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戦え!水棲少女 伊香保するめ

【第2話】伊香保するめの日常


 海沿いのこの街も、すっかり梅雨に突入していた。

 潮気を帯びた重ったるい雨風が、ボタボタと窓を叩いてくる。

 祖父母は漁協の会合、父親は仕事、母親は買い出しに出掛けていて、家にはするめ以外の人間は誰もいない。

 空調の効いた自室にて、ゆるい部屋着に身を包んだするめは机で何か作業をしながら、ノートPCでY○utubeの動画を流しっぱなしにしている。

 登録しているチャンネルの動画を、自動で連続再生するモードに設定していた。

 すぐ横には、たまたま近くを通りかかったついでに軽い打ち合わせに訪れていた、アカヒトデのアスティも一緒にいる。

 水棲少女とエージェントとの間では、常日頃からこまめにコミュニケーションを取ることが肝要なのだ。


「へぇー、お嬢は料理動画を見るのが好きなんですねぇ。

 自分でも作ったりするんですかい?」

「んー、普段はあまりしないんですけど、時々急にやる気が出て、手の込んだものを作りたくなることがあるんですよねー」

「あー、ありますねぇ、そういうこと」

 今再生が始まったこのチャンネルは、登録者百万人を超える大人気料理系配信者の物だ。

 このチャンネルの特色としては、何と言っても材料の下処理から盛り付けまでの全ての工程をたった一人、配信者自身でやり切ることをウリにしている点にある。

 自分で釣り上げた魚を自分で捌き調理するシリーズが特に人気で、実際するめも、そのシリーズの動画を台所で再生しながら見よう見まねで同じ料理を作ることがあった。


『おはこーん、一人で出来ラァ!チャンネルの時間でございますよ〜』

 配信者の男が、飄々とお決まりの挨拶を謳い上げる。

 画面中央には、ちゃぶ台の上に巨大な発砲スチロールケースが鎮座しているのが見えた。

「ひえ〜、随分デッカいブツが入ってますねぇ、これは。

 海産物か何かでしょうかね」

「ですねー。

 自分で一から捌く系の動画かもしれません。

 この人の捌き方、すごく上手いんですよ。

 楽しみだなー」

 するめは、漁港の近くのこの家で生まれ育ってきた。

 誰かが魚介類を捌く場面を見るのは、もはや日常茶飯事である。

 その肥えた目からしても、その配信者の腕前はかなり達者なものだった。

 今日はどんな技を見せてくれるのだろうか。

『さて、今回はすごいですよ〜。

 張り切って、個人で仕入れられる限界分まで、買ってきちゃいました!

 一つの食材で、どれだけ沢山のバリエーションを作れるか、挑戦してみようという企画です!

 とにかくボリュームがすごいですからねー、多分何本かに分けて投稿することになると思います』

 いつもより興奮気味に台詞を読み上げていた。

 今回の動画はかなり力を入れて撮影しているという熱気が伝わってくる。

 他の作業をしながら流し見程度だったするめも、手を止めて画面に集中していた。

 これはかなり見応えがありそうだ。

 配信者は大仰な動きでもって発泡スチロールの蓋を取り外して見せる。

 その下から現れたのは……。

『今回の食材は……こちらっ!

 なんとまだ活きた状態の、新鮮なスルメイカ!!

 それではこちらを〜、捌いていきま〜しょう!』

 なんと、その巨大な発砲スチロール一杯に、輸送のためにエアーカプセルに包まれ、氷水によって仮死状態となった大量のスルメイカが詰め込まれていたのだ。


 ブチッと動画の再生を切ると、するめはブラウザを閉じてしまった。

 その表情は、何やら剣呑な雰囲気を漂わせている。

「お、お嬢……。

 大丈夫ですかい?」

 心配になったアスティが語りかける。

「ごめん、ちょっとグロテスクな光景だったから……。

 水棲少女になってから、イカを見かけるとなんか感情移入してしまうというか……、自分の姿を重ね合わせるようになっちゃったんだよね……」

「お嬢……」

 するめはイカのDNAと融合を果たすことによって、イカの水棲少女に変身して戦っている。

 イカのDNAを身体に取り込むようになったことで、その体質や思考はイカに近づき、一種の“共鳴”を示すようになっていた。

 氷水に浸けられて仮死状態に陥ったり、まな板の上に乗せられ出刃包丁で捌かれてしまう自分の姿を想像してしまい、するめの髄を寒気が走った。

 ベッドの上、毛布の中にがばりと潜り込んでしまう。

 ありゃー……今日はどうも、打ち合わせできる雰囲気ではなくなっちゃいましたねぇ……。

 アスティはやれやれと、その頭だか腕だかを、もう一本の腕でポリポリ掻いている。


 これは水棲少女になりたての時にはよくあることで、人間としての心と水棲生物としての感覚とがまだ馴染んでいないことによるものだ。

 それ故に、被食者となる恐怖に過敏に反応し、精神が不安定になってしまう。

 しかし弱肉強食の海で戦う以上、この葛藤は避けられないものでもある。

 この精神状態は時間が経つにつれて徐々に身体に馴染んで緩和されていき、そのうち気にならなくなるはずなのだが……。

 アスティは先ほど画面に映ったスルメイカの大群を思い浮かべる。

 あの量のイカを個人規模で消費し切るには、かなりの時間がかかるに違いない。

「向こうしばらくは、チャンネル登録を解除しておいた方がいいかもしれませんねぇ」

 青い縦線が浮かんだ顔を毛布から出して、涙目のするめはコクコクと頷いていた。



──するめが水棲少女になりたての頃、打ち合わせの一幕。


「前々から気になってはいたんですけど、“海の悪玉”って、一体何者なんですか?

凶暴なサメとかシャチとか?」

 するめは、自分がこれから戦うことになる敵について、アスティに尋ねていた。

 丁度説明しようとしていたとばかりに、アスティは流暢に話し出す。

「“海の悪玉”というのは、特定の種族を指した言葉じゃねえんです。

 あらゆる種族においても、“悪玉”に相当する輩は一定数存在するんですよ」

 自然の海は、『弱肉強食』という絶対的ルールによって生態系が維持されている。

 しかし、その摂理そのものを無理矢理捻じ曲げようとする者はどこにでも湧いてくるものなのだ。


 アスティが言うには、自分や仲間の身を守るために万事を尽くすことは全く問題ないのだが、特に酷い連中だと、同じ海に生きる多くの生き物たちや環境そのものに害を及ぼし私欲を貪ったり、愉快犯的に他者に危害を与えたりする例が後を絶たないそうだ。

 そこで、そういった連中は人間社会で喩えるならば『公共の利益』を害する存在として、海全体の中立的立場である“海の代表者”が制裁を下すこととなっているという。

 『弱肉強食』というルールとは一見矛盾しているように思えるが、健全な競争社会を保障し、持続可能な環境を保つためには必要な措置なのだそうだ。

「そんなわけで、例えばアカヒトデという分類一つの中でも、ワタクシみたいなカタギの者もいれば、悪玉側のワルいヒトデもいるわけなんです。

 “海のギャング”なんてのは、まさにああいう奴らを指すわけですな」

 なるほど、とするめは相槌を打ち、質問を重ねる。


「そういう“悪玉”に人間が操られて密漁みたいな悪いことをしてる、って言ってましたよね。

 催眠術みたいなものをかけて操ってる感じなんですか?」

 その質問に、アスティはしばし返答の内容を考え込む。

 それは、芯を食った質問であるからに他ならない。

 アスティは、なるべく差し障りのなさそうな答えを探しながら、言葉を繋ぐ。

「それがまたややこしい話なんですが……。

 中には怪しい術をかけられて意思を操作されている人間もいるにはいます。

 でも、自分の意思で悪玉に付き従ってる人間の方が多いでしょうね。

 結局は、“コレ”で動いている訳ですな」

 そう言うと、アスティは一本の腕をクルリと曲げて一つの円を形作った。『金で雇われている』、そう言いたいのだ。

「なんか、急に生々しい話になりましたね。

 世の中そういうものなんでしょうか?」

 ファンタジーの世界観でいきなり現実感を帯びた答えが返ってきて、するめは怪訝な顔をしている。

「まあ、ある意味、催眠術で自分の意思を奪われるよりも残酷な話でしょうねぇ」


 伝え方の整理がついたのだろう、一拍置いたのち、アスティは説明を付け加えていく。

「さっき、悪玉はあらゆる種族に満遍なく存在していると言いましたね?

 逆に、密漁の被害に遭う側は、特定の種族に集中しているんです。

 中には所謂“政治的思惑”でもって狙われる種族もありますが、それはむしろ少数派です。

 被害に遭いやすい種族には、ある共通点があります」

「共通点?」

アスティはペコリと頷く。

「特に最近密漁被害が大きいのは、アワビ、ナマコ、ウナギ、この三種族です。

 一つの共通点があるんですが、お嬢は分かりますかい?」


 アスティからの問いに、するめは腕を組み、神妙な面持ちで考え込んでいる。

 真剣に、その正解が何かを考えているようだ。

 が、程なく何か閃いたというような表情を浮かべたのち、ドヤ顔でアスティに回答を述べた。




「……分かった!

 三つともエッチな生き物だ!」


 それを聞いて、アスティはずっこけた。

 床に全身がビターンとつんのめっている。

「なんでそうなるですか!?

 どこから突っ込めばええのか……。

 大体、海の生き物をなんちゅう目で見てんですか!!」

 ツッコミを捲し立てるアスティに対し、自信満々の回答を出したつもりのするめは「あれぇ……?」と困惑していた。

 アスティは、だんだんと「この子に水棲少女の使命を任せて大丈夫なんだろうか……」と不安になってきたのだった。

 “イカはタコほど頭が良くない”とか関係なく、元々単なるアホの子なのではなイカ?

 そもそも、百歩譲って、アワビやウナギがエッチだというのは、言わんとしてることはまぁ分からないでもない(本当は分かりたくないが)。

 しかし、ナマコって、エッチかなぁ……?

 どうなんだろう?

 もしかして人によるのかなぁ……?


 考えるのも馬鹿馬鹿しく、アスティはさっさと答えを言ってしまう。

「三つとも、食材として高値で取引されてるんですよ!

 “シノギ”として割が良いってことです!

 そんなことも分からないんですか!」

 本当はまだ中学生のするめに“大人の事情”が垣間見える具体的なワードは聞かせないつもりだったのだが、ヒートアップのあまり、ほとんど正解を言ってしまっているアスティであった。





 梅雨の長雨が落ち続けていたある日のこと。

 祖父母は漁協の会合、父親は仕事、母親は買い出しに出掛けていて、家にはするめ以外の人間は誰もいない。

 するめは、ベッドに寝そべり、タブレット端末でY◯utubeの動画を見ながら寛いでいた。

 一年生の頃から使い続けていた学校指定の体操服を、部屋着代わりに着込んでいる。

 学校で使うには流石にサイズがキツくなってきたので、先日新しい物に新調したのだ。

 この体操服は水棲少女として戦う際の戦闘服として必須であり、新しい方の体操服を酷使するのも勿体無いので、古い方の物も戦闘服用として取っておいたのだ。

 元々材質が伸縮性に優れているので、そのまま部屋着として使うことも増えた。

 胸の名札は頑丈に縫い付けられているため取り外すのも面倒臭く、一切手をつけずそのままだ。

 その名札には、学級名と『伊香保』という名を示す文字がデカデカと掲げられている。

 これを部屋着にしておけば、仮にアスティから急な呼び出しを食らっても、さほど時間をかけず出動することができるのだ。

 とは言え、今日は海の雰囲気もずっと穏やかで、緊急で引っ張り出されるといった心配はなさそうだ。


 タブレットの画面上では、するめが登録しているチャンネルの動画を再生していた。

 ちょうどそこに、近所を通りがかったアスティがやってきた。

 雨で濡れた躰を、するめが窓際に用意しているタオルで拭き取り、部屋の中にお邪魔する。

「ヘイお嬢、How do you do?」

「んー、ぼちぼちです」

 するめはアスティの方を一瞥するのみで、すぐタブレットの画面に集中し直す。

 アスティも、その画面が見えるところまで近づいてくる。

「あれ?

 これ、この間の料理系チャンネルじゃないですか?」

 しかもよくよく見てみれば、その動画は先日するめが怖がって途中で消してしまったスルメイカシリーズの続き物ではなイカ。

 今まさにまな板の上で、解凍されたスルメイカの身をざく切りにして調理していく工程が映されている。

「もう“共鳴”の方は大丈夫なんですかい?」

「うん、なんかもう大丈夫みたいです。

 慣れちゃったっぽくて。

 むしろ前よりも美味しく見えるくらい」

 そう言うと、するめは再び画面を食い入るように見つめ出した。


 精神状態が安定したのは良かったのだが、どうも、慣れるまでが早すぎるような……。

 アスティはそう訝しむが、まぁ打ち合わせができないよりは良いかと、するめのすぐ横に腰を下ろした。

 するめはご機嫌なようで、若干サイズ小さめの体操服に包んだその身体をベッドの上でクネクネと揺らし、画面に夢中になっている。

 よっぽど料理が美味しそうに見えるのだろう、だらしなく半開きになった口の端から唾液が垂れそうになっていた。





──するめが水棲少女になって少し経った頃、打ち合わせの一幕。


 そういえば、と薄々気になっていた質問をアスティにしてみる。

「私って、“海の代表者”さんにはまだ会ってないんですけど、一体どんな方なんですか?

 すごく大きなクジラさんとか?

 それとも、筋骨隆々な男の人魚さんだったり?」

 それを聞いたアスティは、説明をし忘れていたとばかりに、するめに答えを返す。


「代表者というのはですね、厳密には、特定の一名を指す言葉ではないんです。

 この海を一つの組合として喩えるならば、その組合に所属する全員の“総意”こそが、狭義の“海の代表者”である訳で」

「民主主義の議会みたいな感じ?」

 アスティは「大体そんな感じですね」と頷く。

「ただ、大勢の意見を物理的に結集するのは、現実的ではありやせん。

 そもそも海にどれだけの生き物が暮らしているのか把握することさえ不可能ですし、それを無理矢理実現しようとしたって、事務作業が煩雑になるだけです。

 そこで」

 一拍置く。

「海の生き物たちの意思、それらを結集した思念体の塊を、一つの形に集合・実体化させ、その存在に行政を司らせることにしたんです。

 正確に言えば、お嬢はワタクシを媒介に、その思念体と契約して水棲少女になった訳なんですよ」


「何それ!カッコイイ!!」

 するめの表情が急に輝き出した。

 いきなり熱狂し始めたするめに、アスティは思わずたじろぐ。

 これまで接してきて分かったことだが、するめはそういう超自然的でスピリチュアルでファンタジックな世界観に非常に弱い。

 それこそ、アスティが初めて目の前に現れた時も、『水棲少女として戦ってほしい』と依頼を持ちかけた時も、するめは目を輝かせながら、ノリノリで話に食いついてきた。

 ある時、アスティがするめの部屋に顔を出そうと窓から覗き込むと、姿鏡の前でウキウキしながら変身ポーズを考えているするめを目撃してしまい、いたたまれなくなってそのまま挨拶もせず帰ってしまったことがあった。

 今でこそ現実の海の世界、その生々しさに辟易してしまい乾いた感想を口にすることも多くなってきたが、こうやって新情報を小出しにしていくことでするめのモチベーションを上げられるのだと分かってきた。

 やれやれ、エージェントの仕事も楽じゃない……。


「実体化した思念体って、一体どんな姿をしてるんですか?」

 急に色めき立ってしまった自分に恥ずかしくなったのか、するめはコホンと咳払いしてからアスティに尋ねる。

 アスティは、少し考えたのち、するめに尋ね返す。

「お嬢は現役の中学生ですし、もしかしたらもう社会の授業で習ってるかもしやせんが……。

 ホッブズ、って分かりますか?」

 するめはキョトンと首を傾けているが。

「ホッブズ……?

 あー、多分知ってる。

 美味しいよね、アレ」


 アスティは床にずっこける。

 一体何と勘違いしてるんだろう……。

 学校の勉強について話したことはないのだが、この様子だとあまり成績はよろしくないんじゃなかろうか……。

 アスティは、だんだん親心のような心配が湧いてきた。


「ホッブズ、っつうのは十七世紀の有名な哲学者の名前です。

 『万人の万人に対する闘争』状態を避けるべきとして、国家主権の絶対性を説いた、あのホッブズですよ。

 中学校ではまだ習わないのかもしれんですね」

「あー、そう言われると、どっかで聞いたことあるかもしれません」

 するめは片手で頭を掻きながら、記憶を辿っている。

「そのホッブズさんが、代表者さんの姿と何か関係あるんですか?」

 アスティはペコリと頷く。

「社会の教科書とかで、ホッブズの著作である『リヴァイアサン』の扉絵がよく載ってると思うんですよ。

 王冠を被って両手にサーベルと杖を構えてて、胴体が大勢の人間たちによって形作られた巨大な男の人の絵、って言ったら伝わりますかね?」

「あ〜、そう言われれば、見たことあるかもしれません」

 するめは、髭をたっぷり蓄え、がっつりパーマがかかった髪型をしている、不気味な男の姿を思い浮かべた。


「海の代表者の姿形、サイズ感も含めて、大体あんな感じです」

 でっっっっっっっっか。

 そして、こっわ!

「思念集合体ですからね、そういうもんでしょう。

 そのうち、お嬢のところにも挨拶に見えられると思いますよ。

 水棲少女として戦ってくれてる分の報酬も支払わないといけませんしね。

 なぁに、見た目は怖いかも知れませんが、話してみれば気の良いおっちゃんです。

 海の民たちからは、親しみを込めて“リヴァイアさん”なんて呼ばれてましてねぇ」

 するめは、あの丘の向こうから上体を覗かせるような巨大な男が、自宅までやって来る姿を想像し唖然としてしまう。

 とりあえず、家には入りきらないだろうな……。

 今のうちに、あの扉絵に描かれた丘のような、収まりのいい場所を探しておかなくては……。

 人間サイズの茶菓子なんかでは物足りないだろうな、というか、そもそもお茶を出してもてなすことすら無理だろう。

 あまりのスケールの大きさに、無意識にこじんまりとした等身大の考え事をしてしまう、するめであった。





 梅雨明けまで間近に迫った、ある日のこと。

 窓の外では、小雨がしとしと落ちている。

 祖父母は漁協の会合、父親は仕事、母親は買い出しに出掛けていて、家にはするめ以外の人間は誰もいない。

 するめは、台所に立ち、料理をしているようだった。

 Y◯utubeの料理動画を見ているうちに、興が乗ってきて、自分で作ってみようという気分になったようだ。

 その姿は何故か部屋着代わりの体操服を着込んだうえ、水棲少女に変身している。

 丸首体操服とショートパンツが素肌の延長線上であるかのように皮膚に密着し、するめの身体と一体化しているのだ。

 その上から、ピンク色のエプロンを身に付けていた。

 変身後の肌感覚からすると、裸体の上にエプロン一つだけを着ているも同然な格好であったが、するめは特に意に介していない。

 背中から天使の羽のように十本の腕が生え、ウネウネと蠢いており、そのうちの触腕に相当する二本の長い腕でもって身体の重心を支えている。

 全身に生えた赤と白の吸盤は、ヒクーッヒクーッと呼吸のような伸縮運動を続けている。

 脚の付け根のカラストンビが、食事を待ちかねるようにパクパクと動いている。

 両肩から横向きに生えたエンペラをパタパタとはためかせており、今日は随分ご機嫌なようだ。


 大きめの鍋いっぱいに満たした水をコンロにかけ、沸騰するまでの時間を利用してまな板の上でニンニクを刻んでいる。

 流し台の上、するめのすぐ目の前にはタブレット端末が立てかけられ、その画面上では例の料理系配信者によって先日アップロードされた動画が、ループ再生されていた。

 その動画の料理をこれから作るつもりらしい。

「ニンニクの香りをオリーブオイルに移して……。

 この中に墨をビューッと入れてしっかり火にかけまーす。

 焦げ付かないように、ヘラで混ぜ続けてくださいねー。

 こうして処理してあげれば、墨特有の生臭みを消してあげることができます。

 墨に十分火が通ったら、次は先ほどぶつ切りにしたゲソをフライパンに入れて炒めまーす……」


 するめがニンニクを刻んでいるまな板のすぐ横に視点を向けると、五角形をした純白色のコンパクトのような物が置いてある。

 実はこれ、つい先日アスティからするめへ支給された変身用アイテムだ。

 この中には、変身や身体の治癒のために必要なエネルギーが備蓄されており、アスティがいない時でも一定の時間内であれば変身して戦闘を行なったり、身体に溜まったダメージを回復させることができる。

 なんと言っても、このエネルギーこそが水棲少女としての身体の力の源である。

 もし身体が切り刻まれたとしても、生命活動さえ止まってしまわなければ、多かれ少なかれ時間はかかるが元通りに身体を再生できる。

 料理を始める前に、これを使って変身したらしい。


「さて、そろそろ……」

 するめは出刃包丁をギュッと握ると、自分の背中から生えた腕の一本を捕まえ、まな板の方へ引っ張り出す。

 するめの意思とは関係なしに、その腕に備わった生理的反射作用によって、まな板の上でビクビクとのたうっている。

 包丁を構えたその目には、獲物に狙いを定めた肉食獣のような、猟奇的な笑みを浮かべていた……。


「まさか、自分の腕を食材にするつもりじゃあないでしょうね?」

 いつの間に家の中に入ってきたのだろうか、アスティが梁の陰から顔を覗かせ、するめに諭す。

「えっ!!

 ダメなの!?」

 思ってもみなかったことを言われた様子で、するめはアスティの方を振り向く。

「ダメに決まってるでしょう!

 何考えてんですか!!

 もう、色々な意味でアウトです!!!」

 やれやれ、こういうことがあるから、定期的に様子を見に来ていたのだ……。


 やはり、するめの精神状態は、まだ安定していなかった。

 今のするめの目つきには、野生のイカが持ち合わせているような獰猛な食欲が宿っていた。

 人間の理性よりも、イカとしての野性の方が優位に立ってしまっている証拠だ。

 スルメイカの食欲は旺盛で、一日あたり自重の10〜20%相当の餌を食べる。

 また、攻撃的な肉食性を有しており、餌が足りなければ同種の間で共食いをすることさえある。

 おそらく、まだ不安定な精神状態のうちにあのチャンネルのスルメイカシリーズの動画を再生してしまい、潜在意識の中の“共食い”の感覚が刺激された結果、どうせ再生できるのだから自分の腕を食べてしまえ、という発想に至ったのだろう。

 海で生きていれば色んな考え方に触れる機会がある。

 同族や自分の躰を食べるということについての是非は、種族によって大きく意見が分かれるところだ。

 ただ少なくとも、するめのこの行為は止めなければならない。

「そもそも、そのエネルギーは水棲少女の使命を完遂するためのものなんですから、自家消費は許されやせん!

 株式会社の違法配当じゃあるまいし!!」

「ごめんなさい、そのたとえはちょっとよく分かんないです」


 するめはまだぶつくさと文句を垂れているが、なんとか自分の身体を食べるのは思いとどまらせることができた。

 イカ墨パスタの代わりに、冷蔵庫の中にあったイワシの缶詰を使ったパスタを作り、するめとアスティの二人で食べた。

 よっぽどイカ墨パスタを楽しみにしていたのだろうか、調理開始から食べ終わるまで、するめは変身した姿のままだった。

 とは言えイワシを使ったレシピもなかなか乙なもので、その美味しさに舌鼓を打つように、エンペラがヒラヒラひらめいている。


「ふぅ、ご馳走様でございやした」

「はい、お粗末様でした」

 腹を風船のように膨らませたアスティは、満足そうに畳の上に寝転がり、文字通りの大の字になっている。


 フライパンや食器類を洗うためにするめが台所に向かうと、ふと窓の外に目が向いた。

 先程まで降り続いていた小雨が止み、雲の隙間から青い空と陽の光が覗き始めていたのだ。

 もしかしたら、明日明後日あたりには完全に梅雨も明けるのかもしれない。

 そうすれば、本格的に夏の到来だ。

 今まであまり意識したことはなかったのだが、この近場の海では夏こそがイカ釣りのメインシーズンであり、多くの釣り人が訪れるようになるという。

 イカ墨パスタは結局食べられなかったし、折角だから自分でイカを釣りに出掛けてみようか。

 取り立て新鮮な夏イカは、きっと美味しいに違いない。

 そんな思索を歓迎するかのように、雲の切れ間は広がっていき、そこから夏の太陽がチラリと顔を見せる。

 するめは、大きな麦わら帽子はどこに仕舞ってたっけ、と思いを巡らすのだった。


 グルメを嗜むのも良いけれど、伊香保するめ、そろそろ戦え!



おわり

前回書いた後、自分の中で伊香保するめというキャラクターがいたく気に入ってしまいまして、思いつくままに続きを書いてみました。


主な参考書籍

ホッブズ(2009).リヴァイアサン Ⅰ (永井道雄・上田邦義訳),中央公論新社

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