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ツリー・オブ・ライフ  作者: 風船 かずら
1/12

ちいさな配達人 未だ世界を知らず、死を知らず



1,


 チビ。


 物心のついた時から、低身長に悩むわたしには致命的な蔑称に他ならない。それでも、本心では外見的特徴で子供扱いされることはもはや慣れっこで、そこまで嫌なことではなくて、よく頭を撫でられるのもそんなに嫌いじゃないのかもしれない。まだ、見習いのわたしに任されているのは、この広い街のほんのひと区画、それこそ子供の行動範囲の範疇だけど、仕事をすることを誰かに認めてもらうのはやりがいがあることだと思う。愛称のつもりでチビと呼ぶ人もいる。なにも嫌がらせで言ってるわけではないのだろう。そう呼べば、わかりやすく拗ねたように顔を背けるわたしの仕草が相応に子供っぽくてかわいらしいから悪戯に呼びはじめたことが広がり、それは定着してしまった。


 頭では理解していても、そんな反応をしてしまうのがなんとなく情けない。


 わたしは、あんまり感情が豊かなほうではなく。愛想もよくはない。不器用な性格、なのだ。とっつきにくい陰気な子供。曰く、親戚の集まりとかでその場の雰囲気に馴染めずに大人しくしている人見知り、みたいな感じらしい。


 つまり、わたしをチビと呼ぶのは一種の親切心から来るもので。悪気があるわけではない。まだ見習いで、一日にこなせる仕事の量も質も未熟で、毎日重たい鞄を肩から掛けて駆け回る姿は見ていて危なっかしいようだ。ぶかぶかの制服、研修中の腕章、頭頂部から側頭部かけて耳出しスリットのあるゴーグル付きのキャスケットを目深にかぶり、ぼさぼさ尻尾と自分で結った不格好な三つ編みのおさげを揺らしながら走っていたらそれはきっとわたしのことだろう。


 ちいさな噴水のある公園のベンチに鞄を置き、その横に深々と腰をおろして、すこし早い昼食中。仕事の日にはお父さんが作ってくれるいつものお弁当には、好きなものと苦手なものが半分ずつ入っていた。この生活を始めたばかりで仕事をするのは慣れていないし、閑静な住宅街でも人前に出るのはまだ緊張する。一時的に息苦しさから開放されてため息と同時に両足を投げ出していた。ふと、低身長を改めて思い知らされる。それなりに屈辱的だ。ベンチに深く座ると足が地面に着かない。若干内股気味で、ふくらはぎから半分先は宙ぶらりん。スカートから伸びる生足は毛皮に包まれている。毛皮があるのに生足という表現に、漠然とした疑問が浮かぶ。わたしたち獣人にとってのどこまでが裸に当たるのだろうか。たぶん、わたしの場合は常識やモラルとやらが著しく欠如しているのかも知れない。どの程度、毛皮が露出されていたら。何故、子供はそれとなくやんわりと許容されて、大人は罪に問われるのか。そもそも獣人の多くはほとんど汗をかかないし、体にこもった熱を最も効果的に発散するには、濡らした体を気加熱で冷やすか、だらしなく舌を垂らすほかにない。それすら、はしたないとマナーに反するとか。当たり前のことは当たり前で、それ以上もそれ以下でもない。知りたがりのわたしに困惑する大人も少なくない。だいたい、困らせてるかもしれないと察したら「なんでもない」って誤魔化すけれど、なんだかモヤモヤする。いけないことならしなければいい。そう思うようにしてるけど、色々と疲れる。みんなの顔色を伺って、気を張って、退屈で窮屈だ。


 考えごとで、必ず行き止まりに突き当たるものだからむしゃくしゃして頭を掻き回したくもなる。


「ふぅ」


 俯く。


 お弁当を食べ進めていた手が完全に止まっていた。苦手なものを先に食べ終えて、好物の肉団子に握りしめたフォークを突き刺したままだ。サラダのほとんどはわたしの舌には、今よりも幼い頃に戯れで食べたことのあるそのへんの葉っぱみたいな味で食傷気味になる。こんな些細なことでも慢性的に憂鬱になる理由はそれだけじゃないんだろうけど、この仕事のことだったり、通っていた学校のことだったり、家族のことだったり、最終的には自分のことになる。この幼すぎる容姿も、人付き合いが苦手で根暗な性格も、そのくせ意地っ張りで頑固なところも、あんまり好きになれない。「女の子らしくてかわいい」とか、「綺麗な毛艶だね」とか、褒めてもらえるけど、お世辞を素直に喜べない。あまり嬉しくない。きっとわたしがひねくれているから素直に喜べないのだと思う。「どうして顔を隠しているの?」と聞かれることもあるけれど、口籠る。容姿について聞かれると、複雑な気分だ。


 元々、わたしは孤児だから。お父さんとは違うのだ。全身を覆う毛皮だって、瞳の色だって、髪の毛の色だって、なにもかもが違う。血の繋がりのある家族じゃない。わたしは、当たり前のようにお父さんの子だと認めてもらいたかった。それでも、外見はそれだけで他人の印象をわかりやすく操作する要因で、お父さんと一緒に歩くときは親子の関係を否定されているような気がしてイヤだった。怖かった。気にしているのはわたしだけかもしれないけれど。お父さんは優しいし、わたしもお父さんのことを慕っている。釈然としないままなのは変わらないけれど、それでも誰になんと言われようとも今の家族こそが本物なのだと自分に言い聞かせている。


 思い出したように、好物の肉団子を頬張る。すこしだけ、しょっぱい味がした。



2,



 郵便組合『走りまわる栗鼠』は、この世界でありとあらゆる物品から情報の流通機構だ。


 この街においては、わたしの配属先は北区の港街からは一番遠く、物流の中心から一番離れた南西区郊外、通称『終点街』とも呼ばれる住宅地。街の外縁を囲む防壁は監視所を兼ねていて、そこで働く守り人と研究者の人がいるから郊外でもそれなりに賑やかな職場だ。組合で配達の仕事も、わたしみたいな子供も任せられる仕事が回ってくるくらいには多忙。この辺りは中心街や繁華街に比べたら、すこしばかり自然が豊かで組合傘下の個人商店が多いくらいの閑静な住宅街。手入れの行き届いた街路樹、水路からはせせらぎの音。街の中心部とは違い、自然の豊かなこの区画はそれ故に迷いやすい。今でもたまに迷子になってしまう。


「よう、チビ」


「こんにちは、せんぱい」


 先輩の一人が支局の入り口で、壁にもたれかかりながら退屈そうにあくびをしていた。わたしを呼ぶと、ゆっくり歩み寄るなり目線を合わせるようにしゃがんで頭に手を乗せる。わしゃわしゃとわたしの頭を撫で回す。わたしは、ただ無言で睨みつけた。とはいえ、凄みも威圧感もない眠たげな目付きにしか見えないかもしれない。


「元気ねぇケド、どした?」


 わたしをチビと呼んだのは同じ支局で働く先輩。


 クロード先輩は、主にネコ科の特徴を色濃く残す獣人種族。着崩した配達員の制服の上から軽装の革鎧を着込んでおり、腰には曲剣をぶら下げている。先輩の腕章には、盾の前で交差する剣のエンブレムが付いている。それは傭兵の証であり、先輩がギルドの軒先で番人を務めているということの証明。気さくで面倒見がよくて、仕事にも真面目でいい先輩なんだけど、ちょっとだけ苦手。


 クロード先輩は、キャスケットからはみ出したわたしの耳を絡めるようにして撫で回す。それが、こそばゆくてなんだか柔らかい感じの声が出そうになる。


「ほれほれ、ちったあ元気出たか?」


「やめてください」


 撫でながらわたしの目の前にしゃがんで、大袈裟な笑顔を見せるクロード先輩。見えた、ということは見られた、かもしれない。顔を。だったら嫌だなって思って、キャスケットの鍔を掴んで更に目深に慌ててかぶる。


「元気がない、わけじゃないんです。わたし、その、根暗だから、これが、いつもどおりなので」


「根暗ってえと、人聞き悪いけどよ」


 困ったような声色だった。


「たしかに見た目相応の無邪気さがないのは事実だな、だがなぁ、一応こっちも客相手に商売やってんだから愛想良くしとくのに越した事ないぜ」


 こんなとこで突っ立ているのもなんだ、と。先輩は、俯くわたしの手を引いて、支局の中へと向かう。閑散としている屋内は、早朝からの仕分け作業の大半を終えて昼寝をしている職員を残して、遅めの昼食を食べに行った先輩たちと半分半分。忙殺されて憔悴しきった職場の光景。


 クロード先輩を除いたら、受付嬢のエレイナさんが配達を終えたわたしの姿を見て、柔和な笑みを浮かべて手を振っていた。みんなの活力のない歓迎にも愛想笑いを返せればいいんだけど、小さく手を振る程度の返事しかできないわたしもなんだか情けない。


「たとえば、あんな感じで愛想よく、だ」


「リリちゃん、伝票持ってきたかな?」


「ほれっ」


 クロード先輩に背中を軽く叩かれて、快活なエレイナさんのところに行くように促される。わたしと同じ種族で、主にイヌ科の特徴を色濃く残す獣人種族。制服をキッチリと着こなしていて、立ち振る舞いはいかにも敏腕な受付嬢。たぶん誰が見ても第一印象は好印象。エレイナ・アルエイラ。彼女のフルネームが書かれた名札が彼女のたわわな胸に乗っかっている。この人もすこしだけ苦手。というか、そもそもわたしが対人関係が壊滅的なので好きも嫌いも元も子もないというか。


「あの、エレイナさん。今日の伝票です」


「んー、どれどれ?」


「わっ」


 エレイナさんはわざわざ受付のカウンター横の扉から出てくると、わたしを後ろから抱き上げて近くのソファに腰掛ける。頭の上に顎をつき、女性らしい柔らかさに全身を包み込まれる。ほのかに甘いような香りがして、なんだかおちつかない。子供が好きだと言うエレイナさんはいつもこんな感じで、チビのわたしには特に免罪符を得たとばかりにスキンシップをしてくる。身じろぎして、抵抗しようにも、大人の腕力には敵わない。だから、抵抗しないことにしている。


「うん、完璧。仕事も早くて正確になったし、すっかり一人前だね」


「ありがとうございます」


「あとは、その無愛想なところ直してくれたらお姉さんはすごく嬉しいかな」


「努力します」


「もー、でもそういう意地っ張りなところも憎めなくて好き!」


 わたしもエレイナさんのちょっと子供に対して変態的なそういうところ直してもらえたらすこしは苦手意識も変わりそう。体を弄るのも、頬擦りも、うなじを嗅ぐ真似もやめてほしい。だなんて、口にする勇気もない。でも、仕事ぶりを偏見なく評価してくれるし、わたしという存在を認めてくれるのは嬉しい。ここが自分の居場所みたいに感じることができるから。案外、満更でもないのかもしれない。



3,



 帰宅して、お父さんを見つけるや否や、抱きついて離さない。細身ではあるが、見た目以上に筋肉がついているのでわたし程度では全く負荷にもならないみたいで、あたりまえのように頭を撫でてくれる。


「リリさんおかえり」


 もっと強く撫でろと頭を押し付ける。


「なんかイヤなことあったの?」


「べつに」


「そっかあ」


 どんなに感情を抑えても尻尾はゆらゆらと揺れている。普段、人前では全く見せることのない自分自身の姿に一番驚いているのは自分自身だった。でも、お父さんのことは世界で一番大好きだ。だからこそ、容姿の違いや血の繋がりについて考え始めたら劣等感でどうしようもなくなる。けれど、こうして触れ合っているだけでそんなことどうでもよくなる。


「お仕事はどうだい?」


「たいへん、つかれる、めんどう」


「そう、真っ当なお金を稼ぐのは大変だし疲れるし、面倒だよね」


「でも」


「でも?」


「ちょっとは、イヤじゃないかも」


「ははっ、それはよかった」


 キャスケット越しに、お父さんは優しくわたしの頭を撫でてくれる。


 わたしたちのやりとりを見ていたお客さんの存在に気がついたときは、恥ずかしかったけれど、なんというか、その人たちはそんなに不快に思っているような目をしてはいなかったように思える。


「お父さんごめんなさい。わたし、着替えてないし手も洗ってないのに」


 お父さんは、昼間は喫茶店と夜は酒場(パブ)を経営している。飲食の仕事の関係上、衛生観念には特に注意を払っていたけれど、こんなことをするわたしを頭ごなしに叱りつけるようなことはしたことは今までに一度もなかった。


「そうだね、じゃあ着替えてから手を洗って、夜の時間になるまでちょっとだけお手伝いしてもらえるかな?」


「はい」


 走らないように、早足でカウンターの奥から普段から二人で生活しているバックヤードでなるべく急いで、制服を脱いでシワにならないようにハンガーに掛けてロフトの下のクローゼットにしまう。下着も洗濯かごに投げ入れて、なるべく急いで「汚れてもいい服」に着替えて支度をするものの、背中側でエプロンの紐を結ぶのに悪戦苦闘している。結局は、泣きべそかきそうになりながらお父さんに結んでもらう。紐を前で結んでから後ろに回せばいいんだけれど、わたしの手はちいさく拙く不器用だ。こればかりは慣れるしかないのはわかっている。だけど、お客さんの前でされるのは恥ずかしい。まるで一人じゃなんにもできない子供扱いされているようで。事実なので言い返せないのが悔しいけれど、責められているわけでもなく、わたしの外見相応の子供扱いを嫌がる生意気な反応を「可愛らしい」と微笑んで見守っているらしく、反抗的な態度をとるのも見透かされているようで、行き場のない感情でしおらしい反応をするのを待っているようにも思える。


「夕飯、慌てないで食べてね」


 恥ずかしくて照れくさい、お父さんは口をつぐんで立ち尽くすわたしの手を引いてカウンターの端っこの指定席に座らせると、ランチプレートに盛り付けられた夕食を目の前に置いた。


 スプーンを入れるとまかないごはんは、細かく刻んだ野菜とごろごろに切ったチキンを混ぜたケチャップライスをとろとろたまごで包んだオムライス。付け合わせにはポテトサラダ。結構急いで支度をしたつもりなんだけど、時間を見計らったかのようにほかほかの湯気が立っている。


「いただきます」


 食事の前には手のひらをあわせて「いただきます」食事を終えたら「ごちそうさまでした」と、最初は変わったテーブルマナーだなって思ったけれど今では慣れ親しんだものだ。いつからか、このお店に来る常連のお客さんも当たり前のように口にしている。


 お弁当もおいしいけれど、やっぱりあたたかくてお父さんと一緒に食べるごはんの方がおいしく感じる。


 黙々と食べ進めて、最後の一口。冷えた水を飲み干して「ごちそうさま」と、一息ついてからご飯粒ひとつ残していないランチプレートをお父さんに見せた。


「はい、お粗末さまです」


 お父さんは、カウンターの向こうからこちら側にくると、腰を落としてわたしと目線を合わせるときれいなハンカチで口元を拭いてくれた。


「ありがとう。でも、それくらいならわたしだってちゃんとできるよ?」


「まあまあ、私にもそれくらいのことをさせてよ」


 お父さんは苦笑いしながら目の前に伝票を置いてった。とは言っても、帰ってきてから新しいお客さんは来ていないし、追加の注文がない限り既に完成されているものだったのだが、今店内にいるお客さんはカウンター席に男女が二人、一番テーブル席に老夫婦、三番テーブル席に三人家族、窓際の二番ハーフテーブル席一人、と店内のお客さんと注文の履歴と、常連さんの名簿とアレルギー食品、コーヒーの好みなどなど、パラパラとめくって会計はこれくらいだろうか、と算盤をはじいた。


 席から離れて、レジスターの近くに待機する。注文があればわたしがお客さんのところに行き、お父さんにそれを伝える。日が暮れる頃には、お客さんも入れ替わり立ち替わり、自分で伝票に書き込むことも増えたけれど、一日中仕事をしていたお父さんに比べたら仕事量は本当にちっぽけなものだ。


 常連さんの一人が「それじゃあ、また夜にくるよ」と席を立つと、それを合図に店内のお客さんも次第に会計を済ませてお店から出ていった。わたしは主に、会計前の撫でられ役という名誉なんだか不名誉なんだか、このまま今の役を続けていては摩擦で髪の毛がなくなってしまうのではないかと、そう不安に思ってしまうほど撫でられる。看板娘冥利に尽きるんじゃないかな、とお父さんは笑っていうけれど、もう頭頂部に変な癖っ毛が付くくらいには撫でられている。俗に言う「あほ毛」というなんとも不名誉な、何度髪の毛を梳いても飛び出てくる厄介者が。曰く、わたしの頭を撫でると御利益があるらしい。


 撫でられるのは、嫌いじゃないケド。


 最後のお客さんを親子二人で見送りながら、表札を「準備中」にしてひとまずひと段落。



4.



「リリさんをお風呂に入れるのが一番の重労働かもね」


 お風呂あがりのわたしの髪を乾かしながら、お父さんはご機嫌ナナメなわたしの態度に皮肉を言うのだ。別に嫌がって暴れたりしたつもりもない。ただただ、自分で体を洗うのが得意ではないのでお父さんに手伝ってもらっているのだが、他人に体を触られるのはこそばゆくてじっとしていられない。かと言って自分の体の手入れをするのは拙い。自分のことくらい、なんでもできると思っていたけれど、結果的には二度も三度もやりなおしさせられてしまうので、未だにお父さんにお風呂に入れてもらっている。べつにそれ自体には不満があるわけではないけれど、いつまでも手のかかる娘でいることには、なんだか不本意なのである。少しずつでも、お父さんにはラクをしてもらいたい。お父さんの仕事の合間合間の時間ではなくて、お父さんには一日くらいは仕事のことも何もかも忘れて家でのんびりしてもらいたい。


「うーん、髪も伸びたねぇ」


「あんまり切りたくない」


「まあ、髪の毛のある獣人はちょっと珍しいからヘアスタイルに理解のある美容師も少ないし、長くないとやりにくいんだもんね。三つ編み」


「うん」


 不恰好でも、自分の力でできるようになった三つ編みにはそれなりに愛着がある。いつも三つ編みだけは自分でやりたがるわたしを見ているお父さんは、それが一番のお気に入りだと理解してくれている。


「でも、お手伝いの邪魔なら短くする」


「少し梳くぐらいにしておこうよ。今度ね。サロンでトリミングもそろそろしておいた方がいいかもね」


「それは」


「このまま全身真っ白なヒツジみたいなモコモコになってもかわいいとは思うけど、嫌だろう?」


「うん」


 わたしは青いチェック柄のパジャマを着て、雑談混じりにお父さんは真っ白なわたしの髪の毛を丁寧に乾かしてくれた。確かに、ほとんど毎日こんな毛の塊の生き物の手入れをしていたら大変な労力だろう。しかも、わたしを寝かしつけた後にも夜の営業を控えている。それが終わっても料理の仕込みとか、在庫のお酒の確認とか、材料の発注とか、接客が終わった後も、わたしが寝ている間にも、お父さんの仕事はまだまだ終わらない。


 一通り、全部が終わった頃にはお父さんはわたしたちのお気に入りの古びたソファーに一人で沈むように寄りかかり、すこしだけ仮眠をとる。わたしが起きる少し前には、シャワーを浴びて身嗜みを整えて、わたしのお弁当を作って、あたたかい朝ごはんも作って、わたしを送り出してくれる。


 配達の仕事もこれではお父さんの手間を増やしているだけだと思う。でも、そんな心配は余計なお世話。口出しは無用だと怒られてしまうかもしれない。配達の仕事を選んだのはわたしのわがまま。だから、言い訳をつけて仕事を辞めるのはわたしが関わる人すべて人に対する裏切りだ。お父さんにはたくさん心配をかけた。もうお父さんには余計な心配をかけたくない。


「リリさん。よくわからないけど、悩み事ならお父さんに相談してね。今ちょっと思い詰めた顔してたから」


 お父さんにはたぶん、わたしは隠し事はできないんだろうなと思いつつ。「なんでもない」とはぐらかした。


「なら、私はリリさんを信じるよ」


 毎日毎日、手間のかかるわたしの世話を焼いてくれるお父さん。いつかはちゃんと、わたしは自分のことくらい自分でやらなきゃいけないけれど、甘えられるうちは、甘えてもいいよね。


「ありがとう、お父さん。おやすみなさい」


「あれ、リリさん歯磨きした?」


「おやすみなさい」


「いや、してない。してたとしても別に歯磨きの一回や二回多くても大丈夫だから、念のために」


「リリさんをしんじてください」


 毛布に潜り込み狸寝入りをするものの、わたしに逃げ場はそもそもなかった。毛布を奪い合う攻防戦など一瞬で勝負がつき、尋問もなく、わたしは潔く白状した。


「今日は朝しかしてませんでした。お昼はせんぱいにミントのガムもらいました。さっきはミントの飴を舐めてました」


「じゃあ、ミント味の歯磨き粉も大丈夫だね」


「自分でやります」


「リリさん、奥歯らへん磨き方が甘いからお手本をしっかり覚えておいてね」


「自分でやりまふ」


「はい、ごしごし」


 口に歯ブラシを突っ込まれた、もうだめだ。


 えずいた。



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