遠近法を教わりたい小僧
ある日の放課後、小学校三、四年生位の年頃の小僧が高名な画伯に会いに来ていた。
小僧は大きなサングラスをかけていた。
「坊や、子供はこんな所に来るもんじゃないよ。
こんなところには俗世を捨てた者しか来てはいけないのだよ」
「お願いです、あっしはもう俗世に生きていません。
どうかあっしに絵の描き方を教えて欲しいんです。
対価はあっしの労働でどうでしょうか?」
土下座するくらいの勢いの小僧に、画伯は強く当たることは出来なかった。
美術の世界の辛酸をなめてきた画伯には「ミーハーなド素人に自分の領域に入って欲しくない」というプロ意識があり、小僧に自分の知識を教えるなんてもってのほかだった。
表面上優しい口調で画伯は小僧に質問をした。
「坊や、家の人はどうしたのかな?ご両親の許可をもらっているんだったら考えてやっても良いんだが」
「親は二人とも生きていません。家もありません。
だから自分のことは自分でやらなくちゃならないんです。
働きますから!どうかお願いします」
「……」
まさか小僧が孤児だとは思わず、画伯は言葉を詰まらせた。
小僧は孤児だから、持っていないお金ではなく労働力を対価として提示したのだろう。
小僧の言葉に、画伯は「小僧は両親が死んで行くところがないから誰かに養ってもらおうと思い、適当な理由をでっち上げて金持ちそうな私に養ってもらおうと考えた」と解釈した。
「なるほど。だが私は同情はしないぞ。
なぁ坊や、腹を割って本音で話せ。
私に本当は何をしてもらいたいんだ?」
「へぇ、本音を話します。
実は、あっしは旦那に遠近の取り方を教えて欲しいんです」
なるほどな、どうしても養ってくれとは言わないっていうわけか。
孤児とはいえきちんと教育されてきたのだろうと思わせる知性が垣間見えた。
「労働の代わりに遠近を教えて欲しい」とは、ある意味師弟関係ともとれる提案だった。
「とりあえず、真意はどうあれ遠近法を教えて欲しいと言うことだね?
では坊やの労働を引き換えに遠近法を教えてやろう。
これから坊やは私の弟子になるのだから、小僧と呼ばせてもらうぞ」
「ほんとうですかい?!まことにありがたい。
あっしは旦那のことは先生と呼ばせてもらいます!」
「小僧、見た目にそぐわず古めかしい言い方するんだな。
まぁいい、小僧、腹は減ってないか?飯を用意してやる」
「……先生、遠近はいつ教えてもらえるので?」
まだその設定を続けるのか。
演技派なことだ。
「遠近については明日以降の私が暇な時に教えてやる。
とりあえず飯の前にその臭い体を洗ってこい。風呂に入ってる間に二人分作っといてやるから。
それとそのでかいサングラス邪魔だろう?預かっといてやる」
「いえ!お手を煩わせるほどの物ではありませんので」
小僧はそそくさと、風呂は向こうだと私が指さした方向へ歩いて行った。
風呂から上がった小僧と晩飯を食べ、その日は外から鍵をかけられる部屋で小僧を寝かせた。
翌日から小僧と画伯の共同生活が始まった。
小僧はよく働き、完全に画伯に信用されて数日の内に鍵が付いていない部屋で寝かせてもらえるようになった。
画伯は自分の作品のために絵の具を運ばせたり水をくませたりさせ、小僧は画伯の手が空いているときに遠近について教えてもらっていた。
驚くべきことに、小僧はこの世界が三次元だということは触感的にわかってはいても、どうしても二次元だと視覚的には捉えてしまうようだった。
例えば絵を描くことは出来たが、彫刻を彫ることは全く出来なかった。
画伯は画伯なりに「小僧はこの世界を写真を見るように見ているのだ」と理解した。
そうこうするうちに画伯の作品は完成し、小僧も遠近法を完全にマスターした。
それは師弟関係の解消、つまり小僧が再び流浪することを意味していた。
「本当に今日出て行くのか?
まだこの家にいてもいいんだぞ」
「いえ、これ以上お世話になるわけにはいきません。
それにあっしはこれから何するか決めています。
父も母も生きてはおりませんが、あっしはこれから故郷に戻って故郷の仲間たちに遠近について教えたいと思います」
「そうか、そこまで言うならとめはしない。
小僧、達者でいるんだぞ」
「ありがとうございます」
小僧が背を見せて歩き出した。
画伯はふと思いついて小僧を呼び、ずっと気になっていたことを聞いた。
「小僧、これが今生の別れだろう。
最後に……サングラスの下を見せてはくれないか?」
小僧は背を向けたまま立ち止まり「そうですね、もういいでしょう」と言ってサングラスを外した。
なかなか顔を見せてくれない小僧にじれた画伯が催促した。
「私と過ごした日々で私のことをだいたいわかっているだろう?
どんな理由でサングラスをかけていたにせよ、私はそれを笑わないと誓うよ」
小僧は画伯の言葉を聞いてピクリと肩をふるわせた。
「嬉しいことをおっしゃってくれますね。じゃあ見せましょう」
小僧はゆっくりと振り向いた。
小僧の顔を見た画伯は白目をむき、泡をふいて倒れ込んだ。
小僧は残念そうに肩を落とし、再び故郷へ向かって歩き出した。
「はぁ、やっぱり人間はああなる。
あっしと過ごした日々であっしのことをわかっているだろうに、一つ目だからって泡まで吹かなくても良いじゃないか」
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