【序章】赤き竜の異邦人 Ⅰ
もしも、生まれ変わったら。
もしも、今とは異なる人生を歩むことが出来たなら。
そんな『ここではないどこか』を夢想することは、愚かなことなのだろうか。
許されないことなのだろうか。
ままならない現実の前にしたら、誰しも一度くらいはそんな非日常に思いを馳せる経験くらいはあると思う。
そして、もしも、この思いが叶うのならば、自分はいったい、どんな存在になりたいのだろうか。
少なくとも、もう、こんな後悔を抱えたまま生きていたくはない。
願わくば、この想いを忘れられますように。
「んあ?」
惚けた声を上げながら起き上がると、散らかった机の上には一冊の本。よほどいい夢を見ていたのか、本にはよだれのシミが出来てしまっている。
これは、あの人はあまりいい顔をしないだろう。
どうやら読書の最中に寝てしまったようだ。
愛読書というほどのものではないけれど、文字を覚えるきっかけになった異邦人の物語。『ワンダラー・テイルズ』といえば、世界的に有名な児童文学のひとつだ。
内容は、過去の世界からこの世界にやって来た少年少女たちの愛と勇気の冒険譚とのことだが、必ずしもハッピーエンドで終わるわけではないのがこの物語を人気たらしめている要素のひとつらしい。
挿絵が多く、はじめは絵本のように飛ばし飛ばし絵を眺めていたものだが、文字を覚え、物語を読んでみると中々面白かったりする。
それなりの巻数があり、今なお続くベストセラーということもあるのだが、それらの肩書きを抜きにしても先の読めない展開は、思わず何度も読み返してしまう中毒性がある。
なんと言っても、主人公のいない物語をキャッチコピーにしているだけあって、所謂、ご都合主義もほとんどない。裏を返せば、登場人物が全員主人公とも取れるのだが、特別な力も何もないどこにでもいそうな等身大のキャラクターたちが、知恵や勇気を振り絞って問題に立ち向かっていく姿は痛快だ。
まあ、何事も思い通りにいかないってのも妙にリアリティがある。
唯一作中に登場する『妖精』という語り部が、不思議な力『魔法』を扱い、主人公たちを陰ながら支えている。この物語にも著者が妖精であるとも噂されている。妖精は別名、物語る生き物と呼ばれているだけあってこの世界において妖精が書いた物語はそれだけで品質を保証されているくらい面白い。
一種のブランド品のようなものだ。
妖精の書く物語はフィクションではないという点だ。作中の年表や、過去の出来事など、史実と同じ筋書きを辿っていることから。教科書として扱われていることも珍しくはない。
ただ一部、真実を知られては都合の悪いものは焚書されたり、物語を大きく改訂されている場合がある。
ちなみに、おれがよだれを垂らした本はそう言った検閲から逃れた貴重な初版本だ。
そう、貴重な初版本。
おれは、あの人に殺されるかもしれない。
喫茶店ヤドリギの副店長リリ・クルースニク。
妖精と呼ばれるほどに愛らしく、幼い外見に惑わされてはならない。彼女は六歳児程度の見た目かもしれないが、裏の顔は不死狩りの狩人。その名を知らない不死者はいないそうだ。
そう、妖精。
奇しくも、おれが読んでいた物語に出て来る妖精と同じように不可思議な魔法のような術を行使する。ただ、そんな可愛らしいものではない。好奇心から以前見せてもらったことがある。仕組みを理解したものであればなんでも召喚することが出来る能力だ。彼女が生み出すものは主に武器だ。不老不死を殺すための武器だ。その魔法の力で、彼女はかれこれ数十年以上戦い続けているらしい。
タバコは吸うし、酒は飲む。
見た目とのギャップが激しいけれど、れっきとした成人だ。
たぶん、面倒見は良いほうだと思う。
厄介な身の上でありこの世界の右も左もわからないおれは、記憶喪失同然の竜人の子供ということになっている。
シーナ様に連れて来られたそんなおれを何も聞かずに引き取って、面倒を見てくれている。
文字の読み書きや計算の仕方、生きていく為の知識を教えてくれたリリには感謝しなくちゃいけない。
現実に目を向ければリリの大切にしている初版本によだれのシミをつけてしまったことの方が今は大問題。
頭ごなしに叱られることはないだろうけど、罪悪感におれは殺されるかもしれない。
あの人は、おれが何かをやらかしたら、ただ哀しそうに笑うだけなんだ。
それが何よりも一番良心の呵責心に苛まれることになる。
心配事がひとつ増えて、変な夢を見たせいもあって今夜は、あまりよく眠れそうになかった。
自分の部屋として与えられたアパルトマンの一部屋を後にして、屋上への階段を上っていく。
屋上には、リリが趣味で育てている植物のプランターがあった。色鮮やかな花を咲かせていてまるで花畑の中にいるみたいだった。吸い込まれるように小綺麗なベンチに腰を下ろした。
ミズガルズ連邦の首都ビヴロストの中心街は、夜になっても喧騒が鳴り止まない。
それでも、夜空の星はとても綺麗に見えた。
ここが、あの人のお気に入りの場所、と言うのも頷ける。
夜風が気持ちいい。
花の香りが心地よい。
出来立ての料理のいいにおいがする。
きっと、まだあの人は一階の喫茶店でまだ働いているのだろう。腹、減ったな。
それは懐かしい料理のにおいだった。
だから、おれはなんとなく元の世界に戻って来れたような、郷愁に浸っていた。
ただ、気がつけばこんなところまで来てしまった。
もう帰れない遥か未来の世界まで来てしまった。
もう、病床で苦しむ母もいない。生意気だけど心根の優しかった妹もいない。おれだけが生き残ってしまった。
竜人に生まれ変わって目覚めたのはつい最近のことだった。
もしかしたら、全部夢なんじゃないかって幾度となく現実を否定するけど、過去を思えば思うほど頬を抓らずとも目頭が熱くなり鼻腔の奥がツンと痛むこの感覚だけで、いくら涙を流そうとも過去に戻れないことはわかっていた。
だけど、おれにとっての現実は、もう後悔も手が届かないところに行ってしまった。それが余計に苦しかった。
「エリシャ、ここにいたんだね」
扉の蝶番が軋む音に遅れて、おれの名前を呼ぶのは舌ったらずな幼い少女の優しい声だった。
ゆっくりとやってきて、隣に座ると料理を乗せた銀のトレーをおれとの間に置いた。
自分がこんな人間からかけ離れた姿になっても、それが懐かしい家庭料理の代表であるカレーライスであることは理解できた。こんな、おれの面影ひとつない竜人の体になっても。
「夕飯遅くなってごめんね、わたしたちと違ってエリシャはお腹が空くのに」
「リリ、おれ……」
「いいから食べて、涙を拭いてからでいいよ、ゆっくりでいいから」
「あれ、おれ泣いてた?」
リリは苦笑しながらハンカチを渡してきた。
涙を拭い、鼻をかむ。鋭くなった嗅覚は、スパイスの香りの存在感を無視できなかった。
「いただきます……」
掌を合わせて軽く会釈するようにしてから、カレーライスにがっつく。想像通りの味で、それは懐かしくて、一口、一口と食べ進めれば涙が溢れて来る。
失って、もう二度と味わうことが出来ないだろうなって思っていた料理の味に。ほんのり辛い後味も相まって匙が止まらなくなっていた。気が付いたら、皿の上にはもう何もなかった。
「相変わらずいい食べっぷりだね、わたしも作り甲斐がある」
「うん、すげぇうまい。リリが作るメシって、なんでもうまいよ」
「そう言われると、自信無くすなぁ。特に何が好きとか言ってもらった方がわたしは嬉しいんだけど……」
ジト目でおれを見上げるリリの顔は、少し拗ねているようだった。おれはこの顔に弱い。
「だって、本当にすげぇうまいんだ。おれが生まれた国の、おれが育った国と同じ料理が食べられるなんて、二度とないだろうって思っていたから、それが嬉しくて、でも悲しくて。おれは、改めてひとりぼっちになったんだなって思う」
リリは立ち上がると、おれの頭を精一杯に抱きしめるようにして頭を撫でてくれた。ちいさな心臓の鼓動が確かに聞こえた。その穏やかなリズムは、昂ったおれの心を安心させるには十分だった。
「よしよし。わたしは、ここにいるよ」
「うん」
「わたしだけじゃない、わたしたちも付いているからね。リオもシーナ様も、ヘルメス様も、みんなエリシャの味方だから。あなたが失ったものの代わりにはなれないけど、あなたが得たものは全部ここにあるんだよ」
リリがおれの胸を、心臓の上のあたりをちいさな掌で抑えて、ゆっくりと落ち着いた口調で言い聞かせてくれる。こんな幼い少女に、母性を感じるなんてどうかしてるけど、おれにとってこの人はそんな存在なんだ。
「……ハンバーグ」
「えっ?」
「リリが作った料理で、おれが好きなもの……聞いただろ、ハンバーグが好きだ」
「奇遇だね、わたしも大好きだよハンバーグ」
「リリの場合は肉だったらなんでも大好きだろ。未だに野菜を抜いて食べてる、だなんて聞いて店長は悲しんでたぞ?」
「お、お父さんは関係ないでしょ今ッ!」
顔を真っ赤にして怒るリリが珍しくて、可愛らしくて、つい笑ってしまう。それが更にリリの怒りを焚きつけることになり、左右の頬を抓られる。
それより、なぜリリは自分の母親のことをお父さんと呼ぶのだろうか、甚だ疑問に思う。
まあ、おれだって自分の性別について言及されたら曖昧な返事しかできない。「おれ」などと、男勝りな性格こそしているものの、昔の自分が男だったのか女だったのかはっきり覚えていない。竜という生き物には性別が雌雄の特定のどちらかに別れていることが無いという状況も相まって余計わからない。
そもそも、リリの家庭の事情に深く踏み込むつもりはない。リリには女性の父親がいるというなら、それでいい。
本心はすごく気になるけど、じゃあお前はどっちなんだと言われたそれまでだ。
まあ、同性同士でも養子縁組で家族になれると聞いたことがあるから、そういう話なんだろう。たぶん。
「リリさん、お仕事サボるなんてズルいっスよ!」
屋上の扉を勢いよく開いて、リリと瓜二つの少女が飛び出してきた。リオはリリの双子の妹らしい。特徴的な喋り方をするほうが妹なのだが、口うるさくやかましい。
「えー……、リオってばまた覗き見してたの?」
「そりゃあイチャイチャされたらたまったもんじゃねぇっス!」
「でも、ほら。エリシャってわたしたちの子供みたいなものだし、可愛がって然るべきだと思うの」
「……それは、その、それじゃあ、まあ」
リオは恥ずかしそうに歩いて来ると、おれの頭を撫でた。
見た目だけでは完全に判別が付かないので、声くらいでしかリリとリオを見分けられない。
まあ、忙しなく落ち着きない方がリオと覚えているのだが、あながち間違ってもいないだろう。
「ごほん、エリシャはご飯はちゃんと下まで食べに来るっスよ。竜の子はまだ普通の生き物と同様に飲食睡眠が必要不可欠っスからね。たくさん食べてたくさん寝るっス、いいっスか?」
「え、あ、うん」
リオはおれにそう言い聞かせると、リリとおれの手を引く、途中で、リリ思い出したかのように振り返る。
喧騒の向こう側、中心街の防壁の向こう側、かつて『終点街』と呼ばれていた場所で戦争が起きたそうだ。
表向きには魔物の侵攻によって終点街が陥落したことにより、人口の二割と首都ビヴロストの街のほぼ四分の一を失った未曾有の災害とされている。
しかし、それは何者かによって手引きされた意図的な人災だった。不死の軍勢とリリたちの最初の戦争は、リリたちの大敗に終わったそうだ。
数にものを言わせた暴力と摩耗しない不老不死の軍勢の波状攻撃に、半日と経たずに終点街は陥落した。
その以前から国内のあちこちで紛争が勃発するようになり、その対応に追われた『魔王』こと、フラン様と『聖女』のシーナ様が首都から一番離れるタイミングに首都を狙われた。
最終的にフラン様が終点街ごと焼き払うことでひとまず戦争の幕を降ろした。焦土と化した終点街は以来、旧市街地と呼ばれ魔物とアンデッドが跋扈する廃墟になったそうだ。
中心街の喧騒の裏側には、土地を追われた終点街の住民たちが溢れたことによる悲劇があった。おれにもそれくらいは知らされている。
だから、今のリリの視線の先には復讐の対象が写っているのだろう。
「せっかくだし、エリシャも今日はお手伝いしてくれないっスか?」
「は、はぁ?なんでおれが?」
「まあまあ、リリさんほどじゃないけどエリシャも十分可愛い部類っスからね。客引きにはピッタリじゃないっスか、それに部屋に閉じこもってばかりじゃ腐ってくばっかりっスよ」
なんというか、行動の早さといい常に監視されているのかと思うくらいに感が鋭く、リオはそういう変なところで気が回る。
「それ、ひきこもりだったリオが言うのってすごく皮肉が効いてるんだけど」
「うぅ、リリさん……これでもぼくって結構働き者だと思うんスけど、お姉ちゃんは妹ちゃんにご褒美をくれてもいいんじゃないっスか?」
「それは別にいいけど、また変なことしたら怒るからね」
なんというかこの二人は、賑やかだな。
悪くいえばうざったいけど、リオが。
まあ、たまにはいいか。
タダ飯食いの居候だと、なんとなく居心地悪いし。
「……わかったよ」
「じゃあ、エリシャにお手伝いお願いしようかな」
「ふふっ、こういうこともあろうかと実はエリシャの分のエプロンも裁縫しておいたんスよねぇ」
「そういうの着たくないんだけど」
「これはちゃんとしたヤドリギの制服っスから、着ないとダメっスよ」
リオといい、エレイナのおばさんとか、ミネルヴァのばあちゃんとか、なんで他人に着せ替え人形にしたがるんだか。
店長に、厨房に入るなら髪を纏めてエプロンをしてと言われて、結局はリオの裁縫したエプロンを着ることになった。
「そんなに緊張しないで、今回は私と簡単な仕事を覚えていこうかエリシャさん。リリさん、悪いけど料理は任せていいかな?」
「わかった」
あんなにちいさい手でよくあんなに細かい作業が出来るなぁ、と思っているとリリが客の前で実際に料理を作って見せる。やっぱりいつも持って来てくれるの食事はリリの手作りだったんだな。
「昔はおにぎりも作れなかったんだよ、リリさんって」
「えぇ、嘘だあ」
あんなプロの料理人の姿を見て、料理ができなかった姿を想像しろって無理があると思うんだけど。
「物覚えがいいからね、本格的に教えたら面白いくらい吸収しちゃうものだから、それが楽しくて、つい」
「ああ、一を教えたら百を理解する子でな。つい」
店長と料理長の夫婦がうんうんと首を縦に振りながら唸ると、雑談している間にリリは何品も料理を完成させてリオが、忙しそうに配膳していた。
「リオもあれで結構働き者だから、随分と助かってるんだ。私も、杖を付くようになってからあまり自由が利かなくなって来たからね」
店長は、またまだ妙齢の女性に見えるが、体が弱いのだろうか。親子だけあってリリとは瓜二つで、もしもリリが大人の女性になったらこんな感じになるのだと思う。
一方で料理長のココノ、リリの母親は黙々と料理の下拵えを続けている。夫婦仲に口出しするのも野暮だけど、この二人って本当に仲が良いのだろうか。
料理長が話すところなんて今日初めて見た。
まあ、主におれが部屋にひきこもってるから聞く機会がなかったというか、料理長はストイックに料理をしている姿しか見かけたことがなかった。
それでも、リリの母親というだけあって娘の成長は嬉しいみたいだ。あと、娘といえばもう一人いたはずだけど。
「そういえば、もう一人いたような。大柄の虎の」
「ただいまみんなー」
噂をすれば、その大柄の虎がやって来た。
「おかえり、ロマさん。配達ありがとう、それで次の配達先なんだけど」
「えー、まだあるのー、まあ、ロマさんの仕事だから別に文句はないんだけどさ店長、そもそも喫茶店って料理を配達するものなのか?」
「まあ、需要があるし、なんだかんだでそこがウチの売りになっちゃったからね。ロマさんも体を動かしている方が性に合うだろう?」
それもそうなんだけど、とがっくりと肩を落とすロマだった。「料理のつまみ食い、いや、味見ができないのはちょっとかなりすごく残念なんだけど」と呟く。本音がダダ漏れだ。
確かに、ここの料理は一級品だと思う。
まだシーナ様に面倒を見てもらっていた頃、豪奢な食事を食べさせてもらったけど、味に関しては正直ヤドリギの料理の方がうまい。料理の技術もさることながら、客の一人一人の好みに合わせて微妙に調整されている。
同じような料理でも、まったく同じ味がないのだから不思議だ。それを味見をできるのは、この店で働く者の特権なんだと思う。それが許されないということは、たぶんロマは看過することができないほどの食いしん坊で、過去に店の料理に手でも付けてこっ酷く叱られたんだろう。
というか、そんな姿を見たことがあるような、ないような。
「お、店長、エリシャがエプロン付けているけど、これは、ついにロマさんにも後輩ができるってこと?」
ロマはわしゃわしゃと力強く頭を撫でて来る。せっかく髪を整えたのに台無しじゃないか。
「何を言っているんだい、ロマさんの後輩にはリオがいるだろう?」
「みんな当たり前のようにリオとは呼んでいるけど……いや、まあ、ってことは、ロマさんはまだまだヤドリギのヒエラルキーの最底辺にいるのか!」
「たぶん、上下関係とかをそう思ってるのはロマさんだけだけどね」
ロマは体がデカい割には、気が小さいと言うか、反応が一々大袈裟で見ている分は滑稽で飽きないけど、少しバカっぽいというか、よく言えば愛嬌がある。
少なくとも、ロマの存在はかけがえのないものだと思う。
持ち前の明朗さで無意識に周囲に明るさを振り撒いて、陰鬱な空気を笑顔に変えてくれる。
どうやら、ロマは普段から電話注文を受けてから街中を走り回り料理を届けて回っているそうだ。数分以内に熱々の出来たて料理が届くのは、ロマのおかげなんだとか。
「そいじゃ、エリシャも頑張ってね。お皿割るとココからすごく怒られるから気をつけて、またねー」
そういうと、ロマは慌ただしく料理の配達に出掛けていった。皿を割るって、落としても簡単に割れなさそうなんだけどコレをいったいどうやって割れと言うんだろうか。
「それじゃあ、まずは皿洗いからお願いしようかな」
店長はそういうと、わかりやすく洗い場の説明をしてくれた。左右に分かれたうちの左側は洗剤を含んだ温水で満たされていて、まず汚れた食器に付いた油分を浮かす為にそこに食器を少し浸けておくらしい。
それから右の洗い場で薄めた洗剤を吸わせたスポンジで丁寧に食器を洗う。それから水で食器から洗剤と水気落として、あとはアルコール液で軽く消毒してから綺麗な布巾で磨き上げて、それを繰り返す。
左側の温水が汚れて来たら適度に入れ替えて、布巾も適度に交換しながらひたすら反復作業。
「エリシャさん、随分と手際がいいけど経験ある?」
「……昔、家では家事をしてたのがおれだったと思う。飲食店でこういうバイトもしてたかもしれない。いや、わからないんだけどさ」
そんな曖昧な返事しかできないのは、過去に霧がかかったように所々が白く塗りつぶされているからだ。
「エリシャさんさえ良ければなんだけど、これからも気が向いたらお手伝いしてもらえると助かる。もちろん、お給料も出すよ」
「それは、別に構わないけど」
「けど?」
「たぶん、おれ、人前に出て仕事をするのはできない。まだ獣人ってやつにも、竜人ってのにも慣れてないから、怖い。いや、みんなのことはたぶん大丈夫だと思うけど、ごめん、今はまだ」
店長は優しく微笑みながら「今はそれでいいよ、ゆっくり時間をかけて慣れていこう」と、おれの隣で皿洗いを手伝ってくれた。
時間が過ぎるのはあっという間だった。
リリは、あんなちいさな体にどれだけ体力があるかわからないほど料理を作り続けていたし、リオも愛嬌を振りまきながら接客していた。
料理長は疲労の色など全く見せずに、黙々と下拵えや配達用の弁当をこさえていたり、複数の煮込み料理の火加減を調整していたりしていた。
その間、何度もロマは何度も勝手口から出入りを繰り返して、何件もの配達の仕事をこなしていた。
「たった五人で店を回しているのか?」
「まさか、普段はパートさんを雇っているよ。リリさんには、別の仕事もあるし、リオもただの好意で手伝ってくれるだけだから。常駐している喫茶店の従業員は、私とココノさんとロマさんだけだよ」
「その、関係ねえ話なんだけど、店長は家族にも「さん」付けするけど、それはなんでなんだ?」
「ちょっと、恥ずかしい話なんだけどね。私って人見知り激しい方で、どうにも他人行儀というか、慇懃無礼な態度をとってしまうんだ。よくないとは思ってるんだけど、染みついたクセって中々抜けなくてね」」
「店長が?」
そんな馬鹿な。こんなコミュ力が高い店長が人見知りとか、何の冗談だ。
「娘にさえ敬語を使うような奴だ、察してやれ」
魚を捌きながら料理長は呆れたようにため息を吐く。
「ま、まあ、そういう事だね。ちなみに、パートさんのほとんどは、私たちと同類なんだ。このアパルトマンに暮らしてる人はみんなそういう人たちばかりだから、あまり警戒しなくてもいいよ。ただ、あまりお互いのプライベートを侵害しないことだけには注意してね」
つまり、不老不死だとか、それに準ずる人々の巣窟ってことか。それにしては、人の気配が全くしないというか、リリとリオ以外の他の誰かを見たことが一度もないんだけど。
ヤドリギでのはじめてのアルバイトは銀琥珀紙幣三枚、日本円で換算するならだいたい三千円くらい。二時間も働いていないのに、こんなに貰えるだなんて随分と羽振りがいい。喫茶店はそれだけ儲かっている、ということなのだろうか。
日本円ってなんだ……?
またわけわからない記憶だ。
まあ、外出する機会のないおれには無用の長物だと思う。しかし、リリの持っている初版本を弁償するにはいくら掛かるんだろうかと考えると、これっぽっちじゃ全然足らないと思う。
素直に謝るべきだと思うし、ちゃんと誠意も見せるべきだと思う。だから、これからもなるべくアルバイトをしてお金を貯めよう。『ワンダラー・テイルズ』の初版本がどれだけの価値があるのかはわからないけど、おれの記憶の中にある世界的に有名な児童文学の初版本といえば安くとも数百万はくだらない値段だったと思う。
これ、弁償できるかな。
とりあえず、本にハマったフリをして他の本を借りながら時間を稼ぐしかない。幸い、リリは仕事で部屋を空けることが多いから、すぐに本を返せと催促はしてこないだろう。
それにしても、なんであんな変な夢を見たんだろうか。
もしも、生まれ変われるなら。だなんて。
今の自分の姿を見て、この姿がおれが望んだ結果なのかと思うと、妙な気持ちになってくる。
「エリシャ、どうしたっスか。物珍しそうに自分の股をまじまじと見つめて、早く体洗って湯船に浸からないと風邪引いちゃうっスよ」
アパルトマンの大浴場で体を洗っていると、リオが話しかけて来た。
「いや、おれって女湯入っていいのかなって」
「それを真剣に悩んでたっスか?」
「だって、おれって男だったかもしれないし、もしそうだったら嫌だろみんな」
「ほほう、エリシャは女性をそんなイヤラシイ目で見てるんスか」
「そ、そういうわけじゃないけど、ほら、店長は胸がでかいなとか、料理長はスタイルいいなとか、そう思うのは女だったとしても変なことだろ?」
「それは別に普通のことだと思うっスけど、そもそも竜には生物学上の明確な雌雄はなくて」
「竜は竜、だろ。わかってる、わかってるつもりだけど、なんか、こう、罪悪感が……」
店長は慌てて胸を押さえ付けて恥ずかしそうに視線を逸らしているし、料理長は我関せずと言わんばかりに体をちゃんと洗わずに湯船に浸かろうとするロマの首根っこを掴み面倒くさそうに洗っている。リリは溺れないように浮き輪に捕まりながら気持ち良さそうに湯船に浸かっている。おれよりも気にしているのが店長だけ、というのが妙に引っかかる。
「まったく、難儀な子っスねえ、どれどれ」
「あ、リオっ!ちょっと!お前!」
「まだ鱗も生えてない赤ちゃん肌じゃないっスか、こういうのは垢が溜まりやすいんスよ。あとほら、背中から腰のあたりに力を入れて翼を広げるっス。いずれは飛ぶ練習もしなくちゃいけないっスからね、自分の意思で翼の出し入れくらい出来ないと、ダメっスよ」
リオは、両方の肩甲骨の辺りから腰くらいまで、肉がパックリと割れた隙間をほじるように、おれの体内に収まっている翼を掴むとズルリと引きずり出した。
「飛ぶって、おまっ、リ、リオッ!あははっ、やめ、やめろ!くすぐったいって、ひ、ひぃいっ!ふっ、ふふふっ、おまえ、あとで覚えてろよ!あははっ!」
「反対側も、そーれっス」
くすぐったくて腹が捩れるほど笑った後、一発だけリオの頭を殴った。たぶん、リリが相手だったらできないんだけど、リオなら殴れる。顔も体もまったく同じなのに不思議だ。
まあ、おれのことを思って真剣に体を洗ってくれているんだろうけど、なんだろう、ちょっとムカついた。
「ま、まあ、翼が敏感なのはわかるけど、いくらなんでも殴るのはヒドイっス……」
「悪い、てっきりふざけてるとばかり。真面目に洗ってくれてるのにごめんな……。そんで、洗ったあと、コレどうすんだ?」
「どうもこうも、収まるべきところに収めればいいじゃないっスか。こう、ぐぐっと」
「あのなぁ、こんな突然生えて来たものの動かし方なんてわかるわけないだろ、このまま風呂入れって言うのか?」
「でも、あまり不潔にしておくのは翼によくないっスよ。シーナ様はそう言うこと教えて、くれなさそうっスね……」
自虐的な乾いた笑みを浮かべながら、リオは憂鬱そうにおれの体を洗い終えると「まあ、お風呂は広いっスからそのまま入っても大丈夫っスよ。それに翼をちゃんと乾かしてから畳まないとカビが生えるかもっス」と恐ろしいことを言われた。
というか今まで一緒に風呂入ってたけど、翼を洗われたことなんて一度もなかったんだが、もしかしておれって結構くさかったりするのかな。
「な、なあリオ。もしかしておれって、結構くさかったりしてたのか……」
誰も目を合わせてくれなかった。
無言って、時に言葉よりも鋭利な刃物になり得るんだな。
どんなに不摂生な生活をしていても、風呂にだけはちゃんと入ろうと思った。いや、いままでもちゃんと風呂には入っていたけど。もっと入念に洗おう。わりと深刻に。
「ま、まあ、鼻先を近づけなきゃわからないくらいだったっスよ……?」
精一杯のフォローのつもりなのだろうか、みんな揃って首を縦に振っていた。
やめて、そういう優しさが一番キツいんだって。
慰めるように湯船に浸かったおれの翼をみんなして触る。慰めているつもりなのだろうか、ただの興味本位なのだろうか。どちらにせよみんなの裸を直視できないおれは背中を向けるしかないので、一人涙を流しながら獣人の嗅覚と、今までみんなが気を遣って言わなかったことを少しだけ恨んだ。




