ちいさな配達人 未だ世界を知らず、死を知らず ④
1,
一週間の休養生活を終えて、無事に復職する運びとなった。とはいえ、当面は外回りの配達仕事は禁止。郵便物の屋内での仕分け作業を主にすることになった。昼休憩時の食事もできる限り組合施設内でするように、これを機に職員間でのコミュニケーションを何より大切にするよう、釘を刺されてしまった。不運な事故だったとはいえ、そもそもわたしが周囲と馴染めずにいたことが原因だった。今後の再発防止の為に、アットホームな職場計画が奨められた。
掲示板に新しく張り出された社訓のようなものに、みんなが群がっている中、わたしはクロード先輩に肩車をされていた。チビだから見えないので。
「そういえば求人とかでアットホームな職場です、とかそんな煽り文句は地雷の確率が高いらしいぞ。なんつうか、残業に続く残業で家にいるより職場にいる時間の方が長いから、結果的に職場が家になるって意味で」
クロード先輩がそういうと、周囲からは「ヘタな怪談よりも怖い」と、声が上がった。
「大丈夫、そもそも運び屋が残業しているようじゃあ、クビだから頑張りましょうねー」
エレイナさんがフォローのつもりで放った言葉で、空気が凍りつくのを感じた。
「アットホームもクビも嫌なら、仕事よ仕事」
メリクルことメリクリウス・コンセンテス主任は大きな尻尾と対照的な小柄な栗鼠の獣人だ。わたしは六歳児程度だと言われているけど、彼女は種族柄よく未成年に間違えられるそうだ。ちなみにこの国では十六歳で成人だ。クロード先輩曰く「ああ見えて歳はオレよりもひと回り上」だそうだ。クロード先輩がいくつなのかは知らないけれど、女性に歳を尋ねるのは野暮ってものらしい。そんな彼女の鶴の一声で掲示板前の人だかりは散り散りになった。
「まったく、人がせっかく作った社訓をなんだと思っているんだか」
「主任は感性の悪さで人殺せるかもしれませんね」
「クロード、あなたはヘラヘラしてないで持ち場に着きなさい」
「はいはい」
「ちょっと、クルースさんを連れて行かないの」
「クルース、誰だそれ?」
「リリ・クルースニク。あなたが普段からチビと呼んでる今肩車している子よ」
「おまえのフルネームなんて、はじめて聞いたぞ。ちなみに、オレはクロード・ルドゥってんだ。よろしくな」
「自己紹介は済みましたか?」
「へいへい、そんじゃまたなリリ」
「……またね」
恥ずかしながらも「またね」なんて言葉で先輩を送り出した自分に驚いている。
なんだか休み明けから先輩はわたしのことをチビとは呼ばなくなった。元々気さくで面倒見のよい性格だったし、それが今更変わったわけではなくわたしの苦手意識が薄れたんだと思う。
「雨降って地固まるってやつですか」
「主任、見てましたか?」
「可愛げがあっていいと思いますよ。次に外回りの仕事があった時はその調子でお願いします」
それは、すごく恥ずかしいかもしれない。
そんな一朝一夕で人見知りと無愛想が治るわけない。なのに、主任はまるで荒療治をするつもりでいる。でも怪我の原因はそんな自分にあるので、改善するべきところなんだろうけど。
「では、仕事をはじめましょう。挨拶は基本ですよ。以前のようなそっけない態度で人を突き放すより、さっきのような、いじらしい感じで」
主任に手を引かれ、小物の仕分け作業をする部屋の扉を開くけれど、心の準備なんて全然できていない。いじらしい感じってどんな感じなんですか、主任。
「はい、挨拶。ミスを無くす為に作業中の声かけも大切ですからね」
「……お、おはよう、ございます」
死にそう。
「緊張してるリリちゃんもかわいいね」
小声でかわいいとか言わないで、わたしはあなたの名前も覚えてない薄情者なんです。普段から自分の作業を終わらせて逃げるように外回りに行ってごめんなさい。人見知りなので、こうやって人前に出るだけでも色々と限界なんです。やめてください、囁かないでください。こっちこないで。
「わ、わわっ、わたしッ、その、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「逃げたら意味がないでしょうに」
主任に退路を塞がれて、泣き出したくても泣けない。逃げ出したくても逃げられない。
「わぁああああ!?」
限界を迎えたわたしは叫び声を上げた後、部屋の隅で耳を塞いでうずくまっていた。ごめんなさいと呟きながら。お父さんを呼んでいた。
「……こりゃあ、筋金入りだ」
何が筋金入りなのかは知らないけれど、わたしは根暗で陰気で対人恐怖症なんです。そっとしておいてください。ごめんなさい。ごめんなさい。
「主任、これは我々にも罪悪感が」
「でもこの子、こんなところを除けば優秀だから」
「そんなこと職員のほとんど全員知ってますよ」
「かわいそうですよ」
「……なんですか、まるで悪者扱いして。しょうがない、子守りに雇ったわけじゃないけど、ビスマルクを呼びましょう。私たちよりはマシなはずよ」
数分後に教官が血相欠いてやってきた。泣き出しそうなわたしを手慣れた様子でなだめてくれた。
「おう、どういうことだこりゃあ」
「きょ、教官」
わたしは、へっぴり腰になりながら教官の足にしがみついていた。
「なんだ、どうした?」
「一週間前の事故で、職員の管理指導に関する至らなさを改めて痛感しました。ただ仕事が出来ればいいという考えは、甘えでした。ですので、当支局員の繋がりを強く、と思ってはいたのですが」
「なるほど、そんで主任殿は無神経に他人にずけずけと入ってもらいたくない場所まで入った挙句にこの有様か。頭が痛くなるぜ」
教官は呆れた様子でそう言った。
「過ごしやすい職場作りってのは、妙案だとは思うが、結果を逸るってのはよくねえな。十人いれば十人、百人いれば百人、教育ってのは似たようなやつを指導したノウハウを活かせる場合もあれば、てんで全く役に立たない事もある。結局はまるっきり同じやつなんていねえからな、指導者ってのはその度に一人一人に向き合ってやらないといけないんだよ」
「それは、そうですが。もう先日のような事故が起きてはいけないのです。それは決して、甘やかすこととは違うのです」
「まあ、そりゃあ。だからってよ」
このまま話をしてもどこまでも平行線だろう。二人の間には、なんとなくそんな空気で阻まれていた。
「ったく。あぁ、わかったよ。なにも、強行策が悪いとはいわねえ。少しずつ慣らしてやってくれ。こいつも、最初はクロードのヤツも苦手だったんだろうよ。それに、見た感じ他の職員の名前も知らんだろ。群れの中にに放り込むにしたって、誰か一人くらい心を許せる奴がいないと、居場所がなくなっちまう。せめて最初にあんたがそうなってやんな、主任殿。ボスに認められるってのが、群れに馴染む一番の近道だぜ?」
教官は「ほれ」と、軽々とわたしを主任に放り投げる。可能な限りわたしが怪我をしないように慎重に受け止めた主任は、後ろの棚にぶつかり、衝撃で書類が散乱していた。教官は既に立ち去っていた。
「だからって子供を投げる人がいますかあ!」
突然の浮遊感に驚いて、全身から嫌な汗が噴き出したような気がする。体がこわばり、軽く目を回しているような感覚だった。
「しゅ、主任」
「怪我はないですか?」
「わたし、飛びました」
「……全く、乱暴ですねあの人は。でも、そうですね、クルースさんを人任せにする言い訳をしようとしていたのかもしれません」
まだ体が驚いている。
「出来るだけ優しくするつもりではありますが、私の指導は厳しいですよ。聞いてますか?」
わたしは頷くことしか出来なかった。
「とはいえ、何をしたものか。私も、ずっとここで仕事をしているわけにはいかない立場ですし」
散乱した書類を整理しながら、主任は途方に暮れていた。
2,
いつも見上げるだけだった防壁の中に、自分が今いるのだと思うとなんとも不思議な感覚だった。
「ええ、機材の納入は滞りなく。ただこの業界の職人は年々衰退の一途を辿っております。不本意ながら、希少価値は高まり、経費は嵩む一方です。残念ですが」
「やはり観測所の規模の縮小は避けては通れないようですね。しかし、万全の状態でも先日のような一匹の野獣を見逃すような失態があっては、我々の在り方に疑問を持つ方々も少なくはないでしょう」
「この世界に魔法なんてないんです。結界だとかバリアだとか、街をすっぽり覆うような防壁の存在があっては世の中はさぞかしファンタジーで夢のあるものだと思いますけど」
「はは、そうですね。あったら夢がありますね魔法。でも、夢じゃ街ひとつ野獣から守れませんからね。せいぜい野獣が嫌がる音や光、ニオイで遠ざけるのが精一杯で、それでも寄って来るのは弩や火砲を使った人の手で退けるしかないのが現状です」
「音響装置や光源装置、街の構造は観測所にそれらを効果的に配置することで野獣たちを退けてきたのに、それが一箇所でも欠けるとなると、その影響はすぐに形となって現れるでしょう。終点街は鳥の野獣の餌場の地獄絵図になり、内地の貴族崩れは優雅にお茶でも飲んでいる未来が容易に想像できます」
よれよれの白衣を着た研究者然とした観測所の職員さんと、主任は長い廊下を歩きながら、世間話としてはあまり芳しくない悲観的な様子の内容を続けている。わたしは主任の秘書代理として、あまりにも身の丈に合わない場違いなところに来てしまった。
「さて、お待たせしてしまいましたね。無駄に広いだけが観測所の取り柄みたいなものでして、執務室にたどり着くまで随分と時間がかかってしまいました」
「貴方まで私を子供扱いする気ですか、アイザック室長」
「いえ、後ろのお嬢さんに。息も上がっている様子なので」
「だい、じょうぶ、です」
「まったく、疲れたなら疲れたと言う。痩せ我慢だとか、無理をするのを美徳とは思いませんからね。無理を強要させてしまった私では、説得力がまるでありませんけど」
「足の踏み場もないみっともない部屋ですが、どうかその辺のガラクタを放って休憩していてください。味には自信はありませんが、コーヒーを淹れ。あ、お嬢さんにはココアの方がいいですか?」
「わたしも、コーヒーでへいき、です。ありがとう、ございます」
主任は全く息切れしていないけど、わたしはもう息も絶え絶えで、思考にぼんやりモヤがかかっている。
「あなたがいることで私にもメリットがあったわね。あなたの方が小さくて逆に目立つから私まで子供扱いされないこと。そんな馬鹿者は今更この区画の観測所にはいないでしょうけど、ね?」
「あちちっ!」
アイザック室長と呼ばれている人はわかりやすく動揺している様子だった。つまりそういうことなのだろう。
「あまりその辺のガラクタには触らない方がいいわよ。まだ生きてたら音やら光やらで大変なことになるから」
「修理できてたら機材の注文しませんってば」
「その割には弄った形跡があるんだもの」
「そりゃあ、自分で直せたらいいじゃないですか」
わたしも機械のことなんて専門外だけど、なんとなくまだ使えそうな気がした。
「ちょっと弄ってみていいですか?」
「こら、遊びにきたんじゃないわよ」
「どうせガラクタだし、いいですよ」
「あのね、そういうことじゃなくて、この子はまがりなりにも私の秘書。今回は書記官として、私たちの取引内容の筆記というちゃんとした役割があるのよ」
「あの、たぶん、それは平気だと思い、ます。書記官、やったことないから、いつから、どこから、やったらいいのかわからなかったので」
主任に、今日は見習い秘書として仕事にて付いてきてもらうから、大切な内容の会話は全て記録するようにといわれたけれど、何が大切で何がそうではないのか判断できなかったから。朝から主任が誰かと会話した内容を一言一句残らず全て記録していた。
「歩くのに必死でしたけど、運動しないなら、あまり、問題なく」
「ちゃんと指示をしなかった私も私なんだけど、あなたはねぇ」
主任は頭を抱えながら深いため息を吐いた。
「まあ、色々と言いたいことはあるんだけど、大丈夫そうね。ただ、間違いの言い訳にガラクタ弄ってましたなんてことは絶対に許さないからそのつもりでね」
わたしは、二人の商談の内容を筆記しながら一辺がだいたい三十センチくらいの立方体の機械の残骸から部品を外して、ツギハギだらけではあるが、なんとなく、探り探り組み立てていった。
筆記と機械弄りに集中していたので、時間が経つのはあっという間だった。
二人の会話が終わり。筆記が止まった時、わたしも機械弄りをすることをやめた。
「ふむ、虚勢ではなかったようね。ちなみに会話の内容、その意味はわかってる?」
「あの、ええと、機械の寿命が動力の熱量で短くなる問題について、バベッジ商会の職人さんへのそのあたりの仕様変更と技術料の引き上げ策の検討。または職人の減少傾向における現状の改善、消耗品としてのコストの削減と生産力の増加」
「そう、筆記の内容も大丈夫そうね。とても子供が片手間にやったとは思えない出来よ。いえ、子供扱いはよくないわね。期待以上よ、リリ・クルースニク」
「ん、クルースニク。クルースニクって確か、ヤドリギって喫茶店のマスターと同じ苗字だったような」
「この子はそこの子」
「わあ、忙しくて滅多に行けないんだよボク。たまに気が利く部下がコーヒーと軽食を買ってきてくれるんだけど、なんだっけアレ。ヒリヒリ辛いやつ好きなんだ!食事も最高なんだけど、やっぱりコーヒーが違う!普段ボクが飲んでるのはドブの上澄み汁だよ!」
「あなた、そんなものを私たちに飲ませたわけ?」
「いやそれは言葉のアヤで、それくらい比較にならないおいしいコーヒーって話だよ!」
「筆記事項ですか?」
「いえ、帰ったら書類を纏めましょう。ウチの所長はどうせいないようなものだし、一通り仕事は済んだから少し遅いけど昼食にしましょう。あなたの頑張りは評価するわ、何か食べたいものはある?」
「わたし、毎日お父さんがお弁当作ってくれているので」
「あら、ちょうどあなたのお店に行こうと思っていたのですよ、ドブの水を飲ませられた当てつけに」
「メリクルさんって陰で性格悪いって言われてない?」
「あら、私はこれでもいい性格していると思うけど、どうかしら?」
「怖いけど優しい人だと思います」
「……ごめんなさい」
そう簡単に主任への苦手意識は抜けそうもない。わたしのことを案じてくれているのはわかったけど、怖いものは怖い、第一印象を塗り替えるのはそう簡単なことではないと思う。
「では、ドブの水をありがとうございました」
「そのさようならはあんまりじゃないか、ギャーー」
主任が別れの挨拶をして、わたしの手を引いて足速に執務室を後にすると、ドアの向こう側から主任を追いかけようとするアイザック室長が何かにつまづいたような音と、激しい閃光が一瞬走ったような気がした。
「なんだかアイザックさんが大変そうです」
「昔っからそそっかしいのよ、行くわよ」
3,
「いらっしゃいませ。お二人様ですね、奥の二人様テーブル席が日当たりも良くおすすめですよ。リリさんは、今日はもうお仕事は終わり?」
「ううん、今日は主任と一緒なんだ。えっと、観測所の中にはじめて行ってきた」
「これが噂の、ね」
客として自分の家にくる経験は滅多にないかもしれない。主任は、物珍しい様子でお店の中を見回していた。お父さんに席に案内されたあと、注文を取りに来たのは明らかに不機嫌なお姉ちゃんの姿だった。一緒に住んでいるわけじゃないし、普段はウチの夜の酒場の方で用心棒として働いているから顔を合わせる機会も少ない。お父さんの妹だから、叔母さんということになるけれど、そう呼ぶとひどく怒られる。だからお姉ちゃんと呼んでいるけど、それはそれでなんだかこそばゆいみたいだ。
「あー、らっしゃい。ご注文は?」
「お姉ちゃん、ちゃんとやって」
「めんどくせえけど、ちゃんとやってるだろ。こちとらまだ二日酔いの真っ最中で、気分はサイアクだが」
「すいません、このカレーというものには様々な種類があるようですが、具体的にはどのようなものなのでしょうか。なにしろ、聞いたことがない名前の料理でして」
「どんなもん、って。まあ、兄貴の作る料理は何かと珍しいからなぁ。そうだな、カレーってのは水っぽいクソみてえな感じの見た目だな。ははっ」
ああ、もう。本当にサイアクだよ。
「お姉ちゃん!」
「なんだよ、リリ。キンキンするから叫ぶなぁ」
「頭が痛いのはこっちだよカミラ。あまり口煩く言いたくはないから言わないけどね。……まあ、お手伝いありがとう。また夜、お願いするよ」
「へへっ。あんがとよ、おとーさん」
「……まったく、あの子ときたら」
デリカシーがなさ過ぎる。今更お姉ちゃんの性格を改めることなど無駄だと知りながらもお父さんは嘆いている。バックヤードに消えたお姉ちゃんはきっと今頃、そんなことなど露知らず昼寝をしていることだろう。わたしは、お姉ちゃんのことも好きだけどお父さんにとっては頭痛の種なのは相変わらずと言ったところだろうか。
「主任、主任。コーヒーとオムライスがおすすめですよ。主任は少し甘めでミルクをたくさん入れてましたからカフェオレとかがいいと思います。オムライスはわたしの好物なんです。食べ応えのあるチキンをガーリックライスと一緒に炒めてケチャップを混ぜて食べやすくなめらかにしたごはんを、ふわふわとろとろの卵で包んでしあわせになれる料理です!」
「ふわふわとろとろ、それはあなたの好物なのね。そちらをいただけるかしら」
なんとか首の皮一枚繋がった気分だ。でも既に手遅れではないだろうか、主任の様子を見るにかなり悪い印象を与えてしまったのは間違いないかもしれない。
「お昼にしては遅くなってしまったけれど、あなたはお腹空いてないの?」
「主任の料理が来てから一緒にたべます。そういうものなので」
「まあ、あなたがいいなら、それでいいけれど」
「リリさん、よかったら調理しなおそうか。さして手間もかからないから、温かい方がいいだろう?」
少し躊躇うけど、厨房からのいい香りに負けてお弁当箱をお父さんに渡してしまう。
「もう少しかかるからね、先に主任さんにカフェオレを渡してくれないかな。リリさんは、今はお客さんなのに悪いけど」
「いいよ、わかった」
主任の前にカフェオレを置くと、顔を顰めたような気がする。
「あまりコーヒーの香りはしないのだけれど」
「半分はミルクですから、お店に染み付いたコーヒーの香りの方が強いかもしれないです」
「昔から背伸びして眠気覚ましにコーヒーを飲んでいるけど、苦いのは苦手なのよね、ミルクや砂糖を入れたりするのって無作法ではなくて?」
「大丈夫です、好きに飲んでいいんです。あ、でもお砂糖は多くても二つくらいで飲むとおいしいかもしれません」
「じゃあ、そうしてみましょうか」
なんというか、ひとつひとつの所作がお上品だ。皿と皿が擦れるようなわずかな音すら聞こえない。
「……えっ?」
「えっ、お口に、あいませんでしたか?」
「いえ、そうではなくて」
主任がお父さんの方を見ても「えっ?」っしか言わずに、疑問を解消するためにもう一口飲むと、完全に言葉を失っていた。飲み干しているからおいしくないわけじゃなさそう。だったらなんなんだろう。
「月並みですが、本当においしいとしか言えない自分の語彙力が情けないです。どんな賞賛の言葉すら、この一杯の前では陳腐。このおいしさを語るなど、私には許されることではございません。これは、半分をミルクで濁している事が侮辱です。マスター、どうかもう一杯私にチャンスをください」
「気に入って貰えてなによりですが、コーヒーの飲み過ぎはよくはありませんからね。飲み方は自由ですが、苦いのが苦手な様子でしたので砂糖は適量がいいですよ」
「ええ、そうしてみます」
料理も完成間近で手を離せないお父さんの代わりに、主任のコーヒーのおかわりを取りに行ったわたしは主任の豹変ぶりがちょっと怖かった。
「ど、どうぞ」
コーヒーと睨めっこしている主任がかなり怖かった。
今度は、なんか風味を楽しんでいるみたいだった。すぐには飲まないで、少しずつ、少しずつ確かめるように飲んでいた。
飲み干す頃には、窓際の席だったこともあり主任に光が差していて憑き物が落ちたかのように爽やかな顔をしていた。わたしからしてみればうっとりとした表情に心配になる。
「お待たせしました。オムライスと、お子様ランチです。ごゆっくり」
おそらく、主任のオムライスの材料のあまりを利用してわたしのお弁当と混ぜたお子様ランチ。小さな山盛りチキンライスと小ぶりなハンバーグ二つ、マカロニサラダ、エビフライにミニオムレツ。タコさんウインナー。苦手な野菜もちゃんと用意してあるのは抜かりなかった。
「いただきます」
「えっ、いただき。なに?」
「いいから、主任も」
「ええと、いただきます?」
わたしはひたすら黙々と食べ進めていたけれど、食器の音がしないので主任が食べているのか気になったけれど、全くの杞憂で、主任も美味しそうにオムライスを食べていた。
「ごちそうさま」
「?」
「食べ終わったら、ごちそうさまって言うんです」
「ごちそうさま、これで、いいかしら?」
テーブルマナーには疎いけれど、それは地域によって異なる。けれど、カトラリーは主任から見てきっちりと揃えてお皿の六時方向に並べられている。それに反して畳んであるナプキンは、なんというかシンプルというか、なんというか、几帳面な主任にしてはちょっと雑な印象を受ける。
「あ、あのっ。お口に合いませんでしたか?」
「食事をこんなに満喫したのは久々よ。この穀物は家畜の餌だなんて先入観もあったけれど、勿体無いわそんなこと。咀嚼すれば程よい弾力と、次第に食欲をかき立てる甘みに変わり、かと言って甘すぎない程よい味わい。ガーリックの香ばしさと、ほどけるように柔らかいチキン、オニオンの歯ごたえも損なわれることのない絶妙な火入れ、隠し味の香味野菜も食欲をそそる。細かく刻んで混ぜ込まれた野菜も飽きない食感のアクセントとして最後まで楽しめました。オムライスにかけられたソースにも、わずかにコーヒーの風味とフルーツの甘味と酸味、おそらくなんらかの香辛料も混ぜられていると思います。絶品でした。付け合わせのポテトサラダも土臭さなど全く感じない、まろやかで口当たりの良いそれ単品でも完成されています。一流の看板を掲げているレストランなど霞むほどの料理なのに、ボリュームも価格も良心的です。料理を提供する時間も早く、ストレスを与えない。毎日でも通いたいですわね」
すごい早口でお父さんの料理をとことん褒めているのはわかる。主任はメニューを見ながら、悩ましげに唸っている。
「どれも聞いたことのない料理の名前ばっかりですわ。名前だけでは想像もつきません。この米などを使ったものはどこの国の料理なんですの?」
「お父さん、昔は旅人だったから世界中のたくさんの料理を知っているんです」
「それほどの知識と技術があって、この終点街のはずれに店を構えるというのは欲のない方ですね。でも、そんなマスターだからこそ、この喫茶店は成り立っているんでしょうね」
お父さんの人柄が人々に愛されているのではないだろうかと、わたしを見つめて頭を撫でてくれていた。
「いいお父さんを持ったわね」
「うん」
「迷惑でなければ今後とも贔屓にさせてもらうわ」
「ありがとうございます。リリさんのおかげでなんだかウチの店のお得意様は郵便組合と関わりのある方で、みなさんには感謝しています」
「それは、考えようによってはこの子なりに自分の食い扶持を自分で賄っているようなものではないでしょうか。主観混じりで拙いながらに、メニューのプレゼンテーションは本当に食べたくなるものでした。恥ずかしながら、童心に帰り、思わずマナーを忘れてしまいそうになるくらい、おいしかったですわ、とても」
主任は、段々と発言の言葉尻が小さくなっていた。それは、なんとも恥ずかしそうで顔を真っ赤にしていた。精神と肉体の乖離ともいうべきか、精神年齢と外見年齢とのギャップ。精神は肉体に引っ張られるし、その反対も然り。わたしはいつまでも成長することがない肉体で、どんなに知識を蓄えて発言や行動の端々から子供っぽさが抜けきらないどころか、幼児退行している。たぶん主任も似たような経験をしているのだろう。普段から毅然として人を寄せ付けないような態度をしているけれど、それは気を張って精神が肉体に引っ張られないようにする主任なりの処世術なのかもしれない。見習いのわたしとは違って、主任は先に立って支局の職員のみんなを牽引する立場にある。みんなの生活の責任を抱えている。わたしなんかでは想像もできない、重責の圧力の中で生きている。ほんの少しでも気が休まる時間はないのだろう。そこには、他の誰にも介入する余地もない。
主任が垣間見せた、子供っぽさは誰にも見せたくなかった幼い一面だったのだと思う。
わたしにできることは、心労になるような迷惑をかけないことくらいだ。ただでさえ、わたしは組合の頭痛の種なのだから。
「ごめんなさい、まだまだ未熟者なので仕事が立て込んでいてあまりゆっくりとしていられませんので失礼します、マスター。できる限り、仕事の合間の時間を見つけて息抜きにお邪魔させていただきます。まだ、食べてみたい料理がたくさんありますから」
「いつでも、歓迎しますよ」
「では、行きましょうか。お子さんはなるべく遅くならない内に帰しますので」
お辞儀ひとつを取っても、品格の違いを感じさせるものだった。徹底された礼儀作法を見せられては、主任を子供扱いすることは難しい。大人の女性の印象を強く受ける。わたしも、かっこいい大人の女性になれるだろうか、無理だろうな。