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ツリー・オブ・ライフ  作者: 風船 かずら
5/12

ちいさな配達人 未だ世界を知らず、死を知らず 了



1,



 吸血鬼。伝承などに残された様々な弱点は、どうあれ超常の存在の恐れに対する一筋の光明だったのかもしれない。事実は、吸血鬼は揺るがない不死身の存在だ。唯一の欠点は、栄養にできるものが生き血、新鮮な血液のみに限られていることくらい。しかし、欠点とはいえ、弱点ではない。個人差こそあれ多少の飢餓感に襲われるくらいでそれ自体が命を脅かすほどのものではない。血は情報の塊で、不老不死だからこそ、時代時代の人々に合わせて体質を少しずつ変化させている。生態系の緩やかな進化から置き去りにされないように血を飲むのだ。実際は血液ならば、どんなものでも構わないらしい。ただ、体のつくりの似た人の血が都合がいいだけ。しかし、どんな血にも少なからず毒素があるので、大量に摂取すればするほど体にはよくない。


 そのことを知っているからこそ、わたしはお父さんにはちゃんとした血を飲んでもらいたい。わたしに食事を用意してくれるみたいに。だから、なるべく健康体でいる為に好き嫌いはしないようにしている。


 とはいえ、お父さんに血を吸われるのは未だに慣れないし、緊張するし、ちょっと怖い。それほど痛いわけでも、苦しいわけでもないけれど、なんだかよくわからない感じになる自分が怖い。


 緊張をほぐす為、頭を撫でたり、向かい合って優しく抱きしめるお父さんに、わたしは体を擦りつけるようにしたり、においを嗅いだり、あまり顔を直視できずに恥ずかしい思いをしながら甘えている。


「ごめんね」


 しばらくして、お父さんはわたしの首筋に噛み付いた。ごくごくと喉を鳴らしている。段々と体から力が抜けて、数十秒と経たずに指先まで自力で動かすこともできなくなった。血の気が引いて意識だけははっきりしていた。翌朝には噛んだ痕も残らないだろうけど、この瞬間、この傷と心地の良い脱力感がたまらなくしあわせだ。


 そういえば、言い伝えでは吸血鬼に噛まれたら、その吸血鬼の眷属になるらしい。思えば、わたしがお父さんのことが好きになったのはいつからだろうか。気がつけば身を委ねることを厭わなくなった。たぶん、言い伝えが正しいのなら、わたしはとっくの昔にお父さんの眷属になっているのかも知れない。


「大丈夫?」


「うん、大丈夫。大丈夫だけど、その、ちょっとだけ、このままぎゅっとしてくれる、かな」


 わたしにも、血の繋がった父と母がいたのだろう。もう夢の中ですら、どんな顔をしていたのか、どんな声をしていたのか、どんな姿だったのかわからない。ただ、昔から変わらないのは、いつも誰かを見上げているちいさな自分だ。たまに見る夢の中の両親は子供の落書きのように粗く黒く塗り潰された影のような姿で、発する言葉も激しい雨音みたいな雑音で遮られてなにも聞こえない。だけど、わたしは、確かにやさしいぬくもりで身も心も満たされていて、それが心地よかった。


 それだけの感覚。たった、それだけしか思い出せなかった。わたしの過去は自分でもよくわからないほどに引き伸ばされていて、あまりにも薄っぺらい。思い出せるほどの家族の記憶なんてない。わたしは、からっぽで。もう何も残されてなどいなかった。時間はそれだけ残酷で、わたしから何もかも奪い去っていった。


 だけど、今の自分に「わたし」を与えてくれたのも、他ならぬそんな時間なのだと思うとあまり憎む気にもなれなかった。


 幸せな気持ちで呆然としたままお父さんにお風呂に入れてもらって、泥のように眠った。



2,



「リリさん、なにしてるの?」


 何気ない朝のひと時。朝食の後に歯を磨き、鏡と睨めっこをしている時に、向かい合っている自分の顔を見て、なんとなくつまらなさそうな表情をしていたので、口角を指で押し上げて笑顔を作ってみた。しかし、それを笑顔と呼ぶにはあまりにも不機嫌そうだ。

活力の感じられない表情、無気力に相手を睨みつけているような、俗に言うところのジト目とやらで、いつの頃からかそんな目付きが癖になってしまっていた。


「目が、笑ってないかな」


「だって、そういう顔なんだもん。お客さん相手には愛想よくしたりした方がいいって、それはわかるけど、もうずっとこんな顔だもん、わたし」


「だから、笑顔の練習?」


「うん」


 わたし自身も見飽きた。老婆のような白髪頭に淡い赤の瞳。寝癖のついたわたしの髪を整えているお父さんは、鏡の前で変な顔をしている姿を見て、なんだか嬉しそう。


「仕事の時に、息が上がっちゃって倒れそうになったんだけど。なんでもないって笑ってみたら、主任に親にも滅多に見せない表情を見せるのは無理をしている証拠だって言われて、ちょっとだけ悔しくなった」


「どうして?」


「だって、それってつまり。わたしはいつもお父さんにもつまらなさそうな表情をしているってことだよね。それが、なんだか悔しくて」


「そうかな、リリさんは結構顔に出るタイプだから私は見ていて飽きないけど」


 歯磨きの手が止まっていたので、わたしの身だしなみを整え終わったお父さんが代わりにわたしの歯を磨き始める。こうなっては、話すこともできない。


「私はリリさんみたいに、素直に無邪気な感情を表せる方が羨ましいけど。はい」


 渡されたコップの中の水を口に含み、ゆすいで吐き出すのを二度三度と繰り返して、鏡を見たらやっぱりつまらなさそうな顔をしていた。


「そうかな」


「なんでも悩みすぎないことだよ、リリさんはリリさんなんだからそれも自分の個性だって受け入れるべきだと思う」


 真剣に悩んでいるのにお父さんはわたしの頭を撫でて、営業の支度に移る。


「個性、かあ」


 わたしとお父さんは犬の獣人ではあるけれど、わたしはよくわからない雑種だし、お父さんはボルゾイの純粋な血統だ。わたしの毛並みは老婆のような真っ白で、お父さんとお姉ちゃんは宵闇のように真っ黒だ。いくら個性と言われても、劣等感が浮き彫りになる。


 わたしもそろそろ仕事の準備をして職場に向かわないといけない。相変わらず、ぶかぶかでだぼだぼの紺色の制服を着て、キャスケットを目深にかぶる。リュックには、お父さんが作ってくれたお弁当。尻尾の内側には拳銃、腰には刃の付いていない菱形に鋭く尖ったミセリコルデという種類の刺突短剣が背後のベルトに並行に帯剣されている。護身用の装備は、なんだか物騒で落ち着かない。


 この世界では、多くの人が獣が直立したような足の形をしている。わたしたちのような獣人は、昔から靴としては簡素なサンダルのようなモノで足裏の保護をしている。獣人も基本的には鋭利な爪先をしているので、先端まで覆うデザインは少ないけれど、この履き物という代物は最も身近な旧時代からの遺物なのだという。もうこの世界には、基になった人間というアーキタイプは存在しない。でも、わたしたち新人類は彼らの技術や文化、生活のシステムを倣うことで今日まで生きてきた。全くのゼロからのスタートではなく、あらゆることを模倣することで飛躍的な進歩を遂げることができた。しかし、一方で獣人は滅びてしまった旧時代の人間たちを反面教師として、ある一定の水準から彼らのシステムを使わないことを暗黙の了解として、禁忌としている。


 行き過ぎた技術は、人を、世界を破滅させてしまう。それだけは史実上いくつもの大国が滅んだことが証明していた。


 きっと今この世界のバランスが、ちょうどいいのかもしれない。自分に支給された武器がどんなものだったのか、その歴史を調べてみたら胸焼けがするくらい血生臭いもので、装備の存在感を意識すれば嫌でも史料の内容を思い出してうんざりする。


「リリさん、時間大丈夫?」


 お父さんの声で現実に引き戻された。時計を見ると、始業時間まであまり時間が残されていない。


「大丈夫じゃないです。行ってきます」


 珍しく慌ただしい朝だった。



3,



 配達員の見習いとして半年と少し、主任の下で秘書見習いとして過ごして一ヵ月近くが経った。


 事務仕事の方が、わたしには向いているようだ。と言うより、情けないほど体力がない。だから、事務仕事一択。とはいえ、それでも反復作業が多くて結構な運動量。よく息を切らすし、コミュニケーション能力が著しく欠如しているわたしにとっては、他者との関わり合いは相変わらず。流石に錯乱するほどではなくなったものの、苦手意識は抜け切らない。


 主任は厳しいけれど、すこし親しみやすくなった。まだ怖いけど、親身になってくれるので嫌いではない。体格の差から来る威圧感も比較的少ないので、反射的に身構えることもない。


「それで笑顔の練習をしていた、というわけですか」


 主任だけは笑ったりしなかった。この支局では数少ない好意的な相手、クロード先輩にビスマルク教官とドクターには笑われてしまったけれど。


「あなたには、別に嫌味を言った訳ではありません。それだけは理解してくださらないかしら」


「わたしの笑顔って変でしょうか」


「いえ、とても愛らしいですよ。ですが、その、ただ口角を指で持ち上げただけで笑顔と呼ぶには、難しい話ですが」


「どうすれば笑えるんでしょうか」


「そもそも何故、そこまで笑いたいのですか。別にあなたは感情が乏しいわけでもなければ、それに関わる病気でもありません」


「好きでそうなったわけじゃなくて、気づいたらそうなっていたといいますか。思い返してみたら、笑った経験があまりなくて」


 主任も暇ではないのに、こんなどうしようもない悩みを相談されて困っていることだろう。だけど、わたしは他に誰を頼ればいいのだろうか。そのままでいい、このままでもいいと、誰もが言う。それはわたしが子供だから自分に甘えていい、自分を甘やかして生きてもいいという言葉の裏返しに聞こえてならない。それじゃあ、わたしは永遠に自分自身を甘やかすことになるだろう。


 自分で思考して、自分で選択して、そして行動をすることが生きるということだと。お父さんから教えられた。ただそこに在るだけでは死んでいるのと変わらない、行動してこそはじめて人は生きていると。主体性の乏しいわたしは、ずっと死んでいたようなものだ。だからこそ、いつまでも挫けたまま立ち上がらないわけにはいかない。わたしだって、生きていたい。


「あなたの努力を否定したくはありませんが、笑顔というものは自然と出てくるものです。今のあなたがしようとしているのは心を伴っていないビジネスライクな愛想笑い、文字通り作り笑いですよ」


 山のような書類に、受領印を押したり、一時保留のものと仕分けたりと仕事を片付けている傍ら、わたしは自分の感情すらも満足に表現できない歯痒さに鬱屈する。


「感情とは繊細なものです。豊かであればあるほど傷付きやすい。そして一度傷付いたものは元には戻らない。そういうものだと、理解しているつもりで既に私はあなたのことを傷付けていた。大人ぶって、知ったような口を叩いた自分自身が恥ずかしいほど無知だったんですよ。これほど滑稽なことがありますか?」


 主任は自嘲気味にわたしに問いかける。わたしを見つめる表情は影を落としたようだった。


「私も、どのように笑えばいいのかわかりません。ただ、ビジネスで相手に好意的な印象を与える為の打算的な作り笑いだけは悲しいほど上達しました。あなたには、そうなって欲しくはないですね」


 結局は人付き合いの経験ではないでしょうか。と、主任は結論を言うと二人で淡々と事務作業をこなす。しばらくの無言の間、主任は何かを見つけると悪戯な微笑みを浮かべていた。


「いっそのこと、お友達でも作ってみてはどうかしら?」


 そう言って主任は一枚の手紙をわたしに差し出す。


「……リオネッタ・ウィルム」


 封筒の裏側に可愛らしい文字で書かれた差出人の名前を呟く。封はまだ解かれていない。シグネットリングの刻まれた封蝋はどこか時代錯誤のような印象を受ける。少なくとも差出人が、只者ではないことだけは明白だ。


「主任、この手紙勝手に読んじゃっていいんでしょうか?」


「構いませんよ。宛先のない手紙ですから。それは郵便物に紛れ込ませたイタズラようなもので、切手のない手紙は本来なら受取人に配達料の不足分を払ってもらうか、その住所に送り返すのですが。そのどちらも難しいので」


 主任はキャビネットから同じような手紙が丁重に保管してある箱を取り出す。


「ここ三年で百通くらいはあるわね。だいたい十日くらいに一通あるかないか。あまり、かさばらないとはいえ、どうしたものかと」


 やれやれと首を振る主任。


「ウィルム。わたしでも聞いたことはあります。この手紙の差出人は竜人様なのですか?」


「話が早いわね。そう、竜族だから、イタズラだったとしても無下に扱うこともできないのよ。まあ、文面は多少違うけど内容はほとんど同じなんだろうけど」


 手紙の内容は、簡潔に言えばちょっとしたメモのようなものだ。厳密に言えば、ヘルメスという名前の人に対するひと言。ただの数字だけだったりすれば、ぬいぐるみ買ってきて、とか。法則性のないただの走り書きをわざわざ一つ一つ丁寧に封筒に入れて送り続けている。嫌がらせのつもりではなさそうだけど。


「そうね、暇な時に一度でいいからその人に会ってみてはどうかしら、リリ」


「あの、そういうの、冗談でもわたしには荷が重いです」


「至って真面目よ。あなたの人見知りが病的なのは知っているけど、相手もたぶん同じくらいの人見知りで恥ずかしがり屋さん。なにも子供のお守りをしろってワケじゃない、きっと相手と話が合うんじゃない?」


 主任は、リオネッタ・ウィルムの住所宛ての郵便目録を渡してきた。記されていたのは古今東西ありとあらゆる学術書。これらを全て所有しているとなるとちょっとした図書館並みの書庫で本に囲まれて暮らしているのが容易に想像できる。うらやましい。


「竜人様は学者なのですか?」


「あなたが目録を見てそう推察したのであれば、たぶんなにかの学者なのでしょうね。私には何が何やらで。同好の士として仲良くなれそう?」


 主任は、わたしが遠い国で学校に通っていたことを知っている。ちょっと身辺を洗い出せばそれくらいの情報はわかると言われて、知られてはならない秘密まで知られているのではないだろうかと焦っていたけど、杞憂にすぎなかった。情報漏洩の元はお姉ちゃん。過去にお姉ちゃんがお父さんに送った手紙の返事だけで、過去の居場所を特定されたのは恐ろしい。ちなみに、お父さんは郵便組合を経由するような連絡方法はしていなかった。お姉ちゃんがやらかしてしまったのだ。


「まあ、余計なお世話は承知の上だけど、あなたにはプライベートな時間が必要だと思うの、職場での人間関係や家族との時間以外にもね。交友関係を広げるのは悪いことじゃない、特に心強い友人が居て損はしないわ」


 主任は、少し寂しそうな表情をしていた。


「無理強いはしないわ。でも、あなたは子供に混じって児戯をするようなタイプではないでしょう?」


「行くかどうかは別として、とりあえずこの手紙もらってもいいですか?」


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 正直なところ、わたしは郵便目録を見せられて胸が躍っていた。リオネッタ・ウィルムという人物が学術書を、ただ蒐集しているだけならそれまでだけど、理解しているのならば、各方面の学問に造詣が深く、憧憬してしまう存在だ。まだわたしは学習意欲は衰えてはいないどころか、今までずっと燻っていたものが再燃し始めたかのように熱かった。勉学において、尊敬できる教師にあまり恵まれなかったわたしは、竜人様の本に囲まれた環境を想像するだけでも楽しかった。


「とりあえず、もしもリオネッタ氏に会う機会があれば、せめて手紙には切手を貼るように伝えてね。もう、本当に困るんだから。特に王族やら諸侯やら、貴族とか、権力者はちょっとね」


「権力者といえば、主任は十二人会。コンセンテスの一人ではないのですか?それこそ、ものすごく偉いのではないですか?」


 ありとあらゆる負の感情を吐き出したかのような、深い闇のようなため息。とても気まずい。お父さんのお手伝いをしようと、お米の入った紙袋を床にぶちまけてしまった時くらい気まずい。


 主任は呪詛のように淡々と語り始めた。


「当代のメリクリウスの座は曽祖父から代々継いで来た、栄誉ある名でした。私は、それに泥を塗るだけ塗った怠惰な父から継いだだけ。汚名を晴らす為に頑張っている最中なんですけどね。失墜した信用を取り戻すのは並大抵の努力程度でどうにかなるわけでもなく、今ではこの名の後継を探すまでの間に暫定的に与えられた。謂わば余命宣告です。祖の霊前にどう詫びればいいのか」


 軽々しく踏み入れてはいけない個人の悩みに土足で上がり込んだようなものだ。教官の「頭が痛くなるぜ」と心底呆れたような表情を思い出してしまう。それが自分に向けられていると思うと、申し訳なくなってしまう。


「おいしいもの食べましょう。みんなで一緒にお昼ごはんを食べましょう。根本的には何も解決しませんけど、幸せな気分になること間違いなしです」


 解決策が思い浮かばず、昼食の話をしてしまう。わたしにとって嫌なことを忘れる手段がお父さんの手作り料理を食べることしかないので、半ば自暴自棄だ。紆余曲折あって、最近の職場の昼食はお父さんが作っている。そんなお父さんに責任を丸投げしているようで気が引けるけど、元気になることは間違いないはずだ。


「ごめんなさいね。あれから、性懲りもせずほとんど毎日使いっ走りをさせてしまって」


「わたしのわがままですから。それに、お父さんの料理でみんなが喜んでくれると、わたしも嬉しいんです」


「今更なのですが、昼食の配達、ここで食事をすることは必然的に職場内での人付き合いの影響を受けることになっているのですが、大丈夫ですか。無理をしていませんか?」


「まだちょっと慣れないですけど、お店から食事を運ぶのはクロード先輩やマルコ先輩が手伝ってくれますし、お父さんも作り甲斐があって楽しいみたいです。ただ、わたしが好き嫌いをしていないか見張るように言われていて、そんなに信用ないかなって、かなしくもなっちゃいますけど、みんなでごはんを食べるのも悪くないって思うんです」


 主任がはじめてお父さんの料理を口にしてから、本当に気に入ったみたいでどんなに仕事が遅くなっても毎日「ヤドリギ」に通うようになった。ふと漏らした、お店の料理が昼食に食べられたらどんなに幸せな事だろうという言葉に、お父さんはあっけらかんとした様子で「では、配達しましょうか」と、わたしたち配達員に対して皮肉とも思えるような返事をした。


 とはいえ、お父さん一人で厨房を回しているので、個人個人の注文に応えるには人手は足りず、お店にも昼食を食べにお客さんも来るので、規模の小さな形式で料理を提供するのであれば容易であると言い切った。そもそも料理人はお父さんだけなので、一人でも問題なく営業できるように早朝からある程度の仕込みを済ませているのはわたしも知っている。量が増えたところで、配達用の鍋が増えるだけでそこまで手間ではないらしい。コーヒーも淹れたての万全な味には劣るが、提供可能だと。お父さんの負担が増えることにわたしは心配だったけど、好きでやっていることだからと、それよりわたしが一人ぼっちで冷めたお弁当を食べている方が心配だと言われてしまい、反論できなかった。


 元々は個人のわがままだから、という理由で費用は全額主任のポケットマネーから。みんなで「ヤドリギ」の食事を一緒に食べるようになってから早二週間、働き方改革のスローガンとやらより、職員の士気は目に見えて変わっていた。


 事前申告された約二十人分の食事をわたしとクロード先輩、食いしん坊で力持ちのマルコ先輩が荷車で引いて昼食を運んでくるのが段々と日課になりつつある。お店の方も、職場からのリピーターが増えてますます賑やかになってきた。わたしの仕事のない日に、お店で職場の人たちと顔を合わせる機会も増えた。


「そう、ね。テーブルを囲んでみんなで食べる食事も悪くない。騒がしくて、マナーもあったものじゃないけれど、胸の奥がじんわり温かく感じるのが心地よいのよ。まるで魔法ね、あなたのお父様の料理は」


「そうなんです。お父さんは人を幸せにする魔法使いなんですよ。わたしでも食べたことのない、まだまだ知らない料理のレシピをたくさん持っています。誰にでも、おいしいしあわせを教えてくれます。でも、野菜のサラダはおいしくないとおもいます」


「それは、そうね。でも食べられないものと単なる好き嫌いは別だから、野菜も食べられるようになりなさい」


 主任は優しく笑うと、わたしの頭を撫でた。


「あなたは気づいてないかもしれないけど、お父様の料理のことを話す時は柔らかく可愛らしい笑顔を見せているのよ。私も、みんなも、そんなあなたと食卓を囲むのを楽しみにしているわ。そうね、あなたも、魔法使いなのよ。お父様と一緒でね」


「わたし、笑ってました?」


「黙っていたけれど、最近はずっとね」


「な、なんで言ってくれなかったんですか」


「なんでって、それは、あなたってば意地っ張りだからね。ちょっと様子を見て、種明かしをした方が面白いんじゃないかと思って。それに」


 主任は少しだけ言い淀むと。


「あれだけニコニコしておいて、今更、意識して無愛想になるのも難しいでしょう?」


 わたしの口角に指を当てて押し上げ、わたしの作り笑いを見ていた。顔から火でも出るんじゃないかと思うくらい恥ずかしかった。


 とても、恥ずかしかった。


「ごめんなさい、少しイジワルだったわね。でも、私たちもあなたの笑顔みていたくて。つい」


 でも、主任もちょっと元気を出してくれたみたいだから。まあ、いっか。いいのかな?




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