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【前日譚①】ちいさな配達人 Ⅲ



 わたしの外見は、おおよそ平均的な六歳児程度のまま全く成長の兆しを見せない。

 毛や爪が伸びたりするあたり、新陳代謝とやらはしているのだろうか。

 それでもわたしの見た目は、物心ついた頃からずっと変わらず幼いままだ。

 何十年、何百年、何千年。

 どれくらい生きてきたのかわからないけど、わたしの体はまったく成長しない。

 思い出せるかぎりの古い記憶に染みついているのはあまり気持ちのいい感情じゃない。

 できればなにも思い出したくない。

 ただ、どうやらわたしは不老不死なのだそうだ。それだけで嫌な予感はする。

 それがこれまでいったいどんな仕打ちを受けてきたのか、想像すればするほど、まともな過去ではないだろう。

 せめてもの救いは、わたしにそんな過去の記憶がほとんど残らなかった事だ。

 それでも、小さい刃物がわたしの毛皮を裂き、肉を割る感覚は忘れたくても忘れられない。

 何度も、何度も何度も、痛みを訴えてもやめてくれなかった。忘れたはずだったけど、体が覚えている。

 目が眩むほど眩い光の中で、大人たちの歪んだ笑顔がわたしに向けられていたのを覚えている。

 もう、どれくらい昔になるだろう。

 お父さんに拾われてから今のわたしがはじまった。

 わたしが慕っているお父さんは世間からはアンデッドと呼ばれ疎まれている不死の怪物だ。

 だから、それがなんだというのか。

 なんであろうと、お父さんがわたしのお父さんであることは揺らがない。

 とはいえ、わたしが食べ応えのない幼い子供の体のまま変わらないのでお父さんにはひもじい思いをさせているかもしれない。

 お父さんの食事は、わたしの体調にもよるけれど二日か三日に一度だけ、それ以外はほとんど眠ることなく家事雑事から喫茶店の経営をしている。

 昔はあてもなくあちこちを放浪していたけど、今では社会に溶け込むため、わたしが人の世では生きるため自分のことなど二の次だ。

 それでも、不死という存在が社会で生きて行くのは生半可な覚悟でできることではない。

 わたしはまだ、お父さんが支払ってきた代償を知らない。

 あの優しい笑顔の裏でどれだけの苦渋の選択をしてきたのだろうか。

 わたしにできることは、わたしの血をお父さんに飲んでもらうことくらいだ。

 でも、お父さんはわたしの血を飲むことに消極的だ。

 本当はものすごくお腹を空かせているはずなのに。

 親子としての時間を一緒に過ごすほどに、お父さんはわたしの血を飲むことを躊躇うようになった。

 今日も、いつもみたいにベッドに押し倒され、わたしの首筋に牙を立てようとするお父さんはその寸前で踏み留まる。

 パキパキと音を立てて犬歯が鋭く伸びて、わたしに喰らいつく前に苦しそうに呻き声を上げながら呟いた。


「……っ。リリさん、せめて、怪我が治ってからにしよう」


「……でも、お父さんお腹空いてるでしょ?」


「しばらくは、普通の食事で誤魔化すよ」


 あの日、何事もなければお父さんは数日ぶりの食事ができたはずだった。

 けれど、わたしが怪我をしたばかりに、少なくとも十日間以上は絶食だ。飢餓感を我慢することには慣れているとは言うけれど、お父さんにはそんな思いをしてもらいたくない。

 わたしの思いとは裏腹に、お父さんは乱れたわたしの衣服を整えて、優しく布団を掛けてくれた。


「大丈夫、私はそんなにヤワな吸血鬼じゃないからね。無駄に長生きしていないよ、これくらい大丈夫だから気にしないで」


「でも、わたしはお父さんに血を吸ってもらうくらいしか恩を返せないのに」


「私はリリさんと一緒に暮らしていけるだけで幸せだよ」


 本当に血を吸うつもりはないようだけど、お父さんは少しだけ残念そうに肩を落とした。


「私は、リリさんの今が壊れてしまったら、そっちの方が苦しいからね」


 お父さんは昔から優しかった。

 わたしが人の世界に興味を持ったばっかりに、本来ならば相入れない人の世界に危険を冒してやって来た。


「それじゃあ、おやすみ」


「うん、おやすみなさい」


 休養生活も折り返し、ただ寝ているだけの生活には飽きて来た。唯一の楽しみはお父さんの作ってくれるご飯だけ。

 お父さんは、吸血鬼だけどわたしの血ばかり飲んで飽きたりしないのかなあ。でも、わたし以外の誰かの血を飲んでいるのを想像するのも、なんだろう。

 ちょっといやだ。



 堪え性がないと、お父さんには呆れられてしまっただろうか。むしろ四日間よく耐えられたと思う。

 家の敷地から外を出ないことを条件に、歩き回ることを許された。つまり、庭に出て土いじりをすることも、お店の手伝いをすることも許された。もう怪我もだいたい完治しているけれど、一応ギプスは付けたままだ、抜糸もしてないから。

 終点街の端の端、防壁を兼ねた観測所の目と鼻の先。

 もしも壁が崩れてしまっても瓦礫で住民を下敷きにしないように設けられた緩衝地のちょっとした平原。

 お店の扉を開けば、そんな緩衝地寄りに突き出した平原の中にぽつんと建っている法律的にグレーゾーンな建築物。

 一応形だけの生活空間の二階もあるけれどほとんどは倉庫、酒蔵や食糧庫の氷室、バックヤードを含む地下室があるので内面積は一般的な住宅よりもかなり広いかもしれない。

 地上には、そんな地下面積部分と同じくらいのそれなりの広さの庭がある。

 天気がいい日には、庭先で営業できる調理設備もあるし家庭菜園だってできる。

 元々は緩衝地を作るための区画整理の名残で残されていた資材小屋だったらしいけれど、利用目的と改築図面の提出や面倒な契約を幾つもした上でお父さんが格安で買い取ったそうだ。

 とはいえ、終点街では数少ない飲食店だ。

 それなりにお客さんが入るようになった今では、このあたりでは知る人ぞ知る名店だ。

 美味しいコーヒーとちゃんとした食事にありつける、だなんて随分と低いハードルだなって思うけど、観測所の職員をしているお客さんの話では、あの壁の中では出来の悪い軍用食くらいしか食べ物がないのだという。

 目の前に魔物の群れが迫ってる中、悠長に食事を楽しんでる余裕なんて無いそうだ。

 街全体を円として考えた場合、南部に位置する内郭が終点街と呼ばれている。

 高さ五十メートルほどの防壁を挟んだ向こう側は魔物が跳梁跋扈する霧深い山麓だ。

 一応、壁の向こう側にもこちら側の緩衝地帯と同じように木の一本すら残さずに伐採された塹壕地帯があるらしい。


 終点街に暮らしていると、時折大地を揺らすほどの砲撃の音と振動が聞こえてくる。

 わたしたちの平穏な毎日は、あの壁一枚隔てた戦場で戦う人によって守られている。だからお父さんはこの店に訪れる傭兵や兵士、職員の人には利益など度外視で食事を振る舞うそうだ。

 わたしの頭を優しく撫でてくれた人の中には、あの壁の外で戦っている人々もいるのだから、無関係では済まされない。

 外への扉を開けば、左からは終点街から観測所へと続く舗装もされていない一本のあぜ道。

 その途中にあるお父さんのお店の名前は「ヤドリギ」という。なんで「ヤドリギ」なのかは、ちゃんと教えてはくれなかったけれど、それなりに縁起を担いでいる意味だそうだ。

 深い理由はないらしい。

 あまり考え過ぎて名付けたりしない、そういうものらしい。

 わたしに名前を付けたのもお父さんだけど、リリというのもわたしが簡単に名前を覚えられるようにする為だったそうだ。

 まあ、極端な話、短い縦線と長い縦線を交互に書くだけでリリとは読める。

 思い出すのも少し恥ずかしいけれど、文字を覚えたてのわたしはなんにでも自分の名前を書きたがる無邪気な子供だったらしい。

 外見は今とは変わらないけど、今のわたしの内面はそんなに純粋無垢ではない。

 人見知りもあって随分とすれっからしな印象を与えるようになっていた。

 いつまでも六歳児から変わらない見た目をしていればそうもなる。

 わたしの場合、普通を演じればそれだけでボロが出るので、歳を取らない奇病『小人症候群(ハーフリング)』という病を患っているということになっている。

 実際病気のようなものだし、まるっきり嘘ではない。

 そういう不治の病が実際にあるのだ。

 ちょっと前のことになるけど、学問に秀でた国でわたしがまだ学校に通っていた時。

 その国での戸籍上ではまだ六歳か七歳にも満たない頃に学位を取得してしまったことは大きな間違いだった。

 天才だと持ち上げられたが。

 注目を集めたことは結果的に、わたしを人の世界から遠ざけた。わたしは優れているわけじゃなくてただ周りの人よりも長生きしていて、それだけ長く勉強をしていただけ。

 いや、わたしは単に本を読めるだけで賢いわけでもなかった。以前暮らしていた学問の国から逃げるように、誰もわたしたちを知らない遠く離れた異国の地で生活を始めたのはここ数年のこと。

 誰かを信じることが怖くて自宅にひきこもる停滞の生活を経て、この終点街で重い腰を上げて配達員見習いをすることになったのはつい最近のこと。

 人の世界ではわたしはほんの少しだけ知識がある程度の陰気な子供でいい。

 庭にある小さな菜園で香草や香辛料、ちょっとした錬金術の素材にもなる植物を育てているくらいが、わたしの身の丈には合っているのかもしれない。

 花壇に向けて、普通の水よりすこしだけ薬効のある水を入れたジョウロを傾けて、適量撒くのを花壇の数だけ繰り返す。

 片手ではちょっとやりにくい。

 わたしの体は良くも悪くも六歳児程度から成長しない。それはつまり、筋力も体力もそこで頭打ちということだ。

 けれど、代わりに重心の運びや体捌きなどの技術的な面は練習すればそれだけ熟達する。花壇と家の周りの生垣に水を与えたあとは、小さな菜園の植物に添え木をしたり、本来ならこんな異国の地では発芽することのない植物を環境に適応するように色々と試行錯誤している。

 育てているのは主に香辛料などだ。

 お父さんが言うには、環境に左右されることの多い一部の香辛料はどうしても割高になってしまうらしく。

 それをどうにかしようとした結果、意外となんとかなってしまったのがこの菜園だ。

 とはいえ、たかだか産出量が家庭菜園レベルなので、飲食店の経営を全て賄えるはずもない。

 だけど、お父さんはわたしが作った香辛料を配合してくれた。それを「ヤドリギ」独自の味として使い続けてくれている。

 以来、わたしが「ヤドリギ」の隠し味を作る担当になっている。それが誇らしくて、嬉しくて、いつの間にか土いじりはわたしの日課になっていた。

 それと、お店の庭園の世話をしているのがわたしだと知れると、ガーデニングが趣味のお客さんも来るようになった。

 だいたいが初老の方だったけど、見た目の歳が同じくらいの子や、第一印象で損をしていそうなすこし怖いお兄さんもいた。

 自宅の敷地内ではちょっとした錬金術くずれの技術を使っていたから。精々、庭の土の様子や育て方に対するアドバイスくらいしか出来なかった。

 大抵は土壌の状態が悪かったり、相性の悪い植物と一緒に育てていたり、肥料の扱いを間違えていることが多かった。

 こんなわたしにもできることがあるのだと、みんなとの交流を経て、ずっとひきこもりのような生活を続けていたけれど、わたしはようやくその殻を破れるだけの勇気を貰って前に歩き出せた。

 まだまだ、おぼつかない足取りだけど。

 日課とはいえ、利き手を使えない状況ではかなり疲れた。

 テラスの端にあるベンチでぐったりとしていると、お父さんが冷えたレモネードを持って来てくれた。


「……ありがとう」


「ほら、いくら慣れてても片手じゃ時間もかかるし疲れるだろう?」


「腕がちぎれそう。服も汚れちゃったし、もうクタクタ」


「それじゃあ、今日はよく眠れそうだね」


 なんだかすべてお父さんの掌の上で転がされていたみたいで釈然としない。

 やっぱり、わたしの扱い方を一番心得ているんだと思う。

 気がつけばいつの間にか辺りは夕暮れ。

 それに気がつかないほどに土いじりに夢中になっていたんだと思うと、わたしは錬金術に関係することがまだ好きなんだなって。

 錬金術師は薬師と混同されがちではあるけれど、その本質は科学者なのである。

 確かに薬を作ることもできるけれど、実用されるその用途の多くは使い方次第では危険で破壊的なものになってしまう。

 錬金術という学問は、物質の成り立ちを理解することからはじまる。

 たとえば目の前にありふれた石があるとして、それを分解・研究・理解して、この世界の真なる理を開拓していくことが目的のひとつ。

 錬金術の副産物のなかで代表的なものといえば、やはり火薬の類だろうか。わたしのやっていることはどちらかと言えば薬師に近かった。

 いつまでもこんな幼い姿のままでいることが嫌だった。

 馬鹿みたいだけど、大人になれる薬を本気で作ろうとしていた。


「お父さん」


「なんだい?」


「いつもありがとう」


 隣に座っているお父さんの頬に唇を軽く押し当てて、どうしようもないくらい恥ずかしくなった。

 項垂れるわたしの頭を撫で、強く抱きしめると耳元で「おませさんだね」と、笑うように囁いた。



 

 休養から五日目を迎えた。

 お昼過ぎにドクターがお店に来たから「ヤドリギ」を休憩中にして、診療してもらった。「もう大丈夫だね」とギプスを外して微かに見える縫合痕から抜糸をしたらどこを怪我したのか全くわからなくなっていた。

 わたしは確かに不老ではあるけれど、あまり不死という自覚はない。そもそも死を経験した記憶がない。

 怪我をしても、治るのは人並みか少し早いくらいだと思う。

 以前、お父さんから料理を習った時に、指を絆創膏だらけにしてしまい。見ている方が心臓に悪いからと、以来包丁を握らせてもらえない。

 その時の怪我は数時間後には治っていたけれど、あれはたいしたことのない怪我だったのだろう。

 少なくとも「わたし」はまだ命に関わる大きな怪我をした経験すらないので、よくわからないままだ。

 だから、怪我をした腕を何度も確認するけどわからない。

 この傷の治りは早かったのかどうか。

 ドクターの顔色を窺っても、訝しがる様子もないから特に異常性はないのかな。


「ドクター、わたし治ってますか?」


 コーヒーを飲んでいる最中だったドクターは、わたしの発言を聞いて酷く咽せていた。


「げほっ、げほっ、リリくん、それは、ど、どういうこと?!」


「痛みはないです、ぜんぜん。傷もないし、痒くも腫れっぽくもないんですけど、これは、まだ明後日まで休まないといけませんか?」


「ごほんっ、ええと、つまり治ったなら早く復帰したいと?」


「だめなんですか?」


「ダメ。一応、そういう規則だから」


「でも、もう怪我してないです。もう怪我人ではないのに仕事を休むのは労働災害保険の不正な受給にあたるのではないでしょうか?」


「リリくん、難しいこと知ってるねえ」


 お父さんはコップ一杯の水を持って来て、ドクターが咽せ始めた時からずっとの背中をさすりながら介抱していた。


「大丈夫ですか?」


「いえいえ、大丈夫です、お気になさらず」


 お父さんは手慣れた様子でテーブル周りの拭き掃除を終えると、すぐにコーヒーをもう一杯用意してドクターに深々とお辞儀をして去って行った。

 わたしの仕事に関係することにはあまり口出しするつもりはないけど、それでもカウンター席を挟んだ向こう側からわたしを観察する様子は、なんとなく落ち着きがないように感じる。


「別に、見習いのわたし一人がいてもいなくても仕事が回るのはわかってます。むしろ円滑に進むでしょう。わたしは、自分のことを評価してません。はっきりと言えば、ひとつの労働力にも値しない、それどころかわたしにもできる仕事を見繕う分余計な手間がかからないならいない方がいいのかもしれません」


 ドクターはわたしの話をちゃんと聞き終わるまでは口出しをしないみたいで、聞く姿勢を崩さない。


「心配も、迷惑をかけてばかりだけど。わたしはあの職場のみんなが好きなんです。だから、一日だって無駄に出来ないんです。早く一人前になりたい、わたしがみんなに助けてもらったみたいに、わたしも誰かを助けることができるようなひとになりたい。だなんて、人見知りのわたしは面と向かっては言えませんけど」


 配達の仕事は、憧れだった。

 諦念と自己嫌悪で引きこもっていたわたしに広い世界を見せてくれたのは、彼らだった。

 文字を覚えた時から活字中毒だったわたしに、辞典や図鑑や物語を運んでくれたのは配達員の彼らだった。

 毎日郵便受けの後ろに隠れて、荷物が届くのを待っていた頃から、彼らはいつも知らない世界を運んでくれた。「ヤドリギ」に立ち寄った彼らは、わたしが知らない世界を語り聞かせてくれた。

 蓋を開ければ実際には、そんなに夢のある職業ではないかもしれない。

 街の中の配達員の役割はチラシの投函や手紙の配達、配送センターから地区ごとに仕分けされた荷物の受け渡し口、だいたいそんな感じだけど。世界に荷物を運ぶ旅人たちの冒険譚には胸が踊った。

 だけどわたしは、そうなりたいわけじゃない。

 それはわたしにはとても難しいことだ。

 不可能だろう。

 普通の配達員でもなんの問題はない。

 昔のわたしみたいに郵便受けの後ろで待っている誰かに喜んでもらえるなら本望だ。


「わたしは、もっとたくさんの努力しないといけないとおもうのです」


 

 一週間の休養生活を終えて、無事に復職する運びとなった。

 とはいえ、当面は外回りの配達仕事は禁止。

 郵便物の屋内での仕分け作業を主にすることになった。

 昼休憩時の食事もできる限り組合施設内でするように、これを機に職員間でのコミュニケーションを何より大切にするよう、釘を刺されてしまった。

 不運な事故だったとはいえ、そもそもわたしが周囲と馴染めずにいたことが原因だった。

 今後の再発防止の為に、アットホームな職場計画が奨められた。

 局内の掲示板に新しく張り出された達筆な社訓のようなものに、みんなが群がっている中、わたしはクロード先輩に肩車をされていた。

 チビだから見えないので。


「そういえば求人とかでアットホームな職場です、とかそんな煽り文句は地雷の確率が高いらしいぞ。なんつうか、残業に続く残業で家にいるより職場にいる時間の方が長いから、結果的に職場が家になるって意味で」


 クロード先輩が手首を曲げながら幽霊の真似をしながらそういうと、周囲からは「ヘタな怪談よりも怖い、やめてよ」と、声が上がった。


「大丈夫、そもそも運び屋が残業しているようじゃあ、クビだから頑張りましょうねー」


 エレイナさんがフォローのつもりで放った言葉で、空気が凍りつくのを感じた。「何が大丈夫なの」と。


「アットホームもクビも嫌なら、仕事よ仕事」


 メリクルことメリクリウス・コンセンテス主任は大きな尻尾と対照的な小柄な栗鼠(リス)の獣人だ。

 わたしは六歳児程度だと言われているけど、彼女は種族柄よく未成年の少女に間違えられるそうだ。

 ちなみにこの国では十六歳で成人だ。クロード先輩曰く「ああ見えて歳はオレよりもふた回りくらい上」だそうだ。

 クロード先輩がいくつなのかは知らないけれど、無闇に女性に歳を尋ねるの危険を伴うものらしい。

 そんな彼女の鶴の一声で、掲示板前の人だかりは散り散りになった。


「まったく、人がせっかく作った社訓をなんだと思っているんだか」


「主任は感性の悪さで人殺せるかもしれませんね」


「クロード、あなたはヘラヘラしてないで持ち場に着きなさい」


「はいはい」


「はい、は一回でしょ。って、ちょっと、リリを連れて行かないの」


「へいへい、そんじゃまたなリリ」


「……またね」


 恥ずかしながらも「またね」なんて言葉で先輩を送り出した自分に驚いている。

 なんだか休み明けから先輩はわたしのことをチビとは呼ばなくなった。

 元々気さくで面倒見のよい性格だったし、それが今更変わったわけではなくわたしの苦手意識が薄れたんだと思う。


「ふむ、雨降って地固まるってやつですか」


「主任、見てましたか?」


「可愛げがあっていいと思いますよ。次に外回りの仕事があった時はその調子でお願いします」


 それは、すごく恥ずかしいかもしれない。

 そんな一朝一夕で人見知りと無愛想が治るわけない。

 なのに、主任はまるで荒療治をするつもりでいる。

 でも怪我の原因はそんな自分にあるので、改善するべきところなんだろうけど。


「では、仕事をはじめましょう。挨拶は基本ですよ。以前のようなそっけない態度で人を突き放すより、さっきのような、いじらしい感じで」


 主任に手を引かれ、小物の仕分け作業をする部屋の扉を開くけれど、心の準備なんて全然できていない。

 いじらしい感じってどんな感じなんですか、主任。


「はい、挨拶。ミスを無くす為に作業中の声かけも大切ですからね」


「……お、おはよう、ございます」


 死にそう。

 非科学的だけど口の端から霊魂のようなものが漏れ出しそうだ。


「緊張してるリリちゃんもかわいいね」


 小声でかわいいとか言わないで、わたしはあなたの名前も覚えてない薄情者なんです。

 普段から自分の作業を終わらせて逃げるように外回りに行ってごめんなさい。

 人見知りなので、こうやって人前に出るだけでも色々と限界なんです。

 やめてください、囁かないでください。

 こっちこないで。


「わ、わわっ、わたしッ、その、ごめんなさい、ごめんなさいっ」


「逃げたら意味がないでしょうに」


 主任に退路を塞がれて、泣き出したくても泣けない。逃げ出したくても逃げられない。


「わぁああああ!?」


 限界を迎えたわたしは叫び声を上げた後、部屋の隅で耳を塞いでうずくまっていた。

 ごめんなさいと呟きながら、お父さんを呼んでいた。


「……こりゃあ、筋金入りだ」


 何が筋金入りなのかは知らないけれど、わたしは根暗で陰気なんです。

 そっとしておいてください。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


「主任、これは我々にも罪悪感が」


「でもこの子、こんなところを除けば優秀だから」


「そんなこと職員のほとんど全員知ってますよ」


「かわいそうですよ」


「……なんですか、まるで悪者扱いして。しょうがない、子守りに雇ったわけじゃないけど、ビスマルクを呼びましょう。私たちよりはマシなはずよ」


 数分後に教官が血相欠いてやってきた。

 泣き出しそうなわたしを手慣れた様子でなだめてくれた。


「おう、どういうことだこりゃあ」


「きょ、教官」


 わたしは、へっぴり腰になりながら教官の足にしがみついていた。

 軽々と抱き上げられると、わたしはすっかり萎縮してしまっていた。


「なんだ、どうした?」


「一週間前の事故で、職員の管理指導に関する至らなさを改めて痛感しました。ただ仕事が出来ればいいという考えは、甘えでした。ですので、当支局員の繋がりを強く、と思ってはいたのですが」


「なるほど、そんで主任殿は無神経に他人にずけずけと入ってもらいたくない場所まで入った挙句にこの有様か。頭が痛くなるぜ」


 教官は呆れた様子でそう言った。


「過ごしやすい職場作りってのは、妙案だとは思うが、結果を逸るってのはよくねえな。十人いれば十人、百人いれば百人、教育ってのは似たようなやつを指導したノウハウを活かせる場合もあれば、てんで全く役に立たない事もある。結局はまるっきり同じやつなんていねえからな、指導者ってのはその度に一人一人に向き合ってやらないといけないんだよ」


「それは、そうですが。もう先日のような事故が起きてはいけないのです。それは決して、甘やかすこととは違うのです」


「まあ、そりゃあ。だからってよ」


 このまま話をしてもどこまでも平行線だろう。

 二人の間には、なんとなくそんな空気で阻まれていた。

 先に折れたのは教官の方だった。


「ったく。あぁ、わかったよ。なにも、強行策が悪いとはいわねえ。少しずつ慣らしてやってくれ。こいつも、最初はクロードのヤツも苦手だったんだろうよ。それに、見た感じ他の職員の名前も知らんだろ。群れの中にに放り込むにしたって、誰か一人くらい心を許せる奴がいないと、居場所がなくなっちまう。せめて最初にあんたがそうなってやんな、主任殿。ボスに認められるってのが、群れに馴染む一番の近道だぜ?」


「え?」


「ほれ」

 

「へ?」

 

 教官は「ほれ」と、軽々とわたしを主任に放り投げる。

 可能な限りわたしが怪我をしないように慎重に受け止めた主任は、後ろの棚にぶつかり、衝撃で書類が散乱していた。

 教官は既に立ち去っていた。


「子供を投げる人がいますかあ!」


 突然の浮遊感に驚いて、全身から嫌な汗が噴き出したような気がする。

 体がこわばり、軽く目を回しているような感覚だった。


「しゅ、主任」


「怪我はないですか?」


「わたし、飛びました」


「……全く、乱暴ですねあの人は。でも、そうですね、リリを人任せにする言い訳をしようとしていたのかもしれません」


 まだ体が驚いている。


「出来るだけ優しくするつもりではありますが、(わたくし)の指導は厳しいですよ。聞いてますか?」


 わたしは頷くことしか出来なかった。


「とはいえ、何をしたものか。私も、ずっとここで仕事をしているわけにはいかない立場ですし」


 散乱した書類を整理しながら、主任は途方に暮れていた。


 


 いつも見上げるだけだった防壁の中に、自分が今いるのだと思うとなんとも不思議な感覚だった。


「ええ、機材の納入は滞りなく。ただこの業界の職人は年々衰退の一途を辿っております。不本意ながら、希少価値は高まり、経費は嵩む一方ですよ。残念ですがね」


「やはり観測所の規模の縮小は避けては通れないようですね。しかし、万全の状態でも先日のような一匹の魔物を見逃すような失態があっては、我々の在り方に疑問を持つ方々も少なくはないでしょう」


「結界だとかバリアだとか、街をすっぽり覆うような防壁の存在があっては世の中はさぞかしファンタジーで夢のあるものだと思いますけどね」


「はは、そうですね。あったら夢がありますね魔法。でも、想像や妄想じゃ街ひとつ魔物から守れませんからね。せいぜい魔物が嫌がる音や光、ニオイで遠ざけるのが精一杯で、それでも寄って来るのは(いしゆみ)や火砲を使った人の手で退けるしかないのが現状です」


「音響装置や光源装置、街の構造は観測所にそれらを効果的に配置することで野獣たちを退けてきたのに、それが一箇所でも欠けるとなると、その影響はすぐに形となって現れるでしょう。終点街は餌場になり、内地の貴族崩れは優雅にお茶でも飲んでいる未来が容易に想像できますわ」


 よれよれの白衣を着た研究者然とした観測所の職員さんと、主任は長い廊下を歩きながら、世間話としてはあまり芳しくない悲観的な様子の内容を続けている。

 わたしは主任の秘書の代理として、あまりにも身の丈に合わない場違いなところに来てしまった。


「さて、お待たせしてしまいましたね。無駄に広いだけが観測所の取り柄みたいなものでして、執務室にたどり着くまで随分と時間がかかってしまいました」


「貴方まで私を子供扱いする気ですか、アイザック室長」


「いえ、後ろのお嬢さんに。息も上がっている様子なので」


「だい、じょうぶ、です」


「まったく、疲れたなら疲れたと言う。痩せ我慢だとか、無理をするのを美徳とは思いませんからね。無理を強要させてしまった私では、説得力がまるでありませんけど……」


「足の踏み場もないみっともない部屋ですが、どうかその辺のガラクタを放って休憩していてください。味には自信はありませんが、コーヒーを淹れ。あ、お嬢さんにはココアの方がいいですか?」


「わたしも、コーヒーでへいき、です。ありがとう、ございます」


 主任は全く息切れしていないけど、わたしはもう息も絶え絶えで、思考にぼんやりモヤがかかっている。


「あなたがいることで私にもメリットがあったわね。あなたの方が小さくて逆に目立つから私まで子供扱いされないこと。そんな馬鹿者は今更この区画の観測所にはいないでしょうけど、ね?」


「うわ、あちちっ!」


 アイザック室長と呼ばれている人はわかりやすく動揺している様子だった。

 つまりそういうことなのだろう。


「あまりその辺のガラクタには触らない方がいいわよ。まだ生きてたら音やら光やらで大変なことになるから」


「修理できてたら機材の注文しませんってば」


「その割には弄った形跡があるんだもの」


「そりゃあ、自分で直せたらいいじゃないですか」


 わたしも機械のことなんて専門外だけど、なんとなくまだ使えそうな気がした。


「ちょっと弄ってみていいですか?」


「こら、遊びにきたんじゃないわよ」


「どうせガラクタだし、いいですよ」


「あのね、そういうことじゃなくて、この子はまがりなりにも私の秘書。今回は書記官として、私たちの取引内容の筆記というちゃんとした役割があるのよ」


「あの、たぶん、それは平気だと思い、ます。書記官、やったことないから、いつから、どこから、やったらいいのかわからなかったので今朝から主任が会話した相手との内容はすべて記録してました」


 主任に、今日は見習い秘書として仕事にて付いてきてもらうから、大切な内容の会話は全て記録するようにといわれたけれど、何が大切で何がそうではないのか判断できなかったから。朝から主任が誰かと会話した内容を一言一句残らず全て記録していた。


「歩くのに必死でしたけど、運動しないなら、あまり、問題なく」


「ちゃんと指示をしなかった私も私なんだけど、あなたはねぇ」


 主任は頭を抱えながら深いため息を吐いた。


「まあ、色々と言いたいことはあるんだけど、大丈夫そうね。ただ、間違いの言い訳にガラクタ弄ってましたなんてことは絶対に許さないからそのつもりでね」


 わたしは、二人の商談の内容を筆記しながら一辺がだいたい三十センチくらいの立方体の機械の残骸から部品を外して、ツギハギだらけではあるが、なんとなく、探り探り組み立てていった。


 筆記と機械弄りに集中していたので、時間が経つのはあっという間だった。


 二人の会話が終わり。

 筆記が止まった時、わたしも機械弄りをすることをやめた。


「ふむ、虚勢ではなかったようね。ちなみに会話の内容、その意味はわかってる?」


「あの、ええと、機械の寿命が動力の熱量で短くなる問題について、バベッジ商会の職人さんへのそのあたりの仕様変更と技術料の引き上げ策の検討。または職人の減少傾向における現状の改善として技術者の後進育成の場を広く設ける為の専門的な学習機関の設立をするにあたって引退した職人を講師として雇いひとつの事業を興す……ですよね?」


「そう、筆記の内容も大丈夫そうね。とても子供が片手間にやったとは思えない出来よ。いえ、子供扱いはよくないわね。期待以上よ、リリ・クルースニク」

 

「ん、クルースニク。クルースニクって確か、ヤドリギって喫茶店のマスターと同じ苗字だったような」


「この子はそこの子よ」


「わあ、忙しくて滅多に行けないんだよボク。たまに気が利く部下がコーヒーと軽食を買ってきてくれるんだけど、なんだっけアレ。ヒリヒリ辛いやつ好きなんだ!食事も最高なんだけど、やっぱりコーヒーが違う!普段ボクが飲んでるのはドブの上澄み汁だよ!」


「あなたね、ここの食事の酷さは知っているけど、そんなものを私たち飲ませたわけ?」


「いやそれは言葉のアヤで、それくらい比較にならないおいしいコーヒーって話だよ!」


「大丈夫です、まだ飲める泥水でしたよ?」


「それはなんのフォローなのよ。じゃあ、帰ったら書類を纏めましょう。ウチの所長はどうせ、いないようなものだし、一通り仕事は済んだから少し遅いけど昼食にしましょう。あなたの頑張りは評価するわ、何か食べたいものはある?」


「わたし、毎日お父さんがお弁当作ってくれているので」


「あら、ならちょうどあなたのお店に行こうと思っていたのですよ、ドブの水を飲ませられた当てつけに」


「メリクルさんって陰で性格悪いって言われてない?」


「あら、私はこれでもいい性格していると思うけど、どうかしら?」


「怖いけど優しい人だと思います」


「……ごめんなさい」


 そう簡単に主任への苦手意識は抜けそうもない。

 わたしのことを案じてくれているのはわかったけど、怖いものは怖い、第一印象を塗り替えるのはそう簡単なことではないと思う。


「では、アイザック室長、ドブの水をありがとうございました」


「そのさようならはあんまりじゃないか、ギャア」


 主任が別れの挨拶をして、わたしの手を引いて足速に執務室を後にすると、ドアの向こう側から主任を追いかけようとするアイザック室長が何かにつまづいたような音と、激しい閃光が一瞬走ったような気がした。


「なんだかアイザックさんが大変そうです」


「昔っからそそっかしいのよ、行くわよ」


 


 つい、ただいまと口にしそうになったけどお父さんは完全にお客さんに対応する時の顔をしていた。

 

「これが噂の、ね」


 お客さんとして自分の家にくる経験は滅多にないかもしれない。

 主任は、物珍しい様子でお店の中を見回していた。

 お父さんに席に案内されたあと、注文を取りに来たのは明らかに不機嫌なお姉ちゃんの姿だった。

 一緒に住んでいるわけじゃないし、普段は夜にお酒を提供する時間帯に用心棒として働いているから顔を合わせる機会も少ない。

 お父さんの妹さんだから、叔母さんということになるけれど、そう呼ぶとひどく怒られる。

 だからお姉ちゃんと呼んでいるけど、それはそれでなんだかこそばゆいみたいだ。

 じゃあ、どうすればいいんだろうか。


「あー、らっしゃい。ご注文は?」


「お姉ちゃん、ちゃんとやって」


「めんどくせえけど、ちゃんとやってるだろ。こちとらまだ二日酔いの真っ最中で、気分サイアクだが」


「すいません、このカレーというものには様々な種類があるようですが、具体的にはどのようなものなのでしょうか。なにしろ、聞いたことがない名前の料理でして」


「どんなもん、って。まあ、兄貴の作る料理は何かと珍しいからなぁ。そうだな、カレーってのは」


「なにかな、カミラ?」

 

 お姉ちゃんが続ける前にお父さんが即座に首を締め落とそうと静かに背後から抱きついた。普段からのデリカシーの無さに、だいたい何を言おうとしたのかはなんとなく察しがつく。

 ああ、もう。本当にサイアクだよ。


「……お姉ちゃんさいてー」


「なんだよ、リリ。まだ何も言ってねえけど?!」


「知りません、普段の自分に聞いてみてください」


「頭が痛いよカミラ。あまり口煩く言いたくはないから言わないけどね。……まあ、お手伝いありがとう。また夜、お願いするよ」


「へへっ。あんがとよ、おとーさん」


「……まったく、あの子ときたら調子がいいんだから」


 デリカシーがなさ過ぎる。

 今更お姉ちゃんの性格を改めることなど無駄だと知りながらもお父さんは嘆いている。

 バックヤードに消えたお姉ちゃんはきっと今頃、そんなことなど露知らず昼寝をしていることだろう。

 わたしは、お姉ちゃんのことも好きだけどお父さんにとっては頭痛の種なのは相変わらずと言ったところだろうか。


「主任、主任。コーヒーとオムライスがおすすめですよ。主任は少し甘めでミルクをたくさん入れてましたからカフェオレとかがいいと思います。オムライスはわたしの好物のひとつなんです。食べ応えのあるチキンをガーリックライスと一緒に炒めてケチャップを混ぜて食べやすくなめらかにしたごはんを、ふわふわとろとろの卵で包んでしあわせになれる料理です!」


「……ふわふわとろとろ、それはあなたの好物なのね。そちらをいただけるかしら」


 なんとか首の皮一枚繋がった気分だ。

 でも既に手遅れではないだろうか、主任の様子を見るに多少訝しがってるみたいだけどカレーの尊厳は守られたのかもしれない。


「お昼にしては遅くなってしまったけれど、あなたはお腹空いてないの?」


「主任の料理が来てから一緒にたべます。そういうものなので」


「まあ、あなたがいいなら、それでいいけれど」


「リリさん、よかったら調理しなおそうか。さして手間もかからないから、温かい方がいいでしょ?」


 少し躊躇うけど、厨房からのいい香りに負けてお弁当箱をお父さんに渡してしまう。


「もう少しかかるからね、先に主任さんにカフェオレを渡してくれないかな。リリさんは、今はお客さんなのに悪いけど」


「いいよ、わかった」


 主任の前にカフェオレを置くと、顔を顰めたような気がする。


「あまりコーヒーの香りはしないのだけれど」


「半分はミルクですから、お店に染み付いたコーヒーの香りの方が強いかもしれないです」


「昔から背伸びして眠気覚ましにコーヒーを飲んでいるけど、実は苦いのは苦手なのよね、ミルクや砂糖を入れたりするのって無作法ではなくて?」


「大丈夫です、好きに飲んでいいんです。あ、でもお砂糖は多くても二つくらいで飲むとおいしいかもしれません」


「じゃあ、そうしてみましょうか」


 なんというか、ひとつひとつの所作がお上品だ。皿と皿が擦れるようなわずかな音すら聞こえない。


「……えっ?」


「えっ、お口に、あいませんでしたか?」


「いえ、そうではなくて」


 主任がお父さんの方を見ても「えっ?」っしか言わずに、疑問を解消するためにもう一口飲むと、完全に言葉を失っていた。

 飲み干しているからおいしくないわけじゃなさそう。

 だったらなんなんだろう。


「月並みですが、本当においしいとしか言えない自分の語彙力が情けないです。どんな賞賛の言葉すら、この一杯の前では陳腐。このおいしさを語るなど、私には許されることではございません。これは、半分をミルクで濁している事が侮辱です。マスター、どうかもう一杯私にチャンスをください」


「気に入って貰えてなによりですが、コーヒーの飲み過ぎはよくはありませんからね。飲み方は自由ですが、苦いのが苦手な様子でしたので砂糖は適量がいいですよ」


「ええ、そうしてみます」


 料理も完成間近で手を離せないお父さんの代わりに、主任のコーヒーのおかわりを取りに行ったわたしは主任の豹変ぶりがちょっと怖かった。


「ど、どうぞ」


 コーヒーと睨めっこしている主任がかなり怖かった。

 今度は、なんか風味を楽しんでいるみたいだった。

 すぐには飲まないで、少しずつ、少しずつ確かめるように飲んでいた。


 飲み干す頃には、窓際の席だったこともあり主任に光が差していて憑き物が落ちたかのように爽やかな顔をしていた。わたしからしてみればうっとりとした表情に心配になる。


「お待たせしました。オムライスと、お子様ランチです。ごゆっくり」


 おそらく、主任のオムライスの材料のあまりを利用してわたしのお弁当と混ぜたお子様ランチ。

 少々侮辱的な名前だけどお父さんの料理を侮ってはいけない、小さな山盛りチキンライスと小ぶりなハンバーグと白身魚のフライ、マカロニサラダ、ミニオムレツにナポリタン、お父さんお得意の洋食のフルコースなのだ。

 苦手な野菜もちゃんと用意してあるのは抜かりなかった。

 あと、旗が付いてた。

 ちょっと嬉しい。


「いただきます」


「……えっ、いただき。なに?」


「主任も、いただきます、です」


「ええと、いただきます?」


 わたしはひたすら黙々と食べ進めていたけれど、食器の音がしないので主任が食べているのか気になったけれど、全くの杞憂で、主任も美味しそうにオムライスを食べていた。


「ごちそうさま」


「?」


「食べ終わったら、ごちそうさまって言うんです」


「……変わったテーブルマナーね。ごちそうさま、これで、いいかしら?」


 テーブルマナーには疎いけれど、それは地域によって異なる。けれど、カトラリーは主任から見てきっちりと揃えてお皿の六時方向に並べられている。

 それに反して軽く畳んであるナプキンは、なんというかシンプルというか、几帳面な主任にしてはちょっと雑に扱っている印象を受ける。


「あ、あのっ、お口に合いませんでしたか?」


「食事をこんなに満喫したのは久々よ。この穀物は家畜の餌だなんて先入観もあったけれど、食わず嫌いはダメね。咀嚼すれば程よい弾力と、次第に食欲をかき立てる甘みに変わり、かと言って甘すぎない程よい味わい。ガーリックの香ばしさと、ほどけるように柔らかいチキン、オニオンの歯ごたえも損なわれることのない絶妙な火入れ、隠し味の香味野菜も食欲をそそる。細かく刻んで混ぜ込まれた野菜も飽きない食感のアクセントとして最後まで楽しめました。オムライスにかけられたソースにも、わずかにコーヒーの風味とフルーツの甘味と酸味、おそらくなんらかの香辛料も混ぜられていると思います。絶品でした。付け合わせのポテトサラダも土臭さなど全く感じない、まろやかで口当たりの良いそれ単品でも完成されています。一流の看板を掲げているレストランなど霞むほどの料理なのに、ボリュームも価格も良心的です。目の前で調理してもらえる経験なんてあまりありませんでしたが、料理を提供する時間も早く、ストレスを与えない。毎日でも通いたいですわね」


 すごい早口でお父さんの料理をとことん褒めているのはわかる。

 主任はメニューを見ながら、悩ましげに唸っている。


「どれも聞いたことのない料理の名前ばっかりですわ。洋食とは、名前だけでは想像もつきません。この米などを使ったものはどこの国の料理なんですの?」


「お父さん、昔は旅人だったから世界中のたくさんの料理を知っているんです」


「それほどの知識と技術があって、この終点街のはずれに店を構えるというのは欲のない方ですね。でも、そんなマスターだからこそ、この喫茶店は成り立っているんでしょうね」


「どうでしょう、私は結構欲張りなんですよ?」


「ふふっ」


 お父さんの人柄が人々に愛されているのではないだろうかと、わたしを見つめて頭を撫でてくれていた。


「いいお父さんを持ったわね」


「うん、あっ、はい……」


「迷惑でなければ今後とも贔屓にさせてもらうわ」


「ありがとうございます。リリさんのおかげでなんだかウチの店のお得意様は郵便組合と観測所に関わりのある方で、みなさんには感謝しています」


「それは、考えようによってはこの子なりに自分の食い扶持を自分で賄っているようなものではないでしょうか。主観混じりで拙いながらに、メニューのプレゼンテーションは本当に食べたくなるものでした。恥ずかしながら、童心に帰り、思わずマナーを忘れてしまいそうになるくらい、おいしかったですわ、とても」


 主任は、段々と発言の言葉尻が小さくなっていた。

 それは、なんとも恥ずかしそうで顔を真っ赤にしていた。

 精神と肉体の乖離ともいうべきか、精神年齢と外見年齢とのギャップ。

 精神は肉体に引っ張られるし、その反対も然り。

 わたしはいつまでも成長することがない肉体で、どんなに知識を蓄えて発言や行動の端々から子供っぽさが抜けきらないどころか、幼児退行している節がある。

 たぶん主任も似たような経験をしているのだろう。

 普段から毅然として人を寄せ付けないような態度をしているけれど、それは気を張って精神が肉体に引っ張られないようにする主任なりの処世術なのかもしれない。

 見習いのわたしとは違って、主任は先に立って支局の職員のみんなを牽引する立場にある。

 みんなの生活の責任を抱えている。

 わたしなんかでは想像もできない、重責の圧力の中で生きている。

 ほんの少しでも気が休まる時間はないのだろう。そこには、他の誰にも介入する余地もない。

 主任が垣間見せた、子供っぽさは誰にも見せたくなかった幼い一面だったのだと思う。

 わたしにできることは、心労になるような迷惑をかけないことくらいだ。

 ただでさえ、わたしは郵便組合の頭痛の種なのだから。


「ごめんなさい、まだまだ未熟者なので仕事が立て込んでいてあまりゆっくりとしていられませんので失礼します、マスター。できる限り、仕事の合間の時間を見つけて息抜きにお邪魔させていただきます。まだ、食べてみたい料理がたくさんありますから」


「いつでも、歓迎しますよ」


「では、行きましょうか。お子さんはなるべく遅くならない内に帰しますので」


 お辞儀ひとつを取っても、品格の違いを感じさせるものだった。

 徹底された礼儀作法を見せられては、主任を子供扱いすることは難しい。

 大人の女性の印象を強く受ける。

 わたしも、かっこいい大人の女性になれるだろうか、無理だろうな。

 

 

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