第11話:社と姫咲
「ただいまー♪」
午後9時前、明るい声が玄関先で帰宅を告げる。
姫咲と社が帰ってきたのだ。
「ただいま、お義母さまお義父さま」
居間の襖を開け、正座をして両親に帰宅の挨拶をする。
こういう礼儀はきちんとして、あとはとにかく天真爛漫で明るいやつだから、俺の両親も祖父母も姫咲の事を可愛がっている。
特に父は、社に家元を継ぐ決心をさせるのに一躍買う結果となった姫咲に感謝すらしていて、きっと姫咲が何かやらかしてしまっても目を瞑っているんじゃないだろうか。
「おかえり、姫咲ちゃん」
両親はほくほくとした顔で挨拶を返す。
姫咲はそれに笑顔で応え、次に俺の所まで来て、ワザワザ抱き付いて、
「ただいまー、希」
と言ってきた。
計3回、姫咲の「ただいま」を聞いた。
一人一人に挨拶する所は律儀だと思うけど、俺にしてみればちょっとしつこい。
ま、だからって冷たくあしらうなんてことはしないけど。
ここでは姫咲様がルールですから。
「はい、おかえり。兄ちゃんもおかえり」
「おぅ、ただいま」
姫咲より少し遅れて居間に入った社に目をやる。
社は微笑み、両親にも丁寧に挨拶した。
両親は笑顔でそれに頷く。
兄、社は中学生の終わり頃から反抗期に入り、その継続で高校からはお茶の稽古に行かなくなり、バイトだ遊びだと近頃の学生らしく青春を謳歌していた。
大学は両親が知らないうちに決めて進学し、高校のバイトで貯めたお金で学費を出したり、生活もギリギリの所でやっていたという。
それでもたまに、俺達の前には現れて優しくしてくれた。
社は実家が茶道の家元であったが為に、その雁字搦めの家が窮屈で、まして嫡男であるという重圧に耐えかねて、爆発したのだ。
当然そのまま実家から離れ、一般企業に就職し、そこそこ気の合う女性と結婚し、ごくごく一般的な家庭を築くつもりだったらしい。
だが、この社の予定は一人の少女によってぶち壊された。
その少女こそが、当時中学2年生だった姫咲だ。
姫咲は小さい頃から社の事が好きだった。
もちろん、最初のうちは兄のように慕っていただけなのだろうが、そのうち……
俺の推測では小学4年の終わり頃からは本気で、“恋”という意味で好きになっていたと思われる。
それは社が大学に進む事が決まった時の事だ。
姫咲は泣いた。
社が自分の傍からいなくなることを知って、実感して、彼女は泣いた。
泣いて、女になった。
彼女が桂にコンプレックスを抱いたのはその2年後の事である。
彼女の心が女だったからこそのコンプレックスで、あの乗り越え方もできたのだと思う。
そういう意味では、桂はまだ少女のままだ。
俺に抱き付いていた姫咲はすぐに離れ、祖父母のいる離れへと向かった。
その手には祖母の好きなおまんじゅう。
土産に買ってきたのだろう。
しばらく祖父母の所でおしゃべりしてくるつもりに違いない。
まったく、社交性抜群なやつだ。
午後10時を回ってしまった頃、姫咲は寝床につく。
彼女曰く、
「早寝早起きはお肌の基本!」
だそうで、本物の主婦になるまではこの生活習慣を崩すつもりはないらしい。
社は姫咲と同じ部屋で寝るのだが、いつも12時を回ってからでないと寝ない。
その間、どこで何をしているかと言うと……茶室で一人、お茶の稽古を浚っている。
彼は高一から大学を卒業してしまうまでの7年間、稽古はいっさい受けていない。
7年のブランク。
家元を継ぐ為、彼はほぼ毎晩、一人黙々と稽古を浚う。
もともとセンスのある人だから、もう大分、勘は取り戻しているのではないだろうか。
ほぼ毎晩、やってるのだから。
でも……“ほぼ”という事はたまに稽古でない事もしているという事。
そう例えば……
「希、入るぞ」
「……」
と、いきなり俺の部屋にやって来たり、だ。
たいてい、そういう時は姫咲と桂について話したい時と決まっていて、正直に言うと、ちょっと構えてしまう。
実の兄と話すだけだというのに。




