【一章】追悼と邂逅 Ⅳ
定休日のヤドリギでは、傭兵団と一緒に食卓を囲むことも珍しくはなかった。
元々、おれが下の階に降りてくること自体が少なく、食事もリリやリオだったり店長がわざわざ部屋まで持って来てくれるのが当たり前の生活をしていたから、顔を合わせる機会もなかった。
おれが知らなかっただけで、傭兵団は日常的に店を利用していたそうだ。団長が「リリ以外はシーナ様の娘には干渉するな、おまえに言ってるんだぞトカゲ」と団員(特にシャナ)に命令していたこともあり、厄介ごとを避ける為になるべく不干渉を貫いていた。
まあ、酔っ払ったリリがおれを引っ張ってきたせいで関わることになってしまったんだけど、シャナは同じ竜として、特に珍しい子供の竜のおれを親戚感覚で可愛がりたくて仕方がなかったらしい。
以前のおれはヤドリギで食事を済ませても食器も洗わずすぐに部屋に戻っていたから気付きもしなかった。
大浴場を使う時も、おれが居る時はわざわざ時間帯をずらして利用してくれていたそうだ。人見知り、というよりは人間不信というか獣人不信で、リリとリオ意外とはあまり口を利かなかった。
みんなには、かなり気を遣ってもらっているんだと思う。
部屋から外に出る機会がなければ、リリの愛読書によだれを垂らさなければ、こうして同じ食卓を囲むこともなかったのかもしれないと思うと、些細なきっかけで物事がどう運ぶのかなんてわからないんだな。
バタフライエフェクト、だっけ。
蝶が羽ばたいたら離れたところで竜巻が起きる、みたいな例えで、わずかな行動が予測できないほどの大きな結果につながる現象。
ユークリッドの爺さんがそう言っていた。
最初は、カオス理論のひとつとか言われてまるで意味がわからなかったんだけど、面倒そうに説明してくれた。「余計な知りたがりはリリに似たのか」と白い目で見られたんだけど。
些細なきっかけひとつあれば、人は変化すると爺さんは言いたいらしい。
めそめそと泣きながら、リリやリオに慰めてもらってメシを食って寝るだけの生活だったのに、ほんの一ヵ月足らずでこんなにたくさんの人と一緒に夕食を食べたり、はじめての友達ができたり、外出して買い食いできるようになったりした。
おれは、環境に恵まれている。恵まれすぎている。こんな幸せに気が付かないまま、胡座をかいていたんだなんて、厚顔無恥っておれみたいなやつのことを言うんだろうな。
だから、こんなに貰ってばかりでいいんだろうかと思う。
幸せになっていいのか、よくわからない。
自分自身に残されている記憶。
かつて、自分は人間であったという曖昧な記憶、顔の欠けた家族。父親は何かの研究者で家を留守にしがちだった。母親は、体から鱗のようなものが生える流行り病に罹ってからは病棟に隔離されて、それからは妹と二人で暮らしていた。妹は、生意気だけどしっかり者で心根の優しい子だった。
口癖のようにだらしがないと言われていたことだけは嫌と言うほど覚えている。
特に不自由をした思いもしていなかったとは思うから、裕福な家庭だったんだと思う。なんとなく、そこそこの学校に通っていた記憶はある。
ただ、人間の頃、自分が男性だったのか女性だったのかは判然としない。交友関係は浅く広く、男女問わず友達はそこそこいたと思うけど、あまり親しい人はいなかった。適当な理由をつけて遊びの誘いを断ることも多かった。
たぶん、父親がちょっとした有名人で、親の七光りとやらで多少付き合いが悪くても、親があの人なら仕方がないかと自然に受け入れられていた。友達というよりは、ただの顔見知りだったのかもしれない。だから、友達はいなかったんだと思う。
居心地の悪さを感じて、図書館のようなところで勉強するフリをしながら退屈そうに本を読んでいたことを覚えている。
こづかい稼ぎに適当にバイトして、親の評価を落とさない程度に勉強して、孤立しない程度の体裁を保ちながら、平凡な学生生活を送っていた。
どうも、そこから先ははっきりとしない。ただ幾度となく「もしも」を重ねた後悔と淡い期待。
底のない沼に足を取られて、ゆっくりと呑み込まれてゆく。必死にもがいて、伸ばした腕の指先まで埋まった後に、息苦しさで目が覚める。
だいたい、過去の夢をみるといつもそうして手を伸ばしたまま起きて、人間ではなくなった自分の姿を確認すると激しい頭痛と吐き気に襲われる。
シーナ様に保護してもらってからはあまり自分の過去の夢を見なくなったが、それでも、たまに思い出すように起伏のない退屈な人生の夢を見る。
前世の記憶だなんて物語の読み過ぎだ。馬鹿馬鹿しいって思っていたけど、ユークリッドの爺さんは「その記憶は妄想などの類ではなく本物だ」と言う。
妖精という生き物は元々、旧人類が存在する遥か昔に竜が生み出した生態系を管理するための高次元な情報生命体だそうだ。旧人類が生み出した電波を発する機械とは相性が悪く、曰く「気が狂うほど聞くに堪えない雑音」らしい。
今の世の中に出回っている電話やラジオとかは、作りが違うからあまり不快感はないみたいだけど。それでも爺さんはそう言った道具には近づこうともしない。
旧人類史の崩壊の原因とされている『竜鱗症』は二十世紀の終わり、後に『二千年問題』と呼ばれているコンピューターの騒動の中、静かに世界中に広がった。
爺さんは、旧人類史に「二十世紀から先の明るい未来は訪れなかった」と言っていた。竜の亡骸を管理していた妖精たちを旧人類が妨害した結果が招いた形で、人類が『竜鱗症』に感染して、パンデミックからの絶滅へのシナリオをなぞることになった。
ほとんどの人類は妖精たちがあらかじめバックアップを残していた情報生命体として何も知らずに仮想空間で生かされていたらしい。本物の人類は不治の病に侵されながらも地球の資源を食い潰しながらしぶとく生き延びていたけれど『竜鱗症』によって確実に絶滅していった。
旧人類の終末、ナノマシンという竜の力が世界に満ち始めた頃、妖精たちは仮想空間から人類を解放して、ナノマシンを通じて新しい肉体を与えた。人間が遺伝子実験の果てに生み出した厳しい環境下にも耐えうる都合のいい労働力、獣人という奴隷たちの肉体を。仮想空間で過ごした記憶を微かに残す人々もいたが、記憶は次第に薄れて新しい人類の獣人としての歴史を紡いでいった。
でも、おれは獣人ではなく竜として生まれた。
なんだかとんでもない旧人類の顛末よりも、どうしておれが竜になったのか知りたかった。
ユークリッドの爺さんは「正確性に欠ける」と言い渋る様子だったけれど、一つの仮説として『竜鱗症』で死んだ者はナノマシンの原型とも言える粒子に分解される。
それが途方もない時間をかけて再構築された結果、ある程度の権限を生まれ持っていたり、他の生命体や竜の卵に宿る場合があるかもしれないと、爺さんもイマイチ腑に落ちない様子だ。
団長も、人間だった頃の記憶があるのだそうだ。
だから、爺さんは傭兵団に身を寄せているらしい。
そう聞かされてから、団長には興味があるんだけど、どうにもおっかなくて話を聞くなんてできそうもない。
ちなみに、この旧人類の終焉の真実こそが、リリやリオがユークリッドの爺さんを「ユークリッド様」と敬愛する由縁らしい。二人とも嬉々として話を聞くらしく「教え甲斐のある生徒」である一方で、おれのことを「イマイチ学習意欲に欠く生徒」と称している。正直、話についていけない。それでも、何度も説明してもらって少しは理解したつもりだ。
ユークリッドの爺さんは、旧人類に何があったのかは教えてくれたけど、おれが人間だった頃の過去には触れないようにしている。ただ「死の間際まで愛と勇気に満ち溢れた数少ない善き人間だったから胸を張れ」って、どこか誇らしげだ。
妖精にここまで言わせる人間はなかなか居ないそうだから、これから先の未来におれが何を成すのか楽しみで仕方がないらしい。あと、おれはどうにも妖精とかに愛されやすい体質らしく。他の妖精がちょっかいかけてこないようにツバを付けているみたいだ。
それで、おれのはじめての友達で大先生の妖精様は、リリが焼いたシフォンケーキを頬張りながら幸せそうな顔をしている。いつも何かと甘いものを食べているのは、特に好みの問題ではなくて、妖精はグルコースやフルクトースやガラクトース、要は甘いものしか栄養にできないと言っている。
普通の食事も食べられないわけではないらしいけど非効率的だからあまり食べたくないみたいだ。つまり、甘いものが好きってことでいいんじゃないかと思うんだけど、ユークリッドの爺さんは「別に好きなわけではない」とムスッと拗ねた顔をする。まあ、次の瞬間には笑顔で食べ始めるんだけど「妖精の習性なのだから仕方がないだろう」と言い訳をする。
どうやら、以前おれにパフェとか食べる声じゃないって言われたことをかなり根に持っているらしい。ずっと謝っているけど、爺さんはおれの前で甘いものを食べる時は不機嫌だ。確かに、こういう素直じゃないところは可愛いかもしれない
食卓に目を向ければ、料理があらかた作り終わったらしくリリや店長たちも席に着いて「いただきます」と言うと食べ始めた。そういえば、ヤドリギではオムライスを食べたことがなかった気がする。未だにリリの過去で食べたあの味が忘れられない。できれば今度リクエストしてみようかなって思うんだけど、丁度いい機会だし今聞いておいた方がいいかな。
「なぁ、リリ」
「どうしたのエリシャ?」
「今度でいいんだけどさ、オムライス作ってくれないか?」
一瞬だけ、時間が凍りついたみたいな冷たさと刃物のような鋭さを感じた。たぶん、おれはこの時のリリの表情を生涯忘れることはできないかもしれない。「なんで?」と言いたげにこちらを見つめたまま動かない。
動揺を隠せない様子で、リリが握っていたフォークが滑り落ちる。
「……あ、ごめんね。エリシャ、わたしってまだまだ未熟だから、お父さんみたいに上手に作れないんだよね。わたしがお店に立った時、作れないものはメニューに書いてないの。だから、だからごめんね」
いつもと変わらない穏やかな優しい声だったけど、視線の奧にはどこまでも深い闇が渦巻いているようだった。
それは、おれを見ているわけではなかったけど、リリの夢を見たあとのような感情が流れ込んできた。
強い怒りと深い悲しみ、まるで首を絞められているみたいな息苦しさを感じる。
「……ごめん、おれ、変なこと言ったよな」
「ううん、違うの、ごめんね。エリシャは何も悪くないんだから謝らないでいいんだよ。卵料理って火加減が難しいんだ、わたしも勉強中だから、今度お父さんに作ってもらおうね?」
慌てて取り繕ったような笑顔と優しい言葉。
先程の威圧感はもう感じなかったけど、確かに恐怖は刻み込まれた。自分の鼓動がうるさいくらいに聞こえる。
思わず、自分の胸に掴みかかって心臓を上から押さえつけた。何もしていないのに、悪夢を見た時と変わらないほどに激しく脈打っていた。
「……ったく」
カウンター席で一人で食事を摂っていた団長が気怠げにこっちにやって来るなり、リリの頭を掴んだ。ミシミシと骨が軋むような音が聞こえて来る気がする。
「痛い、痛い痛い!?団長っ、団長おっ!!?」
「前言ったよな、不愉快だから殺意を剥き出しにするなって」
「ごめんなさい、ごめんなさい!!」
「しかも、なんで顔してんだおまえは」
「もうしません、もうしませんから許してください!!」
「謝る相手は俺か?」
「エリシャ、ごめん!?ごめんなさい!!?」
団長はリリを力ずくで謝らせると、何事もなかったかのようにカウンター席に戻って食事を再開した。解放されたリリの頭からは白い煙が立ち上っているかのように見える。
絶対、おれのせいなんだけど、一方的にリリが悪いみたいな雰囲気になっている。リリはリオに抱きついて泣いているけど、リオにすら「見境なくて今回ばかりはいくらなんでも擁護のしようがないっス」とまで呆れられている。
そりゃあ、不完全とはいえおれが他人の過去を見ることができるなんてユークリッドの爺さんしか知らないんだから、事情を知らない人からしたらおれが何気なく食べたいものを言っただけかもしれない。
洋食ってモノもオムライスって料理自体も別にヤドリギの専売特許というわけでもなければ特に珍しいものでもないし、ハタから見たらリリが急にキレたかのように見えるのだろうか。でも、おれも過去が見えたと言っても断片的なもので、なぜオムライス自体が禁句みたいになっている理由も因果関係もわからない。
だけど、はっきりと過去に残っているのだから、よく考えたら関係ないはずがない。でも、なんでオムライスがダメなんだろうか。リリにとっては、特別な料理なのだろうか。
どうにも聞ける雰囲気じゃないし、もしも今後誰かの過去を見ることになったとしても、内容に関わることは不用意に口しない方がいいかもしれない。相手によっては本当に殺されてもおかしくない、おれは不老不死ってわけでもないんだから命を危険に晒すような真似はしない方がいい。
結局、おれの無神経な失言がまた迷惑をかけたのは事実だ。リリには後でちゃんと謝りたいけど、理由もわからずただ謝るのも何も反省していないような気がする。
それはそれでまた叱られてもおかしくない。
だけど、理由を知らなかったせいで怒られたんだから、怒られないためにはしっかり理由を聞いておかないとわからないんだから。……コレって、どちらにしても相手を怒らせることにならないか?
団長が仲裁してくれたおかげで、夕食の時間も次第に何事もなかったかのように普段通りの活気を取り戻した。
それでも、リリはどこか浮かない顔をしていたし、おれも釈然としなかった。ただ、リリはぼんやりとカレンダーを眺めていた。そろそろ、二十五年目の追悼式とやらが近付いていた。
なんだか気まずくてリリと言葉を交わすこともなく、みんなで夕食の後片付けをしてからみんなで風呂に入り、自室のベッドの上でリリの過去に何があったんだろうなってずっと考えていた。
よく考えたら、おれはヤドリギのみんなのこと何も知らないんだなって思った。いや、知ろうとしなかったという方が正しいのかもしれない。自分のことさえあまりよく知らないのに、人のことを考える余裕がなかった。余裕がなかったって、今もそんな余裕はないんだけど。
ただ、おれはリリにいなくなってほしくなかったりとか、わがままな感情で自分勝手に振る舞っていたに過ぎない。
成長したつもりで、まったく成長してない。本当に、
リリに会わせる顔がない。あんなリリの顔は、もう見たくない。させたくない。また、させてしまったらどうしよう。ぐるぐると不安な気持ちが渦巻いているようだ。
なんだか自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだ。
「エリシャ、起きてる……?」
色々とあったから疲れたし、今日はもう寝てしまおうかと、うとうとし始めた時、ドアをノックするリリの声が聞こえて飛び起きた。
まだ心の準備が整っていないのに、リリの方からやって来るだなんて想像してなくて、慌てて返事をしようと上体を起こそうとしたら片手が空を切って、そのままベッドから転げ落ちた。
「……うん、いま起きた」
「入ってもいい?」
「……いいよ」
正直言って全然よくはないけど、嫌とはいえない。
後頭部を床にぶつけて痛いけど、今はそれどころじゃない。床に寝っ転がってる場合じゃない。
会わせる顔がないけれど、今更帰ってくれだなんて言えるわけもない。おずおずと起き上がり、ぶつけた頭を気にしながらリリが怒ってないか確認する。気まずいけど、黙っていたら余計に気まずい。
何か言い訳を考えないと思っていたら、転げ落ちた時にベッドからはみ出した毛布に足を引っ掛けて、心配して近付いて来たリリを巻き込んでまた転けた。
踏んだり蹴ったりだ。
微かに甘い花の香りがした。同じシャンプーを使っているはずなのに、おれとは全く違うリリの香り。きちんと身嗜みを整えているふわふわの毛並みと、やや癖っ毛の髪は普段から綺麗な三つ編みを腰のあたりまで垂らしているのだが、風呂上がりで根本を軽く紐で結っているだけ、それが押し倒した拍子に解けてしまったみたいで、床の上にまるで翼のように広がる。
今まで、こんなに近くでリリの顔を見ることなんてなかったんだけど、よく見るといつも優しく微笑んでいるようなあの目元は、なんだか少しばかり気怠げでまぶたを重たくしている。俗に言えば、ジト目をしている。透明感のある赤い瞳を見ていると吸い込まれてしまいそうだ。
リリの見た目は子供かもしれないけど、大人の女性のような落ち着きとお淑やかさがある。そのギャップで殊更、今自分がとてもいけないことをしているような気がする。こんなところリオにでも見られたら変な誤解を招いて大変なことになる。
なんか、胸がドキドキする。
「大丈夫だよ、怒ったりしないからまずは落ち着こう。わたしが急に起こしたみたいだから、驚かせちゃってごめんね」
「……その、なんていうか、悪い。おれ、そそっかしイッでェッ?!」」
慌ててリリから離れようと後ずさると、学習机のカドに頭をまたぶつけて悶絶することになってしまった。
リリはゆっくりと起き上がり、乱れた髪を整えながらおれに歩み寄る。優しく頭を撫でて、ぶつけたところを見て「傷にはなっていないみたいでよかった」と言いながら胸を撫で下ろしていた。
「おれの方こそ、ごめん。夕飯の時、なんかその、団長をけしかけるようなことになったりして」
「気にしないで、わたしは団長からよく叱られるから頭掴まれるのには慣れてるんだ。それに、ただ躓いただけなんだから謝らなくていいんだよ。寝てるの起こしちゃったみたいだから」
しっかり者のリリがよく叱られているのは、なんか意外だ。
傭兵団にはもっと他に叱られるべき人がいると思うんだけど。ギャンブル狂いの聖職者とか。金の亡者の竜人とか、問題児のバカ男子二人組とか。
特にバカ男子二人組はついさっき大浴場の壁に穴を開けて女湯を覗こうとしたのがバレて、半殺しにされたばかりなのにまた変なことを企てている。
シーナ様は「少年らの気持ちはわかるぞ」と腕を組んで頷いていた。でも何食わぬ顔でシーナ様も眼福でどうとか言いながら普通に女湯に入ってたんだけど、
いや、おれも女湯入ってるからあんまり強く言えなかったんだけど、シーナ様は父親なんだよな。
やっぱり、竜の常識にはまだ馴染めそうもない。
「……エリシャ、まだ痛いところある?」
リリはおれに手を差し出すと、立ち上がるように促してきた。お説教という感じではなくて、どちらかといえばあまり気乗りがしない影を落としたかのような仄暗い表現をしていた。いつもは、頼りがいのある姿もどこか怯えているみたいにちいさく見えた。
「……あー、いや、なんでもない。ちょっと、ぼんやりしてたというか、その、なんか今日は色々あったからさ、外出したり、シーナ様から話を聞いて、びっくりしたってのもあるんだけど、おれって集中力ないからさ、すぐに余計なこと考えちゃうし、頭悪いから余計なことも言うから。その、ごめん。さっきは」
「そんなに謝られたら逆に気にしちゃうよー?」
「ご、ごめん。いや、今のナシで……」
リリの手を取ると、助け起こされた。見た目よりも随分とがっしりしているというか、力が強い。おれの体重くらいならまったく問題にもならないと言った様子だった。自分より大きな狙撃銃を自由自在に振り回せるんだから、今更か。
リリは、おれの手を握ったまま俯くと、黙ったまま動かなくなってしまった。ただ、ちいさな手は震えていた。
強くおれを確かめるように握ったかと思えば、針でも刺さったみたいに手を離そうとするが、その寸前にまた握り直す。そんなことを二度三度と繰り返してから、怯えた様子で抱きついて来た。
正直言って、間が持たない。
リリの雰囲気がいつもと違うってのもあるんだけど、どうにもよそよそしい。おれが気まずいと思っている以上に、なんだか居心地の悪さのようなものをリリも感じているんだと思う。かと思えば、抱き付いて来たまま、また動かなくなってしまう。
別に、もうそこまで痛いわけじゃないけど、ぶつけた頭を気にするような仕草をしながら指先で髪をいじる。リリらしくないと思えばそうなんだけど、おれはリリのことをよく知らないから、今のリリの姿も本当のリリには変わりないのかもしれない。だとしても、意外な一面を垣間見せたとしても恥じるほどのものではないし、そんなに驚かない。
むしろ、おれが今まで我慢させて来たのなら申し訳ない。
言葉のかけらをつなぎ合わせるような、辿々しい口調でリリは話をはじめた。
「……エリシャ、あのね。わたしは、わたしのことをエリシャに知ってもらいたいなって思って来たんだけど、やっぱり、その、あまり昔の話はしたくなくて。嫌なことだから、どうしようか悩んでて、でも、あんな情けない顔見せちゃったんだから、理由くらいは言わなくちゃって、気が付いたら、ここまで来ちゃってた。だから、自分でもなんか、びっくりしてる」
リリは、おれに抱きついたまま体重を預けはじめた。重たいわけではなく、ただ、おれは無意識にリリから逃れようとして、そのままベッドに押し倒された。
押し倒されたとは言っても、どうやら情けないことにおれは腰を抜かしてしまったみたいで、ただ、ベッドに深く座ったくらいなんだけどさ。
どちらにしても、身動きが取れないことだけは確かだ。
おれの、ちょうど胸のあたりにリリは顔をうずめたままだ。すんすんと鼻を鳴らすと抱きしめる力が強くなった気がする。
「リリ……?」
「……エリシャのにおいがする」
「……そりゃあ、おれは、おれのにおいがすると思うけど」
「いや、ちゃんとここにいるんだなって思っただけだよ。幻覚とか、そういうのじゃなくて、本物のエリシャが」
縋り付くみたいにして頭を擦り付けてくる。
大きな耳を垂らして、表情がうっすらと紅潮しているようにも見えた。酒に酔っているわけでもないのに、リリがおれに甘えているような気がする。そして、それを恥ずかしがっているようにも思える。
「幻覚……?」
「ううん、なんでもない。いや、なんでもなくないよね。おかしいよね、わたし、あなたの保護者なのに、こんなこと頼むのはヘンだけど、ちょっとだけ頭を撫でてくれるかな」
「うん、別にそれくらい、いいけど……」
頭を撫でられることはあっても、リリの頭を撫でるなんてはじめてかもしれない。ふわふわとさらさらと中間みたいな柔らかい髪の毛を寝かせるように撫でてみる。なんか、喉を鳴らしているみたいだけど嫌がっている様子には見えないし、どちらかといえば体の緊張がほぐれているみたいだから、リラックスしているのだろうか。
「……えへへ、エリシャに撫でてもらっちゃった」
涙ぐんだリリは、それを誤魔化すように、少し恥ずかしそうな柔らかい笑みを浮かべて喜んでいるみたいだった。リリのあどけない一面を垣間見たような気がする。だけど、この胸の違和感はなんだろうか。嬉しいような、悲しいような。どちらとも言い表せない曖昧な気持ちは。
リリは、不安を少し吐き出すように浅く呼吸をすると「よし、大丈夫」と呟き、自分に言い聞かせて、決心した様子で噤んだ口をゆっくりと開いた。
「ありがと、エリシャ。ちょっと元気が出た」
リリはおれの隣に座り直すと、いつもよりほんの少しだけ重たくなった負荷で、ベッドのスプリングが軋んだ音がした。
「わたし、エリシャにあんな顔するつもりはなかったんだ。でも、わがままなことだけど、少なくとも、わたしは、こんな話をしたら、たぶん笑顔のままいられないだろうから。できればエリシャには何も知らないでいて欲しかったけど、あんな顔を見せちゃったんだし、一応、保護者として、きちんと説明する義務があると思うの」
リリは、恥ずかしさの表情を残したままだけど、いつもの雰囲気に戻っていた。無理をしている感じはなく、吹っ切れたとでも言えばいいのだろうか。いつもの、おれがよく知っているリリに戻った気がする。
そりゃあ、リリの口から直接昔のことを聞けるだなんて願ってもないことだけど、当の本人の気持ちとしては語りたくない過去なんだろう。自分ではどうしようもなかったけど、そんな過去を勝手に覗いた挙句に目の前で掘り起こしてしまったのだから、気持ちのいいものではないと思う。
あんな目で見られたのも仕方がないのかもしれない。
「うん、おれもリリのこと知りたい。おれのせいで、もう二度とあんな顔してほしくないから……」
「ううん、わたしも大人気なかった。あんなのただの八つ当たりだもの、大人が子供にするようなことじゃない」
リリは、まだ心細いのだろうか。怯えた様子はないけれど、おれのすべすべとした手を確かめるように握ったりしている。柔らかい肉球がぷにぷにとしていていて、なんだかこそばゆい。
「……わたしはね、まだ終点街があった頃、郵便組合で配達の仕事をしていたの。オムライスは、わたしの憧れの人の大好物でね。仕事が終わると、必ずヤドリギに来てくれてさ。お父さんの作ったオムライスを、おいしいって嬉しそうに食べてくれたんだ。わたしは、あの人のそんな笑顔が好きだったな。……うん、大好きだったんだ」
「大好きだった、ってことは、もうその人は……」
リリの記憶の中で、一緒にオムライスを食べていた少女のことを思い出した。優しい笑顔と、嬉しそうに食事をする姿はおれの記憶にも焼きついていた。忘れられないあのオムライスの味と一緒に。
おそらく、あの夢の続きで命を落としたのだろう。だから、リリの記憶には、あの時のオムライスが強く焼きついていたのかもしれない。
「うん、そうだよ。もうこの世にはあの人はいないんだ。わたしの目の前で、殺されちゃったから。わたしのせいで、死なせちゃったから。もう、どこにもいないんだよ。もう、あの笑顔は二度と見れないんだよ」
死人とはもう会えないとわかっていながら、もしも叶うならまた会いたい。だけど、自分が死なせてしまったのだと、どうにもならない後悔を浮かべているようだった。哀愁とでも呼ぶのだろうか、リリの優しい笑顔の裏には、深い悲しみが張り付いているみたいだった。
「……メリクルさんって言うんだけどね。メリクルさんはね、十二人会の先代メリクリウスで、わたしの憧れで、とてもかっこいい人だった。本当の名前は、フィア・シュトライトって言うんだけど、わたしにとってのメリクリウスはあの人だけ、メリクルさんだけなんだ」
「メリクル……フィア・シュトライト……」
リリは思い出を振り返るように、少し目を瞑る。
優しくも儚い笑顔を浮かべるリリは、どこか遠くに、過去に生きているみたいだった。
ようやく、リリから感じる違和感の正体を掴めたかもしれない。リリの心はメリクルが生きていた時代に置き去りにされている気がする。
終点街が陥落した日から、メリクルが目の前で殺されてから、リリの中の時計は止まってしまったのかもしれない。
「わたしはね、メリクルさんの背中をいつも必死になって追いかけてた。もう、手が届かないほど遠くに行ってしまったけど、わたしはあの人のことをいまでも尊敬してる。あの人みたいになりたいって、色々と取り繕っているのが今のわたし。本当のわたしは、ただの陰気な子供だよ。二十五年間、全然成長してないや」
「そんなことない!リリはすごいヤツだよ!」
「エリシャ……?」
「……料理だってうまいし、頭だっていい。優しくて強いし、かっこいい大人だし、おれにとってリリは憧れの人だよ!」
「ありがとう、やっぱりエリシャは優しくていい子だね」
おれの頭を撫でてくれるリリは、おれが知るいつもリリだった。だけど、この姿が取り繕ったものだなんて思いたくはない。だって、過去に辛いことがあっても、ちゃんと前を向いて歩いているじゃないか。
自分だって辛いはずなのに、他の誰かを気にかけることができるなんて簡単にできることじゃない。リリにとっての憧れの人がメリクルって人なら、おれにとっての憧れの人はリリだ。おれは、リリみたいな大人になりたい。
だから、そんなに自分を蔑ろにしないでくれ。
そう、口に出せたらよかったのに、おれはただリリの手を握るだけで精一杯だった。ただ、今はおれがここにいることを覚えておいてほしい。過去を悔やむのを責めているわけじゃない、今ここにいるおれを少しでも見ていて欲しかった。
おれは、いい子でもなんでもない。
ただリリの生き方を真似しているだけだ。リリが自分を否定しまったら、おれはどうすればいいんだよ。
「……わたしね、終点街がなくなってからは、しばらくオムライスを作る練習をしてたんだよ」
リリは両手でおれの手を握り返すように覆った。
「……え?」
「わたしが、はじめて自分の手だけで作れるようになった料理はオムライスで、実は一番の得意料理なんだけどね。振る舞う相手が、もういないから、もう作らなくなったんだ。作りたくなくなった、ってのが正しいんだけど」
言い淀むみたいに少し戸惑うように考えてから、また、過去の話を続けた。
「わたしが、おいしいオムライスを作れるようになったら、メリクルさん、帰って来るかと思って、ずっとね。その時はまだ、わたしは、戦う力もないただの子供で、それくらいしか出来なかったから。そんなことをしても、無意味で無駄なことくらいわかってたけど、メリクルさん、またわたしのこと撫でてくれるかなって期待してたんだ……。わたしがあの料理のことがすきじゃなくなったのは、そんな個人的な理由。過去を思い出したくなかったから、責任から逃げたかったから」
こんなに苦しそうな笑顔をするリリを、おれは今まで見たことはなかった。
言いたくない。
思い出したくない。
そんな、リリの表情が全てを物語っていた。
「でも、でもね。いつまでも過去に囚われてちゃ、前も見えないよね。だけど、過去からは逃げられないし、責任ってのもいつまでもついて回る。わたしが未来に生きるためには、罪を精算しなくちゃいけない。まずは、エリシャにわたしが作ったオムライスを食べてもらって、おいしいって言ってもらうところから始めてみようかな」
「なぁ、リリ……。無理、してないよな?話を蒸し返したおれが言うことじゃないけど……」
「うん、少しは無理してるかな。でも、すぐにとはいかないけど、ちょっとずつでも期待に応えないと、わたしはエリシャの憧れの人なんだからさ」
涙を拭うと。そこには、いつも通りのリリの姿があった。
「とりあえず、今日はこんなところかな。二十五年分の出来事を、一晩で語るのはあまりにも時間が短すぎる。……それに」
「……それに?」
「追悼式に出れば、嫌でもわたしの犯した罪を知ることになると思う。わたしが大衆からどう思われているのか、わたしの責任でどれだけの人が亡くなったのか、わたしが戦う理由もね。少なくとも、わたしは英雄なんかじゃない。それだけは覚えておいてほしい」
リリは立ち上がると「とりあえず、今日はそれだけ。続きはまた今度ね」と言いながら、部屋を後にしようとする。ドアノブに手をかけた時、リリは何か言いたげだったけど「また明日ね」と言うと、今度こそ本当に出て行った。
どうやら、リリとは一時間近く話していたみたいだ。簡単な造りの卓上時計は、そろそろ日付が変わりそうだ。色々と考えたいことは山ほどあったけれど、眠気には勝てそうもなかった。
他人の過去、と言うほどのものではなかったけれど、ずっと先を行くリリがこっちを向いて手を差し伸べてくれるような夢を見た。




