第18話:欠けた月
自販機で買った缶ジュースを手に、俺と桂は公園のベンチに座っている。
桂はストレートティーで、俺はコーラ。
浴衣でベンチに座り、缶ジュースを飲んでるって光景は、どうもミスマッチだ。
「缶ジュースなんて、久しぶり」
ぽそっと小さく桂が呟いた。
「え?」
別に聞き取れなかったわけではなく、単に意味が分からなくて思わず聞き返した。
意味なんて、言葉通りに決まってるのだろうけど。
「缶ジュース、最近飲まないなと思って。
普段は寮にお茶か冷水器があるだけだし、校内の自販機はパックだもの。
缶ジュース自体をあまり見ないから、久しぶりだなと思って」
微笑んで、俺の疑問を完璧に解決してくれる。
これが桂じゃなくて姫咲だったら、「最近って缶ジュース買わないのよねぇ〜」で終わるだろう。
何の解決にもなりゃしない。
「そっか。……そうだね。俺も、最近はコンビニでペットボトルがほとんどだ」
「うん。缶ジュースって、もうなくなるのかもしれないわね」
「うん……」
缶ジュースの話題でしんみりとなる。
たかだか缶ジュースの事なのに。
こんなふうになるのは、やっぱり先程の傷が、まだ乾く気配すら見せていない証拠だろうか。
コクッ……
と桂の喉が鳴る。
コクッ… コクッ…
と何口分かをいっきに飲む。
横から見る桂の喉の動きが妙に艶っぽくて体温が上がる。
心臓が高鳴る。
不謹慎……
と自分を叱咤しても上がった体温は下がらない。
弱った女性というのは、何と色っぽいのだろう。
弱った女性というのに、どうして男は弱いのだろう。
ある種の自然の摂理だろうか?だとしたら尚更、抗えない。
だけど抗わなければ。
ゴクゴクッ……
と勢いよく炭酸の効いたコーラを飲む。
せめて冷たい物を飲む事で、心を落ち着ける。
今は、色っぽい気分に浸っている場合ではない、と。
「お祭り」
ポツリと桂が呟いた。
目は、自分の膝の上に置いた両手の中の缶ジュースを見ている。
「戻っていいよ?希」
「……」
手の中のジュースを見つめる桂を俺は凝視する。
なぜ、そんな事を言うのか。
「……できないよ」
一言、そう言うのがやっとだった。
彼女の心の内は読めない。
いや、読めないのは彼女だけじゃなく、姫咲だって社だって両親だって……その心の内は読めないのだけど。
そうではなく、そんな単純明快なものではなく……。
目に見えない分厚い壁で自分を守り固めているような、そう、どこかで必ず人をシャットアウトする為の鍵が彼女自身についているのだ。
その鍵はきっと……暗号式のもの。
彼女にしか分からない、キーワード。
「何で?私はいいのに。帰ってきたばかりで疲れてるし……希は、お祭り楽しんできて?ね?」
そう言って桂は小さく笑った。
儚く、儚く……今にも消えそうな不安定なその笑顔。
なぜ君は、そうやって微笑むのか。
「一人で祭りに行っても楽しくないよ」
「……」
思わず強い口調で答えてしまった。
桂が驚いたような表情で、俺を見る。
目が合う。
「姫咲と兄ちゃんと一緒に、なんてバカな事、言わないよね?」
「……!」
桂の目が見開く。
傷を抉った。
分かってる。分かってて、わざと言った。
抉ってあげるよ、桂。
君はもう、充分……理解しているはずだろうから。
それとも、俺がこんな事言うとは思ってなかった?
……そうだね。
俺も、自分で驚いている。
「桂だって、2人一緒のトコにいたくないくせに」
「……」
桂は黙っている。
目を伏せ、再び缶ジュースを見つめる格好になる。
俺は桂から目を逸らし、真正面を見つめた。
誰もいない公園。
所々に外灯があり、その誰もいない公園を闇の中に浮き出している。
「……」
「……」
しばらく沈黙が続いた。
桂に気付かれないように、小さく息を吐いた。
空を見上げる。
夏の夜空は、やけに近く感じるものだ。
近く感じるせいか、作り物に見えるその星の中、静かにしかし決して存在感は薄くない月を見付けた。
今日の月は少し円が欠けていて、そしてとても白かった。
遠い所から、俺を見ている。
その白さと、小ささと、遠さに……俺は泣きそうになった。
だって、今そこに浮かんでいる月は、まるで桂に見えたから。
だから凄く哀しくて、寂しくて、泣きそうになった。
沈黙が続く。
先程の神社での事を思い出す。
社と桂の初めての対立。
姫咲と社が付き合いだした時も、結婚が決まった時も、桂は何も言わなかった。
まして社と向き合って話す事なんて、これまで一度たりともなかったと記憶している。
だから、社が桂に対しては遠慮がちだった事を初めて知った。
いや、思い返せば普段から、桂の扱いは腫れ物を触るように慎重だった気がしないでもない。
なぜ?
疑問がわく。
また、桂の初めて曝した本音もよく分からない。
本当に、あれだけが彼女の心を痛めていたものだろうか?
何かもっと、肝心の部分が抜けてはいまいか?
そもそも……なぜ桂は社を嫌う必要があるのか。
もちろん、最愛の妹を早い段階で奪われてしまったのは理由にあるだろう。
それに間違いはないはずだ。
しかし、社に対してああいう態度を取りだしたのは、随分昔の事だった気がする。
小さい頃、それこそ桂と姫咲が幼稚園を上がるまでは、確かに桂は社に懐いていた。
姫咲の全ては桂だった。
そうだ、あの時、姫咲が神社で蹲って待っていた時、あそこから姫咲の世界が変わった。
彼女の世界に、社も加わった。
その事で桂の世界も変わったのではないか。
あれは、いつの事だ?
朧気な記憶を辿る。
いつだ?
あれは……そうだ、2人が小2の頃。
俺は小1で、社は高2。
あの日から、桂の様子が変わったのではないか。
ふとそんな事を考える。
当時小1の俺に、確かな記憶なんてない。
当時の事を思い出して、はっきりと頭に浮かんだのは……
桂の、表情。
驚愕に目を見開き、呆然と姫咲と社の2人を見ていた、あの表情。
思い出して、ゾッとした。
夏なのに、ぶるっと身体が震えた。
桂には気付かれなかった。
再び考えに耽る。
確かに、あの時から少しずつ、桂は社から……俺達から離れていった気がする。
徐々に遠ざかり、存在するかしないかの境目に立って、輪の外からフェンス越しに俺達を見ているように……。
社をしかめっ面で見るようになったのは、その形が当然になった頃。
そうだ、姫咲が社を想って泣いた、小4の終わり頃、社が大学進学を決めた頃だ。
姫咲を泣かせた社が嫌いになったのだとその時は思った。
でも今は、何かが引っかかる。
果たして理由はそれだけか?
疑問がぐるぐる回る。
社への疑問、桂への疑問。
ぐるぐるぐるぐる回って、混ざり合って……一つの結論が不意に頭に浮かんだ。
その結論はあまりに唐突で、「まさか」と疑う。
でもそれは、充分は理由ではないのか……?
更に深く考え込みかけた時、桂が沈黙を破った。
どれだけの時間が経っていたのだろう。
月が少しだけ上方に移動していた。
「ごめんね、希」
沈黙を破った言葉は、今日何度目になるのだろう、謝罪の言葉。
なぜ、謝るのだろうか。
謝るべきは、分かっていて君の傷を抉った、意地悪な俺の方ではないか。
見ていた空から、桂に目を移す。
桂は缶ジュースを見つめたままだった。
「私は希に、いつも心配ばかりかけてる。……情けないね」
そう言って、小さく笑った。
吐息を漏らすだけの笑みは儚く、危うい感じがした。
「心配なんて……」
してないと言ったら嘘になる。
でも、俺が心配するのは桂の事が好きだから。
勝手に君を好きになって、勝手に心配してるだけ。
君がそれを気に病む必要なんて、これっぽっちもない。
「してるでしょう?」
微笑んで俺を見る。
目が合う。
ドキリとする。
闇の中の君の姿、君の瞳。
なんと妖しく輝いているのか。
魅せられて、ドキドキと心臓が鳴る。
早鐘のように、という表現はこれを言うのか。
桂、君はやっぱり、月だ。
人を無自覚に魅せさせて、知らん顔で妖しく闇に輝く。
遠い存在のくせに、無性に恋しくなる存在。
桂、君はやっぱり、月だ。
月だ。
「ごめんね。ずっと、ずっと前から気付いていたのに……希があまりに優しいから、今まで甘えてしまった。ごめんね」
辛そうに笑って顔を伏せる。
痛い。
「分かってたのにね。自分が甘えてしまってる事、さり気なく守られてた事」
桂が静かに話す。
こうやって彼女が思っている事を話してくれるのは初めてで、俺はただ黙って聞く事しかできない。
「TOYOSHIMAで姫咲達と会った後も、今も、私は希に助けられちゃったね」
遠くを眺めて、小さく息を吐く。
「情けない」
強い口調で自分を卑下する。
その桂の言葉が、胸に痛い。
「弱くて、嫌になる」
痛い。
「こんな自分が、嫌いで堪らない」
桂の声が震えた。
顔が歪み、悔しそうに、で泣きそうにも見えるその表情。
彼女が泣く所を、俺は見た事がない。
「嫌いなんて、言うもんじゃないよ」
ポトリと、ありきたりな台詞を言ってしまった。
口を挟む気なんかなかったのに、あまりにも桂が辛そうで、
それを見ているのが耐えられなくて、
そんなありきたりなセリフを吐いてしまった。
後悔に、口の中が苦くなる感じがした。
罵られる事を覚悟した。
それなのに……
「そうね。私も、そう思う」
同意の言葉。
桂はどこまでも人に優しい。
人を、傷付ける事をしない。
自分はたくさんたくさん傷付いて、傷だらけになって血を流しているというのに。
そんな彼女を強いと思ったのは中一の時。
「だけどやっぱり、好きになれないの」
「何で?」
思わず理由を問う。
桂はしばらく俯いて、ポトリと答えた。
「何でかな」
答えではない答え。
それは本気で出した答え?
違うよね。
本当は、もっとちゃんと、理由があるよね?
俺に知られまいと、誤魔化したに過ぎない、そうだろう?
だって俺は、気付いたから。
気付いてしまったから。
君の心の内を。
そう、君はただ臆病で、だからこそ人を傷付けたくなくて、人に自分の傷を見られるのが嫌で……。
綺麗に笑う君が俺は好きだけど、その裏側に、誰にも見せないように隠し続けている傷があるよね。
その傷の隠し方は、まさに月。
月は地球に対してずっと真正面を向けている。
背中にはたくさんのクレーター。
それを見る事ができるのは、宇宙に行って月の後ろに行った者だけ。
だって月は、地球という輪っかの外から、俺達を見つめているから。
だから、輪っかの外、更にフェンスも越えて、そして後ろに回らない限り背中の傷を見る事はできない。
月は、巧みに背中を隠して地球の周りを回っているから。
桂の傷も、同じように彼女の背後に回るか、あるいは彼女が背を向けない限り見る事はできない。
しかし決して、彼女が自ら背中を見せてくれる事はない。
それが桂だから。
自分の傷は自分だけが背負えばいい。
そう考える桂はなんと優しく、強いのだろう。
そう思ったのは中一の時。
桂の傷は、恐らく俺が考える以上に深く生々しい。
それを俺に見せないのは俺への優しさ。
姫咲への優しさ。
きっとこの優しさは本当で、嘘偽りはない。
だけど、傷を見せない事で自分は傷付いていないフリをして、
そんなフリで俺や姫咲を誤魔化して、
俺達を傷付けまいという行動を取る事で自身を守っている。
その姿は、優しさと、強さと言えるか?
自分の傷を他に見せない事は、彼女にとって自身を傷付けまいとする防御壁になっているのではないか。
そうするしか自身を守る事ができないと考える桂を、
愚かで弱いと考えるようになったのは、今、さっき。
俺は気付いた。
気付いてしまった。
いや、本当は知っていた。
桂がどれほど弱く、どれほど傷付きやすい人か。
なのになぜ、今まで強いなんて、優しいなんて思っていたんだろう。
その優しさは、その強さは、全て全て、彼女の弱さと傷付きやすさからきていたと言うのに。
自惚れていたんだ。
桂の事を好きであるが為に、彼女の事を理解したつもりでいて、自惚れていた。
俺の方こそ、愚かじゃないか。
自分に激情し、叱咤する。
だけど、今は自分の愚かさを嘆いている場合じゃない。
「“何でかな”って、自分で理由、分かんないの?」
努めて冷静に訊ねる。
俺の渦巻く内情は、今は必要ない。
「うん……そうね、よく、分からない」
ゆっくりと桂は答えた。
嘘つき。
……嘘つき?
いや、これも彼女なりの優しさ。
そして、彼女が発する微々たるSOSにも思えた。
初めて心の内を話す桂。
それはさっきの、神社で社に話してたのとは別で、断ち切るようなそんな大雑把なものじゃない。
大雑把なものだったら、今こうやって話してはいないはずだ。
だって桂は、俺が社を嫌う理由が姫咲との事にあると知っている事を、気付いているはずだから。
でももう、それだけが理由ではない事を俺は気付いてる。
桂、君はそれにも、気付いているのだろうか。
SOSに感じるその優しさに、今日俺は、初めて深い所まで入り込むよ?
その覚悟は、きっともう、できてるね?
さっき君の傷を抉ったから、きっと、覚悟はできてるよね?
神社の階段での事もある。
俺が気付いてないわけない事、君には分かっている事だろう。
「嘘ばっかり。本当は、よく分かってるんじゃない?」
意地悪な言い方をする。
ワザとだ。
今度は、桂は驚いたりはしなかった。
代わりに、小さく微笑んだ。
その顔が、安心した顔のように見えたのは、たぶん俺の気のせいじゃない。
「分かってるって?何で?何を?」
桂の臆病者。
自分の口ではなく、俺の口に言わせるつもりか。
心の中で思わず笑う。
案外、酷いヤツじゃないか。
やっぱり姫咲と血が繋がってるだけはある。
妙な所に感心し、納得した。
人間っぽい所が出てきた桂に、不謹慎にも高揚した。
恋の病も末期かもしれない。
なんて、バカな事を考える。
「桂が自分を嫌う理由。姫咲と社が関係してる事」
俺が言ってもいいけど、やっぱりそこは本人が言うべき事だろう。
だから、箇条書き程度の事しか言わない。
桂は眉間に皺を寄せた。
心の中で、俺が意地悪な奴だという事を認識したのだろう。
俺だって、自分がこんな意地悪になるなんて思ってなかった。
お互い様だよ、桂。
「関係してる……でしょうね」
桂は俺に言わせる事を諦めたのか、一つ息を吐くと、真顔になって、何もない正面を見据えて言った。
「そうね、関係してる。だから、嫌なの。
忘れてしまいたいのに、忘れられない。
2人がいようといまいと、記憶だけで、苛々するの。
2人が付き合いだした時、結婚が決まった時……思い出すと未だに、苛々するわ」
静かに、感情のない声で桂は話す。
嘘つき。
まだ、そんな事言って、俺を誤魔化す気でいるの?
「嘘つき」
無意識に口をついて出た言葉。
桂が驚いたように俺を見た。
ああ、そうか。
やっぱり桂は、最初から心を曝し出すフリをして、巧妙に本心を隠すつもりだったのか。
そう思って、自分が情けなくなる。
桂、君にとって俺は、そんなに頼りにならない男ですか?
「嘘つきだよ、桂。“苛々する”?違うだろ?“傷付く”の間違いだ」
目を見開いたまま、桂は何も言わない。
言えないのか。
「2人がいようといまいと、君は記憶だけで傷つく。そうだろう?」
「……」
返事はない。
俺は続ける。
「傷付いて傷付いて、
それを悟られないようにずっと俺達に内面を見せず、近くにいるのに遠く隔てた所に桂はいる。
桂の心はそこにある」
そう、それはやっぱり、
「桂は月みたいだ」
月だ。
月そのものだ。
「いつも……何度も、そう思ってた」
昔から、小さい頃から。
姫咲が太陽なら、桂は月だと。
「月は美しく輝いてるけど、その後ろは傷だらけだ。
桂、君はまさに月だよ。
表面では笑って、裏ではその傷で泣いている。
俺のこの分析が、
違っているとは言わせない」
桂は無言で俺を見つめる。
目を逸らす余裕がないのだろう。
「傷を見せまいとする君の姿は強いと思う。だけどその反面、弱さの証拠でもあるよね」
桂から目を離す。
痛々しくて、見ていられなかったというのもある。
でもそれ以上に、俺が彼女を見続ける事で、彼女が焦げてなくなってしまうような気がしたから、目を離した。
バカげた理由だと分かっている。
だけどそう思わざるを得ないほど、桂という女の子は危ういのだ。
「傷を見せまいと離れる事で、傷付かなくていい距離を作った。違う?」
「……」
やっぱり、返事はない。
「桂が作った距離は、そのまま君を守る壁として、今もある。……いや、今、俺が壊したかな」
言ってから、思わず笑った。
でも桂は真顔。
血の気がない。
心なしか、身体が震えている気がした。
“気がした”?
違う。
震えてる。
俺は今、確かにその壁をぶち壊し、彼女を大いに傷付けている。
だからって、途中で止めるつもりはない。
君はもう、その壁をなくすべきなのだから。
覚悟はしてただろう?
俺が君の傷を抉ったあの一言を聞いた時に。
それに、何度も言いかけては止めてきた事を、君はとうの昔に気付いているはずだ。
気付いてないわけ、ないだろう。
「壁を作ってた。その事実は、君が臆病な証拠だ、桂」
ギュッ…
と自分の手の中の缶ジュースを桂が握りしめる。
傷に、耐える。
顔は真っ白で、目を強く瞑り、身体を震わせ。
痛い。
ごめんね、桂。
「桂は、甘えベタだから、こうなったんだろうね」
痛みを堪える桂を見つめて言う。
「姫咲は違う。あいつは人に頼るから……すぐに頼るから、負の感情に押し潰されないんだと思う。
傷付く度に、俺に頼り、桂に頼り、兄ちゃんに頼り……
まったく、柔軟な奴だよ」
桂の震えは止まっていた。
目を開き、俺を見る。
だから俺は微笑んだ。
「その点、桂は頑固」
そう言って笑うと、桂は不思議なものを見るように目を瞬かせた。
パチパチと瞬きを繰り返す。
「桂は頑固だよ。決して人に頼ろうとしない。それはやっぱ、強いって事かな。
だって、強くなければ、今の今まで一人で立ってるなんてできない」
やっぱり、目をパチパチさせるだけで桂は何も言わない。
「でも、もう限界だよね」
瞬きが止まった。
「一人で抱え込むの、疲れたでしょう?それに気付いたのは俺だけだよ。だからさ、桂」
そこで一旦、言葉を切る。
息を吐いて、吸って、真顔で言った。
「俺を頼らない?」
「え……?」
驚きのせいで出た桂の声は、
俺の傷付ける言葉でどれだけ口の中を乾燥させてしまったのか分かるぐらい掠れていた。
だから、桂の声じゃない気がして思わず息を洩らして笑った。
桂が、バツの悪そうに少しだけ顔を顰める。
「ねぇ、俺を頼ってくれないかな?」
まるでプロポーズみたいだけど、たぶん桂はそう感じてはいないだろう。
だって俺は、告白すらしていない。
「でも……」
普段の声で、桂が躊躇う声を出す。
「それとも、俺じゃ頼りにならない?」
「……」
桂が無言になる。
そうか、桂にとって俺は、頼りないか。
そう思った時、その思いに気付いたのか、桂が慌てて返事してきた。
「いや、その、頼りにならないわけじゃなくて……」
しろどろもどろ。
冷静で穏やかな雰囲気じゃない桂なんて初めてだ。
「そうじゃなくて……違うの。でも、やっぱり頼れない……」
困ったような顔で言った桂の目は、俺を捉えてはいなかった。
また、誤魔化しているのだろうか。
いや違う、これは……
「せっかく壊したのに」
壊したのに……
「また、壁を作るの?」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
だから当然、桂は固まった。
顔が強張っている。
桂は表情豊かな方じゃない。
方じゃないのに……今日の俺は、桂にこんな表情ばかりさせてる。
最悪だ。
そう思っても、一度決壊した理性は元には戻ってくれない。
負の感情が押し寄せる。
吐き出し口を求めて俺の口に溜まってくる。
桂、桂。
好きなのに、傷付けたくないのに……
それでも俺は言ってしまった。
「俺じゃ、そんなに頼りにならない?」
止まらない、負の感情。
俺を男としてみてくれないのか、桂。
そんなの、なんて、ヒドイ……!
バカな俺。
そんな負の感情は一時的なものなのに。
それなのに、溢れていく。
「そうだね。俺は、君より年下で、ガキだ。いや、それだけじゃない」
一時の感情が、桂を傷付ける。
止まらない。
「そう、もともと傷付いてる理由は、本当は」
桂がハッと目を見開く。
「やめて!」
そう叫んだ。
それと同時に俺は言ってしまった。
「社が好きだからだよね」
酷く傷付いた桂の顔。
それを見て、やっと我に返った。
ああ、なんて事を言ってしまったのか。
だけどもう、後戻りはできない。
“社”
この名を避けて通ろうとしていたのに。
でも元々、避けて通れるものじゃなかった。
だって、この“社”こそが、桂をここまで頑なにし、そして傷付けているものの、根っこなのだから。
そうだ、これを抜きに解決しようとした所で、やっぱり桂の心の内は社に捕らわれ続けていたに違いない。
桂を傷付けたくはなかった。
だけど、もう傷付けてしまった。
激しく、大いに、傷付けてしまった。
だからもう、俺はイイ子ぶらない。
嫌われていい。
桂を解放したい。
……やっぱり、エゴだろうか。
「やっぱり、桂は兄ちゃんが好きだったんだね」
「……」
桂は傷付いたまま、微動だにしない。
やっぱり、そうだったのか。
さっき、沈黙の間にぐるぐる考えた結論こそが、これだ。
たぶん、社も気付いていたんじゃないだろうか。
だから、神社でわざとあんな言い方をしたんじゃないだろうか。
意地の悪い兄弟だ、と冷たく思う。
「小さい頃、俺が記憶している程度だからあまりアテにならないかもしれないけど、確かに桂が好意を持っていたのを覚えているよ」
正確に言えば、最近思い出した。
桂はただ無言。
「よく懐いてたよね。まぁ、俺も姫咲も懐いてたけど」
無言。
痛い。
傷付けてるのは俺なのに、痛い。
「懐いてた理由は、何かな?それまで分かんない」
分かる気がするけど、それはやっぱり分かんない。
たぶんその辺の記憶が、すっぽり抜けてるんだ。
小さい頃に見ていた社はただ優しく、あたたかだった記憶しかない。
あまりに曖昧すぎだろう。
「でも確かに、好きだったよね。でもいつからか、少し変わった」
それまで微動だにしなかった桂が、ピクッと肩を震わせた。
どうやら、自覚はあるらしい。
「たぶん、2人が小2の頃。姫咲の迷子がきっかけ」
今度は動かない。
「あの時、姫咲と同じで桂も、その世界が変わったんじゃない?」
「……」
動かない、答えない。
俺は続けた。
「そして小4。姫咲の自覚。完全なる、姫咲の変化。小6の姫咲の桂に対するコンプレックス。中2の、姫咲の告白、社の答え」
つらつらと、桂が傷付けられていただろう出来事を述べていく。
「高2の春、2人の結婚」
「やめて」
桂の制止の言葉が入った。
でもやめない。
やめた所で何の意味もない事は、彼女自身がよく分かっている事だろう。
「正直に言えばね、俺はその辺、一体どの辺りから桂が今みたいになってしまったのか分かんないんだよね。理由も」
「……」
再び桂は無言になる。
「でも、桂は姫咲の事も社の事も好きだったわけだから、きっと苦しかっただろうなと思う。
もし、社の事を好きでなかったら、
一人の男として好きでなかったら、
苦しまずに済んだだろうにね」
桂が強く、固く目を瞑っている。
「でも実際は好きだったわけで……いや、今も好きなんだよね。
だから、社を嫌うフリもしている。
姫咲との結婚を、幸せを、素直に喜ぶ事もできないし、素直に憎む事もできないから。
……ああ、いい子ちゃんぶってるんだ」
「やめてっ!!」
桂が悲痛な叫びで訴えてきた。
俺はヒドイコトを言った。
自覚してる。
だから嫌ってくれていい。
罵ってくれていい。
「やめて……お願い、希……」
力なくそう言って、桂は前傾姿勢になって、涙を流した。
俺は彼女を傷付けた。
一番大切で、傷付けたくないと思う彼女を、桂を、傷付けた。
心が痛い。
痛める資格なんてないクセに。
桂の喉から小さな嗚咽が漏れる。
「お願い……それ以上、言わないで……」
小さな嗚咽すらも堪えて、必死に懇願する。
そうだ。
彼女がきっと、いや絶対、一番分かっている事なんだ。
でも、今さらそんな事に気付いても、もう遅い。
もう、傷付けてしまったのだから。
だから俺を罵って。
……いや、ダメだ。
罵られる事で俺は救われようとしている。
だからって許されるのも有り得ないし、何より自分が許せない。
大切な彼女をめいっぱい傷付けておいて、自分が救われようなんて。
なんて、なんて傲慢なんだ……!
「醜いよね」
だから俺は更に傷付ける。
“桂に嫌われる”これが俺への罰だ。
だから、もうこれ以上、社と姫咲の事で傷付いても平気なぐらい、めちゃくちゃに傷付ける。
これが俺の、君への愛だ。
ごめん、俺のエゴだから、お前にそう思ってもらおうなんて、これっぽっちも思ってないよ。
「本当は、社と結婚したかったんだよね?桂。
でもそれが叶わなかった。
本来なら、社じゃなくて姫咲を憎む所だよね。
でも、いい子の桂にそれはできない。
だから、社を嫌うフリをしてるんだ?」
俺の勝手な妄想。
だから図星かどうかなんて関係ない。
とにかく、彼女を傷付ける。
それだけ。
「醜いね」
これはトドメ。
「ねぇ、桂。醜いね。このままじゃもっと醜くなるよ。醜いだけだよ」
桂への、俺への、トドメ。
「どうせ醜いなら、曝しちゃったがマシじゃない?
何傷付くの怖がってんの?
何罵られんの恐れてんの?
傷付けよ。
罵られろよ。
それぐらい覚悟決めろよ。
いい子ちゃんぶってんじゃねぇ。
“嫌われたくない”とか思ってんなら正真正銘のバカないい子ちゃんじゃねぇか」
わざと乱暴に言う。
「嫌われろよ。社に、姫咲に、“好きだ”と“憎い”と言って嫌われろ。
それぐらいの事、お前は今までやってんだぞ。
いい子ぶって、それの方が気分悪ぃんだよ」
乱暴な言葉でトドメを刺す。
今、俺は激しく彼女を傷付けた。
これ以上は傷付きようがないだろ?
だから、恐れるな。
2人に、社にぶつかってこい!
そんな気持ちを乱暴に、傷付くように言う。
気付くだろうか。
いや、気付かなくていい。
ただ、俺の言葉で奮起してくれる事を祈る。
「すっげぇ気分悪ぃっ」
吐き捨てて、俺は彼女を置いて、公園を出た。
泣きそうになって、
だけどここで俺が泣くのはお門違いもいい所だから。
歯を食いしばり、空を仰ぐ。
そこには月があって、白くて、欠けてて……
その欠けてる感じが、今さっき傷付けてきた桂の心みたいで。
余計に泣きそうになって、自分の顔を自分の右拳でおもいっきり殴った。
これじゃたぶん、桂の痛みの十分の一も感じていないだろう。
ごめん、桂。
本当は君を守りたかった。
でもやっぱり、俺は小さくて、ガキで。
君を守れるほど強くない。
君を傷付ける事しかできない、愚かな男だった。
だから桂、
俺の事は、忘れて。