第16話:夏祭り
賑わう人の中に入ってしまうと、さっきまで異空間だった風景は、俺の現実として存在した。
時折すれ違う人とぶつかったり、露店のおじさんに声を掛けられる事で、自分もこの空間に存在しているのだと実感する。
「桂、大丈夫?」
ぶつかる人が絶えない状況で、浴衣で歩くというのはどうにもスムーズにできない。
特に、普段から着慣れない者にとってはそうだろう。
桂も俺も、そんな一人だ。
「うん、今のところは……希は?」
「ん、大丈夫だよ」
人より背の低い俺は、昔から人混みに飲まれやすかった。
だからだろうか、桂も俺を気遣ってくれる。
「でもとりあえず、せっかくだから何か食べたくない?」
「そうね、せっかくだし……何、食べたい?」
「かき氷は?祭の定番」
「うん。じゃあそれで」
俺達はかき氷屋の前で止まり、それぞれに好きな味を買った。
俺はレモンで、桂はイチゴ。ちなみに1個300円。高い。
「お祭りで買った物っておいしいし、どれもキラキラしている気がするけど、やっぱ高いよね」
黄色いシロップがかかったかき氷を食べながらボソッと言う。
感想と言うより愚痴に近い。
それを聞いた桂が小さく笑った。
「ふふ……」
笑って、シャリッ…とかき氷を自分の口に運ぶ。
たったそれだけの動作にドキッとする。
浴衣に祭り、という組み合わせが俺を翻弄するのだろうか、
あるいは男は皆、翻弄されてしまうのだろうか。
ドキドキドキドキ……
心臓の音と焦りを感じ取られまいと、冷静なフリでかき氷を食べる。
「確かに、高いわね。
でもそれだけ、特別って感じがするわ。
特別だからキラキラしているし、特別だから、高くても買っちゃう。
そうじゃない?」
特別。
そうかもしれない。だから、こんなにドキドキする。
「……そうかも。うん、特別だ」
「でしょう?」
桂が微笑む。極上の微笑み。
頭と心がグラリとなる。
グラグラグラグラ。
揺れて、揺れて、抱き締めたい衝動に駆られる。
特別な夜、特別な空間、特別な君。
触れたい。
君の手に、頬に、全てに……触れたい。
グラグラグラグラ。
この揺れが、「葛藤」ってやつだろうか。
なんだか目眩に近い。
「希?」
「……うん?」
呼ばれて、葛藤から覚める。
「そんなふうにボーッとしてたら、はぐれるよ?」
いつの間にか俺は立ち止まっていたらしく、少し先にいる桂に注意される。
俺と桂の間を、人が行き来している。
確かに、はぐれそうだ。
「あは。ごめん」
素直に謝り、これ以上離れない為に桂の元へ駆け寄る。
「何か、考え事?」
「えっ?いや……何でもないよ」
考え事でもしていたのかと訊ねられ、ドキッとする。
考え事……まぁ、ある意味その通りなのだけど、あんな下心ばっかの心の内なんて本人に言えるわけもなく。
後ろめたさいっぱいで誤魔化す。
俺の動揺ぶりは隠し切れていなかっただろうが、桂は追及しなかった。
「そう」
と一言だけでその話は終わる。
桂は深く追及すると言う事をしない。深入りする事をしないのだ。
だからだろうか、俺も桂に対して深い所まで入り込もうとしない。
する必要はないと思うからだ。
言葉で聞かないと分からないような事なら、最初から話すのが彼女だ。
伝える必要はないと思う事はわざわざ口にしない。
だけど……だからこそ、桂の心は遠い。
俺はもちろん、姫咲だってそう感じる事があるんじゃなかろうか。
もしかしたら姫咲は、その心の距離が不安なのかもしれない。
“双子”っていうのはきっと特殊な関係だ。
ただの兄弟や姉妹と違って、より自分に近い人間同士なんじゃないだろうか。
自分と同じと思いつつ、違う事を知る彼女は、違うから不安なのかもしれない。
自分と違う事が、同じでない事が不安なのかもしれない。
自分が思っているように、願っているように、桂も自分を好きでいてくれるのか、実際には分からないから……それが、不安なのかもしれない。
そうだとしたら、それは姫咲の身勝手なワガママというものだろう。
でも……その気持ちは、分からないでもない。
「ねぇ、希」
「うん?」
名前を呼ばれて桂の方を見るが、桂は俺を見ていなかった。
どこを見ているのか分からない遠い目を、俺達がやって来た方とは反対に向けている。
その先は行き止まりになっていて、左手に神社に上がる階段がある。
その神社はあまり繁盛していなくて、ガランとした小さなものだったと記憶している。
「ごめんね」
ボソッと呟くようにして言った謝罪の言葉。
「え?」
意味が分からなくて聞き返す。
何に対しての謝罪か、分からない。
俺が分からない事に気付いたのか、桂がくすりと笑って自分の足元に視線を落とし、それから俺を見た。
「希、気を遣ってるでしょ?」
「……」
半分ハズレ。
だけど半分は当てられていて、俺は黙ってしまう。
気を遣ったつもりはない。
でも、そう感じさせている事は何となく分かってた。
だって……今日の桂はいつも以上に、存在が危うい気がしたんだ。
そのまま消えていきそうな予感。
そんなもの、当たるとは思ってない。
でも……今日の桂は、新月のように静かで、不安になる。
いつもなら社に食って掛かる桂。
今日は……ただ、避けていた。
なぜ?
そう思ったから、俺はいつもより遠慮していたんだ。
それは無意識だったけど。
「ごめんね、希。いつもいつも、希には救われてる」
「桂……」
小さく微笑んで、また遠くを見る。
何だろう。……怖い。
「希は心労が絶えないね。特に、私といると気を遣ってばっかりで……」
「そんなことない」
桂の言葉に、今度は強く否定する。
それはない。
それだけは有り得ない。
桂、それは俺が君の事を負担に思っていると、そう言っているんだろう?
でもそれは違う。
負担なんかじゃない。決してない。
俺は好きで、桂といるんだ。
負担なわけがない。
「そんなことない。俺は、疲れていない。むしろそれは、桂の方じゃないの?」
「……」
俺の指摘が正しかったのか、今度は桂が黙る。
「桂。君はいつも人の事ばかりだ。俺、前にも言ったよね?」
「……」
桂は黙ったまま、遠くを見たまま、何も言わない。
「君は……」
言いかけた時、
ピリリリ… ピリリリ…
携帯が鳴った。
俺のだ。
画面を見ると、社からの電話だった。
無視しようと懐に戻す。
が……
ピリリリ… ピリリリ…
執拗にそれは鳴り続ける。
仕方なく、俺は電話を取った。
「もしもし」
幾分か、不機嫌な声で電話に出る。
当然だろう。
こっちは大事な話の最中だったって言うのに……。
『あっ!希か!?姫咲、一緒にいるか!?』
電話の向こうから聞こえた社の声はいつになく慌てていて、何かあった事を感じさせた。
「姫咲?いないけど……何で?」
姫咲は社と一緒にいるはずではなかったか?
なのに今、社は俺の携帯に慌てて電話を入れている。
もしかして、2人ははぐれてしまったのだろうか。
俺の口から姫咲の名前が出た事に気付いた桂はハッと俺を見る。何かを察知したのかもしれない。
『いや……姫咲が綿菓子ねだったから買いに行って……その時ちょっと離れたんだけど、その間にどっか行っちまったんだよ』
慌てながらもそこは大人。
社は事情を丁寧に説明してくれた。
「姫咲の携帯は?」
とりあえず、俺にかけるよりそっちが先だろうと思い、訊ねる。
俺の横で桂が汗を掻いている。
『俺が持ってるから通じねぇ、意味ねぇ』
しっかりとした声で返事をしているが、社はそうとうに汗を掻いているに違いない。
聞くには、姫咲は携帯を巾着に入れていたらしく、それをレディファストよろしく社が持ってやっていたらしい。
言われてみれば、手を繋ぐ2人のうち社だけが何かをぶら下げていたような気がする。
今回ばかりは、姫咲の女王様な性格が仇となったようだ。
「そう。分かった。俺達も探してみるよ」
『ああ、頼む』
そう言って電話が切れる。
「姫咲……?」
携帯を仕舞う俺を見て、桂が呟くように訊ねてきた。
その声は掠れていて、顔も心なしか血の気が引いているようだ。
双子の勘というのは鋭い。
彼女は訊ねながらも、既に姫咲に何かあった事を感じ取っているのは誰が見ても明白だった。
「うん。兄ちゃんとはぐれたって……桂!」
俺が最後まで行ってしまうより先に、桂は走り出していた。
これじゃあ、俺達まではぐれたようなもんじゃないか。
そう思いながら、彼女を追い掛ける。
しかし、これだけの人混みの中を追い付くのは困難で。
結局、桂の姿を完全に見失ってしまった。
「くそっ」
舌打ちする。
露店が立ち並ぶ通りの長さはおよそ200〜300mほど。
所々、横に逸れるように更に狭い路地にも露店は並んでいて、
実際問題、はぐれた人を探すのは困難な状況と言えるだろう。
何で姫咲ははぐれたのだろう。
根本的な疑問が浮かぶ。
正直、姫咲が自分から社と離れていったとは考えにくい。
だからこそ、社もあんなに慌てているんだろう。
そのはぐれた理由が、人混みに飲まれ、はぐれてしまったというわけでなかったら……
不安は募る。
汗が出る。暑さのせいだけじゃない。
だからこそ、桂も慌てて走り出したのだ。
不安しか、感じない。
姫咲とは連絡が取れない。
桂とも取る事ができない。
唯一、つながるのは俺達兄弟の携帯。
焦る。
路地の方に入り込んでいたら……?
悪い事ばかり想像する。
こういう時、人っていうのはなぜネガティブ思考になるんだろう。
路地の方も少し覗きながら、祭りの端の方へと歩いていく。
「いない……」
とうとう、端まで来てしまった。
姫咲はもちろん、桂とも、社ともすれ違わなかった。
「ほぼ一直線なのに……」
一直線の通りで、こうも出会わないもんだろうか。
それにしても姫咲だ。
いったい、どこへ行ったのか……?
もし、もしもだ。
単に人混みに流されただけだとしたら、彼女は今どこにいるだろう?
考える。
無理矢理ネガティブ思考を砕いて考える。
そうして思い出した事が一つ。
「……神社?」
この通りの突き当たり、左手に階段を構えている、もうずっと前から寂れている神社。
小さい頃。
それこそ桂がまだ社に素直な好意を抱いていた時代だから、うんと昔だ。
そんな頃、今日みたいに姫咲が迷子になった事があった。
俺達は必死で探した。
と言っても、俺はその事の重大さが分かっていなかったし、
兄ちゃんに引っ張られるようにして歩いていただけと言う方が正しいのだけど。
ともかく、探していた。
当時の姫咲は一人で勝手に行動するやつで……今も大差はないが、
とにかくすぐにはぐれる子供だった。
そのくせ、一人っきりと気付くと寂しがって、
俺達が自分を探しに来るのをじっと蹲って待つようなやつだった。
可愛いんだかそうでないんだか……。
しかもその蹲ってる場所っていうのが大抵、ちょっと高い所だったりして、
それがこの時はその寂れた神社の境内で……。
そこにいるかもしれないと先に考えたのは桂だったのか社だったのかは知らない。
だが確かに、その時姫咲は桂ではなく社の方にしがみついたと言う事は覚えている。
それまで姫咲は桂が全てだったのに。
そうだ。
あの時のあの出来事から、何かが変わってしまったのではないだろうか。
今思い出してみると、そんな気がして、心がザワついた。
そんな事を考えている場合ではないと言うのに。
姫咲を、探さないといけないのに……。
いや、もしかしたら、3人はそこにいるかもしれない。
姫咲は昔を思いだして。
桂は姫咲の事を思って。
社は姫咲の習性を考えて。
だとしたら、行く価値がある。
……“行く価値がある”……?
違う。行かなきゃいけない、そんな気がするから行くんだ。
俺は寂れた小さな神社へ向かって歩き出した。