ここは天国か地獄か
蛇が目を覚ましたのは、夕暮れ時だった。
暖簾の隙間から夕日が差し込んでいた。
「ここはどこだろう」
頭を抱えて、どこか定まらぬ虚ろな目でぼうっとしている。
「起きたかい?」
蛇の後ろから、娘が声をかけた。
蛇がゆっくりと振り返った。
「あれ、どっかで見たような」
「なんだ、忘れたのか。さっき社で会ったんだけれど」
しばらくの間があった。
「思い出した! 急に変なことしてきたガキンチョ!」
大きな声で言うと、合点がいったのが急に身構えようとした。
しかしながら言うことを聞かない身体は、向きを変えようとしたまま横に倒れる。
隣に眠っていた、兄貴の上だった。
ーー ドスン
大きな音がして、カエルが潰れたような小さな声がする。
「いったいなぁ。……あ、兄貴!」
蛇の下に顰めっ面で眠ったままの兄貴を見つけた。蛇は混乱しているようで、兄貴の頬を叩き始めた。
「起きてー! なんか! もう! 兄貴!」
何度か打たれた兄貴が、苦しい顔のまま瞼を開ける。
「いてぇ」
「兄貴! ちょっと遅いよ! もっと早く起きてよ! あれ!」
状況の分からないままの兄貴の頬を両手で掴み、頭の向きを娘の方へと変えさせた。
「あれ! あのガキンチョ!」
「あれ? あれ誰だ?」
「この馬鹿兄貴! さっき社でなんだか言ってたやつでしょ!」
しばらくの間があった。
娘は微笑んだまま待っている。
「思い出した! お前なんだ! なんなんだ!」
兄貴もようやく目が覚めたようだ。
いきなり立とうとして、側にいた蛇と頭と顔をぶつけ、そのままかがみ込んだ。
「面白いね。あなた達」
娘はくすくすと笑っている。
「お前のせいでぶつかったじゃねえか、くそっ」
「兄貴が急に動くからでしょ」
それぞれ痛む頭と顔の部分を抑えながら、喧嘩が始まった。
一通り怒鳴り終えると、次はにらみ合いがしばらく続いた。
何やら繕い物をしていた娘は、仕上がったそれを傍に置く。
なかなか終わら痴話喧嘩に退屈していた娘は、呆れた面持ちで2人の方へ向けて手を伸ばした。
娘の傍にあった何かが空へと舞い上がり、ふたりの真上に浮かび上がる。
唐の衣装のような、少し変わった作りの衣と袴だった。
痴話喧嘩をしていた男ふたりは、突然の出来事に目を丸くしていた。
「なんだこれ! どうして浮いてんだ!」
「うわぁ! なんていい服! 綺麗じゃないの!」
ふたりの反応は異なった。
兄貴は喜び飛び跳ねる隣の男を、蛇睨みしている
「私が仕立てたのよ、好みはわからないから似合いそうなものを用意したの。曼は、薄色と深紫を重ねて、濡羽色の羽織。蘇芳の袴。蛇美は銀朱と鴇色を重ねて、桃色の羽織。紅鳶の袴。素敵でしょ」
娘が指で示しながら話すと、呼応するように衣装が舞った。
上質な衣装で、しっかりとした艶とハリがあった。
「曼は漆黒の髪に、鬼のような面構えね。少しでも品よく見えるように落ち着いたものにしたの。蛇美は身体は男だけど、心根は女のようだから、できるだけ華やかなものしたのよ」
それぞれの前に、衣装が目には映らぬ誰かに着られた状態で漂っている。
「確かに見たことないくらいいいやつだな」
これが俺のかとまじまじと見つめる一方で、
「兄貴見てよ! こんなに裾が長いよ! 可愛い色! 素敵!」
早速袖を通し、喜んで着付けていた。
「早く曼も着ちゃって。気に入ってもらって良かったわ、蛇美」
娘が満足そうに微笑んだ。
さっと手を振ると、残った衣装がひとりで動きだす。
誰がやるでもないが、衣装が勝手に着付けていく。
「俺もとりあえず着てから、喧嘩だな」
着付けられている兄貴の肩に手を置き、蛇は怪訝そうな面持ちだ。
「ねえ、その蛇美ってなんなの? それとばん?」
娘は少し嬉しそうな目つきになった。
「あなたたちの名前よ。あなたは曼であなたは蛇美。いい名前でしょう?」
「名前? 俺たちの?」
「なんだってお前が決めるんだよ。俺はこいつの兄貴だぜ」
蛇は渋い顔をして兄貴の口を手で覆った
「まあまあ兄貴、こんないい着物くれたんだ。いいもんはもらっといてさ、適当に出て行ったらいいでしょ。こんな変な所長居はしないほうがいい」
蛇、もとい蛇美はからかうように娘を見た。
娘は同じ視線を蛇美に返した。
「まあまあ。あんた達は私預かりでこの森からはもう出られないのよ」
「へえへえ、出られない……え!」
兄貴、もとい曼は口を覆った蛇美の手を払いのけた。
「なんだと! どういうことだ!」
「そのままの意味よ。この森はただの森ではないと知ってきたんでしょう? ここは人ならざるものの森、そして私も人であり人ではない。そのうちわかるわ、ここがどんなところか」
娘は不敵に笑う。
先ほどまでの穏やかな空気はどこかへ消え去ったようだ。
不思議と空気が冷えたような、重く沈んだような息苦しさが2人を襲った。
曼と蛇美は、怪しげな雰囲気と娘の微笑みに気圧され、言葉が出ない。
何をどう問えばいいのか、考えがまとまらないでいた。
ーーこいつは一体なんなんだ。何が起きている? 俺らはどうしてこうなった。
ーーこいつはおかしな力がある、もしかしたら本当に出られないのかもしれない。でもなんだってこんなことになってんのよ、どうしたらいいか全然わかんない……。
娘は怖気付いて静かになったふたりを、ゆっくりと交互に見つめた。
「まあまあ、そんなに怖がらなくてもいいのよ。私は恐ろしいけど、優しいのよ。そしてこれからあなたたちと家族になるの。大丈夫よ、心配しないで」
手のひらを口元に寄せて、そこへふうっと息を吐いた。
吐息が大きくうねって大きな風の塊となり、動けないふたりの元に飛んで行った。
ゆっくりとした大きな風が、ふたりの髪や衣装を揺らした。
金縛りが解けたかのように、ふたりは情けなく崩れ落ちた。
自分の身体の反応に驚いている様子だ。
娘はふわっと浮き上がって、ふたりの元に舞い降りる。
いまだこわばったままのふたりを覆うように、両手を伸ばしそっと抱きしめた。
「私はみんなに姫って呼ばれてるの。これからよろしくね、私の愛しい子よ」
まだ十になったかどうかの娘とは思えぬ佇まい、そして妖艶な微笑み。
落ち着いた声音に言葉遣い、どれをとっても尋常ではない。
畏怖したふたりは、どうにも娘から視線を外すこともできずにいた。
どんな言葉も声にはならなかった。