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【序章】赤き竜の異邦人 Ⅱ



 おれたちが住んでいるアパルトマンは、地上五階で地下二階からなる建造物だ。地上一階部分に喫茶店のヤドリギあり、それより上の階層は居住区画になっている。増築された地下にはボイラー室と専用の大浴場がある。地下二階には修練場がある以外は至って普通のアパルトマンだ。

 いや、地下に大浴場がある時点でもう普通ではないし、修練場ってものがあるのもだいぶおかしい。

 なんならその修練場とやらからから何処に繋がっているかもわからない地下道が走っているみたいだ。

 おれが此処に来るまでに通った道は、薄暗い地下道だった。シーナ様に手を引かれるがまま、はじめてヤドリギにやってきた時はまだ、この世界で目覚めたばかりで言葉もあまり理解できないまま不安な毎日を過ごしてきた。

 シーナ様に保護される前のおれが覚えていたことはただ一つだけ、自分を強く持たないといけないということ。

 その結果、何を判断してそうなったのかはよくわからないが、自分のことを「おれ」と呼ぶようになった。あまりよく覚えていないけど、少なくとも自分のことを「おれ」というヤツのことが怖くて、そいつは強かったんだと思う。

 だから、そいつの口調だけでも真似をして、克服したつもりになっていた。それが男の使う口調だとは知らなかった。

 今を思えば忘れたいほどに忌避すべき嫌なことなんだけど、かと言って今更女ぶるのも性に合わないというか、記憶の中のあいつの影から逃げ隠れるみたいで気に食わない。

 トラウマから、今の粗野な人格形成に至った経緯には釈然としないけど、それを含めておれなんだと思えるようになった。

 過去を乗り越えたわけじゃないけど、過去を乗り越えるためには心の中の恐怖に向き合わないといけない。

 なんて、これは全部リオからの受け売りなんだけど。

 たぶん、シーナ様にもたくさん迷惑をかけた。

 とにかく、よく噛み付いたり引っ掻いたり「野良猫のようなヤツ」だと言われていた。それでも、シーナ様はおれを見捨てなかった。部屋の隅で丸まって寝てるおれが夜泣きをしていれば、一緒に床に寝てくれたし、心細い時や不安な時はずっと側にいてくれた。だから、おれもシーナ様には次第に心を許していった。だけど、シーナ様はとても偉い人で、一緒にいるとおれまで危険な目に遭わせてしまうからと、ヤドリギに、リリたちの元に預けられた。

 当初は、シーナ様に愛想を尽かされて捨てられたものだとばかり思っていたのだが、シーナ様は忙しい仕事の合間を縫って必ずおれに会いに来てくれた。「愛しい我が子を捨てるようなことはせんぞ」と、何度も言い聞かせられて、おれはようやくヤドリギでの生活を受け入れることができた。

 思えば、リリたちにも、たくさん迷惑をかけたかもしれない。いや、現在進行形で迷惑ばかりかけている。

 でも、リリが言うには「子供は大人に迷惑をかけて育つもので、大人は子供に迷惑をかけられて育つもので、その迷惑ってものの本質は愛情」なんだそうだ。

 おれには、よくわからないけど、リリは「きっと、いつかわかる日が来るから」と、優しく微笑んでくれた。

 おれがヤドリギではじめて食べた料理はハンバーガーだったな。たしか、シーナ様が「食いでがあって、食器を使わずとも食えるもの」と注文して、おれは中身の肉だけ食べて呆れられた。「それではハンバーグとあまり変わらぬではないか」と。恨めしそうに、肉のないハンバーガーを食べるシーナ様の顔は今でも忘れられない。その時は、二つの違いが理解できなかったが、今を思えばなんて勿体無いことをしたのか、昔の自分の間抜けさが恥ずかしくなる。ハンバーグが好きになった理由にこの話をリリにしたら笑われるだろうか。


「なんか、思い出せば思い出すほど、おれって昔からバカだったんだな……」


「どうしたんスか、急に」


 快晴の屋上で、大量の洗濯物を干している間の退屈な時間。ベンチに腰かけて昼食のハンバーガーを一口食べて、その断面を見つめながら思わず呟いてしまう。リオは好物のカツサンドを頬張りながら怪訝な顔をする。いや、ほんとリリと見た目だけは瓜二つなだけで、リリならこんな間の抜けた表情はしないだろうなって思う。


「……いや、リオに話してもなーって思って」


「どういう意味っスか……」


「リリとリオは見た目は同じだけど違うって話」


「どうにも他意が感じられるんスけど」


 リオは、おれと同じくらいバカそうなのに、実際にはたぶん誰よりも頭がいいんだろうなって思うことがある。

 正直、リリよりも勉強の教え方は丁寧でわかりやすいことがある。例えば、リリの場合は計算問題とかを見るだけで答えだけしか教えてくれないけど、リオはどうしてそうなるのか過程も含めて時間をかけて教えてくれる。

 でも、リリは文字の読み方とか成り立ちとか意味、言葉の発音などは詳しく教えてくれるの対してリオは文字が読めることを前提に話を進める。

 数字ならリオ、文字ならリリに習ったほうがいい。だから、一概にどちらが頭がいいのかはわからないけど、何故かリオのほうが賢いと思ってしまう。なんでだろう。

 ソースで口の周りを汚しながら、ベンチに座ったまま宙ぶらりんの両足の交互に揺らしているリオが、だ。


「口のまわりソースまみれだけど」


「まあ、リリさんのお口はちっちゃいから大きいものにかぶり付いたら自然とそうなっちゃうものなんスよ」


「リオの話してんだけど」


「え、なんでぼくの話?」


「口のまわり汚れてるのはリオだろ、なんでリリがでてくるんだよ」


「え、ああ、そりゃあ、双子なんだし、ぼくがそうならリリさんもそうだろうなぁって」


 なんか、リオは自分の話となるとイマイチ話が噛み合わないんだよな。まるで他人事みたいだ。


「いや、リリはもっと上品に食べるに決まってる」


「ああ見えてリリさんって結構不器用なんだ。ハンバーガーとか食べるとソースで手をべとべとにして、それを舐めてお父さんに叱られたり、シュークリームを上手に食べられないとか……」


「じゃあ、リオも同じなんだな」


「……ぼくには、そういうのはないかな」


 リオは自分の手を見つめながら、どことなく悲しそうにそう言った。確かに口元とは違って手は綺麗だが。


「なに見栄張ってんだよ」


「別に見栄ってわけじゃなくて、ぼくは、愛されることに慣れてないんだと思う。お父さんは、ぼくにも愛情を注いでくれるけど、なんだろう、愛されていいのかなって」


「なんかリオは、リオだな。見た目はそっくりだけど、全然違うよな。だけどおまえのこと、おれは好きだぞ」


「ど、どど、どういう意味っスかそれぇ……」


「リリはさ、なんか上手く言えないんだけど、心がさ、ここではないどこかにある気がするんだ。もしかして、触れたら消えてしまうんじゃないかって、不安になるけど、いつもリオがそれを繋ぎ止めてくれるから安心していられる」


 気の利いた言葉なんてわからないし、なんだか悩んでるリオをどうやって励ましてみたらいいのかもわからないけど、リリがいてリオがいる。リオがいてリリがいる。

 双子ってのはどちらかが欠けてもいけない、そういうものだと思う。

 別に双子に限らず、兄弟姉妹や親子もどんなにいがみ合っていても繋がりを大切にするべきだとおれは思う。たとえ、血の繋がりがなくても。なんて、この世界に自我を持って生まれてたかだか数年のおれが思うのは生意気だろうか。

 いや、これはおれの願望だ。シーナ様や、リリとリオ、ヤドリギのみんなとずっと一緒にいられたらいいなって。


「おれは、みんな大好きだよ。愛してる」


「エリシャはなんか、こう、よくそんな歯の浮くようなセリフを軽々しく言えるっスね……、ぞわぞわするっス!」


「……は、はあ?!」


「でもそういうとこも可愛らしいっスよね」


「ど、どういう意味だよ」


「粗野な口調はともかく、女の子らしくて可愛いってことっス。よしよし」


「撫でんなよぉ」


 紅色の体色、腹のあたりから尻尾の腹の半ばまでが乳白色なおれの体。

 緋色の髪をウルフカットとやらに整えられ、額の両端からは一対の白いツノが生えている。

 瞳の色はよく磨かれた真鍮のような色をしているらしい。

 身長はリリたちよりも頭が一つか、それより少し高い。だいたい一五◯センチくらい。

 竜の体重は、空を飛ぶ為なのかだいたいはかなり軽いらしい。

 それなりに身長差があるリリたちから撫でられるときは、おれが立っているときなんかはいつも精一杯に背伸びをする二人の姿がなんだか可愛らしいなって思うんだけど、二人からは同じような感情を向けられているのがなんだか恥ずかしい。

 特に二人からは生意気な妹だったり、反抗期の娘のように扱われている。身の振り方には気をつけたいのだが、時すでに遅し、というヤツなのだろうな。

 とにかく二人は教育係を兼ねた姉妹、あるいは親子と呼べるような複雑な関係だ。リリが家にいることは少なく、主におれの面倒を見てくれるのはリオで、必然的に一緒に過ごすのか多くなる。どちらが好きとかは偏ってはいないんだけど、どちらかと言えばおれはリオに相談することのほうが多い。リリが忙しいってのもあるけど、リオは竜の体の仕組みに詳しいから助かっている。だから、相談事をするのもリオにする方が多いかもしれない。


「なあ、リオ『ワンダラー・テイルズ』の初版本っていくらくらいするんだ?」


「なんだかいきなりッスね」


「大切な事なんだ、教えてくれ」


「うーん、あの手の初版本は、マニアは読みもしないのに妙なプレミアが付くんスよね。相場は五百万アンバーくらいっすかねぇ。でも、実は検閲されていない図書でも二千アンバーもあれば新品が買えるっスよ。そんな事しなくても、リリさんなら最新刊まで『ワンテ』の初版本持ってると思うっス、しかも全巻直筆サイン付きだからかなりのガチ勢っスよね」


「……実は、言いにくいんだけど。その、リリに本を貸してもらったんだけど、読んでる最中に寝落ちしちまって、初版本によだれかけちまったんだ」


「なるほどねぇ、だから素直にアルバイトなんて始めちゃったりしたわけっスか。健気っスね」


 なにがおかしいのかわからないけど、リオの奴は腹を抱えて爆笑している。ちょっとムカついたけど、その通りなのでなにも言い返せないし、暴力を振るおうものなら助けてもらえないだろう。


「だいたい、そんな本の汚れくらいじゃリリさんは怒らないっスよ。それに、その程度なら簡単に落とせるから心配しなくていいっス。ただ、リリさんにはちゃんと謝ること、お店が忙しい時はお手伝いをすることを条件に呑んでくれるなら助けてあげるっスよ?」


「わかった、リリにはちゃんと謝るし、ヤドリギで手伝いもするよ」


「うんうん、やっぱりエリシャはいい子っスね」


 昼食の後、リオは約束通り本のシミ抜きをしてくれた。あまり自分の部屋に人を入れたくなかったけれど、そうも言ってられなかった。条件には「自分の部屋くらい自分で掃除すること」とひとつ追加されてしまった。それでも、リオは手際よく本の汚れをなかったことにしてくれた。

 はじめてリオの部屋に入れてもらったんだけど、なんというか、リオもちゃんとした女の子なんだなって思った。

 可愛らしい小物が陳列されていたり、ぬいぐるみや人形がたくさんあった。口にはしなかったけど、いい匂いがした。何に使うのかわからない薬品や専門的な難しい本たくさんある本棚がある以外は、ある意味イメージ通りの可愛らしい部屋だった。

 それに比べておれの部屋は、服は脱いだら脱ぎっぱなしだし、散らかり放題。いわゆる、女子力とやらでは完全に負けていた。別に負けていてもいいんだけどさ。

 ちなみにリリの部屋にも入ったことがあるけど、作業台の上には拳銃だとか置いてあったり、銃火器やナイフが壁に飾られているなんだかミリタリーテイストな部屋なのに、遠慮がちに置かれたリリとリオを模した双子人形があったり、デフォルメされた白い竜の大きな抱き枕があったりする。物騒なものが置いてあることを除けば、少女的で可愛らしい不思議な部屋だった。やっぱり、何か趣味の一つでも見つければ変わるものだろうか。

 それにしても、なんで二人ともダブルベットだったんだろう。一緒に寝るとは聞いていたけど、やっぱり双子だから?

 流石にプライバシーの侵害だろうと思ったので聞かなかったけど、二人とも本当に仲がいいんだろうな。



 喫茶店ヤドリギ。

 元々は、終点街のはずれにあった知る人ぞ知る名店だったらしいが。終点街の陥落の後、活動拠点を中心街に移してからも、地域に根差した在り方は変わらず、連日連夜人が途切れることなく訪れる有名店になったそうだ。

 中心街の目抜通りのはずれに位置する住宅街寄りの立地にも関わらず、外国から来たとしてもそれでも足を運ぶ価値は十分にあるとの評判らしい。

 確かにヤドリギの食事は何を食べてもうまい。

 他の店がどうなのかわからないが、どんなに多忙でも食事には妥協しないシーナ様も仕事の合間を見つけてはわざわざ訪れるくらいなのだから相当なのだろう。客層にもこれと言った統一感もないのだが、強いていうなら家族連れが多いようだ。あとは、終点街時代からのいわゆる常連さんは一日に最低でも一回以上は来るらしい。

 店長の経営手腕もさることながら、昔は観測所と呼ばれていた防壁の向こうで戦っていたような命知らず、今なお、旧市街奪還の為に命を賭けているような血の気の多い常連さんの前でこの店に因縁を付けようものなら、少しでも頭が回る人ならどうなるか容易に想像できるだろう。

 どちらかといえば、余計な波風を立てないようにする仲裁役の店長の心労は計り知れないそうだ。

 こういう温和な人が怒るとかなり怖いとは聞くし、おれも怒らせないようにしないとな。

 皿洗いの合間に、店長の姿を見ているとリリと同じように簡単そうに料理を仕上げているけれど、複数の注文を一人で捌き切っているだなんて脳と手がいくつあっても足りないと思う。しかも世間話をしながらだ。間違えたりしないのだろうか。

 リオだってなんだか小難しい話をしながら、配膳と下膳を繰り返している。リオがこちらに洗い物を持ってくる時には「慣れたっスか?」とか「疲れたらちゃんと言うっスよ」など、気にかける余裕があるみたいだ。

 おれなんてただ皿を洗ってるだけで精一杯だ。これを毎日続けているなんて、労働って、金を稼ぐのも楽じゃないんだな。

 あと、どれだけ食事が美味かろうと、付け合わせのちょっとした野菜だったり料理だったり、好き嫌いで廃棄されるのはなんとなく勿体無いというか、虚しくなる。かと言って再利用して他の客の料理に使うだなんてもってのほかだ。

 食べ残しは生ゴミとして割り切って捨てるしかない。

 どんなにヤドリギの食事が美味しくても、食べ残しは出るものだから仕方がないとは思うんだけど、悔しい。

 だけど、おれも苦手な食べ物を残してしまうことがあるから、咎める資格はないんだろうけど。


「美味いのにな、料理」


 呟いていることに気がついた時、料理長から視線を向けられていることに気が付いた。


「その気持ちだけで有り難い、とはいえ由々しき問題ではあるのだがな。ビヴロストの連中は皆が飽食暖衣とは言うがこの国にも貧富の差は確かにある。だから、店長も利益度外視で経済的弱者にも腹一杯食わせる心づもりでいるが、貧しい者ほど食を大切にするが、富める者ほど食にいい加減だ。全てがそうではないが、そういう傾向がな。まあ、そんなことは言い訳か。料理人ならつまらん理屈などねじ伏せて味で勝負して料理を残さずに食ってもらうまでだ」


「……ごめん」


「何故謝る」


「いや、その、おれ好き嫌い多いからさ」


「おまえは、店長の料理、リリの料理は好きか?」


「えっ、ああ、好きだけど……」


「なら、それでいい。その気持ちを大切にしてくれればいい」


 おれは、料理長のことをよく知らないけど、この人も料理のことが好きなんだと思う。なんなら、店長よりもリリよりも。一見冷静に見えて、料理にかける情熱とやらは誰よりも熱いものを持っているように見える。素人目にも調理道具を大切に扱っているのはわかるし、食材の下拵えだって物凄く丁寧だ。考えすぎかもしれないけど敬意を持って接していると言っても過言ではないかもしれない。

 料理長の包丁さばきも息を呑むほど美しいとさえ感じる。


「恥ずかしいからあまり見ないでくれないか?」


「え、あっ、ゴメンナサイッ!」


「ふふっ、冗談だ」


 もしかして、おれはからかわれてるのか。

 料理長って、意外とそういうキャラなのか。てっきり融通の効かない頑固な職人気質の料理人かと思っていたんだけど、意外とユーモアのある人なのかもしれない。


「ん、エリシャってば顔真っ赤にしてどうしたんスか?」


「な、なんでもない……ってか、おれの顔が赤いかどうかなんてわかんないだろ元から赤いんだから」


「いやいや、元の肌が赤かろうと顔が紅潮してるかどうかくらいはすぐわかるっスよ。むしろわかりやすいっス」


 リオは、おれと料理長の顔を交互に見たあとに「なるほど」と掌の上に握り拳を落として閃いたようなジェスチャーをする。


「人妻に手を出すのはどうかと思うっス」


「なにをどうしたらそうなるんだよ」


「そうだ、あまり母をからかうものではないぞリオ。父と母はらぶらぶであるからしてな、不貞などするわけがないだろう」


「あの、みんな聞こえてるんですけどね。私、ちょっと恥ずかしいんですけど」


「ふむ、しかし夫婦仲が円満であることはアピールしておくに越した事はない。ただでさえおまえには変な虫が付きやすいのだから、客に見せつけるように接吻のひとつはしておくべきだろうな。らぶらぶであるからしてな」


「ちょ、ちょっとココノさん、ココノさんったら?!」


 有言実行とでも言いたげに、料理長は静止を促す店長に詰め寄ると腰に手を回し、口を口で塞いだ。

 見てはいけないとは思いながらも視界を手で覆ったが、指の隙間からつい覗き見てしまった。

 えっ、そんなに長く続けるのか、大人って、大人って凄いんだな。見ているこっちが恥ずかしくなってくる。リオの方をちらっと見てみると、おれと全く同じような初々しい反応をしていた。いや、おい、焚き付けておいておまえもそんな反応なのかよ。


「安心しろ、客に健全な青少年がいないことは確認済みだ。私は仕事に戻るぞ」


「ひゃ、ひゃい……っ」


 腰を抜かした店長はスツールに座りながら顔を覆い隠していた。毛並みが白いこともあり耳まで真っ赤なのがはっきりわかる。料理長は何事もなかったかのように仕事に戻った。

 一部始終を見ていた客からは「お熱いねぇ、お二人さん」やら「いいぞ、いいぞ」など野太い声援の他にも「ほら、やっぱり店長受けのココさん攻めだったのよ」「いや、ベッドの上では逆かもしれないわ」と妙に早口で熱弁するよくわからない女性グループもいた。特に後者は気になっていたとしてもリオにだけは聞かない方がいいかもしれないと直感が告げていた。なんか、色々な人がいるんだなって思った。世の中には。


「つうか、これ、たぶんおまえのけーそつな発言のせいだぞ、リオ」


「それでも、いいモン見れたっス」


「よくわからねえけど、両親のキスシーンを見た娘として舌舐めずりをするだなんてどういう情緒なんだ?」


「仲良きことは美しきかなって言うじゃないっスか、それに今のはあの二人だからオイシイんスよ」


「そうだ、らぶらぶだからな私たちは」


「なあ、もしかして料理長にそういうこと吹き込んだのってリオだろ」


「いや、リリさんっスよ。リリさんの中では仲良し家族は当たり前のようにキスをするものらしいっスから」


 いや、リリに限ってそんなバカみたいなこと言うはずがないだろ。


「疑ってるみたいっスけど、エリシャもよくみんなからキスされてるっスからね、ぼくだってしてるっスよ?」


「は、はあ、悪いが、全く記憶に無いんだが」


「……ふぅーん」


 なんだよその傷付いたみたい悲しそうな顔、リリとそっくりなだけあって殊更に罪悪感がする。


「まあ、ほっぺにちゅーするくらいだから、残念ながらエリシャが期待しているようなオトナの口付けではないっスけどねー。いやー、意外とむっつりさんっスねえ」


 ああもう、こいつはホントに、人が大人しくしてれば調子に乗りやがって!いっぺん、いっぺん泣かす!


「うがー!」


「まあ、落ち着け」と料理長に羽交締めにされ、リオはそのまま喫茶店のホールの方に呼び出されて逃げるようにこの場を後にした。なんで止めたのか、料理長を恨めしく思いながら見つめると「なんでもすぐに手が出るのはエリシャの悪い癖だ」とおれの方が叱られてしまった。でも、だって、と言い訳の言葉が込み上げてきたが、料理長の言うとおりだと思った。

「我慢を覚えろ」とも言われたが、それで「相手が隙を見せた時に、しっかり確実に一撃を入れるんだ」と、様子がおかしい助言をもらった。てっきりお淑やかにしろとか言われるとばかり思っていたけど、教えてもらったのは正しい暴力の振るい方だった。どうやらその方がスカっとするとのことだ。

 おれ、料理長のこういうところ結構好きかもしれない。

 一部始終を見ていたロマが、気まずそうに帰ってきたのだが。「それ、ココにも言えることだから、悪いことをしたらちゃんと謝らないといつ拳が飛んでくるかわからないからね」と、かなり実感の篭った忠告された。

 いや、ホントに普段怒らないような温和な人を怒らせたらいけないんだろうなと思った。そもそも、人を怒らせるなって話なんだけどさ。

 ……本のこと、ちゃんとリリに謝ろう。


 

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