青の折り紙
混み合う女子トイレから出てきた由恵は、敬太の姿を見つけると小走りで近づいていく。
「ごめん、お待たせ」
「おう。もうさ、三倍ぐらいにすればいいのにな」
「うん?」
「女子トイレの規模」
「あー、それもそうだね。それで、次はどうしようか?」
「昼を食ったばっかだし、メルヘンエリアの方でも歩いて回る?」
「うん、観覧車にしようか」
「……人の話、まぁいいや。でも観覧車は夜に乗るって言ってたじゃん。夜景が見たいって」
「明るい景色も見ておきたいなと思って。ごはん食べた後だからゆっくり休めたほうがいいでしょ?」
「由恵が良いなら構わないけど。じゃあ行くか」
「うん」
久しぶりの休日らしい休日。二人は裏野ドリームランドで過ごしていた。
現実を忘れて夢の世界を楽しもう、それが裏野ドリームランドのテーマだったが、カップルや家族連れでごった返す園内と、先程の混み合う女子トイレを見る限り、夢の世界は『現実』で溢れていた。それでも由恵は嬉しそうに大きな観覧車を見上げた。
「この観覧車は日本一なんだよ、日本一」
「あぁ、一周するのに掛かる時間が最長なんだろ。十五分、十八分だっけ?」
「二十五分!」
「二、えっ! 二十五分!?」
「あれ、嫌なの?」
「そ、そうじゃなくて、夜にも乗るってことは五十分間もフェリスウィールの中にいるってことだぞ?」
「なんで英語で言ったの?」
「……おっ、フェリスウィール乗り場はこちらですって」
「だから何で急に英語なの?」
ドリームランドのマスコットが描かれた立て看板には、待ち時間が表示されていた。敬太はその時間に思わず声を漏らす。
「……えっ?」
「今度は何?」
「待ち時間二十五分だって……」
「それはちょっと面白いなぁ。だってこれから地上で二十五分かけて少しずつ前に進んで、ゴンドラに乗ったら、今度は空中で二十五分かけてゆっくり回るんだもん」
それからの二十五分間、二人はとにかく話していた。久しぶりのデートということもあり、話は尽きることがなかった。
敬太のくだらない話に、相変わらずの笑顔を見せる由恵。ただ敬太は心配をしていた。遊園地での楽しい休日だったが、敬太はその心配のあまり聞いてしまった。
「なぁ、今更なんだけどさ……」
「んー、なに?」
「休んでなくて平気なのか? ようやく終わったんだろ、小学校教諭の教育実習」
「少し疲れてるけど、忙しさから急に解放されて家にいても落ち着かなくて休めないし…… それに敬太と一緒にいるほうがなんか楽なんだよね」
「それならいいけど、キツくて実習中は連絡取れないって言ったっきり、本当に音沙汰なかったからさぁ」
「ゴメン。でも本当に凄くて。もうキツイなんてもんじゃないよ。私以外に三人の実習生がいたんだけど、授業中いきなり大号泣で一人リタイア。体調崩して入院して一人リタイア。もう一人の子は連絡取れなくなったと思ったら大学辞めていなくなっちゃうし」
「そんなに!? やっぱり教師になるってのは大変なんだなぁ……」
「でもね、子供たちが…… あっ、次だよ私たちが乗るの」
「ん? あぁ本当だ……」
可愛らしいピンク色に塗装されたゴンドラ。係員の指示に従い、ゆっくりと近づいてくるゴンドラに二人は乗り込んだ。
それではお楽しみ下さい。係員がドアを閉めた瞬間、二人は人で溢れる騒がしい現実から解放されたようだった。それを物語るように、由恵がふぅと息を吐いた。
「どうした? 疲れちゃったか?」
「ううん、なんか落ち着けたなと思って」
「あぁ確かに。うーんあれだな、これだけゆっくり進むんじゃ景色が良くなるまで少し時間がかかるな」
「だね」
「じゃあさっきの話の続きを聞かせてよ、ほら、子供たちがどうとかって……」
「あ、そうそう! 一年生の子供たちが手紙をくれるの!」
「手紙かぁ、それは嬉しいな」
「ほら、子供用の可愛いレターセットみたいのあるでしょ? それに覚えたてのひらがな・カタカナで書いてくれるの」
「由恵のことだから全部大切にとっておいてあるんだろ?」
由恵はウンとは言わず、照れ笑いを見せた。
「やっぱりな」
「見る?」
「えっ、持ってんの今?」
「敬太に見せようと思って何枚か持ってきた」
ハンドバッグに手を伸ばした由恵は手帳を取り出した。そんないつもと変わらないはずの由恵の何かに、敬太は違和感を覚えていた。気のせいなのか、そうではないのか。
「この中に挟んで…… はい、これ」
由恵が差し出した三枚の手紙はきれいに折りたたまれていた。どれもカラフルな紙で、花や動物などのイラストがあり、いかにも子供たちに好かれそうなデザインだった。
「じゃあ失礼して……」
敬太は手紙を受け取ると、その内の一枚を広げてみた。
鉛筆で書かれた初々しい文字。ひらがなとカタカナが入り混じった文。もちろん、誤字脱字はあったが、これほど想いが伝わってくる手紙はそうはない。
「おしごとがんばってくだちい。ハハッ、可愛らしい間違いだなぁ。こっちのは…… おぉ、この子は名前を漢字で書いてるよ!」
「そうなの! 一年生には難しい漢字なんだけどね」
「うーんっと、あ、この子は俺の子供の頃と同じだ。濁点が苦手なんだ。『大好きです』が『たいすきてす』になってるよ」
「可愛いでしょ?」
「可愛いし、嬉しいなこれは」
敬太は丁寧に手紙を元通りに折りたたむと、由恵に手渡した。
「この手紙のおかげで頑張れたんだよねぇ」
子供たちのことを思い出したのか、少女のような笑顔で手紙をしまう由恵。
「……おっ由恵、景色が変わってきたぞ!」
「本当だ! 港の方まで見えてる!」
「これ今……」
敬太はゴンドラを刺激しないよう下の方を覗き込んだり、他のゴンドラの位置を確認し始めた。どうやら、自分たちのゴンドラがどの辺りまで来ているのか探っているらしい。
「時計でいうところの九時ぐらいの位置だな」
「今の位置であんなに遠くまで見えるなら、一番上まで行ったらどこまで見えるんだろ?」
「そうだなぁ…… っていうか、写真を撮らなくていいの?」
「あ、忘れてた」
そう言って由恵がバッグからスマホを取り出した時だった。一枚の紙切れがバッグからするりと落ちた。
「なんか落ちたぞ?」
「えっ…‥……」
視線を落とし、ジッと足元の近くに落ちた紙切れを見つめたまま黙り込む由恵。敬太にはそんな由恵とゴンドラという閉ざされた空間が少し怖く感じられた。
あれだけ煩わしいと感じていた園内の騒がしさ。今となっては、ゴンドラの通気口から聞こえてくる、地上の微かな騒がしさ、『現実』が敬太に落ち着きを与えていた。
「由恵? どうした?」
何故か丁寧な口調になってしまう自分を妙に思いながらも、敬太は紙切れを拾い上げた。
紙切れは青い折り紙だった。いくつかシワがあり、一部が破れてしまっている青い折り紙。その白い側には縦書きで三行、カタカナとアルファベットの文字が書かれていた。鉛筆で書かれたその文字は鈍く光っていた。
「子供の字だな。由恵、これって……」
「………………」
一瞬だけ敬太と視線を合わせた由恵は、すぐにまたうつむいた。
「教育実習で何かあったのか?」
「……なぞなぞが大好きな男の子がいたの」
出来ることなら話したくない。そんな声色と口調だった。
「担当のクラスに?」
「うん」
「その子がどうかしたのか?」
「来月の学校の遠足で、このドリームランドに来ることになってたの。けど行けなくなっちゃって」
「来月の遠足がいけなくなった?」
「実習が始まって二週間後にね、事故に遭ってそのまま……」
「そうだったのか…… 可哀想にな……」
「……………」
「それじゃこの手紙は、その男の子が?」
「そう、いつも折り紙になぞなぞを書いて、私たちにくれたの」
「私たち? あぁ、他の実習生にも渡してたのか」
「うん。それで敬太は知ってるでしょ、私がなぞなぞ苦手なの。だから全然答えが分からなくて。他の皆はすぐに解いてたんだけど、私だけいつもその子にヒントをもらってたんだ」
男の子の無邪気な笑顔を思い出したのだろう、由恵の表情は幾分おだやかになっていた。
「でも、おかしいの……」
「おかしい?」
「その折り紙の手紙、教育実習の最後の日に、私の机の上に置いてあったの」
「最後の日にって、だってその子は二週間……」
敬太は言うのをやめた。言いたくなかった。
「……そうか、その子が最後にくれたなぞなぞを解きたいし、今日ドリームランドへ行くってことで持ってきたのか」
由恵はまたウンとは言わなかった。
「……私、持ってきてないんだよ、その手紙。担任の先生にお願いして、その子のご両親に渡してもらったの。だって、その子の遺品だし…… それに少し怖かったから……」
無いはずの手紙がここにある。
「…………解いてもらいたいんじゃないか? 自分の大好きだったなぞなぞを。だって最後のなぞなぞだろ? やっぱり由恵に解いてもらいたいんだよ」
「……うん。あのさ、一緒に考えてくれる?」
「いいよ」
敬太はそう言うと、対面のイスからゆっくり立ち上がると、ゴンドラを揺らさいないよう慎重に由恵の横へ座った。
「それにしても、よく分からない文、というか文字だよな」
「覚えたてのカタカナだからね。止めなきゃいけないところとか、はみ出しちゃってるけど…… これって単語なのかな?」
「じゃないか?」
手紙の記された縦書き三行の言葉。『ホツツム ヒソルソツ+ TニーマルソT』。二人にはこれが何を意味するのか見当もつかなかった。
二人が黙ったまま考えを巡らせている間も観覧車は回り続け、ゴンドラはもう少しで十二時、つまり一番高いところに到達しようとしていた。
「あ、敬太、もう少しで一番高いところだよ」
「ん? あぁ、本当だ。綺麗だな」
「うん、すごく綺麗。それに今日は空がすごく青いよね」
「いつもの空より濃い青だよな」
「この折り紙の青みたいじゃない?」
「確かに、言われてみれば……」
敬太はウソのように澄んでいる窓越しの青空に、色を比べるようにして青い折り紙をかざした。しかし、かざした方向は逆光。折り紙は陽の光で透けて、比較するどころか青色は薄くなってしまった。
「敬太、私の方の窓でやらないと、よく分かんないよ」
せまいゴンドラの中で二人きり、由恵の声が聞こえないはずはない。だが敬太は折り紙をかざしたまま固まっていた。
「敬太? ねぇ敬太!」
「…………じだ?」
「えっ、なに?」
「いま何時だ!」
「い、いま? ちょっと待って……」
由恵がスマホの画面を見てみると、ちょうど午後の二時を過ぎたところだった。
「二時だよ二時」
「二時…… そうか二時か…… わかった、ありがとう」
緊張感のあった敬太の声は、二時という言葉で柔らかくなっていた。
「お昼食べるの遅かったから、もう二時まわってたんだね」
「あぁ、そうだな……」
「でも、どうしたの?」
敬太はその問いに答えるかどうか迷った。言わなくて良いのかもしれない。そうも思ったが、折り紙の言葉の意味がわかった以上はと、敬太は重く口を開いた。
「……この折り紙の文字さ」
「もしかして分かったの?」
「あぁ。ひっくり返して透かして見てみな……」
折り紙を渡された由恵が言われたとおりにしてみると、謎の文字の羅列が意味を成した。
「なに、これ……」
折り紙に浮き上がる『トリームラント カンランシ+ 十三シシヌ』の文字に、由恵は言葉を失っていた。敬太はそんな由恵を見ることが出来ず、直ぐ横の窓から景色に目をやった。眼下の街は、いつも通りの日常を過ごしているように見えた。
「考えすぎかもしれない。けど色々と合うところがあるだろ? その子が行けなかったこのドリームランド。偶然とはいえ、いま観覧車に乗ってるし、時間も昼過ぎだろ? 十三シシヌは十三時死ぬに思えたんだ」
「…………………………」
「だから時間を聞いたんだ。でも良かったよ。この手紙の内容がウソであれ何であれ、何もなくてさ。本当に十三時だったら、なにか起きてたかもしれないし」
「…………………………」
よほどショックだったのか、由恵は黙ったまま、返事をすることはなかった。
「おい、大丈夫か?」
視線を景色から由恵に移した瞬間、敬太の目に何かが映った。誰も座っているはずのない、向かいのイス。そこには少年が座っていた。
黒く変色した少年の肌には、頭部から錆色の液体が滴り広がっていて、悲しげな目はどこを見るでもなく虚ろとしていた。
その時、敬太は気がついた。ゴンドラの位置が十三時になっていた事に。