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第四話  停滞という奈落

 とっくに六限のチャイムは鳴っている。部室の中に探し物がなければ、さっさと帰るとしよう。このまま帰ったら、学校に残った意味がない。


 部室につくと確かに誰もいない。閉まったカーテンが風をくるんで、窓側の影を波打たせていた。

 昼休みの時に座っていた自分の席に近付くと、実験道具がだしっぱなしになっているのが目に入る。授業を受けた生徒が片付け忘れたのだろう。


 テーブルの上にも、机下にある物入れにも目当ての紫色の表紙は無い。二度手間にはなるが、生徒が出入りしていることを考えると、改めて紛失物担当のところに顔を出す必要があるかもしれない。


 そう考えながら、改めてがらんどうの教室を眺める。この景色にも見慣れた。

 窓側の柱を見やると、三か月に張り替えられるコンテストの結果が目に入る。そこの優勝者は確かに『朝倉栞』とだけ書いてあり、滝の名前はない。一度に二作品を提出することができないから、あえて滝と朝倉の連名にしなかったんだろう。

 滝の名前はベストデザイン賞のところにある。本音を言うと、滝が今年度に入ってから精力的に制作に勤しんでいるのが、私はとてもうれしかった。


 一年も前に廊下に張り出されていた、滝の油絵。具体的に何が描いてあったかは明確には覚えていないが、一匹の蝶が飛んでいたことは強く印象に残っている。その絵を見かけたときに、どこか懐かしいその世界観が、心に留まっていた。

 

 星見先生とコアアイデアを引き受けるかどうか話し合った時も、デザインを滝にしていいなら、そして時間と資材を好きなだけ使っていいなら、という条件で引き受けた。

 

 滝と意見を交換するのは楽しかったし、憧れていた滝の作品をこの世に顕現させることに高揚感を覚えていた。

 校舎から校門までを真っ直ぐ繋ぐ道を、フラワーアーチや鳥、虹などで飾った立体空間。魚が宙を泳ぎ、紙吹雪で文字を書き、花からは歌が聞こえる。一枚絵の中に自分が入り込むようなコンセプトだった。

 しかし、あの景色を見ることは終ぞできなかった。


 まあ、ノートが無いならこの部屋にもう用はない。さっさと帰ろう。動画は適当にでっち上げて、精霊たちに納得してもらうことにしよう。


 部屋を出ようとすると、いつもより扉が軽い感覚がする。とっさに手を離すと勝手に扉が開く


「あれ」

「あっ」


 至近距離に滝が現れた。自分の間の悪さにあきれ果てる。

 滝の方は、扉の向こうに人がいることに気づいていなかったようで、びっくりして後ろに下がっている。


「じゃ、さいなら……」


 私はそそくさと部室から離れようとする。三十六計なんとやらだ。


「まって!」


 四角い筒のような廊下に、滝の声が響く。無視して、私は帰ろうとする。


「これ、工藤さんのでしょ!」


 私はとっさに振り返った。滝の手にあるのは、確かに紫色の表紙のノート。


「なんでそれを……」


 いや、それだけじゃない。なぜ、それが私のものだと知っている? 名前も何も書いてないのに。


 滝が私を追いかけてやってくる。一瞬で暗い光が私の脳を駆け巡った。失くしたノート、滝から恨まれていること、滝の手の中に私のノートがあること。

 滝がノートを盗んだのか?


「い、いや……」


 過去は私を追いかけてくる。滝も鬼気迫る勢いで走る。一体なににそんなに憑りつかれているのか。


「こないで!」


 私は叫んでいた。滝はそれに呼応して静止する。


「もう放っておいてよ……」


 ざわざわと人の喧騒が聞こえる。実験棟にやってきた人たちだろう。

 私は走り出していた。滝と逆方向に。


「工藤さん!」


 滝がまだ追いかけてくる。人ごみを振り切り、渡り廊下、教室の前、放課後の当たり前の風景を横切って、逃げ出す。

 どこに行くとも決めていない。でも、私が逃げ隠れる場所なんて一つしか思い浮かばなかった。


 本館の廊下を上り上り、上へ上へ。私に置いて行かれるように、周囲の人間は減り、ついには無人となる。


 鍵を開けて、屋上へと帰ってくる。黄昏が満たす空間。さすがに撒いただろう。


『なんだ、戻ってきたのか』


「……あんたまだいたの」


 私だって芸がないとは思うが、なにもここで待っていることはないだろう。こいつが犬か猫かで迷っていたが、犬だったか。


 ゴンゴンゴン!!


 背中の扉から音がして、思わず飛びのく。


「ここまで追いかけてきたの……」


 いつもの癖で鍵をかけていてよかった。ここまで人が来るはずがないと思っていたのに。


「工藤さん! 開けて! おねがい!」


「もう、そんな古ぼけたノート、勝手に持っていってよ! 私のことなんて……」タッタッタッタッ「いや最後まで聞け!」


 ツッコんだ勢いで扉を蹴りつけた。


「いつつ……」


 ただ足が痛んだだけで、なにも扉の向こうから帰ってこない。本当に階段を下りて行ってしまったようだ。

 ……なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。延々と一人相撲をして、私自身はなんにも前に進んでない。


 扉の前で体育座りをすると、床の冷たさが微かに制服のスカートを通して伝わる。夏が終わってもずるずると暑さを引きずっている。


『滝を追いかけなくていいのか?』


「いいでしょ、別に。愛想つかしたんだって」


 もはや滝自身に悪意があったかどうかなんてどうでもいい。確かめるのも面倒だし、もう極力関わらない方がお互いにとって良い。


『あー、どうなんだろうな……。まあ……』


 ポリンにしては珍しい反応だ。

 しばらく沈黙が流れる。こいつとこんな空気になるなんて初めてだ。昨日からなんだか、様子がおかしいような気がする。


『俺は澪の気持ちを分かってるつもりだ。だから聞いてほしいんだが……』


 なんて下手糞なしゃべり方だろう。お前の気持ちがわかるなんて言われていい気がする人間なんていない。精霊はきっとそんなこともわからない。それなのに、なぜ私に語り掛けることをやめないのか。


『殻にこもるのは良くないと思うんだ。お前の思ってることを伝えられれば誰だって……』


「ぶふっ」


 思わず噴き出した私に、ポリンが怒りの混じった声をあげる。


『おまえ……。俺が真面目に話をしてるってのに』


「だって、そんな犬だか猫だかわからない顔で似合わないこと言われたらさぁ……」


 ポリンとそこそこ長い付き合いだと思うが、こういった核心ついた話をすることはなかった。私から漏れ出た笑いは照れから出てきたものなのだろう。家族や友達に人生の相談をするときには、こういう感覚を味わうものなのかもしれない。


「あんたさ、よく私なんかに構うよね。私にたぐいまれなる才能があるのは、まあ公然の事実として、終始こんな調子じゃ、滝みたいに愛想つかすのが正常な反応だと思うわ」


 こうやって口から思ってもない出まかせを言っていると、後から思い返してすごく気持ち悪くなる。それがわかっているのに、そこで言葉を止めることはできない。


「なんで私なの、私にどうしてほしいの、何のために……」


 だけどそれ以上言葉が出てこない。こんなものだ、私の本音なんて。すっからかんでひねり出そうとしたってなにも出てこない。空虚な中身を空回りさせて、やっと私は現状を維持できる。

 図らずもポリンの言葉を待つことになった。


『……お前はあのノートと向き合うべきだよ。俺が澪に執着するのも、あのノートが俺の一つの幸せの形だから。お前が幸せでいてくれることが俺の幸せの形だから』


 よくわかんない。向き合うってどういうこと? 幸せってどういうこと? 私の中身からはそんなもの見つからないよ。

 ぬるい風が肌を撫ぜた。


「……怖い」


『それでもだ。大丈夫。お前はちょっと臆病になってるだけだって』


 あの頃。ルナカントにいた時のことにポリンは滅多に触れてこなかった。私自身、あまり思い出したくなかったしちょうどよかったのだ。


 精霊が見えるなどと宣う私は、家族にも学校の人にも理解されることはなかった。友達なんて一人もいない私に構ってくれるのもまた、精霊だけで。当時、自我が芽生えていなかった私は、吞気に野ばらをかけていたものだ。

 

『あのノートも一人で描いたものじゃなかったろ。できるよ、絵馬みたいなやつとまた一緒にやればさ……』


 それが変化したのは、絵馬という少女が村にやってきてからだった。短髪でわんぱくだった私とは対照的な、綺麗な黒髪長髪だった。広がる花畑に、透き通った墨を一滴こぼしたような情景が私の目に未だ焼き付いている。

 絵馬と過ごした時間は一瞬のような永遠のような、不思議な感覚だ。今となっては夢だったのかもしれない。


 でも彼女はいなくなった。思い出をビデオに残そうという約束を破って。


 裏切られたわけじゃないと思いたい。でも、もうノートを見れない。その後の辛いことも一緒に思い出されてしまうから。思い出さないようにすれば楽になるから。


『昔の気持ちを思い出せよ。飛んで跳ねて走り回ってた、あの頃のさ』


 もう思い出せない。ルナカントにいたときのことも、ノートに描いた図形も、私の魔法を初めて絵馬に見せたときの表情も忘れようとしていたから。


 絵馬があのつまらない村にふさわしい仏頂面を引っ提げてやってきたとき、私がそれに不意打ちを仕掛けた。


――宙に浮いて地面を見たことってある?――


 あの日、後ろから誰かが近づいてきているとは思いもしない絵馬の腕をぐっとつかんで、私と絵馬は無限に続く地平から飛び立った。

 そして瞳がつぶれるほどの大空が、目の前に。


「工藤さん!」


 私を呼んだのは、他でもない。滝の声だった。


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