綾子
綾子はセフレの家に泊まってから、明の家に行った。
1日に2人の男と寝た。
明とセックスした後トイレに行った時、綾子は自分の身体から半透明のピンク色の物体が飛び出ていることに気づいた。
それは、綾子の体の一部のようにその場所からぶら下がっていた。
引っ張ってみると、綾子のそこからにゅるっと抜け出してきて、鼻垂れみたいにぶらぶらした。
ゴムだった。
綾子は、明がゴムを取り忘れたのかと思ったが、それがもしセフレの由紀のものだったら面倒なことになる。
綾子はそれをそっとトイレットペーパーに包んで捨てた。
不幸なことに、ふたりとも同じピンク色のコンドームを使っていたせいで、どちらのものか分からない。
綾子はトイレを出て部屋に戻った。
「どうかしたの」
明が綾子の様子を見て尋ねる。
「ううん、ちょっと、お腹の調子が悪くて」
「大丈夫?」
「うん。あのさ、明ってどんなゴム使ってる?」
「ゴム?」
明が眉をひそめる。
「普通のだけど」
「今日ピンク?」
「そうだけど、なんで?」
「いや、ちゃんと取ったよね?」
明は、驚いた顔をした。
「当たり前だよ、そんなの。そのゴミ箱に入ってるよ」
明は部屋の隅にあるプラスチックの黒い箱を指差した。それは、綾子の腰くらいの高さもある大型の箱で、何もかも飲み込んでしまおうかと言わんばかりに鎮座している。
ここで明を責めるとボロが出そうだ。
「それでお腹の調子が悪いんだと思ったの?」
「うん」
「そんなわけないじゃん」
「そう」
さっきまで由紀と会っていたと知ったら、明はどう思うだろうか。
怒るだろうか。
いや、怒らないかも知れない。
綾子は、セックスの最中に使用済みのそれが出てこなかったことを奇跡と思いつつ、しかしそのまま明とセックスを続けてしまったことが恐ろしく思えた。
綾子は、意味もなく腕を掻いた。
不貞を働いたことの代償は大きい。
ある男のコンドームが身体の中に残っていて、それはそのまま奥へと、また別の男によって押し込まれた。
もしかすると、何度か付け替えたそれが数枚まだ綾子の体内に死骸のように残されているかもしれない。
子宮のあたりがもやもやして気持ちが悪くなった。にわかにお腹が痛いような気さえしてくる。
掻きすぎて痒くもない左腕の内側が真っ赤になった。
「どうして他の男と寝るの」
智子は、再三再四言った。今日でもう五度目くらいだろうか。
綾子はマティーニのオリーブをかじりながら、鬱陶しそうな顔をした。
智子と綾子は、大学を卒業して会わなくなってから、半年ぶりに一緒に飲みに来ていた。
もうほとんど飲み終えてしまったコスモポリタンのグラスを傾けると、かろうじて残っていたアルコールが口の中へと流れ込む。
綾子の話は、これがなくては聞いていられない。
彼氏と付き合いながらセフレとも関係を続けているという綾子に、智子は初めのうちは驚くばかりであった。
綾子は一体どうしてしまったのか、智子の知る綾子は純情の塊のような女だったのだが、何があってこんな娼婦のようになってしまったのか、智子にはまるで分からなかった。
「綾子は多分今いろいろあって感覚が麻痺しちゃってるんだと思うよ。こんな事続けてるのには、きっと何か理由があるんじゃない」
「理由なんてないの。なんとなく寂しくなったら由紀のところ行って、後腐れなくて楽だし、でも別に彼氏とも別れる気もないし」
綾子はあっけらかんと言う。
「でも、それって人としてどうなの?」
「そうだね。わかってはいるんだけどね」
綾子は、智子に口酸っぱく言われるたび心の中で苦虫を噛み潰したような顔をした。もちろん、それを表には出さなかったが。
「あ、もしかして、男の人に仕返ししたいとか」
智子が、ふと思いついたような感じで言った。いや、実際はずっとそんな気がしていたが、言うのを躊躇っていた。智子が思いついたフリをしたのはそのせいだった。
「仕返しって何でまた」
「だって、綾子、大学の時、長澤先輩にひどい目に合わされたじゃない。綾子と付き合っておきながら、年上の女と同棲とか、ドラマかと思った。長澤さんって、いい人そうでいて、全然いい人じゃなかったよね」
智子は、言わなくていいことを言っているような気もしたが、言い出すと止まらなかった。
長澤先輩に想いを寄せていたのは、綾子だけではない。
綾子が長澤先輩と付き合うことになって一番に祝福したのは智子だったが、密かに一番悔しがっていたのも智子だった。
「まぁね。長澤さんは本当に酷かったし、そのせいで私が今こうなってるんだって思えれば一番楽なんだけどね。でも、私、今なら長澤さんの気持ちも分かる気がする」
「どういうこと?」
「長澤さんって相当クズだったけど、今の私の方がクズだからかもね。多分、あの頃の長澤さんには罪悪感も何もなかったと思う。どっちかって言うと、本命は私だったけど、あの人、黒川さん」
「同棲相手?」
「そう、その人、黒川さん。その人ともかなり長かったから今更失うのも怖いし。長澤さんがああだった一番の理由って、多分そこはかとなく寂しいってことだと思う」
「ふうん」
智子は納得いかないという声を出した。
「私だって、良くないって分かってるし、いつの間にこんな風になっちゃったんだか分かんないんだよね。今の自分のこと、自分でも嫌いだし」
「じゃあ、やっぱりやめなよ。そんな付き合い方してたらそういう男しか寄って来ないんじゃない?それに、それだと今の彼氏さんのことも裏切ってるし」
「うん」
しかし、綾子は、智子がいくら言っても、セフレとの付き合いをやめようという気にはなっていないようだ。
綾子には、よほどいい女で、とても敵わないと思える相手であって欲しかったが、長澤先輩が選んだ綾子がこんな風では、智子はそれ以下だったのだろうか。
智子は何だかつまらなくなった。
数日後、綾子は明とデートをした。美術館の写真展でこの世のものとは思えないほど美しい海や夕焼け空の写真を見てから、バーに行った。
「何飲む?」
明は綾子が字を読みやすいようにメニューを逆さに向けた。
「どうしよう」
ビールからカクテルまでアルコールの種類はごまんとあって、綾子が何を飲むか決めかねていると、
「ワインとか飲みたいなあ」
とのんびりした調子で明が言う。
「そうだね」
明の助け舟に乗って、綾子はワインの白を選んだ。
明は赤にした。
明の頼んだ赤ワインは、思ったより色が濃く、黒みがかっている。
綾子はそれが自分の腹の中みたいに思えて、どす黒い赤ワインが明の喉を通る度に、どきっとした。
「今日の写真展、ほんとに綺麗だったよね」
明はワインを口に含みながら言う。
「うん」
「あんな綺麗な場所、一度は行って見てみたいなあ。ね」
明は、期待のこもった瞳で綾子を見る。
「そうだね」
綾子は、そう言いながら明から目を逸らし、テーブルの上のチーズ盛り合わせを見た。
「ひとりでなかなか写真なんて見に行かないから、今日は良い機会だったよ。綾子、ありがとうね」
「ううん」
「好きだよ」
明が恥ずかしそうに言った。
「ありがとう」
綾子は息が苦しくなった。
胸いっぱいに汚い水が溜まっているせいで、酸素が足りない。そんな感じがする。
明が優しければ優しいほど、綾子は逃げ出したい気持ちになる。
綾子は特に食べたいわけでもないチーズに手を伸ばし、一口かじった。驚くほど味がしなかった。
気がつけば、明は赤ワインを飲み干している。
今頃明の胃の中は赤黒く染まっているだろう。
汚れるのって簡単よね。
綾子は、明には聞こえないくらい小さな声で呟いた。
翌月、綾子はまた由紀の家にいた。
例のごとく、酒を飲みながら、これからするであろう行為の雰囲気を作っているところだった。
「そういえばさぁ」
由紀が綾子の目を見た。
「うん」
「君って、最初の時処女だったでしょ」
綾子の身体が一瞬固まった。
「何で?」
「だってさ、やると好きになっちゃうとか言ってたじゃん」
綾子は、頭に血がのぼるのを感じながらも、ひたすらにピーナッツを口に放り込んで時間を稼いだ。ピーナッツはボリボリ鳴るだけのただの油の塊だが、気にせず歯で砕いて飲み込む。
由紀の言う通りだ。
綾子は、この男に処女を捧げたのだ。
しかし、綾子はそれを誰にも話したことはなかった。処女を捧げた相手とセフレになっていることを誰にも知られたくなかったからだった。
「別に処女じゃなくてもそんな人いくらでもいるでしょ」
綾子は吐き捨てるように言った。
「そっか」
由紀は笑って、もう何も言わなかった。
翌朝、由紀の家からの帰り道、綾子はまた腹の中が汚物でまみれているような感じがして、立ち止まった。
先月のコンドームが奥へと押し込まれ、また次のゴムが子宮の奥に溜まっていくような気がした。吐きそうだった。
真昼の太陽が、やけに明るく綾子を照らしている。
綾子は自分の醜さが日の下にさらされるのが嫌で、早足で歩こうとしたが、下腹部の疼くような痛みと不快感で一歩一歩を踏み出すのが苦しい。
汚い。
身体の中のものすべてを出してしまいたかったが、それも叶わない。
きっと誰かの体液や何もかもが、ゴムと一緒に丸まって腹の中で掻き回されているだろう。
汚い。汚い。汚い。
家にたどり着くと、綾子はトイレに駆け込んだ。
生理でもないのに、下着に血が滲んで、今もまだ滴り落ちてくる。いや、それは明が飲んだ赤ワインかも知れない。
子宮の中で何かが起こっている。
綾子は痛みと違和感でほとんど発狂しかけていた。
「綾子?」
トイレの外から母親の声がした。
「お母さん…」
「大丈夫なの?」
「お母さん、お母さん」
綾子は子供のように母親を呼んだ。
「どうしよう、血が…」
「綾子、開けなさい」
母親がドアを叩く。綾子は、鍵を開けた。
「血なんて出てないじゃない」
母親が綾子を見て言った。
「え」
綾子はハッとして目を見開いた。
「どうして…」
綾子は思わず言った。
血まみれだったはずの便器には、透明の綺麗な水道水がたまっている。
「お母さん…」
「どうしたのよ、一体」
「ごめんなさい」
綾子は力無く呟いた。
綾子はシャワーを浴びて部屋に戻った。
何もする気力がない。
もう寝てしまおうと思った。
ふと携帯電話を見ると、留守電が一件入っている。
眩しいほどに光る画面を見て、ため息を吐いた。
不在着信一件 長澤明
「そんな付き合い方してたらそういう男しか寄って来ないんじゃない?」
智子の声がこだまする。
綾子は、留守電を聞かずに消去した。