第19話:その後
お盆休みが明けるまでの間、俺は桂と顔を合わせる事はなかった。
いや、桂だけじゃない。
姫咲にも社にも会ってない。
別に、桂と話したあの夜が原因というわけじゃない。
最初から、この夏が始まる前から決まっていた事。
それを知っていたのは両親と祖父母だけだったけど。
俺は8月14日の早朝に、渡米したのだ。
いきなりじゃない。
ずっと前から考えてた事。
高校を中退しての、ホームステイ留学。
反対はされなかった。
空港には松永と清田が見送りに来てくれた。
2人とも眠たそうにしてて、思わず笑った。
両親にはホームステイ先の住所を教えたけれど、兄ちゃん達には絶対に教えるなと口を酸っぱくして忠告しまくった。
だからか、渡米してそのまま住み着いて10年になる今でも、社や姫咲から連絡が来る事はない。
もちろん、桂からも。
桂は、俺が願ったように俺の事を忘れただろうか。
姫咲と社にぶつかっていっただろうか。
それを知る手段は、俺にはない。
『ヘイ!ノゾミ!』
呼ばれて振り向くと、マサヤが飛行機の窓の外を指さした。
何事かと思って窓の外を見る。
『あれがフジサンかい?』
マサヤが訊ねる。
確かに、そこには日本の象徴、富士山の姿。
『そうだよ』
答えて、ああそうか、と思う。
そうか、10年ぶりに、日本に帰ってくるんだ……と。
マサヤは日本とアメリカのハーフで、フルネームをマサヤ・ケントという。
『へぇ〜。聞いてた通り、美しい山ね』
そう感想を洩らしたのは、後ろの座席に座っているクリスティーナ・ウォン。
クリスティーはチャイニーズ系だ。それっぽい黒髪が色っぽいと評判のナイスバディ。
『そんな言うほど美しくもないだろ』
批判するのはクリスティーの横に座る、ガルイース・ヤマサキ。
彼は日系で、“ガイ”と呼ばれている。
『ガ〜イ〜。また気分悪い事言ってる』
そのガイを批判するのはミューズ。
本名はマリーア・ヤマサキ。
ガイの奥さんで、“ミューズ”という呼称は、彼女の声が美しいから。
俺は今、この4人とバンドを組んでいる。
きっかけは単純。
留学したばかりの時に
『OH!ヤマトナデシコ〜!』
と飛びついてナンパしてきたガイに、思わずパンチを食らわしてしまった事だ。
俺だけやたらと幼く見えるが、これでも皆、同じ歳。
学校でのその出来事は一瞬にして知れ渡り、それを聞きつけた残る3人に気に入られてしまったのだ。
なんと言っても、ガイの見た目は厳つくて、誰もが彼に怯えてしまうほど顔も身体もごつかったのだから。
そんな彼にパンチをお見舞いした、一見か弱そうな少女。
実際は男だと分かった時の反応は、さすがアメリカ人といった感じに大袈裟なものだった。
で、そのままバンドの練習場に連行。
『ちょうどキーボードが欲しかった』と言って強制的にバンドに入れられ、練習……
全米デビューを果たし、今や日本にまで名を轟かす有名ロックバンドの一員。
人生って分からないもんだ。
そう、なぜなら今、俺はそのバンドメンバーの一員として、日本の音楽番組に出演する為に飛行機に乗って日本にやって来ているのだから。
飛行機を降り、荷物を受け取り外へ出ると、そこには日本の報道陣や警備員、ファンと思われる私服の男女が群がっていた。
一瞬気後れしたが、昔、日本にいた頃テレビで見ていた光景を思い出し、すぐに持ち直した。
『日本語って雑音に聞こえるな』
にこにこ笑ってファンに手を振りながらガイが言う。
雑音って……お前も日本の血、混ざってるだろ。
そう思っても口にはしない。
言うと、いろいろ面倒な奴で……アメリカ男版姫咲、といった感じか。
『それはあんたが日本語分かんないからでしょ』
同じくにこやかに手を振りながらミューズが言う。
俺の役目だったものを彼女がやっている事が、最初は妙な感じがしていたけれど、今となってはそれが日常。
『あ、あの子可愛い』
今度はマサヤが発言。
『どれ?』
クリスティーが訊く。
2人とも、可愛い子に目がない。
……アメリカ版、松永&清田……?
いや、そこまで2人は激しくなかったって。
『ほら、あれ』
とマサヤが顎で指す。
その方を俺もつい見てしまった。
『あら、ホント。カワイイ〜♪』
クリスティーの満足そうな声。
俺は嫌な予感がした。
この事態を避ける意味も含めて、日本の両親にはバンドをやっている事も、今日帰国する事も伝えていなかったのに。
日本のマスメディアを甘く見過ぎた。
なんて、今更の後悔。
時すでに遅し。
奴はついに、俺を発見した。
「希!!」
その声は「見付けた♪」というのではなく、「やっと見付けたぜこの野郎」て感じの声。
マサヤとクリスティーが驚くのも仕方がないほどの、外見とのギャップ。
般若の如き怒りの形相。
懐かしい。
なんてこれっぽっちも思う余裕のないその怒り。
「姫咲……」
そう、姫咲だ。
会えば絶対に怒られる。
分かっていたから、何も伝えずに帰国したのに。
俺を発見した姫咲は、一緒にいた社を置いて、人混みをかき分けこちらに向かってくる。
本来はこのまま流れて出口まで行く所だが……
そんな事したら、姫咲の怒りを煽るだけに決まってる。
だから俺は、黙って姫咲の到着を待った。
「これ以上は立ち入り禁止です!」
姫咲が俺の目の前まで来ようとした時、一人の警備員が止めに入った。
過激なファンだとでも思われたのだろう。
それが分かった姫咲は怒りの形相のまま、その警備員を睨んだ。
「はぁ!?私は関係者よ!!」
いや、お前は関係者じゃなく、ただの身内だ。
まぁでも、彼女にとって肩書きなどどうでもいい事だろう。
「警備さん、その人は身内だから、大丈夫ですよ」
とりあえず、姫咲がこちらに来るのに邪魔になる警備員にそう声を掛ける。
警備員は困ったように他の警備員を見たが、俺はそれを無視して、姫咲にファンとの境界であるテープをくぐらせた。
その瞬間、ファンからブーイングの嵐。
予想していた事だ。だから気にしない。
「希……っ」
何かを堪えるように、小さく絞り出した声で俺を呼ぶ。
怒られるのも、殴られるのも、承知の上だ。
「あんたって奴は……っ」
いっそう強く、俺を睨む。
殴られる。
そう思って歯を食いしばった。
しかし次に飛んできたのは拳でも平手でもなく、
「バカァッ……」
と言った、姫咲の泣き顔。
予想外の事に、俺は呆けてしまう。
周囲はザワッとなる。
「姫咲」
「バカァッ」
ドンッ
と胸を叩かれ、そのまま胸にに泣きついてきた。
「希のバカッ!いきなりいなくなって、連絡もなしで……何やってんのよ、ばか……っ」
ドンッ
とまた胸を叩かれる。
「ごめん」
姫咲がこうやって泣くのは、社か桂の事だけだと思ってた。
ああ、確かに俺はバカだ。
姫咲は寂しがり屋で、独占欲が強くて、その上欲ばりだっていう事、忘れてた。
「ごめん」
もう一度謝る。
10年という年月は、思ったよりも長かった。
10年前、あの時桂を傷付けた頃、俺は2人の身長よりも低かった。
それが今、姫咲の頭が俺の顎の下になるまでに、俺の背は伸びていた。
桂はきっと、もう少し下に来る。
「私に謝るなっ!」
ドンッ! と今度は突き放す。
俺より下にある目が睨んだ。
「謝るべきは、桂よ!!」
「……」
姫咲の言葉に、俺は何も言えない。
「私にはやぁちゃんがいた。でも、桂は一人だった……一人だったのよ!?」
姫咲はそこで言葉を止め、ぐっと何かに耐えた。
もしかしたら、姫咲は俺があの日にやっと分かった事を、随分前から知っていたのかもしれない。
「希の薄情者っ!」
薄情者と言われても……
当時の俺には、ああするしかなかった。
「裏切り者!」
いや、それは何か違くねぇ?
「根性無し!!」
根性……
いや、ないけどさ。
なんか、論点ズレてないか?
そうは思っても反論できる立場じゃない。
だから黙って姫咲の言葉を聞いていた。
するとずっと後方から社が制止に入った。
「姫咲。もうそれくらいにしとけ」
姫咲はそちらを振り返った。
「希だって、充分承知しているよ。それに……」
一旦言葉を句切って俺を見る。
社の目は、こんなに強かっただろうか。
思わず、身が竦んだ。
「怒ったり文句を言うのは、お前の役目じゃない」
社の言葉に、忘れかけてた痛みが甦る。
ズキッ…
痛い。
桂……。
君を傷付けて、俺も傷付いた。
あまりのタイミングの良さに、君は俺が逃げたと思っただろうね。
そうだ。
実際俺は、逃げたんだ。
両親以外に連絡は取らず、日本に戻ることなくアメリカに住み着いて。
君から、この痛みから逃げた。
弱いと言った俺が、君よりも弱かった。
それは事実。
「希」
社に呼ばれる。
「分かっているよな?」
その質問に、俺は頷くのが精一杯だった。
「姫咲、帰ろう」
社の呼び掛けに、姫咲が社の元へと戻っていく。
「あ、そうそう、コレ、俺と姫咲の子。今年で3つになる女の子。もう2人上に男の子がいるよ。
お前の甥っ子と姪っ子だ。
名前知りたいなら、家に帰っておいで」
そう言って社は小さな女の子を抱えて見せ、笑って姫咲と一緒に去っていった。
日本を離れて10年。
2人に子供ができてても、おかしくはない年月が過ぎた事を痛感した。
俺はまだ、逃げるつもりだろうか。