第10話:桂の傷
助かった……
素直に胸をなで下ろす。
今だけは、松永の姫咲ファンっぷりに感謝だ。
でないと、姫咲が2人と面識できるわけがなかったろうから。
「おー、希。お前大丈夫か?」
「は?何が?」
松永が開口一番に妙な事を訊いてきたもんだから、キョトンとなって聞き返す。
大丈夫って、何が?
「何って、具合悪いって桂さんが……」
「え?」
桂が?
そう思って桂を見ると、桂は思い詰めたような表情で遠くを見ていた。
その視線の先は、姫咲と社が去った方向であったが、その目は何も映していないようだった。
だからといって、ボーッとしているのではなく、ただ心の痛みを耐えるように唇を引き締めている。
ああ、何という事だろう。
桂は姫咲と社が結婚した日以降、2人一緒の所に会ってはいない。
今日初めて、夫婦となった2人を見たのだ。
……痛いに違いない。
「……桂?」
だけどその事には触れず、気付かないフリで桂を呼ぶ。
「……えっ、何?」
ハッと我に返り、桂は俺を見た。
目の周りが少し赤いような気がするが……気にしない。
気付かない。
今はまだ、気付くべきでない。
「俺、具合悪いって言ってくれたの?」
できるだけ優しい声音で訊ねる。
先程まで意識の中にいただろう桂に刺激を与えぬよう、ゆっくりと。
「……」
いっとき、桂は何の事か分からないようで、目をパチパチさせて考えていたようだが、すぐに「あぁ」と思い出した。
「ええ、だって……そうだったでしょう?」
本気なのかそうでないのか。
少しだけ微笑んで、反対に俺に問い返してきた。
「……まぁね」
その仕草が、さっきまで心を痛めてると思っていたくせに、やたらと可愛く思えてドキッとする。
だからそういうふうにしか答えられなくて、間抜けな感じになった。
あー……恋って、人を情けなくするんだろうか?
「もう、大丈夫だけどね。……桂は?」
自分の事は考えない彼女だから、少し不安になって訊ねる。
「……大丈夫よ。ありがと」
そう微笑んだ桂は儚く、今にも崩れてしまいそうなガラス細工に見えた。
このまま“桂”が消えていくのではという不安が俺の中に生まれる。
桂……
「でも、ごめんね。ちょっと……気分がすぐれないみたいで……先に、帰るわ」
桂がみんなに向かってすまなそうに微笑む。
「え、大丈夫?ケイちゃん?」
海堂さんが心配そうに声を掛ける。
「一緒に帰ろうか?」
神野さんも、心配して桂の顔を覗き込む。
桂はまた、儚げに笑って
「ううん、大丈夫よ。2人は楽しんで?ね?」
2人の為に、平気を装う。
「ごめんね」
最後に一言、そう笑って桂は出口に向かって行った。
しばらく、俺達はこれからどうしようかという話をしていたけど、俺は帰る桂の事が気になって、
「悪い。俺も帰るわ。桂、心配だしさ」
そう言って、俺は桂の後を追いかけた。
松永と清田は何か言いたげに口を開きかけたが、そこは男。
ぐっと堪えて「またな!」とだけ俺の背中に声を掛けてくれた。
この2人には、俺が桂に惚れているという事がバレてしまったかもしれない。
別に隠しているつもりはないから、どうでもいいことだけど。
出口ゲートの手前。
俺は桂に追い付いた。
「桂っ!」
名前を呼ぶと、桂はすぐに振り返り、立ち止まった。
「希……」
彼女は「なぜ?」と問う目をした。
「なぜ」って、心配だからに決まってるのになぁ。
……ホント、自分の事は考えないんだから……愛しいに決まってる。
「一人で女の子を帰すわけにはいかないだろ」
駆けてきたせいで肩で息をしてしまって、スムーズに言うのに苦労する。
それでも、スムーズに言えたと思う。
「……希の方がむしろ危ないと思うんだけど……」
「え?」
桂の言葉の意味が分からず、聞き返す。
桂は俺の後方に目を向けていて、困ったように笑っていた。
だから気になって俺は振り返る……と……
「君、大丈夫?」
「そんなに慌てて、何かあったの!?」
「俺でよければ協力するよ」
俺をナンパする為に近付いてくる男達がわらわら……。
俺はそんなに、男ウケする顔ですか!?
と、思わず涙ぐみたくなる光景に、自分が情けなくなる。
目の前にこんな美人の桂がいるってーのに何で俺!?
「あー……大丈夫だから、充分、何も必要ないから。てか俺男なんで、サヨナラ!」
キッパリと抑揚のない声音で返事をして、
俺は桂の手を掴んで急いで出口ゲートをくぐり、TOYOSHIMAの敷地内から足早に外に出た。
数分歩いた所で、桂の手を放す。
「希」
と静かに呼ばれて我に返ったから。
しばらく手を繋いでいたのかと、無自覚だった事を後悔しつつ、
バクバクいう心臓を抑えようと、気付かれないように深呼吸した。
「ごめん、いきなり出て来ちゃった」
落ち着いた所で謝罪の言葉を述べた。
あまり本気でごめんとは思っていないけど。
何と言っても、どさくさに紛れて桂の手を握れた事はとても嬉しい事だったから。
「いいのよ。それより、大丈夫?」
「何が?」
俺が心配して桂を追いかけてきたはずなのに、逆に「大丈夫?」と訊かれてしまい、よく分からずに聞き返した。
「走り通しで……」
心配そうな表情……
というより、目だな。
心配そうな目で俺を見る。
優しくて、思いやりのある桂。
心配してくれてありがと。
でも、心配すべきは君の方なんだよ?
「ああ、大丈夫。まだまだ若いからね☆そういう桂こそ、いきなり走らせちゃったけど、平気?」
「ええ、平気よ。ありがと」
桂が微笑み、和やかな空気が流れる。
「じゃあ、帰ろうか?送ってくれるんでしょ?」
そのままの家顔で桂は言った。
「もちろん。学校……でいいのかな?」
「ええ、学校で」
今の時間は12時前。
今日遊ぼうと誘った時に門限は5時だと聞いている。
だから、あと4時間ちょっとは学校に帰る必要はない。
時間はまだたくさんある。
それに、姫咲と社はTOYOSHIMAの中。
今なら……少しくらい、実家によってもいいだろうに……。
「家の方には、顔出さなくていいの?おばさん達、寂しがってるよ?」
姫咲はウチへ嫁に来ちゃってるし……
心の中で付け加えても言葉にはしない。
桂が傷付くのは分かり切ってる事だから。
「うん……いいの。お盆には帰るし、ちょっと、疲れたから」
「そっか。なら、仕方ないね」
「疲れた」というセリフにズキッ……と胸が痛む。
桂は気付いているのだろうか?
俺が桂の痛みに気付いている事を。
いや、そんな事はどうでもいい。
確かに桂は、俺の前で強がりはしても言葉や態度の端々で感情を伝えてきてくれるのだから。
今はただ、そんな彼女を包み込んでいたい。
「……希」
「うん?」
「…………ありがと」
「……うん」
しばらく俺達は黙って歩いた。
静かな空気を纏って歩く俺達に、太陽はじりじりと光を照らす。
じりじりじりじり……
暑い。
汗が出る。
それでも静かに歩く桂の顔は、夜空に輝く月のように白く、涼しげだ。
燃える事もなく、焦げる事もない月。
太陽に照らされ輝く事で、その存在は夜の中で主役を張る。
静寂のヒロイン。
“桂”という少女は、そんな月を思わせる。
静かに、穏やかに存在する彼女。
その裏側は、誰も見る事が出来ない。
そう、彼女自身がそれを照らさない限り。
俺と桂は学校までの道のりを、互いの存在だけを感じながら静かに歩いた。
太陽が熱く熱く輝く下を。