夢うつつ
男が2人、宙に浮いていた。
娘が歩いて森の中を進むと、小さな小屋へと辿り着く。
戸は勝手に開き、娘が入っていく。
その後をついて行くように、男らも小屋の中へと宙を流れて行った。
水をしこたまかぶったので、身体の様々なところからしずくが落ちている。
外からずっと、しずくの通り道ができていた。
小屋の中心から奥へと囲炉裏を囲むように板張りで、手前側には手狭な土間があるばかり。
作られたばかりのような、何も物がない小綺麗な古屋だった。
娘は囲炉裏のそばへ腰掛けた。
囲炉裏の中にある木の側へと、そっとに手をかざした。
「誰か火をつけてくれると助かるわ」
声に出した途端、ぼんと火が現れ、それはゆっくりと木を燃やした。
たちまち部屋は明るくなり、その近くへと男2人は漂っていく。
ーー汚い。
身体を洗ったことも、衣を洗ったこともなさそうな、何もかも酷い汚れ。あれほどの滝に打たれ、それでも洗いきれていない。
娘は呆れた顔で男らを見比べ、そして大きな息を吐いた。
「これは捨てよう」
宙に漂ったままの男らを、渋い顔をしながらつまみ、2人を並べる。
ーーまずはひとり。
男の服を脱がしていき、丸裸にする。
衣はそのまま囲炉裏に落とし、火に焚べた。
流れ作業でもうひとりも丸裸にして、また衣を火に焚べる。
ーーさて、
娘は瞼を閉じ、ゆっくりと呼吸をした。
「ーー炎と共にあるものよ、この男らの汚れをお清めください。貧相ですがこの衣を糧にしてくだされ。後ほど、新し巻きを用意させていただきますので」
娘がそっと瞼を開ける。
しかし男らに変化はない、汚いままだ。
「糧が足りぬか」
息を吐き、小屋の中を見回すも、何もない。
娘は小屋の外へ出て行った。
ーーまだまだやることが多いな。
小屋のすぐ隣まで樹が生い茂っている。人が住んでいるとは言えないような風景。
歩く道すらない、草を分け、踏みつけ進むようなところだ。
娘は小屋の周りを何周も歩いた。
少しずつ外へ広がっていき、樹を避けながら四角く草を踏んだ。
「すまないが、この辺りは少し拓かせてもらうね」
小屋の周りを1間ほど歩いた。
娘は入り口の前へと戻ってきて、片足を軸にくるっと回った。
今度は両腕を身体の横へまっすぐ伸ばし、ぱんと手を打つ。
その音に合わせて、踏んできた草が震え出し、あっという間に地面から引っ張られた。
根ごと引き抜かれ、宙に浮かんだそれらは娘に操られてひとまとまりになる。
ふっと息を吹きかけると、しおしおと少しずつしぼんでいった。
大きな塊が半分ほどになると、娘はそれを小屋の中へと引っ張って行った。
「これだけあれば燃せるかな」
その声に応えるように、囲炉裏の火が揺らいだ。
娘は囲炉裏に少しずつ草を焚べた。
次第に大きな炎となり、上に登った炎が飛び、男たちに向かって漂い始める。
「清めの炎だから、少しくらい焼いても大丈夫よ。湿っぽいし乾いて丁度いいわ」
娘が呟くと、漂っていた炎がぼうっと大きくなり、男らを包んだ。
身体も髪も焼けて焦げてはいない。
温かく包み込むような、穏やかな炎だ。
「ずいぶん丁寧にしてもらってありがとう。あとでお礼をするわね」
娘の言葉に炎は喜ぶようにうねり上がった。
「あとは起きてからにしましょう」
未だ炎に包まれている男らを背に、娘は小屋を出て行った。
ーー天井が見える。ここはどこだ。
ぼんやりとしか見えない、身体に力も入らず、男はそのまま横たわっていた。
ようやく首を傾け、左右を見る。小屋の中にいると確認できた。
隣に蛇が眠っている。
丸裸だった。
なんとか手を動かし、己の身体を触り丸裸だと知った。
ーー何が起きている。
そう言えば、小娘に会って、水をかぶった。しこたま。
気を失ったのか、それにしてもどうして裸で転がっている。
どうしてか寒くない。むしろ温かい。
鬼は身体を起こそうとするが、首までしか動かせなかった。諦めてそのまま元に戻った。
ーー血の匂いがしねえ。あんなに身体に染み付いていたのに。ここはなんだかいい匂いがする。
瞼を動かし、口を動かし、眠気に抗い、ようやく意識がはっきりしてきた。
「起きたのか」
足元から聞こえた、人がいる。
娘が小屋の外からやってきたのだ。
鬼の方へと歩いてきて、草履を脱いで上がった。
「どれ、支えてやろう」
鬼と囲炉裏の間に座り、方腕をとって肩へ回すと背中を抱えて身体を起こしてやった。
まだ小さい娘が抱えるには鬼の身体は大きい。
ようやく起こした身体で、娘と鬼は、近い距離で顔を突き合わせた。
娘はよく見ると、生意気そうだが綺麗な顔をしている。髪は後ろでひとつに結っていて、艶があるようだ。
丸い大きな瞳が、鬼の姿を映しているのが見える。
幼い顔に対して、出る言葉不釣り合いに大人びていた。
されるがまま、あらがう力も出ない鬼は言った。
「お前、なんなんだ」
娘が背に手を添えて、身体を支えてくれているままになっていた。まるで抱き抱えられた子どもだ。
「お前には、私は何に見える」
真剣な眼差しで、娘は問い返す。
鬼は眉間に皺を寄せる。
「生意気なクソガキだな」
娘は目を丸くした。そして笑った。
「まあクソガキに違いないが。お前よりは長い時を生きていることは確かだよ」
「なんだって? クソガキじゃなくてクソババアか?」
「あはは」
娘は声を出して笑った。
鬼は突然の大きな声に驚き、後ろにのけぞった。
娘の支えから背がそれて、そのまま床に頭が落ちた。
ーー ドスン
鈍い音がした。
「いってえな!」
頭を抱えようとしているだろう、両手がゆっくりと頭の方へ伸びる。
まだ身体は動かない。
足がひくひくとするだけで、のろのろと手を動かした。
ようやく鬼の頭に手が届いた時、娘が手伝うように手を伸ばした。
「痛いわね」
鬼の頭を幾度か撫でると、そっと抱え、膝に乗せた。
「大人しくなさい。息ができなくなっていたのよ。まだ身体が強張っているでしょう」
「お前のせいだろうが」
鬼のような形相というのか、眉間に皺を寄せ怖い顔をした。
娘には通じぬようで、そっと額を撫でられる。
「すまないね。ああでもしないとあんたたちは大人しくしないだろう。それに汚かったから洗ってやったのさ。綺麗になっただろう」
「そのためだけに死ぬ思いをさせたのかい、酷い女だ」
鬼は身体がままならぬので、精一杯そっぽを向いた。
ーーどうしたって、こいつは俺らを殺さねえ。刀を向けて脅したってのに。俺は洗われて、ひん剥かれて、ここに寝かされてる。どういうことだ。
娘がまた額を撫でた。
「痛そうな傷だ。古い傷だね、額の中心に矢傷とは、よく生きているね。もう少し深く当たっていたら死んでいたろうに」
額の中心、眉間の少し左上に、古い傷痕があった。
切れ長の瞳は、多くの人を怖がらせてきたのだろう。
娘には通じぬ鬼の精一杯の強面も、他所から見たら一端の鬼に見えよう。
普段は髪で隠れていて見えることはあまりないこの傷。そっぽを向いたせいで、娘からはよく見える。
鬼は手を払いのけようとするが、弱々しいままの腕では大して抗えない。
娘にそのまま手を握られてしまう。
更に不快な心地の鬼は、ぐっと押し黙った。
憐んでいるのか、娘は苦しそうな面持ちだ。
鬼はそっぽを向いたまま、そのことは眼に映らない。
繋ぐ手のひらがじんわりと温かい。
娘はずっと、その傷を撫でていた。
「どうして、ここにきたんだい」
鬼は答えない。
「まあね、ここは人の入れない森だから。あんたらも迷っていたしね」
ーーそうだ。あの社からどこへも行けなかった。
ここは一体なんなんだ。
「ここはね、人ならざるものの場所なんだ。人でないものが集まり、住んでいる森。そう簡単には出入りはできない」
ーーそうだ、だからここにきた。だから? どうして? どうしてここに。
「ここにいるのは人でないもの。人から外れたもの。あんたはどうしてここにきたんだい?」
ーー俺はどうして……。
鬼はだんだん意識がぼんやりとして行った。身体が温かくなってきて、急に眠気が襲ったのだ。
額を撫でていた手のひらがそのまま伝っていき、頬に添えられた。
ゆっくりと顔の向きを戻され、鬼の顔は娘と近くに向き合った。
長い間視線を交わした。
ーー視線が外せない、眼を離しちゃいけねえ。
鬼はだんだんと瞼が重くなっていく。
ゆっくりと娘が微笑んで、そっと手のひらで瞼を覆った。
「この傷はどうしてついたんだ?」
娘が問うた。
「……親父に、お袋と一緒に刺されたのさ。お袋は俺の前にいて、手で押さえたんだが貫いた先が頭に当たっちまった。俺だけは助かった」
「そうかい。それは苦しかったろう。あんたのお袋さんはあんたを守れて嬉しかったんだろうね」
ーー嬉しいだと、死ぬなんて誰だって嫌に決まってるだろう。何がどうして……。
「泣きたい時は泣くといい。あんたにもまだ泣きたき心はあるようだよ」
鬼は涙していた。気がつかぬうちに。
「なんで……」
ーー何が起きている。涙なんてもう流すことはないと。おかしい、何が起きてんだ。
「安心しなさい。あんたのお友達はまだ眠っているよ。いっぱい苦労したんだ、今はゆっくりお休み」
鬼はなんとか腕を動かし、瞼を覆った娘の手を掴んだ。
ーーこんな小さな手、握りしめたら潰れっちまうな。なんて優しい眼を……。
鬼はもう瞼を閉じていた。眠ったようだ。
娘の手を弱々しく握ったまま。
「あなたはきっと大丈夫。きっと、私たちは……」
娘は眠った鬼の姿を愛おしそうに見つめていた。