幕間 過去の足跡
幕間 過去の足跡
1,
ミズガルズ連邦の首都ビヴロストは世界最大級の貿易都市、と呼ばれるだけあって湖港を中心とした『玄関口』は、暴力的なまでの喧騒と活気で溢れていた。巨大な飛行船が何十隻と並び、運搬作業を遠くの丘から眺めている。
今度の祝日にみんなで外出してみるのはどうだろうか、と。お父さんから提案された時は、はじめは断ろうかと悩んだ。今更自分の住んでいる街を観光、というのもおかしな話だけど、わたしはまだこの街のことをあまりよく知らない。知識としては知っているつもりだけど、体験はなかった。だから、何もかもが新鮮だ。お父さんに肩車をしてもらって見る視点は、ほとんどの人を見下ろすことができる。一方で、わたしにも視線が集中するのを感じると、なんだか恥ずかしい気持ちになる。心許なくて、お父さんの耳を握ると「リリさん、やめてね」と困ったように笑いながらやんわりと怒られてしまった。どうやら、わたしは自分ではあまり実感が湧かないけれど色々とわかりやすい性格をしているらしくて、ものすごくしょんぼりとしているのは自明の理だった。現に、お父さんに叱られたのは精神的にかなりのダメージを受けた。「ごめんなさい」と謝ると、お父さんは懐から包み紙に入った飴玉を渡して口元に指を当ててながら「それ、特別製だよ」と自慢げに言った。わたしは首を傾げながら包み紙を剥いて飴玉を口に放り込むと甘酸っぱい果実のような爽やかな味がちょっとだけ幸せな気分にさせてくれた。美味しいけど、何が特別なんだろうか。見た目はガラス球みたいに透き通っていて、強いていうならちょっと冷たいような、溶けるのが早いような。訝しがりながら味わっていると、飴玉が弾けるように消えて濃厚な葡萄の香りが鼻を抜けてくる。中身からゼリー状の塊が現れて、そのまま滑るように飲み込んでしまった。わたしは何が起きたのかわからずに目を丸くしていた。
「おいしい!」
「……リリさん、痛いから耳握るのはやめてね?」
「あ、ごめんなさい」
わたしたちのやりとりを見ていたふたりの会話が聞こえてきた。
おそるおそる振り向くと、大柄で快活な様子の虎の女性獣人がぎこちない笑顔を浮かべながら「はろー」とわたしに声をかけた。その隣にいる女性は一見すれば白い犬の獣人種にもみえるけど、手足に丈の長い黒い長手袋や膝丈の靴下を履いたような独特な毛皮の色模様が狐であるということを証明していた。意外と種族を気にする獣人は多いので、誤った認識や扱いはものすごく失礼なのだと主任からは教わっている。狐の女性は扇で口元を隠しながら視線を逸らしている。虎の女性はロマさん。冷淡な印象を受ける狐の女性はココノさん。同じ屋根の下で暮らしてしばらく経つけれど、まだまだ距離感がある。そう感じる原因は、主にわたしのせいなんだけど。
彼女たちがいばらなのは知っている。もちろん、わたしが不老不死なのも知られている。本来ならば秘密にしないといけない関係性を共有している運命共同体だけど、うまく言えないけど、わたしの人付き合いは秘密を壁にして丁度いい距離を測っていた。それが心理的に安心していられる要因のひとつで、最後の砦みたいなものだった。だから、本当に気を許した人にだけ秘密を自分の口から告白したのなら、その人のことを罪悪感もなく好きになれる。もちろんそんなに大切なことはお父さんときちんと相談しないといけないことだから、リオに不老不死を告げたのも結構大変だった。まあ、リオはシーナ様を通じてわたしのことは知っていたみたいだったし、お父さんもシーナ様を通じてリオのことも知っていた。だけど自分の口から告げることが大事なのであって。知らない人がわたしの秘密を知っていて、いきなり一緒に暮らしますって説明されたら、困る。いや、いきなりではなかった。従業員を増やす時にはお父さんからきちんと説明もされたし、相談もされた。嫌なら嫌と言えはずだ。でも、わたしは良いって言った。無理してないかと問われた時も、大丈夫って言った。結局はわたしのわがままが現状を生み出してしまったのだから、責任はわたしにある。
仲良くなりたくないわけじゃない。けれど、どうしたらいいのかよくわからない。お父さんにも相談した。自分から相談した、ってことは既に答えが出ているはずだ。
呆れたことに嫉み。嫉妬というやつだ。
昔から、お父さんに近づく女性には無意識のうちに敵意を持ってしまう。独占欲、少しはそういった感情はあるかもしれないけど。どちらかといえば、なにも魅力のない自分が見捨てられないか心配だった。ロマさんは明朗快活で、何もかもわたしとは正反対で人当たりも良くて親しみやすい性格。元気で、明るくて、いつも楽しげに笑っている。対照的なココノさんは、凛としていて気品があり、どこか憂い気を感じさせる。元気が空回りすることもあるロマさんの行動を冷静にサポートして、少し消極的なココノさんはロマさんに手を引いてもらっているような気がする。ふたりの相性と信頼関係はなんとなく察することはできた。
「……あのっ、おねえちゃんたちッ」
わたしの言葉に、ふたりの目が見開いた。
「おねえちゃんたちはお父さんのこと、好きなの?」
「ええ、好きよ」
「え、ええっ?!!」
ココノさんだけは顔色ひとつ変えずに即答して、ロマさんは挙動不審になりながらお父さんとココノさんを交互に指をさして狼狽していた。
「こ、ココ、その、それはその、つまり店長のことが好き、なの?!」
「そう言ったのよ」
「お、おぉッ?」
「ロマも彼のこと好きって言ってたじゃない」
「ちょっと、待て待て?!」
「なによ」
「ココは、いいからちょっとこっち来よう。店長、ロマさんたちはちょっとあっちの屋台においしそうなアイスクリーム売っていたので買ってきていいですかねー!!」
「うん、いいけどそれならついでに私たちの分もお願いしてもいいかな。代金は渡すから」
「よっしゃ、ありがとうございまーす!」
「乳も氷菓もあまり好きではない」
「空気読んで!?」
お金を受け取るとロマさんがココノさんの首根っこ掴んだまま、そのまま人混みの中に引きずっていって消えてしまった。
「アイスクリーム食べていいの?」
「たまにはね、お腹冷やさない程度に」
わたしたちが今いる場所は、港を一望できる岬にある展望台で地元でも有名な観光地らしく国内外からもわざわざ足を運ぶ人もいるくらいなんだとか。飛行船自体が珍しいのもある。それが綺麗に並んでいる様子が見られるのも貿易都市ならではの景色。ふと、恋仲であるであろう若い男女の姿が目に入った。なぜ、そう思ってしまったのか考えていたら、シーナ様のにやけた顔が脳裏に張り付いて離れない。あの人は、三度の飯より恋の話が好きだと豪語するだけあってわたしもそういう思考に少なからず影響されてしまっているようだ。それに、お父さんがふたりの異性から好意寄せられているのを目の当たりにして、なんというか複雑な気分になる。
「お父さんは、どっちが好きなの?」
「ああ、ふたりのことかな、私に恋愛感情を聞くこと自体間違ってるけど好きだよ。旅をしていた頃の、恩人なんだ。リリさんは忘れてるみたいけど、あのふたりとリリさんは特別仲が良かったんだよ?」
「……わたし、覚えてない」
「わかってるよ。私も、ふたりもね。リリさんはまだ言葉もまともに喋ることができないくらい幼かったからさ。無理に思い出して貰う必要はないと思ったんだ、思い出したくないことも思い出してしまったら苦しいだろう。ふたりはそっちの心配をしていたね」
アイスクリーム屋台の人だかりの方向から、ロマさんの怒号が聞こえてくる。
「ちくしょう、アンタはアイスクリーム売る気あるのかないのかどっちなんだよー!持つところ、持つところ買いに来たんじゃないぞこっちは!ぱりぱりしててうまいけど!」
肩車されているので、よく見えるけれど。なかなかアイスクリームを渡してもらえないようだ。それとなくお父さんに聞いてみると一種のパフォーマンスらしい。まわりの人は笑顔だけど、なんだろう。学校に通っていた頃に体験した背の高い子たちに持ち物を返してもらえないイジメに近いモノを思い出してあまり気分の良いモノではない。
翻弄されているロマさんを尻目にココノさんはアイスクリームを早々に三つ確保して帰ってきた。お父さんとわたしに渡すと、自分の分を一口食べて「やっぱり、ロマに食わせるか」と顔を顰めていた。どうやら本当にアイスクリームが苦手な様子だった。
「ココノさん、アイスありがとう」
「ああ。私は買ってきただけだ、父上に感謝するんだぞ。それにしても……ロマはなにをしているんだ」
お父さんにも感謝して、立ち食いするのも他の人に迷惑がかかるので、適当なベンチに腰をおろし、お父さんの膝の上で久々に食べる甘いものを堪能していた。中々帰って来ないロマさんにはココノさんは呆れた様子で肩を落としていた。
「ごめん、リリちゃん、店長、ココ。不甲斐ないロマさんを許しておくれ、一つしかアイスクリームが手に入らなかったよ……って、みんないつの間に!ロマさんの苦労ふがっ!」
「いい客引きにはなったんじゃないの、それはご褒美」
「……ああもう、おいしくて腹立つなぁ、あの店主めえ!」
ココノさんは帰ってきたロマさんの口にアイスを押し込み、そしてバリバリと音を立てて平らげた。
「もっと味わいなさいな」
ココノさんはハンカチでロマさんの口の周りを拭きながら、笑っていた。なんだろう、大きな子供と母親のようだ。
「……わたしたちは、どう見えてるのかな」
わたしの呟きに、お父さんは何も言わずにわたしを抱きしめて頭の上に顎を乗せた。
「血の繋がりだけが全てじゃないって言えたら格好が付くんだけど、私はリリさんに依存しきってしまっているからね。情けないお父さんでごめん」
「そんなことない。そんなことないんだけど、わたしはお父さんとカミラお姉ちゃんみたいに全身が黒い毛皮で金色に輝く満月みたいな綺麗な瞳が羨ましい、な」
以前、髪の毛を黒く染めたことがあった。些細なことだけど、一時的に劣等感を忘れることができた。けれどそれからは地獄だった。少し髪が伸びれば、メッキが剥がれるように自分の正体が露わになる。それが、どうしようもない現実を突きつけられているようで、二度とすることのない理由になるには十分だった。
「わたしなんて、色素がないから全身真っ白だし、瞳は赤くて……なんだかわたしが吸血鬼みたいでしょ?」
以前のわたしならこんな冗談を言うほど肝がすわってなかっただろう。ただ、それがかなり痛々しく見えたのかもしれない。お父さんは強く噛み締めるように口を閉じた。すぐそばにいるわたしに筋肉のこわばりが伝わってくる。
お父さんは、何か言葉を呑み込んで「そう、だね」と歯切れの悪い返事をすると筋肉がこわばっている様子はもうなかった。
「それじゃあ、そろそろ他の場所も観に行こうか。せっかくの祝日だし、街を見てまわろうよ」
すこしだけ、すこしだけお父さんが悲しそうだった。無理をして絞り出したような、悲壮感が嫌でも伝わって来た。
2,
この街は、三重の高壁に囲まれている。最外周は、わたしにとってこれまでこの街の全てだと思っていた終点街。その内側に壁を隔てた向こうに広がる一般的な居住区画の『中心街』、そして三つ目の壁に囲まれた一部の特権階級が住むことが許された『中枢街』という繁華街と歓楽街などの経済を回している中心地だ。終点街から移動するにも蒸気機関車の駅を何度か乗り継いで数刻。次第に文明が発展していく様子には心が躍った。
今は繁華街をゆっくり走る路面電車の車窓から流れる街並みを覗いていた。首都ビヴロストのランドマークでもある巨大な時計塔を中心に、放射状に広がるこの国の経済の中心を目の当たりにしていた。中でも目を引いたのは、見慣れた制服を着た配達員の姿だった。身体能力の高さを活かして自由自在に街を駆ける姿はさながら風のようだった。荷馬車の往来も多く、行き交う人々も多い、祝日だというのに一瞬たりとも人の流れが絶えることはない。もしかしたら祝日だから、なのかもしれない。あちこちには簡素な屋台が立ち並び食欲をそそる香りがする。
「もしここでお父さんがお店出したらお客さんたくさんだね」
「……それは、過労死しちゃうかもね。それに、大公様の庇護下にあってもこんな大衆の中でお店を出すわけにはいかない身の上だからさ」
まあ、それでも。とお父さんは得意げな笑みを浮かべて「提供したレシピの使用料でそれなりに儲けさせてもらってるんだけどね」と。
「そんなわけで商業組合ではそれなりに顔が利くから、ウチが終点街も端の端にあるにも関わらず在庫を切らしたことはないだろう?」
「うん、お父さんいつもほとんど寝てないのにいつ買い出しとかしてるのかなってずっと不思議だった」
「実は日が昇る少し前くらいには組合経由で食材とかを卸してもらっているんだよ」
お父さんのおいしい料理が食べられるのは、蛇口を捻ればきれいな水が出てくるくらい当たり前のことだったからあまり気にしたことはなかったけど、どんなにすごい料理人だって食材がなければ何も作れない。色々なことをわかってきたつもりだったけど、一番身近なことを何も知らなかった。
「それでも、足りないものってどうしても出てくるからね。今日はついでにそう言ったものを買おうと思ったんだ。ウチも家族が増えたことだし、必要なものもあるだろうしさ。なにより、親睦を深めるべきだと思うからね」
「……うん、わかってるよ。全部わたしの思い込みだったことくらい。そんなに言わなくったって、いいでしょ。お父さんのいじわる」
わたしの頭を優しく撫でるお父さんの手を掴み、熱っぽい顔を隠すようにする。色素が薄くて毛色が白いこともあり、わたしの赤ら顔は非常にわかりやすい。いくら仏頂面でもわかりやすく顔に出てしまう。
「まぁ、でも誤解が解けたみたいでよかったよ」
お父さんは口元を多いながら笑い声を押し殺していた。
「最近、私によく甘えるようになったのはそういうことだったんだね」
「……ダメだった、かな?」
「まさか、私は嬉しいんだよ。リリさんと一緒におでかけできるのがね。なんだかんだ、私も人の世界が好きだったみたいでさ。あちこち旅して、料理のレシピを集めていたのもやっぱり憧れがあったんだろうなって」
お父さんの視線の先には、美味しそうに食べ歩きをする人々がいた。わたしはついつい料理の方に目が入ってしまうけれど、お父さんは食べている人々の表情を見て楽しんでいた。これじゃあ、まるでわたしがただの食いしんぼうみたいじゃないか。
「二人とも花より団子ね」
「だってさー、絶対に美味しいに決まってるじゃん。店長ー、あれなんて料理なんだ。でっけぇ肉の塊をぐるぐる回しながら切り分けてパンみたいなのに包んでるヤツ。あれ、絶対にうまいって」
「……うん、おいしそう」
「リリちゃんもそう思うよねー」
わたしとロマさんは同じ屋台に目が釘付けになっていた。だってあんなにでっかいお肉見せられて食べたくならない方がおかしい。
「あれはケバブだよ。牛肉や羊肉を回しながら火入れして、焼けたところから削いで食べる料理でね。古くから色々な地域で食べられているもので世界三大料理と呼ばれていたりしたね」
「店長、なにそれ、すごく有名ってことだよね。三大ってことは他にも二つあるんだよね。ロマさん全然知らないんだけど、ああっ、ケバブ行っちゃうケバブ。ああっ!」
「静かになさい」
「あ、あとで食べようか」
車内ではしゃぐロマさんを叱るココノさんを見て他の乗客の人もお父さんも笑うしかなかった。
ケバブ、行っちゃった。
「それで残りの二つの話なんだけど、そもそも三大っていう割に今まで聞いたこともなかったんだけど!」
ロマさんは居直ったようにお父さんに話しかける。
「それは選定基準が宮廷料理だったり、影響力や貢献度を基準にしていたかという諸説があるんだけど、聞きたいのは他の屋台どういう料理があるとか味とかをききたいんだよね?」
ロマさんは強く頷いている。わたしも釣られて頷いていた。
「基本的には、串焼きが多いけどこの混雑を考えると商業組合が事故や怪我に繋がるものを安易に食べ歩きを許可するとは思えない、蒸し料理に使われる蒸篭の香りもするから点心料理もあるかもね。そもそも繁華街だし、飲食店がいつもより規模を拡大して店を開いているみたいだから意外となんでもあるかもよ?」
「店長、ちょっと説明めんどくさいなって思ってるよね」
「ここは貿易都市だから、そりゃあ世界中の美味しいものが集まってくるだろう。絵に描いた餅なんかよりも実際に食べてみた方がいいんじゃないかい?」
「じゃあはやく食べに行こう今すぐ行こうさあ行こう」
「ついさっき氷菓食べたばかりじゃない」
「お肉は、別腹!」
ロマさんがわたしの手を掴み上に掲げるように引っ張る。小声で「リリちゃんも」と、催促してくる。
「おにくは、べつばら……」
「おー!」
「……おー」
もう、どうにでもして!
しばらくして路面電車が停留場に到着すると、ロマさんがわたしを抱っこして「とーちゃく!」と跳び降りる。ロマさんはお父さんより頭一つ分くらい背が高い。そのまま帽子でもかぶるようにわたしを肩車する。
「そんなに慌てなくてもお肉は逃げないよ」
「逃げなくても、焦げる!」
「大体、焦げたら売り物にならないでしょう。それより、あなたのバカがリリに移ったら大変だから、彼に返しなさい」
「リリさんは賢すぎるくらいだからちょっとくらいロマさんに分けてもらったほうがいいよ」
「店長までひどい、傷ついた!!」
わたしは無意識のうちにロマさんの頭を撫でていて、それに気がついた時には自分でもびっくりして反射的に手を離した。なんだろう、記憶にはないけど体が覚えているような、ごわごわとした髪質、虎柄の毛並みと同じ黒縞が走った髪の毛。彼女の後頭部に不思議な既視感を感じた。ぴこぴこと動く彼女の耳を握りたい衝動を抑えられず、思わず握った。
「ヴニャッ?!」
「あ、ごめんなさい……」
「だいじょぶ、だいじょぶ。でも、なんか懐かしい感じー」
「リリさんは昔から肩車すると必ず耳を握りたがるからびっくりするんだよねぇ」
しみじみと話すお父さんの後ろに隠れたココノさんは耳を手で隠すようにしながら少し怯えたようにわたしを見ていた。ココノさんはお父さんより頭一つ分くらい小さいけど大きな耳が縦にピンと立っているのでなんとなく背が高く思えてしまう。そういえば、ずいぶん前にクロード先輩の耳も握った記憶があるけど、特に何も言われなかった気がする。あれ以来肩車された記憶がない。悪いことをしたかもしれない。
獣人の耳と尻尾は特に神経が集中しているから乱暴に扱ってはいけない。とは、わかっているけど目の前にあると握ってしまう。わたしはチビだから、誰かに気づいてもらいたい時に尻尾も引っ張ることも多々あったが、そちらは普段から温厚なお父さんでも怒るのできちんと矯正させられた。でも、肩車なんて滅多にされることじゃないからその癖は抜けないみたいだ。
「じゃあ、ロマさんにリリさんを任せるけど、ちょっとでも怪我をさせたら、ね?」
「……へ?」
一瞬、お父さんの目つきが鋭くなったような気がした。
「わかってるよね?」
お父さんが微笑みかけるとそのまま踵を返して繁華街の方に向かう。
「え、ちょっと、何なに、怖い怖い!?」
「はしゃがないほうがいいわよ、あんまり」
ココノさんは警告するように言うと、すたすたと歩きお父さんの後に続く。
なるほど、お父さんは落ち着きのないロマさんを制御するためにわたしを任せたのか。なんとなく居心地がいいから文句はないけど、お父さんと離れるのはちょっと寂しい。
「……ロマさん、置いてかれちゃう」
「ちょ、ちょっと待ってよー」
二人を追いかけるロマさんの声は今にも泣き出しそうだった。もしもわたしがちょっとでも怪我をしたらロマさんがどうなってしまうのか、想像がつかないけど。なんだか気の毒だ。
3,
わたしは、もうこれ以上食べられない状態。いわゆる満腹になったことがなければ空腹に悩まされたこともない。食べるのは遅いけれど、食べようと思えばいくらでも食べられる。消化して吸収する速度が並外れている。つまり、代謝がものすごくいい。それは不老不死であるが故にそうなのかはハッキリとはわからないけれど、少なくとも普通ではない。一回にお父さんがわたしから飲む血の量はコップ一杯分ほど、わたしの体重から計算した場合、それは致死量に近い。それだけの血液を失ったら再び作られるのも、本来ならば一朝一夕で済む話などではない。お父さんがあまり血を吸いたがらない気持ちも、心配性な性格を考えたらわからなくもない。
でも、わたしとしてはおいしいものをたくさん食べられるので実にありがたい。
ロマさんが食べ切れたら無料だけど、食べ切れなかったら罰金という、いわゆる大食いチャレンジとやらをしていた。あまりにもおいしそうに食べていたので、途中からわたしもやってみたいと言ったらお店の人に止められた。その名も『食えるもんなら食ってみやがれ!バーガー親父の怒髪天ギガカロリー爆弾ハンバーガー!!』という。ロマさんは豪快にかぶり付いてものの数分で平らげて驚かせていた。わたしはその横でバーガー親父印の普通のハンバーガーを食べていた。普通とは言っても、このお店はとにかく色々と大きなことを売りにしているみたいなのでなかなか食べ応えがある。お肉の臭みもなく、特製のソースは甘辛くて印象深い味付けだ。挟まっていたレタスとトマトとたまねぎを抜こうとしたらお父さんに「ちゃんと食べなさい」とやんわりと叱られたけど、一緒に食べてみたら不思議にもさっぱりとしていていくらでもお腹に入りそうなほどおいしかった。卓上の小さな時計を見たらロマさんの倍以上の時間が経っていた。それでも、わたしは何故かロマさん以上に注目を集めていたらしい。
「ごちそうさま」
気がついたら手についたソースを舐め取っている姿をたくさんの人に見られていた。
「リリさん口の周り凄いことになってるよ。あと指を舐めないの」
「ん、んん?」
お父さんが口を拭いてくれたけど、何が起きているのか理解できなかった。
「ロマは無駄に大きいから別にどれだけ食べれても不思議じゃないけど、リリみたいなちいさな女の子が食べるにはいくらなんでもそれは量が多すぎる」
ココノさんは、さくさくとフライドポテトを一本ずつ食べながら呆れた顔をしていた。
「嬢ちゃんたち、いい食いっぷりだったぜ。バーガー親父冥利に尽きるってモンだぜ」
「おいしかったです。ごちそうさま」
「ご馳走だなんて大層なモンじゃねぇけど、残さず食べてくれてありがとな。スタンプカードにオマケしといてやるよ」
「親父さん、なんだこれ?」
わたしとロマさんに渡されたのは、デフォルメされたキャラクターがお腹を膨らませながら目を回して倒れているのが特徴的な『食い倒れスタンプラリー』のカードだった。裏面には十個分のマス目があり、ロマさんのものは四つのハンコで埋まっていて、わたしのは二つ埋まっていた。
「見ての通り、今日はお祭りでな。時計塔の通りに百貨店の並びがあるんだが、そいつを持ってくとスタンプの数だけ福引を回せるんだ。これは、その食事部門だな。他にもこの辺りの商業組合の施設では大概似たようなものが出回ってるが、お上の在庫処ぶ……まあ、町おこしみたいなヤツだな」
「今、在庫処分って言ったわ」
「こういうのは、そういうものだから」
訝しがるココノさんに、お父さんは苦笑いをしながら会計を済ませていた。
「ちなみに、全部埋めるとタダで一回分追加で福引を回せるからちょっとオトクだぜ。財布と胃袋に相談してくれよな、本当に食い倒れちまったら笑えねぇからよ」
豪快に笑い飛ばす店主に「ええ、本当に」と、ロマさんに白い目を向けるココノさんがいた。
バーガー親父の屋台店を後にすると、しばらくしてロマさんが深呼吸をした後に「いや無理でしょ、誘惑が多すぎるって」と、呟いた。
「こんな、こんなの全部食べたいに決まってるじゃんかぁ!!」
ロマさんはゆっくり膝から崩れ落ちると石畳を叩きながら泣き始めてしまった。わたしは食後の肩車は体には良くないだろうと「すこし、一緒に歩きましょう」と、ココノさんと手を繋ぎながら歩いていた。そして迷子にならないように、どこかで貰った風船をくくりつけたシュシュでわたしの髪を纏めていた。手慣れている。
「泣かなくても、色々な種類をちょっとずつ食べればいいんじゃないかな。そういうのが食べ歩きの醍醐味だと思うよ?」
「……つまり、全部食べてもいいのか?」
「ほどほどにね」
立ち直ったロマさんが走り出しそうになる直前に、ココノさんが尻尾を強く引っ張った。
「ンニャヴッ?!」
「ロマ、復唱」
「……ほどほどにします」
「リリ、あなたも」
「ほどほどにします」
なんだろう、また既視感がある。いつもロマさんと怒られていたような、ロマさんだけが怒られていたような。どちらにしろロマさんがココノさんにいつも怒られている光景だけは見覚えがある。ウチにいる時はあまり怒られていなかった気がする。いや、怒るには怒っていたのかもしれない。お客さんの前でそういう姿を一度も晒していないだけで。
「でも、楽しむことはいいことだから」
二人ともロマさんには飴と鞭の鞭多めみたいな感じだ。
それから、しばらくの間「節度を守った」食べ歩きを満喫することになった。
そして数時間後──。
「なんか、リリちゃんが蛮族の族長みたいになってしまった」
再びロマさんに肩車をしてもらったわたしの首掛け紐にはスタンプカードがずらりと並んでいた。百回以上は福引が回せそうだ。全部一人で食べたわけではないけれど、四人が少しづつ食べた結果がこれだ。それでもわたしが食べると何故かオマケがもらえて、ロマさんは食べすぎる。お父さんとココノさんは少食だから、ほとんどずっとわたしとロマさんが食べていた。
「いか焼き、おいしかった。不思議な白いお肉だった。たこ焼きも、かりかりふわふわのとろとろで中に不思議なお肉が入っていておいしかった」
「そういえばリリさんは魚介類はあまり食べたことがなかったね。足が速いからあまり頼まないんだけど,気に入ったなら今度から卸してもらおうかな。カレーにしてもおいしいんだよ」
「カレーすごい、なんでもできる」
お父さんのカレーライスは絶品だ。あれを食べたことない人は人生の大半を損していると言っても過言ではない。これだけたくさんのお店があるのにカレーの香りは全くしなかった。
「あとはパエリアとかも、リリさんは好きだと思う」
「ぱえりあ?」
また知らない料理の名前だ。でも、きっとおいしいものに違いない。
「サフランライスの魚介類の具沢山炊き込みごはんみたい感じかな、フライパンひとつあれば簡単に作れるのも魅力だね」
「今日、色々食べたけどそんな料理なかったよ?」
「残念ながら、やっぱりお米はあまり好んで食べられるものではないみたいだからね」
「おいしいのにね」
多くの人から、未だにお米の扱いは家畜の餌という認識が払拭されることがない。食用として育てている農家さんは、珍しいそうだ。お米にも大きく分けて陸稲と水稲の二種類があって、世間一般の常識にあるものは前者で、わたしたちが日頃からおいしいと思っているのは水田と呼ばれる水を張った畑で育てられる後者らしい。お父さん曰く、そこは美しい田園風景だそうだ。
「水田は『仙樹の郷』にもあったわね」
「リリちゃん、田植えの時期は泥まみれになってたよね」
「あなたたちは、いつもいつも」
二人が感慨深く語るところには、わたしの姿があるみたいだ。だけど、わたしは知らない。思い出そうとしても、何も思い浮かばない。そこにあると言う美しい風景も、泥遊びも、お米の味も覚えていない。二人は口を押さえて失言を後悔している様子だった。それでも、自分の幼少期をそれとなく教えてくれたことは、何故かちょっと嬉しい。どうやら、わたしの過去は『仙樹の郷』と呼ばれる場所にあったようだ。そこを故郷と呼んでもいいのだろうか。
考えすぎかもしれないけれど、お父さんがわたしにお米を食べさせてくれるのは故郷を思い出して欲しいからなのかもしれない。だって、思い出に否定的なら過去を想起させるような引き金に指をかける真似はしないだろう。それに、むざむざ思い出の塊みたいな二人をわたしに引き合わせる必要もなかったはずだ。
それに、お父さんは家族が増えると言っていた。
つまり、お父さんにとっても二人の存在は特別なものなのだ。過去のわたしにとっても、二人は特別なものだった。そして、それはこれからのわたしにとっても。きっと。
「おっと、なんだかお祭りがもうおしまいみたいな顔してるけど、まだまだだからね。食べ歩きも楽しかったけど、繁華街に来る機会はあんまりないんだから、買い物も楽しもうよ」
昼下がりの繁華街、わたしたちの歩みは時計塔通りの雑踏に消えていった。