17、天秤の均衡
今回はガラリと変わって湖華視点です。
新緑香る初夏の大地に、生徒達の黄色い声が響く。
「それでは、只今からはんごう炊飯の説明をします」
キャンプの夕食はカレー、などと誰が決めた法則なのだろう。湖華は、教師による説明を注意深く聞いていた。
見渡す限りの緑。緑。緑。山を切り開いて作られたキャンプ場には、小ぢんまりとしたバンガローが並び、さらさらと川が流れている。
普段の生活にしばし別れを告げ、湖華達二年生は野外教育活動――いわゆるキャンプに来ていた。
『豊かな心を育み、仲間との絆を強める!』とでかでかと書かれた『野外教育活動のしおり』をパラパラとめくる。すぐさま『カレーの作り方』というページを開いた。
彼女は正真正銘のお嬢様である。そのため、カレーなどという民間人の定番料理は作ったことがなかった。
もちろん『スプーンより重いものは持てない』並の箱入り娘という訳ではない。必要最低限のことは自身で行う、というのが彼女なりの自尊心でもあった。
だが、人間誰しも慣れない作業には不安が付きまとうものだ。
「では、班ごとに分かれて調理を開始して下さい」という声で我に返る。クラスメイト達は事前に作ったグループ同士に固まって調理場に向かい始めた。
「湖華は米を洗う係りだっけ?」
「あ、ああ」
同じ班でそこそこ仲も良いクラスメイトの女子は、カレーの作り方のページを開いたまま何やらブツブツ呟く湖華を見て、プッと吹き出した。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だって。お米洗うだけなんだから」
「そ、そやね…」
苦笑する友人を見て恥ずかしくなってきた湖華は、慌ててしおりをジャージのポケットにねじ込む。
野外教育活動では、基本服装はジャージだ。
もちろん、これは動きやすさを考慮してのことである。キャンプでは、子供たちだけの火起こしなどの地味に危険なイベントが少なくない。
「じゃあハイこれお米。水道は四組と共同であっちにあるから」
升に入った四人分の米を、慎重すぎる動作で受け取った。
昼過ぎという時間帯というだけあり、じんわりと額に汗が浮かぶ。手汗などで米を落としてしまわないよう、しっかりと抱え込んだ。
ちなみに何故夕食を作るのが昼過ぎという時間帯なのかというと、夕食を作るのに予想外に時間がかかるためだ。
はんごう炊飯、というのは普通の炊飯器と違いすべて手動だ。そのため、手間がどうしても増えてしまう。
――まあ、そうして苦労して作った食事を皆で味わう、というのがこの『夕食作り』の主旨でもあるのだが。
(この米を落としたら、班のみんなの夕飯がなくなってまう!!慎重に…慎重に…!!)
ただ運ぶだけにも関わらず、フーフーと荒い息を吐きながら水道場に向かう湖華。
「――湖華」
「ぴぎゃあ!?」
不意に耳元で囁かれ、びっくりして両手を放してしまった。升が宙に舞う。すべての動きがスローに見えた。
(ア…アカンッ!!)
どうしていいか分からないでいると、横から伸びてきた細い指が升に触れる。
それだけで升から米が一粒も落ちることはなく、無事に湖華の手の中に戻った。
「危機一髪――だったんでしょうか?」
「影也…」
小賢しいマネを、と言いかけたが助かったのは事実だ。ここは素直にお礼を言う。
「いやー奇遇ですね~僕も米洗いの係りなんですよー」
「……アンタが進んでこんな手間かかる作業するなんて珍しいな」
「酷いですねー、でも米を抱え込むお嬢様ってのも中々見られない光景ですよ」
うっさい、と吐き捨てて水道場に升を置く。蛇口をひねると、山の冷たい水が手のひらに刺さった。
米とぎ専用のボウルにぞんざいに米を流し込む。
どうやら他の生徒はもうとっくに洗い終わっているようで、周囲には影也と湖華の2人しかいなかった。
ジャー…という騒がしい水音だけが響く。ボウルの中の米を控え目にかき混ぜた。
最初は冷たいと思った山水だが、慣れてくれば長時間手を浸していても大丈夫になってきた。
――よく考えれば、こうして山に来て自然というものを目の当たりにするのは初めてかもしれない。
家柄こそ立派な秋ノ宮の家だが、義父と義母は忙しく家族で旅行するなどほとんど経験したことはなかった。
義姉は生まれつき体が弱かったこともあり、ほとんど屋敷から出たことはないと言っていた。
もちろん、自分は拾われた身なので贅沢を言ってはいけないと思う。だが、一度だけでもいいから家族で旅行に行ってみたい。
(瑠季に言ったら何て言うやろうか…)
「湖華」
「………あ、へっ!?」
突然名前を呼ばれ、思うように反応できなかった。影也に考えていたことでも覗かれたのだろうか、クスリと微笑みかけられる。
「湖華は、那雲君のことが好きなんですか?」
「―――」
あまりにも唐突な問いに、思考がショートする。もしかして聞き間違いでは、と思ったがいいやそれはない。
考えるより先に、体が反応した。頬が紅潮し、激しい動悸が襲う。
「なッ…何ふざけたこと…」
「僕は本気です」
凛然とした瞳に射抜かれ、体が足の先から縫いとめられたように動かない。じんわりと汗が滲み、動悸が激しさを増す。
湖華は無理矢理影也から視線をそらし、素直すぎるほど正直に心中を吐露した。
「…好きや。でも、影也のことも好きなんや……仲間、やから」
「……。」
「ウチが那雲を嫌う訳ない。ちょっと生意気でも、アイツは…異能力研究部の仲間なんやから……」
唇を噛み締めても、拳を握っても、今だ湖華を拘束し続ける動悸は消えてくれない。そればかりか――刻むリズムが速さを増している。
その打ち明けた思いを聞き、影也は少し考える表情を作った。そして、流れ続ける水道の蛇口を閉める。
一瞬の静寂。――そして、影也が動く。
「…ッ!?…」
重心のブレを感じ、気付いた時には抱きしめられていた。
背中に回った影也の手が、容赦なく湖華の華奢な肢体を圧迫する。
隙間なく2人の身体が密着した。
影也の体温が嫌でも伝わり、身体中がとろけてしまいそうな熱に包まれる。
今まで美麗な少女のような少年だ、と思っていたが、その力の強さと骨格の作りは明らかに男のものだ。
「嫌…ッ、放して、影…」
「――放しません」
放してほしいと訴えると、ますます強く抱きしめられた。
熱、吐息、肌、それがすべて彼に支配されてしまうような錯覚を覚える。
特別な超能力を持っていようが、生粋のお嬢様だろうが、彼女は17歳の少女。同年代の、しかも身近な異性から突然抱きしめられた刺激はかなり大きい。
必死に腕から逃れようとする湖華をさらに強く抱きしめ、影也は言葉を紡いだ。
「……もしもこれを、那雲君にやられたらどうしますか?」
「――ッ!?」
思考がうまくまとまらない。まるで脳の回路のつなぎ方が間違ってしまっているかのように。
――これを那雲にやられたら、もしも彼が同じように湖華を強く抱きしめたら。
「――、!!!」
たちまち頬と言わずに全身が熱くなった。火照る頬の熱は一向にひいてくれない。
「……ぁ…」
言葉が上手く発せられない。心臓がはちきれてしまいそうな動悸に耐えられなくなる。
その様子を見た影也は、黙ってゆっくりと湖華を解放した。
足は小刻みに震え、立っているのも精一杯という湖華の様子を。
――その表情は、彼が今まで見たこともないほど艶を帯びていた。
ふぅ、と溜息をつき水道場に手を伸ばす。
升を掴んだ影也は踵を返すと、さっさと歩を進めた。
「――つまり、そういうことなんですよ」
ピクン、と湖華の体が小さく跳ねる。その様子は、まるで小動物のようだった。
彼女は、生まれて初めて抱いた感情の正体を知ってしまった。
いや、気付いていたのに気付いていないフリをし続けていた。
もしかしたら『仲間』という言葉は、その感情を隠すための都合のいい逃げ道でしかなかったのか。
だがその想いは、彼女の小さな心の天秤に乗せるには重すぎた。
あっと言う間にバランスが崩れ、あらぬ方向に天秤が傾いてしまうほどに。
「ウ…ソ…や」
口先で拒絶しても、流れ込む想いは止まらない。
―――もちろん彼女達の班の米が、水に浸かりすぎてしまいふやけてしまったことは言うまでもない。
無事、夕食を終えた湖華達の班。(火起こしのための灰が盛大にカレーに入ってしまったなどのハプニングもあったが)残すのはバンガローにて就寝、ということだけだ。
班長による『明日のミーティング』を終えたクラスメイトが戻ってくると、湖華含む三人は毛布の準備をした。
バンガロー内には布団がない。なので寝るのも薄っぺらいペラペラの毛布一枚だ。
「んじゃ、そろそろ電気消すよー」
相当古いタイプの電球なのか、カチカチと何秒かおきに明暗を繰り返すとようやく消灯した。
木でできた床は硬く、いつもふわふわのベッドで寝ている湖華は落ち着かない。これなら寝返り一つで打撲しそうだ。
毛布を頭から被り、無理やり眠りを誘う。だが、うとうとしかけてきたころ、その眠気は遠くからの喧噪によって遮られた。
遠くのバンガローからは、十時消灯にも関わらず起きている生徒がまだいるようだ。まあ、最もキャンプの夜は寝ないで朝までおしゃべり、というのも一つの醍醐味だろう。
そう思っていたのだが、どうやらそれは『おしゃべり』というにはやたら声が大きい。それに、何かを訴えているような口調にも聞こえる。
毛布からはい出ると、湖華はその喧噪に耳を傾けた。会話の全て、までとはいかないが断片のみでも内容は理解できる。
『本当に――…です、――つの間にか…なっちゃって…ッ!!』
どうやら女子生徒らが、見回りに来た教師に何かを言っているようだ。だが、緊迫した声音の女子生徒とは対象に、教師の声はそっけない。
「……何や?」
「何、野次馬しに行くつもり?やめときなって、アンタまで怒られるよ」
「せやけど…」
立ち上がって扉のノブを握った湖華に、同じ班の友人は軽い調子でそれを制した。ころん、と寝返りをうつとあっという間に寝入ってしまう。
それをしばらく眺めた後、湖華はそっと扉を開いた。
今夜は満月のようだ。目がくらむほどの月明かりが降り注ぐ。天を仰ぐと、都会ではめったにおめにかかれない琥珀色の月と散りばめられた星がはっきり窺えた。
普段ならその夜空の美しさに見入っているところだが、今はそれどころではない。
どうやら、騒ぎが起きているのは湖華達の四つ先のバンガローだった。見ると、まばらに他の生徒達も何事かと外に出てきているようだが、教師によって強制的にバンガローに戻らされている。
中心に捉えたのは、二人の少女。それを二、三人の教師が囲んで何かを宥めている。
「……?」
幸い、湖華はまだ教師陣に見つかっていないようだ。ゆっくりとバンガローの階段を下り、騒ぎの中心に近づこうとする。
「やめた方がいいですよ」
「!?」
背後から突如として聞こえた声に、ビクッと体を震わせた。振り向くと、そこには月の女神のごとく月光を浴びた影也が立っていた。
先ほどの問答のこともあり、動揺した湖華だが今はそれどころではない。
「なっ、アンタ、女子のバンガローの領域にノコノコ…」
「シッ」
影也は湖華の声を遮ると、人差し指を口にあてる。一瞬同様した湖華だが「誰かそこにいるのか!?」という野太い教師の声で状況を理解する。
「一旦隠れましょう」
そう言い、影也は湖華の腕を掴む。シュ、と空間を裂く音が聞こえ、無重力を感じた時にはどこかのバンガローの裏だった。
瞬間移動、というのはあまり気持ちがいいものではない。少し頭を押さえた後、目の前の影也に問う。
「どういうことや?何が起こってんや…」
「どうやら、先ほどいた女子のグループの一人が行方不明だそうです」
「はぁ!?」
行方不明、という警察沙汰の単語を聞いた湖華の顔が歪んだ。
「教師の方は『キャンプ場内で行方不明になる訳がない。きっと抜け出して他のバンガローに遊びに行ったのだろう』と捜索を拒んでいます。どうやらその行方不明の生徒は、普段から少しやんちゃだったようですねー教師陣が呆れるほど」
「それで捜索してほしい同じ班の女子生徒と教師の間で口論になってんのか…」
行方不明になった少女の名前を聞いて、湖華も少し教師陣に同情した。
確かに彼女は鶴城ケ丘高校でも名の知れたギャルであり、教師陣が本当に行方不明かどうか疑うのも無理はない。大分前も、万引き騒動があったばかりだ。正直湖華もその女子生徒は少し苦手である。
「でも、そんなんだったら本当に行方不明かどうかは分からんとちゃう?」
「いいえ、彼女は行方不明です。僕の班の奴が、夕食過ぎに森の方へ向かう彼女を目撃したそうですから」
「はぁ!?だったら何でそいつは止めんかった!?森ん中入ってくって怪しさ全開やろ!」
「だから彼女ではここらで有名なギャル。きっと怖くて声がかけられなかったんでしょう」
「はぁ~…信じられへん…ホンマそいつ男か?」
頭が痛くなってきた湖華は、バンガローの外壁にもたれかかる。影也も隣で溜息をついた。
「まあ、でも実際彼女は行方不明な訳ですから…私達で捜索しましょう」
「ちょい待ちやああっ!何でウチとアンタでそないなことせなあかんの!?別に放置しても問題は…」
「大有りです。もしかしたら誘拐、なんてこともあり得ますし」
「…今時キャンプ場で誘拐て…あざとすぎやろ」
「いいえ、作者が中二の時行ったキャンプ場では、実際に過去に誘拐騒動があったらしいですし」
「今作者の話なんかどーでもいいわ!!」
ガシガシと頭をかいた湖華は、心底イライラしているのかポケットに入っていた『野外活動のしおり』を影也に向かって投げつける。
ガン!という結構派手な音とともに影也の額に命中した。
「ぶ、分子操作は反則ですって…」
「これでもセーブした方や。ほんの50キロくらいやし」
いや、それは十分致命傷ですよ、と心の中で突っ込んだ影也だが、すぐに開き直ると湖華に視線を合わせる。
「まあ、何はともあれ探すことにこしたことはありませんから。協力してください」
「嫌や。んなもんキャンプ場の管理人に任せればいいやろ」
「想像してみてくださいよ、もしも自分が管理するキャンプ場で行方不明者が出たとなれば…下手すれば隠蔽されかねませんよ。それに、常人では探すのに手間がかかりますが、僕等なら問題ないんじゃないんですか?」
「ハッ、超能力か。まあしゃーないな」
行くで、と湖華は覚悟を改めたのか踵を返して歩き出す。影也はにんまりとした笑みを作るとそれに続いた。
――どうやら、長い夜になりそうである。
何気に二日連続更新、とテンションが高い夏目です。
ちなみに、作中で影也が言っていたことは事実です。
不審者がバンガロー内に突如侵入してきたそうです。怖っ!(笑
その証拠に、バンガローには立派な鍵がついており、寝る時は絶対鍵をかけろと念押しされました。
…でも私も、もう一回キャンプ行きたいです!(笑