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【前日譚①】ちいさな配達人 Ⅴ



 それは突然の出来事だった。

 休日の朝、まぶたを擦りながら庭先のポストに向かい、朝の新聞を取りに行った時だった。

 燕尾服姿の初老の男性が、後方に馬車を待機させており、わたしに気がつくと声を掛けてきた。


「お嬢様、おはようございます。ご壮健でいらっしゃいますね」


「ええと、おはようございます……」


 自宅の立地的にご近所付き合いなどほとんどないので、目の前の老紳士が何者なのかわからないけど、とりあえず挨拶をしておく。

 見覚えのあるお客さんでもないので困惑していると、わたしの様子を見て察してくれたのか、説明的な口調でここに来た理由を話してくれた。

 どうやら、わたしが竜人様ことリオネッタ・ウィルム氏の手紙を持っていることを知っているらしく、その件について話がしたいとの事だ。


「……確かについ先日、わたしはリオネッタ様からの郵便物を受け取りました。で、でも、盗んだりしたわけではありません。主任から、あの、わたしは郵便局で働かせてもらっていて、こちらの都合で郵便物の返送ができず、処分もできないリオネッタ様名義の手紙をひとつだけいただいたんです。興味があったら、この手紙の住所に訪ねてみてはどうか、なんてからかわれたりしたんですが、もしかして、その件で、わたし、不敬罪とか窃盗罪で捕まるんでしょうか?」


「いいえ、罪に問われることはありませんよ。ただ、姫様に興味を抱いた者がどのような人物なのかはこの目で確認せずにはいられない性分なのです」


 わたしと主任のやりとりが外部に漏れたにしても、いくらなんでも情報が伝わるのが早すぎる。

 主任が直接連絡したくらいじゃなければ説明がつかない。

 けれど、それなら何故わざわざわたしの休日に合わせて訪ねてきたのだろうか。

 こちらの予定を考えてくれた、それにしてはこんな朝早くからウチに来るのはいくらなんでも非常識ではないだろうか。


「あぁ、いえ、我々もこんな時間に訪ねるのは非常識であるのは重々承知しておりますが、どのようなお方が姫様の手紙を開いたのか気になり、居ても立っても居られなかったのです」


「リリさん、朝ごはん冷めちゃうよ」


 気まずい空気を切り裂くように、お父さんは新聞を取りに行ったにしては帰りが遅いわたしを呼びにきた。

 わたしは、すかさずお父さんの後ろに隠れて、老紳士をじっと見つめていた。


「セオドアさん、なんだか娘が怖がっているようなのですが、何か心当たりありますか?」


「ええ、我が主のことで、年甲斐もなく少々興奮してしまい。いけませんね、ベル殿のお嬢様には試すような真似をして申し訳なく思います」


 お父さんの呼び名を知っているということは、信用してもいい相手なのかもしれない。

 眠気と張り詰めていた緊張の糸が緩んで、お父さんに体重を預けてしまう。

 しゅんとした老紳士からは反省の色が窺える。

 不覚にも、かわいいおじいさんだなって思ってしまった。

 口に出すのは失礼なので、胸の内に留めておくことにする。


「そうですか、店先で立ち話もなんですし、一緒に朝食でもいかがですか?」


「それは嬉しいですな。ベル殿の料理は絶品ですので」


 たぶん、わたしは嫌そうな顔でもしていたのだろう。

 お父さんに抱えられて「悪い人じゃないから安心して」と耳打ちされた。

 じゃあ、平気なんだろうとは思ったけれど、わたしはわかりやすく拗ねたようなふてぶてしい態度を取ってしまったと思う。


「御者の方の分もありますよ」


「いえ、御者はおりません。この老骨だけでごさいます」


「あまり若い体じゃないんですから無理しないでくださいよ」


「実際は人手不足と言いますか、生者の存在があまりいないのが実情でして……」


 咳払いをするように誤魔化すセオドアさんだったが、確かに聞こえたのは生者の存在があまりいないという発言にどうにも違和感を覚えた。

 裏を返せば生者じゃない存在が居るとも取れる。

 まだセオドアさんに心を開いていない事もあって、わたしはこの老紳士の発言を一言一句聞き逃さないようにしていた。

 のだが、目の前に置かれた朝食の皿を見て、なんだかどうでも良くなってしまった。

 香ばしい小麦の香りが漂うトーストの四種類のサンドイッチ。

 シンプルなたまごのサンドイッチもあれば、三層構造のハムとレタスの間にタルタルソースが挟まった手の込んだものもある。

 特製ソースのキャベツの千切りとメンチカツのサンドイッチ。

 トマトとタマネギとベーコンを乗せたチーズのピザ風トースト。

 お父さんが是が非でも野菜を食べさせようとするのはもはや執念だ。

 美味しいんだけど、本当に野菜が美味しいのが悔しい。

 というか、タルタルソースの細かく刻んだタマネギのピリッとした辛さがクセになりそうで悔しい。

 他にもレタスやキャベツだけを抜いて食べようとしても、笑顔で「野菜食べようね」といわれて食べてみたら、意外とさっぱりしていて美味しくて、シャキッとしたキャベツのおかげで揚げたて熱々のメンチカツにかぶりついても舌を火傷しないどころか思いのほか食べやすくて驚いた。


「リリさん、なんで泣いてるの」


「野菜がおいしいはずないのに」


「ふふっ、美味しかったんだね」


「……でもお肉少ない、お肉もっと食べたい」


「じゃあお昼はトンカツとかどうかな」


「……トンカツ!」


 わたしがはしゃいでいると、セオドアさんもサンドイッチを頬張りながら泣いていた。


「いやはや、ベル殿の料理を毎日食べられるとは、リリお嬢様は羨ましい。常日頃から腹を満たせれば最低限で構わないと思っていましたが、やはり美味なるものを食べると生を実感できますなあ。姫様にも、この味を知れば書庫から出てきていただけるでしょうか」


「……セオドアさん、あなたやリオネッタ様は普段は何をお召し上がりになっているのですか?」

 

 お父さんは結果はわかっているけれど、とりあえず聞いてみた。という感じで、肩を落としながら質問した。

 

「我々は粗食を心がけ、主食は荘園で取れた食材で自給自足しております故。……姫様はあまり食べ物に頓着しないようでして、竜族の生理的欲求が希薄とはいえ、研究に打ち込むあまり飲まず食わずで眠りもせずに部屋から出ても来ないとなると心配なのです」


 セオドアさんは竜人様の生活の偏りに心配しているようだった。

 なんというか、意外だ。

 竜人様やその使用人ともなると、食事も庶民からは想像もできないような見たこともない豪華なものを食べていると思ったんだけど、かなり健康志向が強いみたいだ。

 話を聞いてみれば、どうやらあまりお肉が食べられない食生活らしい。

 粗食とは言っても、粗末な食事ではなく、いわゆる精進料理みたいな感じのようだ。

 話を聞くと、どうやら味噌や醤油、みりんと言った我が家では馴染み深いけれど世の中にはあまり出回っていない珍しい調味料をウチに卸してくれているのはセオドアさんたちなのだとか。


「こら、リリさん。指についたソースを舐めないの」


「……だって、おいしいんだもん」


「だっておいしいんだもんじゃないの、毛を呑み込んだら苦しいのはリリさんなんだよ?毛玉吐くのは嫌だろう?」


「……はい」


 セオドアさんの優しい視線が突き刺さるように痛い。


「お嬢様は、随分と感情豊かになりましたね」


「えぇ、最近では自分の欲しいものは自分の稼いだお金で買うために郵便局で働くようにもなりましたし、店の手伝いも率先してやるようになってくれました。それどころか、給金を家計の足してなんて言ってくれるんです」


「ちょ、ちょっと、お父さん!」


 お父さんは目頭を押さえながら、涙声を漏らしていた。

 

「リリお嬢様、爺やも我が身の如く嬉しく思います」


「な、なんでセオドアさんまで泣くんですか。それに爺やって……」


「リリさん、あまりセオドアさんを邪険にしないであげて。私たちが不老不死なのも知っているし、この街にきた時から色々と世話を焼いてくれるコチラ側の人なんだよ」


「でも、わたしセオドアさんのこと全然知らなかったよ」


「それはそうでしょうな」


 セオドアさんは快活に笑いながら、自分の顔を毟るように引きちぎった。

 そこからは異なる獣人種族の老人の顔が現れた。

 まるで、物語に出てくる怪盗のように他人に変装していたみたいだ。

 一体、どんな仕組みなんだろうか。引きちぎったものは沸騰したように泡立つと跡形もなく消滅してしまった。


「姫様の技術を使わせてもらい、このように姿を偽り商人を装い足繁く通っておりました。いわゆる、常連さんというヤツでございます。調味料や食材を対価に、姫様に喜んでいただけるような料理のご教授を賜わっていた次第でございます」


 この人の言う姫様、竜人様はどんな人なのか底知れないと思った。


「とか言ってるけど、私がセオドアさんに教わってることの方が多いんだ。特にリリさんの好きな洋食は、ほとんどセオドアさんから教わったんだよ。料理の師匠みたいなものかな」


「ベル殿は買いかぶりが過ぎます。料理を食べてすらいただけない料理人には、その言葉は、あまりにも重すぎます……」


 わたしはその話を聞いて、どうして竜人様はおいしいごはんを食べたがらないのか不思議で仕方がなかった。

 不老不死の存在は生理的欲求が希薄なのはよく知っているけれど、おいしいものを食べると幸せな気持ちになれる。

 心にぽっかり空いた穴を満たしてくれる。

 目には見えない心の傷を癒してくれる。

 わたしは、料理にはそんな不思議な力が秘められていると思う。


「……竜人様もおいしいものを食べるべきです」


「……お嬢様?」


「わたしが、毎日頑張れるのはお父さんのおいしいごはんが食べられるからです。だから、竜人様もセオドアさんのごはんを食べるべきです。研究がなんなのか、わたしにはよくわからないですけど、食事を抜くと体によくないんです。おいしいごはんは魔法なんですよ」


 お父さんとセオドアさんは顔を見合わせると笑っていた。


「なんですかふたりとも、笑わないでくださいよ。失礼じゃないですか!」


 

 

 馬車に揺られながら、車窓から流れる景色を眺めていた。

 こう言った乗り物にはあまり縁がなかったので、はしゃいでしまった。

 どう言った仕組みなのかはわからないけれど、御者もいないのに馬が勝手に明確な意思を持って目的地に向かっているみたいだ。

 でも、この馬なんだか妙だ。

 そういう種なのだろうか。

 セオドアさんと向かい合いながら座り、少々気まずい沈黙が車内を支配していた。

 わたしが持ち前の人見知りを遺憾なく発揮していたからだ。

 それでも、社交的なセオドアさんは、わたしが退屈しないように、緊張をほぐすように、打ち解けやすい空気に変えてくれた。

 何処か懐かしいような、温かい雰囲気が、お店でお手伝いをしている時みたいで落ち着かせてくれた。

 車内が賑やかになるのに、時間はそんなにかからなかった。

 

「いやはや、お嬢様は何と言いますか大胆ですな」


「そもそも、セオドアさんがわたしを竜人様に会わせる為に来たんじゃないですか。わたしも、いつかは会いに行こうかなとは思っていたので、ちょうどいい機会かなって思ったんです。それに、竜人様には絶対においしいお父さんのカツサンドを食べてぎゃふんと言ってもらいたいんです」

 

 わたしはずっしりと重たいリュックサックをセオドアさんに見せつける。

 中には食パン五斤分のカツサンドが収まっている。

 竜人様は体長が三メートル近いらしいからこれくらい食べれてしまうのだとか、むしろ少ないかも知れない。

 他にも、使用人の方々の分のカツサンドもあるけれど、そっちは荷台にある。


「ぎゃふん、とは、退治でもなさるおつもりですか……?」


「……いえ、ただ、竜人様はずっとおひとりだと聞いたので。それは、なんだか、嫌だなって思ったんです」


 リュックを下ろして、セオドアさんと向かい合うように座り直す。

 失礼なのはわかっているけど、現在竜人様が置かれている状況に、なんというか同族嫌悪がする。

 闇の中に囚われているような嫌悪、焦燥、恐怖が心を腐らせようとするイメージを思い出してしまう。


「そうですね、私も先代から執事長を引き継ぐまでに姫様の顔は数えるほどしか拝見しておりません。ただ、あの瞳は、恐ろしく冷たかった、心の底から哀しくなるほどに。私の父が亡くなった夜のことを思い出す、そんな心の闇を見透かすような暗い瞳でした」


 セオドアさんは「私がこれではいけませんね」と微笑むと、話題はわたしが竜人様の手紙を手にしたことに遡る。


「お嬢様、あなたが手にした姫様の手紙は普通の人、不老不死でない者にはただの走り書き程度にしか見えないのですが、体液……そうですね、指先を舐めて紙を濡らしてみてください。お嬢様には全く違うものが写るはずです」


 訝しがりながらも、言われた通りにすると、走り書きのインクが意思を持ったかのように紙の中を走り回り、まるで契約書のように、長い条文が現れた。


「これは?」


「永遠を求める者への甘美な罠、探究者の証、魂の契約。そうですね、魔女の血判状とでも呼びましょうか。姫様の研究の協力者になるということです」


「魔女の血判状……?」


「姫様の研究は、自分ではない誰かになることを目的としたものだそうです。先ほど、この口から浅慮にも生者などと漏らしましたが、姫様の周りにいる使用人の多くは傀儡。魂の入った作り物の人形なのです」


「魂の入った人形……?」


「百聞は一見にしかず、と言いますし実際見てみましょうか。じきに、屋敷につきますので」


 車輪の回る速度が緩やかになり、外には廃城と呼ぶには人の手が入っており、歴史のある古城と言った様式の邸宅が聳え立っていた。

 庭園の草花は綺麗に手入れがされていて、流れている水も透き通るほどに綺麗だ。

 ただ、全体的に古めかしい意匠を感じられる。

 リュックサックを背負い、セオドアさんの力を借りて馬車から降りると、目の前の荘厳な景色にただただ圧倒される。


「もしかして、終点街の魔女の城……?」


「ええ、今でもたまにいるんですよ。廃墟と勘違いして肝試しに来る子供がね。市政にもちゃんと届出は出しておりますし、この通りメイドや庭師もこんなにいるんですけどね。困ったものです。ひとまず、落ち着いて話ができる場所まで行きましょうか。姫様をぎゃふんと言わせるには作戦会議が必要でしょう」


 ほっほっほ、と笑いながらわたしの手を引いてくれるセオドアさん。

 馬車は、わたしたちが降りると、何も言わないのに勝手に動き始めた。

 随分と賢いのだろうか。

 美味しそうな香りがする場所、おそらく厨房があるところまで荷を届けに行ったみたいだ。

 そして、正面玄関の大扉を開くと、大勢のメイドさんが礼をしながらわたしたちを出迎えてくれた。「おかえりなさいませ、お嬢様」と。

 わたしは、お嬢様なんて呼ばれるような大層な存在じゃないのに。

 混乱しながらも、とにかくセオドアさんについていくしかないわたしは、あまりの体力の無さから途中から肩で呼吸をするようになり、気がついた頃には気絶していた。

 意識を取り戻した時には、応接間のような一室で、ソファに寝かされていた。


「……んっ」

 

「申し訳ありません、歩幅を見誤っておりました。お嬢様を引きずり回すような立ち振る舞い、たかだか一介の従者には許されざる行い。如何なる処罰でも受けます」


「えっ」


 重厚感のある拳銃を手渡され、セオドアさんは銃身を掴み銃口を自分の頭にゴリゴリと押し当てていた。

 よく見ると、弾丸は装填されているし、撃鉄も起こしてある。


「だめだめだめ、ダメだって?!」


 最悪な寝起きになった。心臓に悪いなんてもんじゃない。頭おかしいんじゃないのこの人。


「しかしお嬢様は尊きお方、あなたを害したとなればこれくらいはまだ生優しいかと」


「だいたいお嬢様ってなんなんですか、わたしとお父さんは人里で暮らしたがってる変わった不老不死ですよ?」


「いえ、あなた方はあの魔女様のご家族様ですので最大級のおもてなしをせねばならないのです、竜に仕えるものとしてそれは絶対なのでございます」


「たぶん人違いだとおもうんですけど、とにかくお嬢様はやめてください。拳銃も。セオドアさんには仕えている竜人様がいるんですから、これ以上混乱させないでください」


「寛大な」


「しつこいです!」


 


 柱時計が鐘を鳴らし、城中に反響してすこしだけ不気味な感じがする。

 わたしはお茶菓子をご馳走になりながら、理解を一足飛びに超えてくる出来事の数々をちゃんと説明してもらっていた。

 まず、そもそも何故わたしの手に手紙が渡ったのかを知られていたこと。

 これは、竜人様に仕えている諜報員や工作員のような組織からの連絡から判明したことらしい。

 そして、件の竜人様のこと。

 不死の界隈では魂の魔女とも呼ばれている学者であり、魂を操ることができるのだという。

 魔女と呼ばれる存在は他にも存在するらしく、他の竜人様や不死の中では一目置かれている者をそう呼ぶらしい。

 わたしが乗ってきた馬車の馬も、罪人の魂が込められた馬人形の上から本物同様の皮を被せられたものらしい。

 文字通り、馬車馬になって働いたらしい。

 そういう風に、罪人を魂の実験に使うこともあれば、望んで人形になる忠誠心のある人々もいるそうだ。

 例えば、わたしを出迎えてくれたたくさんのメイドさんたちもそうだ。

 自ら進んで人形になることを選んだのだとか、中には永遠の命欲しさに口先だけの忠誠を誓ったとか、そういうのもいるらしいけど、基本的に生物の魂の移動は自然の摂理に反するから不可逆らしく、なって後悔したり、精神が壊れてしまってただの人形になったとか。

 どうあれ、結局。


「……カルト教団かなにかなんですか?」


 と、わたしは警戒心全開になってしまったわけで。


「わたしを騙して誘拐するために、お父さんの気持ちを踏み躙って近付いたなら、わたしは絶対にあなたたちをゆるさない」


「ご、誤解です。そのようなことは毛頭」


「竜人様のことも嘘なんでしょ」


「いえ、姫様に誓ってそのようなことは」


「全部、嘘なんでしょ……。ひとりぼっちで苦しんでるって、もしかしたら、わたしだったら、寄り添ってあげられるかもって、そんなの、ぜんぶ、調子に乗った、わたしの思い上がりなんだ。わたしにできることなんて、ないよ」


 結局、わたしはひきこもりの竜人様に、思い上がって自分のことを勝手に重ねて、何がしたかったんだろう。ただ、今は、自分でさえ制御できない昂った沸騰した感情に正常な判断ができなくなっているのは明白だった。

 何か、強い存在の圧力に思考が塗りつぶされてしまいそうだ。


「……お嬢様、我らの言葉などもはや説得力の欠片もないのでしょう。信用に値しないでしょうが、一度だけ、これが最後のお願いです。姫様にお会いしてください。あの方の闇を祓えるのは、おそらくお嬢様以外にいないのです」


「……そしたら、おうちに帰してくれる?」


 わたしは、自分自身が情けなくなってしまった。

 自分の自惚れに、父の料理を自慢げに騙った薄汚さに吐き気がする。

 ちょっと外の世界を見た気になって、自分の力じゃないものを褒めてもらって調子に乗っていただけだ。

 不安な気持ちが増していく、心肺を握られているみたいな息苦しさで、呼吸もままならず、あたまが酸欠でじんじんと痛む。

 セオドアさんは、頷くとわたしの手を引いてくれた。

 こんな嘘つきで見栄っ張りのお調子者の、虚勢と嘘とちっぽけな自尊心で汚れたわたしの手を。

 帰ったら、お父さんにどんな顔をすればいいんだろうか。

 どう謝ればいいだろう。

 また仕事先に顔を出すことはできるだろうか。

 思考がぐるぐると混ざり合って、不安な気持ちが増大していく。

 そして、気持ちも纏まらないまま、わたしは大きな扉の前にたどり着いた。

 大きい以外、何の変哲もない普通の両開きの扉だ。


「お嬢様」


「……うん」


 竜人様にお父さんの魔法の料理を食べてもらう。

 たしか、そういう目的だった。

 せめてそれくらいは、最初の約束くらいは守らないと。

 たくさんの美味しいサンドイッチが、今ではただの叱責の重さに感じてしまう。

 ドアノブに手をかける。

 鍵がかかっているわけでもなく、何の抵抗もなく、すんなりと空いてしまった。

 周囲からは感嘆の声が聞こえた。

 その先に広がる深い闇の中に、わたしは誘われるように吸い込まれていった。

 半球状の天井には夜空が広がっていた。それが本物ではないことはわかっていたけれど、どちらにしても綺麗なことには変わりなかった。

 振り返れば、半開きになったこの部屋の扉。人の気配はないし、どうやら閉じ込められたわけでもなさそうだ。

 さっさと竜人様にサンドイッチを渡して、わたしも早く帰ろう。


「……りゅうじんさま」


 今にも潰れそうな細い声で呼んでみる。

 聞こえるはずがない。


「りゅうじんさまー」


 先輩に、元気がないって心配されそうな声だ。

 関係ないけど。


「りゅうじんさまー!」


 わたしは、いつから泣いていたんだろうか。

 震えた声が部屋に響くと大きな気配を感じた。


「綺麗な光……綺麗な光……」


 星空の一部を切り取ったかのような綺麗なランプを持った大きな影。

 青白く淡く輝いている。

 亡霊のようにゆらゆらとわたしに近付く「綺麗な光」と譫言のように繰り返しながら近付いてくる。


「あ、嗚呼、きみ、だめっス、こんなところにいては、穢れてしまう……。魂が、膿んでしまう……。ぼくのせいで、ぼくのせいで……綺麗な光が……」


「わたしは、りゅうじんさまに食事を持ってきただけです。りゅうじんさまが食べてくれたらすぐ帰ります」


 リュックサックを下ろして、大きな白い影にサンドイッチを渡そうと手を伸ばす。


「……きみ、いつからそうなったんスか。いつからここにっ、生身でこんなところに居たら魂が長くはもたないッスよ!」


 また、魂の話だ。

 非科学的にも、ほどがある。


「わたしは、死なないので、りゅうじんさまに食事を」


「そんなのどうでもいいから、きみは、はやくここから離れて……」


 あれ、おかしいな。

 足が動かない。

 目も見えない。

 何も聞こえない。

 何も感じない。

 感覚の何もかもを失う前、わたしはなんだかものすごく幸せな気持ちになった。

 お父さんが、わたしが大好きな料理を作ってくれたんだんだ。

 それから、わたしの意識は完全に塗りつぶされて、どこまでも深い闇の中を彷徨っていた。

 このまま、消えてなくなるんだろうと思い、意識を手放そうとした時、胸の辺りに痛みを感じて跳ね起きる。

 薄暗い視界の先には白い大理石。

 痛みを吐き出すように、何度も咳き込むと、真っ黒な血のようなものが絶えず溢れていることがわかる。

 それを出し切ると、霞が掛かっていた思考も随分とハッキリとしてきた。

 それに、つい先程まで全てが真っ黒な負の感情に覆われていたはずなのに、時間を遡ったかのように、今朝、わたしがセオドアさんと会話を交わしていた場面まで記憶が飛んだ。


『竜人様もおいしいものを食べるべきです』


『わたしが、毎日頑張れるのはお父さんのおいしいごはんが食べられるからです。だから、竜人様もセオドアさんのごはんを食べるべきです。研究がなんなのか、わたしにはよくわからないですけど、食事を抜くと体によくないんです。おいしいごはんは魔法なんですよ』


 自慢げに、わたしはそう言ったあと、それから三人で山ほどの料理を作った。

 たぶん今日の郵便局の昼食もカツサンドまみれになっちゃったんだろうなあ。

 包丁を入れたら潰れてしまった。わたしが作った不恰好なサンドイッチを見て「味も見た目も大切ですが、誰かのために作るということは何よりも大事なことです」と、褒めてくれたセオドアさんの言葉を思い出した。

 わたしは、不器用でサンドイッチも綺麗に切れない。

 そんな、料理を台無しにするくらい不格好なものを見て「姫様も、自分のために作ってくれた料理をよろこんでくれると思います」と、セオドアさんは優しく微笑んでくれた。


「……りゅうじんさま、わたし、あなたのこと、ぜんぜん知らないけど、でも、ひとりぼっちはだめです、ごはんたべないのも、だめです。ごはん、たべましょう。わたし、リリっていいます。一緒にごはん、たべましょう。カツサンド、美味しいですよ?」


「いったい、なんなんスかキミは、死にかけてまで、一緒にごはん食べに来ただけなんて、わけわかんないって……」


「わたしは、不死ですので、大丈夫です。でも、たぶん今はじめて死にました。結構、あっけないものでした」


 はじめての時ってなんで言えばいいんだっけ。

 お姉ちゃんが言うには確か。


「……責任、とってくださいね」


 だっけ。

 違ったっけ。

 まあ、いいや、たぶんはじめて死んだんだ。

 ちょっとだけ疲れた。

 竜人様、ご飯食べてくれるといいな。




 全身がだるい。

 痛い。

 なんか、今日だけで二回か三回くらい気絶したような気がする。

 倦怠感の中、体を起こすと、わたしはたくさんのぬいぐるみに囲まれたベッドの上で目を覚ました。

 わたしもお気に入りのぬいぐるみが三つくらいあるけれど、この量は夥しいという言葉がしっくりくる。

 たくさんの卵から孵った雛に与えられたエサの気分だ。

 それにしてもここは何処だろうか、ニオイの感じからしてカツサンドが近くにあることはわかる。

 他には、古くなった本のインクの香りだ。

 バニラやアーモンドに近い独特の香りがする。

 他には、化学薬品のニオイ。

 あとは、鉄、いや血……?

 それとは別に、誰かが咽び泣く声が聞こえる。

 視線の先には、瓶に詰まった真っ黒な液体をごくごくと喉を鳴らして飲んでいる体長三メートルほどの大きな女性の後ろ姿。

 ずいぶんと姿勢がわるい。

 濡羽色の髪を垂らしながら、呪文のように何かを呟いている。

 爬虫類、いや、ドラゴンのような、あっ。


「……竜人様?」


 わたしが声をかけると、わかりやすく驚いた反応をした竜人様は、ガクガクと震えながらこちらを見る。


「おばけぇ?!」


 いや、どちらかといえば、うっすらと白く発光しているあなたの方がおばけっぽいのではないでしょうか。


「たぶん、気を失う前に言ったかと思いますが、わたしは不死です。不老不死です」


「いやいや、でも、それにしても、キミ、心臓が潰れて口から膿を吐き出したんスよ。たった二、三時間で起き上がれるはずないっス」


「膿?」


 なんのことだろうか。

 思わず小首を傾げてしまう。


「黒い血をドバーって、それが心の膿っス。たくさん吐いて、気を失ったの、ここまではおっけーっスか?」


「はい、なんだかすっきりしました。一度は死んでみるものですね」


「……ポジティブが過ぎるでしょ。いや元はと言えば、ぼくのせいでキミの心の傷、トラウマってやつが活性化してしまったが故に心を壊して殺してしまったんスけど、その吐き出したものは責任を取ってぼくが処理したんすけど、まあ、ええと、具合がいいならよかったっス。うん、マジで。うっぷ」


 なんだろう、目を合わせてくれない。

 わたし、服は、着ているよね。


「あの、竜人様、なんだか具合が悪そうですけど大丈夫ですか?」


「だ、だだだ大丈夫、大丈夫だから、その、あまりこっちみないでほしいっス。キミの美少女力は五十三万くらいあるのでぼくなんて一瞬で木っ端微塵になるっス」


 何か別の国の言葉を話しているのだろうか。

 やけに早口だし、さっぱり意味がわからない。

 やっぱり、どこか具合がわるいのだろうか。


「竜人様?」


 心配になってベッドから起き上がり、様子を見に行こうとすると。


「それ以上近づかないでほしいっス!お願い、ほんと、ぼく、生き物がダメなんスよ。ほんと、無理っス、ここまで運んでくるだけで、というか、うぷっ。特に今は、キミの過去がえげつなさ過ぎて、吐かないようにしないといけないから、しばらく寝てて、まだ調子悪いでしょ?ぼくに構わず寝てて、お願いだから!」


「あ、はい……」


 今までにないくらい全力で拒否された。

 お言葉に甘えて、もう少し休ませて貰おう。

 でも、竜人様今にも吐きそうなくらい具合悪そうだし、セオドアさんを呼んだ方がいいのかな。


「あの、セオドアさん呼んできましょうか。具合悪そうですし、お医者さんに診てもらった方が」


「だめだめ、キミが特別なだけで普通の生者は連れてきたらぼくの部屋入った時点で気が狂って死んじゃうっス。大丈夫だから、というかそれだけ元気があるなら、外に出て行ってほしいっス……」


「本当に大丈夫ですか?」


「うん、大丈夫大丈夫」


 わたしは、竜人様に追い出されるようにして部屋を後にした。

 扉の先には規則正しく並んだ本棚に、綺麗に収められた書物。

 天井には星空が見えた。

 さっきはそれどころじゃなかったけど、プラネタリウムってやつかな。

 竜人様の唸り声が聞こえるのは階段下に作られた物置小屋みたいなところかな、そこに寝泊まりしてるみたいだ。

 あ、そうだ。


「竜人様、わたしの荷物の中には食べ物が入ってます。もし具合が良くなったら食べてくださいね」


 返事はなかったけど、とにかくわたしがいては竜人様の邪魔になるみたいだ。

 おとなしく出ていこう。

 一緒にご飯食べられなかったのは残念だけど、また機会はあるよね。

 入り口の両開きの扉の前着いてから、名残惜しそうに竜人様がいた部屋の方を向き。

 言われるがままに部屋を後にした。




 竜人様との邂逅の後、わたしは改めてセオドアさんから話を聞くことになった。

 まず、生者と呼ばれている存在の大半のほとんどは、竜人様の持つ強力な力に当てられると正常な判断能力を失い、疑心暗鬼になり、やがて破滅するのだという。

 それは、わたしが身をもって体験したので疑う余地がない。

 あれは呪いの類だそうだ。

 終点街の魔女の城の話では、帰ってきた者のほとんどは気が触れてしまうとか、人が変わってしまうなどの結末だ。

 しかし、竜人様の下で働く生者にはそのような兆候は全く見られなかった為、所詮は噂話がひとり歩きした程度のものだと思っていたらしい。

 それが、今日、実際にわたしの身に起きた。

 あまり記憶に残っていなかったけど、わたしは段々と人が変わったかのように疑心暗鬼と敵意を剥き出しにするようになっていたようだ。

 他にも、わたしが黒い血のようなものを吐いたことと、竜人様がその黒い血を飲んでいた話をした。

 どうやら、その行為は穢れを浄化する神聖な儀式で、人の心の傷やトラウマと言ったものを代わりにその身に引き受ける。

 とのことだ。

 よくわからないが、竜人様は『心の膿』とか言っていた。

 そして、それを吐き出してからは、わたしはあの場に居てもなんともなかった。

 代わりに、たぶんわたしが吐いた黒い血を、竜人様は飲んで体調を悪くしていた。

 代わりに穢れを引き受けた、ということだろうか。

 あれから、ずっと胸の奥に渦巻いていた嫌な気持ちがなくなった。

 考えれば考えるほど、わたしは不思議な体験をしたのだと思う。

 セオドアさんも自分たち生者があの扉の先に足を踏み入れようものなら、確実な死が待っていると言われて動揺しているようだった。

 竜人様は、ひきこもっているわけではなく死を無闇に振り撒かないように、あの場から動けないのだ。

 セオドアさんも動揺を隠し切れないと様子だった。

 そして、なによりの問題はわたしが膿を吐き出した時、持っていた魔女の血判状にわたしの血がたっぷりと付着してしまったことだ。

 これは、竜人様の研究の協力者になるということだ。

 それはつまり、文字通り魂を捧げることになる。

 けれどわたしは、あまり現状を深刻に考えていなかった。


「まあ、大丈夫ですよ」


「全然大丈夫じゃあありません!」


「研究に協力するってことは、弟子みたいなものじゃないですか。わたし、竜人様の部屋を見て、あれだけたくさんの本が読めたらいいなーって思ったんです。それに、わたしにはまだわからない未知の分野があるのなら学びたいって思ったんです。魂ってなんなのか、なんで魂で人形が動くのか、知りたいじゃないですか。こんなこと、竜人様以外教えてくれる方なんていないんじゃないですか?まあ、多少順序が変わっただけで、わたしは竜人様に師事するつもりでしたから」


 わたしは、こんなにも心が晴れやかな気分ははじめてだった。

 

「それに。わたし、まだ竜人様と一緒にごはん食べてません」


 家に帰った後、お父さんとお姉ちゃんにはものすごく怒られたけど、最終的にわたしがいいならそれでいいというお父さんの意見と、わたしに変なことをしたらお姉ちゃんが竜人様をぶっ殺すという意見で纏まった。

 竜人様の方でも週に二日、わたしを弟子として迎えるということになった。

 わたしは、はじめて死を知り、ここから世界を知る一歩を踏み出すことになる。


 (つづく)

 

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