タルト
「危ねえな」
浴衣姿の美丈夫が笹屋の腕を掴み見下ろしていた。
「間が抜けているな。気をつけろ」
「…すみません」
初対面の人間に対する言葉遣いではないと思ったが、助けてもらったのと声音が存外優しくそれ程嫌な気分にはならない。
「そういえばあんたの名前を聞いていなかった」
「笹屋ですが」
急にこの男は何を言い出すのだろう、たまたま居合わせただけの者の名前など聞いてどうするのか。
怪訝な顔する笹屋に男は「下の名前は?」と続けて聞いてきた。
「晶彦」
何かおかしな事に巻き込まれるのではとそこでようやく思い至り、偽名を使うべきだったと後悔したが今更遅かった。
「晶彦、ふうん。俺は鶸だ」
とうに体勢を持ち直したというのに、男は腕を掴んだまま離そうとしない。
一重のやけに色気のある目でじろじろと眺めてくる。
少年を家まで送り辻井宅へ向かう途中だ、知らぬ男に構っている暇はない。
「あの、腕を放してもらえませんか」
頼むとやっと腕は解放された。
気を取り直し、さあ行こうと連れの少年へ声をかけた。
ところが少年は消えていた。
驚いて周囲を見回すがそれらしい影はない。
男の背にでも隠れているのかと後ろを覗いてみたがやはりいない。
「何をしている?」
「子供が、いなくなって。あの、見ませんでしたか?男の子」
「ああ。もう麓に行く用はなくなったからな、ガキのままじゃあ不便だ」
「え、いや、男の子を見なかったかと聞いているのですが」
話が噛み合わない。
一人で先に行ってしまったのだろうか、しかし遠くまで灯る街路灯の下には誰もいない。
温い風が笹屋の髪や服を撫でて去っていく。
どこからか祭囃子が聞こえてきた。
「まずいな」
そう呟いた鶸という男は笹屋の腕を再び掴み力任せに半ば引きずるようにして、傍にあった家の門を開け敷地へ入って行く。
抗議の声を上げようとした笹屋の口をもう片方の手で塞ぎ、「頼むから黙っていてくれ」とひどく切迫した表情で言う。
腕を引っ張られ笹屋は庭の芝の上へ半ば倒れるようにうずくまり、その上から鶸が覆いかぶさる。
抵抗しようにも鶸の力は強くまるで歯が立たない。
鶸の躰は冷たく笹屋の熱を奪っていく。
この石のような冷たさには覚えがあった。
祭囃子はいよいよ近づく。
それはひどく奇妙な騒音だった。
太鼓や笛、尺八、三味線などがてんでんばらばらに音を鳴らしている。
「顔を伏せていろ、見るな」
鶸に頭を押され芝に頬を押し付ける羽目になった。
生垣の隙間から街路灯に照らされて一向の影が伸びていた。
笛と太鼓の間から何かを引きずる音がする。
加えて異臭が辺りに漂っていた。
笹屋を押さえつけるのに必死になり鶸の手は口から離れていたが、声を上げることはできなかった。
皮膚が一瞬にして粟立つ。
街路灯の光と一行の影が交互に芝の上に踊る。
騒がしいのに活気は一切無い。
見ずとも分かってしまった。
異様な空気に恐ろしさで身が竦む。
これは先刻までいた世界とは道理が異なるものだ。
(この世のものではない)
笹屋ははっきりと悟った。
鶸もきっと人間ではない。
鶸の躰の冷たさは死体と同じものだった。




