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【前日譚①】ちいさな配達人 Ⅱ



 衛兵の戦術は主に近接戦を主体にした前時代的な武器を用いることが多い。

 とはいえ、成熟した獣人の肉体というものは生半可なものでは太刀打ちできないほどに強固だ。全身を覆う筋繊維は、まるで金属のワイヤーを編み込んでいるのではないだろうかと錯覚するほどに刃物を通さない。

 それゆえ、暴徒や犯罪者の鎮圧には殴打するのが一番効果的だとされている。

 それでも衛兵の多くが刀剣を獲物にするのには理由がある。獣人の多くは恐ろしく鼻が効く、あらかじめ刃に塗り込まれた特殊な薬品と血のわずか一滴で、訓練された衛兵は標的をどこまでも追い詰めることができる。刃は忘れ去られた牙や爪の象徴で、遺伝子に刻まれた獣の記憶なのだという。

 一滴の情報は、衛兵隊全てに瞬く間に拡がり犯罪件数を減少させてきた。以来、小さな傷害事件や軽犯罪を除けば世界は実に平和なものである。

 それでも、平和であることは必ずしも安全とは言い難い。

 撃鉄を起こすと。カチリ、と音を立てて弾倉が連動して僅かに回転する。

 このままほんの少しでも引き金を引けば銃口からは爆発的な運動エネルギー、すり鉢状の鉛で出来た弾頭の弾丸が発射される。

 その威力は如何に優れた筋肉の鎧を纏った者でも二発と耐えられない。当たりどころによっては容易く臓物を潰し、命を奪うことだってある。

 型落ちした護身用拳銃とはいえ、わたしに与えられた武器は子供が扱うには不相応な殺傷力を備えている。

 そのことを肝に銘じるように言われている。

 発砲音を遮る耳当ては、代わりにわたしの緊張の鼓動が早鐘を打つのを感じさせる。

 息が詰まりそうだ。

 小さく浅く呼吸をして、撃つ。

 撃鉄を起こし、撃つ。繰り返し、撃つ。

 回転式の弾倉に込められた五発を撃ち切ると、拳銃を半ばから折り曲げて廃莢する。まだ熱を帯びた空の薬莢が音を立てて床にばら撒かれる。

 再装填。

 ハスの根のように空いた弾倉に弾を込め直す。

 拳銃を目の前のテーブルに置き、耳当てを外す。

 ブザーと共に銃弾を撃ち込んだペーパーターゲットのダミーが奥から手前にスライド移動してくる。


「まあ、及第点だな」


 わたしの記録をつけてくれているのは、組合職員のビスマルク・ローレンスさん。

 通称は教官。

 教官は小太りな体型のアライグマの獣人で。いや、小太りというか服がパツパツに張るくらい筋肉が付いているから太っているわけではないのかもしれない。

 退役軍人であるそうだけど、あまり詳しくは知らない。

 手持ちのファイルに描かれた人体図に命中箇所や今までの統計をグラフなどにして纏めてくれている。

 教官が、筆記事項を記録し終わると、紙を張り替えてボタンひとつでダミーはそのまま射撃場の奥にスライドしていった。


「有事の際には遠慮なく殺すつもりで使え」


 やれやれと、「口煩い親父のようで自己嫌悪がする」と胃薬を水で流し込む教官。

 肩を落としてわたしに拳銃を渡してくれる。

 教官は教官なりにわたしの身を案じてくれているのだろう。


「こんなもん使わないで済むのが何よりだがな」


 わたしは、お尻と尻尾の間に隠すように装着したホルスターに銃を収める。


「わたしも、人は撃ちたくないです」


「だが、そうも言ってられないのも現実でな」


 支局の地下室にある射撃場の待機室の椅子に座り、目の前のテーブルに置かれたわたしの射撃記録の統計には有効な命中をした結果が続いていた。

 可もなく不可もない、平凡な記録。

 けれど常に安定した記録というものは信用に値するそうだ。

 マグカップに注がれたホットチョコレートに添えられたマシュマロが熱で蕩けている。

 射撃訓練がひと段落して、教官はわたしにお菓子を用意してくれた。


「カミさんと娘の為に禁酒に禁煙、だが甘いモンだけはどうにもやめられなくってよ。血糖値、ってのもそれなりヤベぇんだがなぁ」


 チョコレートはそれなりに高級な嗜好品だ。

 前に一度食べたことがあるから、それが甘くておいしいってことは知っているけど、わたしはチョコレートを食べないほうがいいらしい。

 思わず、ごくりと喉が鳴る。


「代わりに食ってくれねえか?」


「教官、それではわたしも血糖値がやべぇことになります」


「まぁ、それもそうだな」


 教官は人相が悪いけれど、怖いけどお菓子をくれる優しいおじさんという認知が当たり前のように根付いていた。

 わたしに断られたことがすこし意外だったというか、残念だったのか肩を落としてしまう。


「あ、あの。わたしは、教官にはたくさんのことを教えてもらいました。それにまだまだ教えてもらうことはたくさんあります。だから、ですね。その、よければ、ですけど」


 なんだかお互いにすこしだけ気まずい。

 そりゃあ、チョコレートはあんまり食べたことないから食べたいけど、わたしはあまり食べない方がいいみたいだから、断ってしまった。

 せっかくの好意を踏みにじるみたいで申し訳ない。

 だから、わたしの提案しようとしていることも、ワガママを通すみたいであまり気乗りしない。


「わたしのお父さんが淹れるコーヒーはブラックでもわたしが飲めるくらいおいしいんです。だから、時間があるときにでも、どうでしょうか。値引きとか、わたしにはできないと思いますけど、一人でも、家族でも、ヤドリギにいらしてくれると、うれしいです」


 結果的にお父さんのお店の宣伝をしてしまったけど、わたしの必死さは伝わってくれたみたいだった。


「ふっ、なんだよそれ」


 教官は口元を覆いながら笑い声を殺している。

 根負けした様子だった。


「あー、苦いのは嫌いだけどよ、嬢ちゃんが飲めるものを俺が飲めねえってのもかっこ悪りぃな。それに、いい歳こいて甘いものばかり飲み食いするより、なんだかコーヒー飲んでる方が渋くて男前なおっさんって感じがするわ」


「わたしのことばかりでごめんなさい」


「いや、普段から無愛想でちっと不気味なガキだなって思ってたんだが、まあ、蓋を開けりゃあいい子ちゃんじゃねえか。俺みてえな小太りなおっさんの健康を気遣ってくれたんだろ、嬢ちゃんなりに」


「はい」


「ちょっとは小太りなおっさんってのを否定してもらいたいものだがなぁ」


「ご、ごめんなさい」


「まあ、気にすんな気にすんな」

 

 教官はよく笑う。

 わたしとは正反対だ。

 詳しいわけではないけれど、あんまり甘くないコーヒーだとか、お茶は健康にいいそうだ。

 ただ、なんでも食べ過ぎ飲み過ぎ、過剰摂取は体に毒みたいだ。全部お父さんの受け売りだけど。


「あの、これ、お店の名刺です」


「おう、ちゃっかりしてんなぁ。喫茶ヤドリギ、コーヒーに軽食、洋食。こりゃあ、ちょっとした飯屋だな?」


 一応、ここの支局の掲示板のスペースの端っこでも宣伝させてもらっている。

 家に知人が来るのは、気まずくもあるけど、内向的な性格を変える為にも、まずは人付き合いに慣れないといけない。

 それに、まったく何も知らない赤の他人よりも、少なからずわたしのことを知っている相手のほうがいい。


「……それじゃあ、コイツは最後の晩餐ってヤツだな」


 テーブルの上のお菓子とホットチョコレートを見て、教官は名残惜しそうに言う。


「チョコだけに、お前もちょこっとは食べてくれよな」


「チョコ、だけに、ちょこっと?」


「親父ギャグってやつだよ、説明させるな恥ずかしい」


「……親父ギャグ?」


「ほれ、ビスケットならイケるだろ」

 

 むぐっ。


 ビスケットを口に放り込まれて吐き出すわけにもいかずに味わう。練り込まれたチョコレートの味は、微かなミルクと不思議な香味が鼻から抜けて、舌の上で甘くねっとりと溶けるチョコレートとバター風味のビスケット。

 なんだかずっと甘いチョコレートの味がして、頭の芯に染みるような多幸感がする。

 これは、危険な味だ。

 悪魔のお菓子だ。この味の虜になったらいけない。


「どうだ、うまいか?」


「おいしかったです」


 もうひとつ、もうちょっとだけ食べたい。

 という欲求を我慢して俯く。口を覆い隠す。

 おそらく最初で最後のチョコビスケット。

 たぶんもう二度と口にすることはないだろう。

 だけど、なんで甘いものにはこんなに抗い難い魅力があるのだろうか。


「わたし、なるべく食べないほうがいいものが結構あるんです。食べられないわけじゃないんですけど」


「そうだったのか。知らなかったとはいえ、無理矢理食わせてすまんかった」


「いえ、言わなかったわたしに責任があります」


 ぶっきらぼうで口数の少ない教官とは、話してみればそこそこ気が合うのかもしれない。

 とはいえ、教官からしてみればわたしもまだまだ子供なので、娘さんと重なるところがあるようだ。


「お互い腹を割って話してみねえと、わからねえことだらけだな。俺もおまえも。カミさんと娘ともな」


 教官にも悩みがあるみたいだ。

 だけど、それはわたしが立ち入っていい話ではないし、どうにかできるものではない。


「どうにも湿っぽくなっちまっていけねえ。まぁ、俺にできるのは自分の身を自分で守る為の最低限のイロハくらいだ。今は見習いのおまえも、スジがイイからすぐに俺なんて用無しになるさ。それでいいんだけどよ。俺は、運び屋って仕事にやり甲斐があるのを知ってるが、いつの時代も悪党の食いモンになるのも知ってる。つまりだな、仕事も大切だがそれ以上に大切なものは自分の命だってことを忘れねえでくれ。たぶん、おまえは自分の命を軽く見ている。自分は死なないから関係ない、そんな馬鹿げたことを言う奴の目をしている」


 不意に何もかもを見透かされたかのような、鋭い目で見られて思わず動揺してしまう。


 硝煙のニオイが染み付いた射撃場を眺めながら「俺ァ、そういうのウンザリだからな」と呟いた。無意識に口にした言葉だったのだろうか、わたしはただ教官のことを見つめていて、そんな視線に気がついた教官は「ああ、湿っぽいのはいけねえな」と誤魔化すように笑った。



「ようチビ、奇遇だな」


「こんにちは、せんぱい」


 いつもの公園でひとりでお弁当を食べようとした時、クロード先輩に見つかって隣に座ってきたので、腰に吊ってある剣とかの邪魔にならないように少しだけ横にズレて座った。


「なあチビ、そういうのめっちゃ傷つくんだけど」


 がっくりと肩を落とすクロード先輩。


「いざという時に、わたしが邪魔で剣が抜けないと危ないのではないかと」


「あぁ、いや。うん、そういうことでいいんだけど」


 それはさておき、今日のお弁当は具が肉団子のライスボールだ。まだ中身には辿り着いてはいないけれど、食べ進めると段々とテリヤキソースの味が濃くなっていく。

 甘くてしょっぱいタレとごはんだけでもおいしいのに、奥に肉団子まであるとは。お父さんは天才的だ。

 野菜もわたしが食べやすくする為に、マヨネーズとチリソースを混ぜてまろやかに甘辛くしたもので、嫌いじゃないコーンを多めに小さく切ったコンソメで煮たブロッコリーやキャベツを和えてある。

 だけど、生の小粒トマトや塩茹でしたアスパラガスとホウレンソウなどの苦手な野菜もちゃんと食べなさいというメッセージにも聞こえる。好きなものはできるだけ最後にたべたいけど、それには先に嫌いな野菜を食べなくちゃいけない。

 とりあえず、二個あるうちのライスボールを一つ食べよう。

 それから考えたって遅くない。


「なんかしあわせそうだな、チビは」


「お父さんの作ってくれたお弁当をたべるのは、わたしにとってはすごくしあわせなことなんです。だから邪魔しないでください」


「……おまえさあ、なんかオレにトゲがないか?」


「食べながら喋らないでください」


「ほら、そーゆうところがさ」


「食べながら喋らないでください」


「わかったわぁった」


 先輩は燻製肉のバケットサンドをしばらくは無言で食べながら、水と共に纏めて嚥下した。


「これでいいか?」


 別に、そんなに急いで食べることはないと思うんだけど。

 わたしはまだ食事中なので、とりあえず頷いた。

 先輩はそれからは、特に何かを言うわけでもなければ、ただわたしがお弁当を食べ終わるのを眺めて待っていた。

 黙々と食べ進めて、残りはライスボールと小粒トマトとアスパラガス、ホウレンソウの野菜だけ。

 加工したトマトケチャップはあんなに美味しいのに、そのままのトマトはなんでこんなへんな味なんだろうか。

 ひと口サイズで飴玉感覚で口に運んで、最初の食感は大玉のブドウのようにプチっとはじけてから、鼻に抜ける青臭ささ、ほんの微かな甘酸っぱさ、噛んだ歯に張り付く皮、そしてなにより筆舌に尽くし難いグヂュグヂュとしたゼリー状の何か。

 この調子でひとつひとつ嫌いな野菜の感想文を考えるのはちょっとした拷問だ。

 アスパラガスとホウレンソウの塩茹でも口の中に放り込む。しょっぱさと苦味とエグみが追加されて泣きそうになる。

 野菜おいしくない。

 このまま咀嚼し続けていたら気持ち悪くなりそうだから、早めに飲み込んでしまおう。

 ごくん、と喉が鳴る。

 野菜はいつも食べるというか、ほとんど飲み込んでいる。

 鼻をつまめば青臭さは和らぐけれど、しばらくは涙目になりながら後味が消えるのを待つことにする。

 そうしないと、最後に控えた好物をおいしくいただけない。

 水筒中身のお茶は、ほんのり渋くて苦味があるけど口の中をさっぱりさせてくれる。

 これで、あとは、旨味の詰まった甘じょっぱいテリヤキソースとジューシーな肉団子の詰まったライスボールが待ってる。

 じっくり、ゆっくり味わって、幸せな気分のままお弁当を完食しよう。

 フォークを突き刺し、まずはひと口目を食べようとした時、なんだか間の抜けた笛のような場違いな音が聞こえる。

 イヤな予感に毛皮がざわつく。本能的に感じる。

 ここにいてはいけないと、警鐘がなる。


「あぶねえっ」


 無意識の衝撃。

 釣り針に引っかかったかのように、がくんと強く腕を引っ張られた。

 一瞬の浮遊感。

 先輩の声と、銀色の一閃。

 わたしの右腕に一筋の線が走ったかのような痛みはほとんど同時だった。


「チビぃ!」


 地面に打ちつけられるように尻餅を付いたあと、二度三度と地面をひっくり返った土まみれになってしまったお父さんの作ってくれたお弁当に手が伸びる。

 なんだか埃っぽくて、鉄くさい。

 腕が、痛い。苦しい、息ができない。

 何が起こったのか、あまりに突然で。

 わたしの腕が鋭いなにかで切り裂かれたような怪我をしたこと。先輩が剣を抜いたこと。ひとつひとつの理解が一足遅れに追いついて、すべてが終わったあと。

 先輩が放心状態だったわたしの手当てをしてくれていた。


「傷は深くはないが、感染症になるとまずいからな。とりあえず、応急処置はしたから医務室に行こう」


 さっきのは、あれは鳥の魔物だろうか。

 両翼を広げたらわたしや先輩よりも大きいかもしれない。

 でも、片翼は既に先輩が斬り飛ばして、公園の片隅に転がっている。空から突っ込んできた勢いのまま斬られた残りの部分は、制御を失って自ら木に叩きつけられてもう虫の息だった。

 わたしの手当ての後に、先輩は剣を抜いたまま魔物に近付くと静かに首を落として息の根を止めた。


「ったく、ふざけんな」


 先輩が剣に付着した血を払い、拭うと剣を収める。

 わたしは抱えられ、郵便局への道を急ぐ先輩に揺られながら、腕の痛みで、ずっと思考がうまく纏まらなかった。

 気がついた時には、わたしは医務室で治療を受けた後だった。

 点滴のスタンドからゆっくりと体の中に浸透してゆく薬液を眺めながら、呆然としていた。

 普段から郵便局に駐在しているドクターからもらった飴玉はあんまり味がしなかった。

 あんまりおいしいとは思えなかった。

 前にも同じものをもらった時は、いつもの無表情もほころんだし、尻尾もゆらゆら揺れていて、誰から見てもわたしが喜んでいたのは明白だった。

 だけど、今は。

 どうにもそんな感じにはなれそうもなかった。


「魔物が街の中まで入って来るなんて、観測所の連中は仕事してんのかよ」


「人為的過誤や失敗は仕方のないことだ、観測所を責めても仕方がないだろう。それに、今回は幸運だったよ。クロード君がいなかったら、リリ君の怪我ももっと酷かったかもしれない。ともあれ、最悪の事態にはならなかった」


「そんなの、結果論だろうが!」


 先輩はわたしの顔を見て、なんだかとてもつらそうな顔をしていた。

 爪が食い込んで血が滲み出るほどに握られた拳から、ぽたぽたと血が溢れている。


「チビは、女の子なんだ。そりゃあ、医者のあんたから見たら別にたいしたことのない。ありふれた怪我のひとつかもしれねえけど、こいつは、リリは、女の子なんだぞ!」


「どんな怪我であれ、ありふれた怪我だと看過したことはないよ。大丈夫、クロード君の処置が適切だったから傷痕は残らないよ。まったくね。でも、今度はキミの怪我を手当てしないといけないね」


「オレのはいいんだよ別に」

 

 わたしはまだ少し混乱していて状況がよくわかっていない。

 右腕の傷口を縫ってもらったり、この未成熟な子供の体には強すぎる薬のせいで、すこしだけ体の感覚が麻痺したような感じがしていて、なんだか自分の腕が自分のものじゃないような気がして、きもちわるい。

 右腕は動かせない。

 先輩に左手を伸ばして、おそるおそる触れようとする。

 だけど怖くて体に力が入らない。


「大きな声でびっくりさせてしてしまったかな。大丈夫だよ。リリ君もクロード君も悪いことは何もしてない。ケンカもしていないし、誰も怒ったりしていないから、ちょっと横になっててね。喉に詰まると危ないから飴玉はペッと出しちゃおうね。欲しかったらまたあげるから」


「脅かせちまったよな。オレが痛いわけでもないのに、勝手に、わめいて、叫んだりしてよ」


 わたしは、わたしが先輩に怯えていることにようやく気がついた。


「ちょっと頭冷やして来る」


 ドクターがわたしをベッドに横たわらせているときには、先輩の姿はもう見えなかった。

 そのことに安心している自分がいた。

 そう思ったら自己嫌悪がした。

 わたしは、お節介焼きのクロード先輩が嫌いなわけじゃない。言葉足らずのわたしを助けてくれるのは、いつもクロード先輩だ。周囲に馴染めず尻込みしているわたしの背中を押してくれたのは、いつだってクロード先輩だった。


 なのに、これでは。こんなの。

 そんなつもりは、なかった。そうじゃないのに。

 悔しい気持ちが、喉の奥に詰まったまま言葉にできない。

 最悪の事態ではなかったのだとドクターは言葉を濁していたけれど、先輩がいなければわたしはこの程度の怪我では済まされなかった。

 実戦で動けなければまるで意味がない。

 射撃訓練の成績がちょっと良かろうが無意味だ。

 実戦では、誰も待ってはくれない。

 わたしは、奇襲に気が付かなかった。

 理解が及ばなかった。

 あの一瞬、自分の血なのか、魔物の血なのかわからなかった。ただ先輩は剣を抜いていて、もしかして、わたしは先輩に斬られてしまったのではないか、と勘違いした。

 静かで冷たくて鋭い刃物の切っ先のような気配にそのまま刈り取られるような気がした。

 あれを殺意と呼ぶのだろうか。

 わたしは無知で鈍感で、それが自分に向けられたものだと錯覚してしまった。いつもわたしを助けてくれる先輩が、わたしを傷付けるはずがないことをわたしが一番知っているはずなのに。

 先輩が怒りを露わにしたのは怪我をしたわたしの為なんだろうか。特に、女の子に怪我をさせてしまったということに酷く動揺しているみたいだった。

 色々と考えてみたけれど、こんなにぼやけた頭じゃあ、よくわからなかった。


「彼は彼なりに思うところがあったんだろうね」


「……わたしには、わたしにはわからないです」


「守秘義務ってやつでね、彼のことはあまり詳しく言えないんだけど。世間一般的に、親心としては特に娘には痕に残る怪我はして欲しくないものなんだ。クロード君にしてみれば、リリ君は大切な妹分だったんだと思うよ。傷付けられたら、憤慨もするだろうさ」


「わたしのせいですよね」


「違うよ。リリ君の為に怒っているんだ」


「わたしのために?」


 わからない。


「どうにも腑に落ちないって様子だね。それじゃあ。リリ君のお父さんが、怪我をしたキミを見たらどう思うかわかるかな?」


「たぶん、心配する?」


「どういう風に?」


「どんなって、言われても。お父さんは、いつもそばにいて気にかけてくれて、わたしにはそれがあたりまえで」


「リリ君のお父さんは、それが最善だと知っているんだろう。だけど、クロード君は正解を知らないからさ、ああやって感情を吐き出すのは彼なりの最善なんだろうね」


 ドクターは、医療の経過記録などが綴られた小冊子を数冊取り出しては筆を走らせて元の棚に収めていた。

 

「彼に悪気があるわけじゃないんだ。でも、お互いに誤解は拗れる前に解いておいた方がいいからね。クロード君、呼んでくるよ」


 そう言って、気怠そうに部屋を後にしようとするドクターの後ろ姿に強い後悔と焦燥感を感じて、ベッドから起きあがろうとしたわたしは点滴のスタンドを掴もうとして転倒した。

 右側にあるものを、左手で握ろうとしてバランスを崩してしまった。


「ああ、どうしたいのさキミは」


 わたしだって、何がしたいのかよくわからなかった。

 でも、このままドクターが行ってしまったら、先輩がどこか遠くに行ってしまうような気がして、嫌だった。

 怪我をしたわたしを見て、あんなにつらそうな顔をしている先輩は嫌だった。

 自分でも何がどうしたいとかもよくわからない。


「キミが感情的になって自分でも何がしたいのかよくわかってないのはわかった。でも、また転んだりしたら危ないからね。一緒に行こう。それでいいね?」


 それからわたしはドクターに先輩のところまで連れて行ってもらって、何かを喋るわけでもなく。ただ先輩に抱きついたまま離れなかった。

 しばらくして、安心したからか、まぶたがだんだんと重たくなって、眠ってしまった。




 嗅ぎ慣れたコーヒーの香りに目を覚ますと、まるで昨日のことなど何もかもがなかったかのような、穏やかないつもの朝を迎えていた。

 ただ、腕を固定するギプスや縫われた傷口に沿うような疼きとも痒みともとれる感覚は少しだけ不快だった。

 思い返せばあっという間の出来事で、薬の抜けた頭で冷静になって考えてみても、先輩の判断は迅速で、素人目にもドクターがしてくれた怪我の処置も適切なものだったのだと思う。

 多少の違和感こそあるものの、もうほとんど痛くはないし、腫れぼったい感じもなければ熱が出ているような感じもない。

 ただ、倦怠感で体が重たい。

 上体を起こすことすらうまくいかない。

 普段から当たり前のように使っていた利き手が使えないことがこんなにも不便だなんて思いもしなかった。

 やっとのことで起き上がると、自宅として使用している喫茶店のバックヤード。

 キッチンに立つお父さんの後ろ姿を確認して、胸を撫で下ろす。

 わたしが目を覚ましたことに気がついたお父さんは、肩越しにこちらを見ると微笑んでいた。


「おはよう、リリさん」


「おはよう、お父さん」


 ありふれた日常の挨拶が、ようやくわたしを現実に連れ戻してくれたような気がする。

 できることなら不安な気持ちを和らげるのに、お父さんに抱きしめて欲しかったけど、なんだかそうしてもらうのもちょっとだけ気が引けた。


「あっ……お弁当、ダメにしちゃった」


「お弁当くらい、いくらでも作り直せばいいさ」


 お父さんは、トレーに乗せてスープリゾットを運んできてくれた。

 オートミールとも違う、いわゆるおかゆというものだ。わたしにとって普段から馴染みのあるお米は、そこまで一般的な主食ではない。

 かと言って珍しいものではなく、市場に行けば普通に買えるけれど好き好んで食べる者は少ない。

 なにより、口が前方に突出しているマズルのある獣人にとって咀嚼はしにくい。

 人体の構造上、よく噛んで食べるより、細かく噛みちぎって飲み込むように食べる方が理に適っているそうだけど、慣れれば問題はない。

 お父さんがわたしにおかゆを作るのは、あまりわたしの体調が良くない時だけだ。

 正直なところ、わたしはこの料理があまり好きではない。

 薄味で、糊を引き伸ばしたような見た目もそうだけど、食べていて終わりが見えないからだ。

 別のがいい、と視線だけで訴えかけるも呆れた様子で返事をされる。


「そんな顔しないでよ、昨日から食べてないんだから胃にいきなり刺激を与えたら体によくないんだ。だから、とりあえず今日の朝だけはコレで我慢しようね」


「……はい」


 利き手とは反対側の慣れない手でスプーンを黙々と口に運ぶことを繰り返して、完食する頃には食べ物を食べた満腹感というより飲み物を飲みすぎてお腹が膨れたような感じがする。


「ごちそうさま」


「調子がよかったらお昼はハンバーグにでもしようか」


「ハンバーグ……!」


「リリさんはお肉大好きだね」


「……はい!」


 お父さん特製のハンバーグステーキは、お店でも看板メニューのひとつに数えられるくらいの人気料理だ。

 赤身の粗挽き肉にペースト状の香辛料を揉み込んでいて、肉の臭みがなくて本来のおいしさを損ねる事なく独特な香りが食欲をそそる。

 同じハンバーグを使った、パンで挟んだハンバーガーというものも看板メニューだけど、わたしは白米と一緒に食べるほうが好きだ。

 お父さんがどちらかと言うと、お米を食べる文化圏育ちだったそうなのでわたしも自然とそうなっていた。

 昼食に思い馳せる中、ふとした拍子に時計を見ると仕事の始業時間をとっくに過ぎていて現実に引き戻されたような気がした。あれ、そう言えば朝なのにこんなに悠長にしていて良かったんだっけ。焦燥感に顔が青ざめていく気がした。

 遅刻、勤務態度、研修中。

 色々な単語が脳裏に浮かび、最終的に『クビ』の二文字が思い浮かんだ。


「仕事行かないと、遅刻です」


「リリさんはしばらくお休みだよ」


 慌てて支度をしようとしていたわたしの肩を押さえて、お父さんはゆっくりと理由を言い聞かせる。


「お医者さんの診断では、まずはギプスが取れるまでは安静にしてくださいってさ。それから、少なくとも一週間はちゃんとお薬を飲んで休養するように言われているよ」


「でも」


「休むのも仕事のうち、リリさんは元気な姿をみんなに見せるのがまず一番大切な仕事だよ」


「だけど、わたしは先輩にきちんと謝らないといけないんです。先輩が助けてくれたのに、まるで悪者扱いして、嫌な思いをさせてしまったから」


「リリさんは、その先輩にすぐにでも謝りたいんだね」


 お父さんの言う通りなんだけど、いざ謝るとなるといったいどんな言葉を選べば最良の選択になるのかわからない。

 結局は、直前で尻込みをしてしまう。

 そんなわたしの目を見てお父さんは、はにかむ。

 そして少しだけ困ったような表情をすると、踵を返してテーブルに置かれた紙片を取って来るとわたしに差し出した。

 メモ帳からページを一枚千切ったかのような手紙には、古くから爪文字と呼ばれている一般的な公用文字、とある学問での別名ではカタカナとも称されている。

 いずれも文字に起こせば爪で引っ掻いたようなカクカクしているのが特徴的である。

 この爪文字は古くは象形文字の一種で、簡略化された五十音の形態で現在まで続いている。

 手紙が先輩の書いた文字だとわかると、不思議なもので先輩の声が、まるですぐ近くで語りかけているように感じられる。

 要約すれば、先輩の手紙にはお父さんにわたしのことを守れなかったことに対しての謝罪、昨日のあやふやな記憶の中のわたしには、不甲斐ない先輩だけど怪我が治ったらまた会おうな、って約束した覚えがある。

 あまり文通には慣れていないなりに、頑張って書いた不器用な先輩らしさが伝わってきて、この場にはいないはずなのにいつもみたいに、わたしをチビと呼んで頭を撫でてくれたような気がした。


「クロードさんは、昨日お医者さんと一緒にリリさんを連れ帰って来てくれたんだけど、リリさんに傷を負わせて怖い思いをさせてしまったと酷く気に病んでしまっていてね。でも、彼がいなかったらリリさんは怪我じゃ済まなかったかもしれないよね。結局は私が許す許さないの問題ではなく、こればっかりはリリさんと彼の問題だからさ。ちゃんと休んで元気な姿を見せてあげようね」


「……はい」


 こんな自分のことすら満足にできないのに、仕事ができるはずもない。

 周りの人には普段以上に気を遣わせてしまうだろうし、足手まといだ。

 見習いの仕事でも、配達の仕事はなによりも信用が第一だ。

 それに、怪我が治った元気な姿を先輩に見せないと、いつもみたいにチビって呼んで頭を撫でてもらえないだろうか。わたしは、あの毎日が嫌いではなかった。


 

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