーでしかない。ニュースキャスターはまゆりんの力による町おこしとか言っているが、こんなにあちこちで頻発していて町おこしも何もあるかいと言うのが女神の本音だった。
「にしてもさ、シアンのとこのパパ、なんであんな事になっちゃったんだか」
「わかんないけどね、絶対なんかあったんじゃないの、っつーかそうであって欲しいけどさシアンのために」
「言っちゃ悪いけどさ、シアンのパパって典型的なオッサンよね。ひげこそ生えてないけど皴は多くて堅苦しそうでそれでいてヘラヘラと言うかヘコヘコしてそうでさ、あーあ、私も大きくなったらあんなオッサン、っつーかオバサンになっちゃうのかな…本当やんなるわ。ってかさ電車賃大丈夫?」
そして詩音をシアンと言うあだ名で呼ぶ二人の稲次郎に対しての意見も、だいたい稲次郎の同僚と似たような感じだった。
じっくり見た訳でもないが、いつもスーツ姿で黒縁眼鏡をかけ時々腰を痛そうにしながら前かがみに歩き、むやみやたらに口元を引き締めている。通勤電車で移動中もちっともスマホに目を落としたりもせず、じっと座ったりつり革に掴まっていたりする。品行方正と言うか、ひたすらに重苦しくて堅苦しい。
別に何度も見た事はなかった女神のクラスメイトだったが、同じ電車に乗って通学していると言う女神の言葉で大体その印象は固まっていた。
「でさ、まゆりん様のツイート見た?」
「そりゃもちろん毎日チェックしてるけど」
「ハンカチの一件、まだ見つかってないらしいのよね」
「そうなのよね……まゆりん様も可哀想に…」
「それなんだけどね、この前さ…」
女神は急に声を潜める。ここだけの話だと言わんばかりに左手でクラスメイトを抱き寄せ、その上で右手でスマホを動かす。
かなりの名人芸であり、稲次郎のような世代の人間を感服させるには十分すぎるそれだった。
その上で、彼女は自分しか知らないであろう爆弾を投げ付けてやった。
「えっじゃあ何!?」
「うんマジ。指紋がベッタリ付いてたって」
稲次郎と言う存在がこの世を去った場所である交番の目の前に落とされた、一枚のハンカチ。
そのハンカチには、MAYUKOの六文字が書かれていた。
真っ赤な糸で。




