冤罪令嬢、断罪イベントで酔ってゲロって、人生好転
※※嘔吐描写があるため、ご注意ください※※
ある日の夜会のことだった。
浮気性ギャンブル依存のバカ婚約者が、会の途中で騒ぎ出した。
私を指さして何か言っているが、頭がふわふわして、よくわからなかった。
どう考えても飲みすぎだった。
「スピナ・ベルリオ! 聞いているのか! お前と俺の婚約を破棄すると言っている!」
ダメだ、気持ち悪い。
なんか願ってもないことを言われているようだけど、赤ワインが胃から溢れ出そうだった。
口元を手で押さえて、必死に吐き気を堪えた。
「これはもう決まったことだ。俺は、このロイデン男爵令嬢と改めて婚約する」
バカは私の前に立って、勝ち誇ったように言った。
限界だった。
足がもつれて、思わずバカの胸に手をついた。
「そんなに縋ったって俺の気持ちは変わらな――」
「お゛え゛えええ」
積年の恨みと一緒に、胸につっかえていたものが全部出た。
「うわあああ!」
その瞬間、バカが思い切り後ろに飛び退いた。
支えを失って、私は顔面から床に突っ込みそうになった。
「大丈夫ですか?」
床にぶつかる直前、誰かに抱き留められた。
一体どこの聖人だろう。
お礼を言おうと思ったが、意識がもうダメだった。
霞む視界の中で、聖人の胸元に赤い石が光っているのが見えた気がした。
『冤罪令嬢、断罪イベントで酔ってゲロって、人生好転』
夜会の翌日、私は自室のベッドで昼過ぎまでゴロゴロしていた。
「お嬢さま、ご気分はどうですか?」
花瓶の花を替えながら、侍女のルリが言った。
「とっても爽快よ」
ニッコリ笑って、私は言葉を続けた。
「だって初めてだったんだもの、前世に勝ったの」
「記念すべき勝利ですね!」
ルリは全力で拍手しながら、力強く言った。
物心ついたころ、私は自分が悪女になる運命を知った。
見知らぬ女の記憶――おそらくは前世の記憶で。
その女が遊んでいた「ゲーム」というものの世界で、私は悪女として公衆の面前で婚約破棄を言い渡されていた。
まさに昨日の夜会と全く同じ光景だ。
私がゲロったことを除いて。
「やっとあのバカから解放されますね」
「ええ。あ、でももう婚約者じゃないから、ちゃんとジルクさまとお呼びなさい。何かあっても庇ってあげられないから」
「かしこまりました」
悪女にならないようがんばったが、私が何をしようとバカも周りの人間も記憶通りの行動をした。
半ば諦めていたのだが、まさかゲロで運命が変わるとは。
ゲームの通りなら、今ごろ身に覚えのない罪で投獄されていたはずだ。
「ルリ、今度二人でこっそりお祝いしましょう」
「いいですね! ケーキでも食べましょう」
ケーキの話で盛り上がっていると、誰かが扉をノックした。
「お嬢さま。旦那さまがお呼びです」
扉の向こうから聞こえた言葉に、私とルリは顔を見合わせた。
* * *
恐る恐る父の部屋に入ると、案の定、父は鬼のような顔で座っていた。
とりあえず謝っておこう。
「公衆の面前で醜態を晒し、申し訳ございませんでした」
完璧なお辞儀をしたはずだが、父は無反応だった。
もうちょっと声を震わせて、反省の色を見せた方がよかっただろうか。
だんだん腰が辛くなってきたので、早く何か言ってほしい。
「着替えてジルク殿に謝罪してこい」
「え?」
顔を上げると、父は先ほどよりさらに怖い顔になっていた。
「謝って、婚約破棄を考え直してもらえ」
追い討ちのように告げられた言葉に、急速に心が沈んだ。
やはり、何も変わっていないのだろうか。
「なぜ私が謝罪を?」
「あんな痴態を晒して、婚約破棄まで言い渡されたんだぞ」
婚約破棄はゲロの前に言われていた。
ゲロのせいじゃない。
「ジルクさまが婚約破棄を望む理由をご存じですか?」
「ジルク殿のご友人のご令嬢に、お前が嫌がらせをしたからだろう」
どこからか広まった、根も葉もない噂だ。
自分で言っていて疑問に思わないのだろうか。
「私がどんな嫌がらせをしたと?」
「それは……」
父は視線を泳がせて言い淀んだ。
その様子にハッと息をのんだ。
今までこんなことはなかった。
ゲロが効いているのだろうか。
強めに押せば、話が通じる可能性がある。
「いやしかし……あの男は公爵家の跡取りで、それだけの価値が……」
「浮気、ギャンブル、借金までするクズの見本市に、どんな価値があるのですか?」
再び黙り込んだ父に、私はさらにまくしたてた。
「私が母の形見をあのバカに盗まれたと泣いた日、お父さまは私に何と言ったか覚えていますか?」
今でもずっと忘れていない。
一年ほど前、バカがうちに来た後に、母の形見を入れた宝石箱がなくなった。
普段は衣装棚の奥に隠していたが、あの日は手入れを頼もうと出しておいたのだ。
泣き喚いて父にビンタまでしたが、返ってきた言葉は残酷だった。
「……お前が……悪いと……」
父の顔がだんだんと青ざめていった。
ワナワナと震える唇で、独り言のように言った。
「なぜ……なぜ、私はお前が悪いと思ったんだ……?」
「それは私が聞きたいです」
ゆっくりとこちらを向いた父の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「ジルク殿と婚約させねばならないと……ずっと……どうしてか、そう思って……」
父もある意味で、この世界に縛られていた被害者なのかもしれない。
そうだとしても私にした仕打ちは消えない。
形見も、結局戻らなかった。
「私は正式に婚約破棄をしたいです」
一歩、父の方に歩み出て、きっぱりと伝えた。
父はしばらく目を伏せて、何かを考えていた。
「……わかった。どうにかしてみよう。すまなか――」
「謝罪はいいので、一刻も早く、婚約破棄をお願いします」
コートハンガーから父のジャケットを取って、胸元に押し付けた。
「でないと私、また辛さのあまり吐いてしまいますわ」
父は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに鬼のような形相になった。
「あのバカは、父さんが今すぐに始末してくる。待っていなさい」
殺し屋みたいな台詞を言うと、父はジャケットを着ながら駆け出していった。
これで確信が持てた。
世界が確かに綻んでいる。
私の、ゲロの力で。
* * *
数日後、私は知人の公爵家で開かれる社交パーティーへ向かっていた。
目的は人探しだ。
おぼろげにしか覚えていないが、吐いた私を介抱してくれた聖人がいた。
どうしてもお礼が言いたかった。
「半刻したら迎えに来てちょうだい」
「かしこまりました。お気をつけて」
公爵邸の門でルリと別れた。
今日はガーデンパーティーらしく、使用人に案内されて、庭へ向かった。
会場には多くの貴族が集まって賑やかだったが、私が踏み入った途端に静まり返った。
「ごきげんよう」
笑顔でそう言って、近くの給仕から飲み物をもらった。
誰も私に近寄ってこない。
いつものことだが、以前はもっと鋭く、悪意のある視線を向けられていた。
今感じるのは、夜会で失態を晒した女への哀れみだった。
「ごきげんよう、ベルリオ侯爵令嬢」
「あら、ごきげんよう。ロイデン男爵令嬢」
いの一番に話しかけてきたのは、バカがのめり込んでいた女狐だった。
女狐は派手な扇子で口元を隠しながら、私に言った。
「ご体調はいかがですか? 私、とっても心配していたのです。婚約破棄が辛いのはわかりますが、まさかあんなことになるなんて……」
酔って吐いただけだ。
どうせ牢獄に行くなら、最後にしこたま飲んでおこうと思っていた。
「ご心配ありがとうございます。婚約破棄については、父が正式な手続きを完了しました」
淡々と返答すると、周囲がわずかにざわめいた。
女狐は眉をピクピクと引き攣らせた。
「あら、泣いて縋っていらっしゃったのに? よかったら、私からジルクさまに、妾にでもしていただけるようお伝え――」
「結構です。ゲロつきで恐縮ですが、そちらでお引き取りいただけますと幸いです」
「なっ……!」
「では」
丁寧にカーテシーをして、庭の奥へ進んだ。
周りの貴族たちは、女狐を見ながら囁き合った。
「男爵令嬢風情で、なんて不躾な人なの?」
「あの露出の多いドレスも下品だわ」
「ジルクさまは、あんな女のどこが好きなのかしら」
ゲロで世界が変わろうと、人の本質は大して変わらないのかもしれない。
そう思いながら、庭の奥で見つけたパーティーの主催者に声をかけた。
「サフィーラさま。ご無沙汰しております」
「あら、スピナ。久しぶりね」
サフィーラは嬉しそうに手を振った。
由緒正しい裁判官家系の公爵令嬢だ。
記憶の中では、投獄された私の冤罪を主張したせいで没落する運命だった。
サッパリした彼女の性格は好きだったが、なるべく関わらないようにしていた。
「あなたが来るなんて、珍しいわね。ダメもとで招待したのに」
「人を探しているのです」
「誰を?」
「先日の夜会で、私を介抱してくださった男性に心当たりはありませんか?」
腕を組んで、サフィーラは「うーん」と唸った。
「残念ながら、事件があった時はテラスに出ていたのよね。何か特徴を覚えてない?」
サフィーラが言うと、まるで殺人事件の取り調べのようだった。
母の形見が盗まれたとき、どうしても諦められなくて、一度だけサフィーラに相談してしまったことがある。
その時も、こんな風に真剣に考えてくれた。
「そうですね……赤い石のついたネックレスをしていたような……」
「他には?」
「特に覚えてなくて……ああ、そういえば少し訛りがあった気がします」
「ふーむ。他国の方かしら?」
サフィーラは言いながら、顎に手を添えた。
そして、不意にその視線が私の後ろに向けられた。
「あっ、アイオラ! ちょうどいいところに」
サフィーラの目線を辿って振り返ると、気の弱そうな少女が立っていた。
あの夜会を主催していたモンテリオ伯爵の愛娘・アイオラだ。
「例の夜会の日、スピナを介抱してくださった殿方を探しているの。他国の方だと思うのだけど、心当たりはない?」
「他国……ですか。そうですね……」
アイオラは私をチラチラと見ながら言った。
若干の気まずさを感じるが、今は吐かないので安心してほしい。
「隣国に一人、父が懇意にしている方がいます。確かあの夜会にもいらっしゃっていたかと……」
「赤い宝石をつけてた? ……なんて、そこまではわからないわよね」
「はい。でも確か、宝石関係のお仕事をされていたように思います」
「隣国で宝石関係……なんだか聞き覚えあるわね……」
サフィーラは斜め上を見ながら、何かを考えていた。
私は身を乗り出して、話に割り入った。
「アイオラさま。お父上に、その方のことを聞いてみていただけませんか?」
「わかりました。手紙でお知らせしますね」
お辞儀をして立ち去ろうとしたアイオラを、私は急いで呼び止めた。
「待ってください」
アイオラはビクッと身体を震わせた。
「夜会をめちゃくちゃにしたこと、謝罪いたします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
こちらを振り返ると、アイオラは静かに答えた。
「気にしないでください。それでは」
小さく会釈して、アイオラは人混みの中に消えていった。
正直に言うと、ひどく罵倒されるか嫌味を言われるかのどちらかだと思っていた。
距離は感じるが、人と人との会話ができた。
もしかしたら私は、無意識にずっと諦めていたのだろうか。
もっと積極的に行動していれば、運命は変えられたのだろうか。
「ビンタじゃなくて、グーパンしとけばよかったな……」
「何か物騒なことが聞こえたけど?」
サフィーラにすかさずツッコまれて、慌てて「何でもないです」と答えた。
* * *
それから数日後、アイオラから手紙が届いた。
結果として、尋ね人の新しい情報は得られなかった。
遠回しに書かれているが、アイオラの父は「夜会をめちゃくちゃにした女に教えるもんか」という旨の主張をしているらしい。
至極まっとうな判断だ。
「うーん、困ったわねえ」
ただお礼を言いたいだけなのだが。
手紙を片付けていると、扉を叩く音がした。
「お嬢さま、お客さまです」
ルリの声だった。
不思議に思いながら扉を開けた。
「お客って、私に?」
「はい。若い男性です」
ルリの目が心なしか輝いている。
イケメンなのだろう。
「わかった。対応するわ。お茶をお願いね」
「かしこまりました」
急いで身だしなみを整えて客間に降りると、ルリの言う通り、若い男がソファーに腰かけていた。
「お待たせいたしました」
「いえ。突然の訪問、申し訳ありません」
聞き覚えのある声に、足を止めた。
「ラピエールと申します。私のことは覚えていらっしゃいますか? スピナ嬢」
垂れ目がちな目元をクシャリと寄せて、男は訛りのある口調で言った。
あの夜、私を助けてくれた聖人の声だ。
私は聖人の前まで歩み寄って、深々と頭を下げた。
「助けていただき、ありがとうございました」
「そんな大層なことはしていませんよ。顔を上げてください」
聖人はそう言って、ソファーを手で示して着席を促した。
ソファーに座り、改めて聖人を見た。
栗色の癖毛に、人懐っこそうな柔らかい顔立ちだ。
「私、どうしてもお礼を言いたくて、助けてくださった方を探していたんです」
「奇遇ですね、私もあなたを探していました。しかしなぜか、あれやこれやと邪魔が入って、一週間近くかかってしまいました」
「私を……?」
お洋服にゲロをつけてしまっただろうか。
身なりが良いので、きっと高位貴族だ。
家宝とかにゲロをかけてないことを祈っていると、ルリが紅茶を運んできた。
「いただきます」
ミルクをたっぷり入れて、聖人は紅茶を飲んだ。
私も同じようにミルクを入れて紅茶を啜った。
「改めて、私はアメディオ・ラピエールと申します。どうかアメディオと気軽にお呼びください」
「スピナ・ベルリオです。失礼ですがアメディオさまは、他国のご出身ですか?」
「はい。お隣のルフサ公国の出身です」
国境まで行くだけでも、馬車で数刻はかかる。
「モンテリオ伯爵とはお知り合いなのですか?」
「はい。私はルフサでしがない商会を経営しておりまして、その伝手で伯爵とも顔見知りに。あの日は商談でこちらに来ていたので、夜会にご招待いただいたというわけです」
驚きでカップを落としそうになった。
ルフサ、ラピエール、商会。
その言葉から、一つ思い当たる節があった。
「もしかして宝石の……」
「ああ、ご存じでしたか。嬉しいです」
ラピエール商会といえば、ルフサ公国最大の宝石商会だ。
そしてこのお方は、その商会を取り仕切るラピエール公爵家の人間だろう。
紅茶を置いて、恐る恐る問いかけた。
「そんな方がなぜ……私をお探しに?」
「もう一度お会いしたかったからです」
「ですから……えっと、なぜ?」
「ただそれだけです。お会いしたかった」
アメディオは相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべていた。
裏があるようには思えない、いい顔だった。
訝しむ気持ちが顔に出たのか、アメディオは困ったように眉尻を下げた。
そしておもむろに、とんでもないことを言った。
「率直に申し上げて、あなたに一目惚れしてしまったのです」
「……ゲロ女に?」
「はい」
私は身体をのけぞらせた。
バカと婚約破棄できたと思ったら、次はとんでもない変態を釣り上げてしまった。
「それはきっと……あれですわ、突然ゲロった女に動揺して、心臓がドキドキした際の一過性の胸の高まりを、好意だと勘違いしているのですわ」
「一過性ではありません。今もドキドキしています」
「あの時のトラウマが蘇っているのですわ」
私は自分の言葉に何度もうなずいた。
しかしアメディオは不満げな顔をした。
「私の話を信じられないようですが、そんなにおかしな話でしょうか?」
どう考えてもおかしい。
そんなに唇を尖らせないでいただきたい。
「ああ……しかし、婚約破棄したばかりの女性にこのようなことを言うのは、確かに失礼でした。申し訳ありません」
ツッコミが追いつかなくなってきた。
私の認識がおかしいのだろうか。
これまで記憶通りの世界を生きていた弊害が出ている。
ぶっ飛んだ例外への対処がわからない。
「本当は今日告白する予定ではなかったのですが……お顔を見たら嬉しくて、言ってしまいました」
「そうでしたか……」
もはや相槌を打つことしかできなかった。
アメディオは優雅な手つきでティーカップを取って、紅茶を口にした。
「ごめんなさい、少し混乱していて。あなたの言うことはわかるのですが、理屈がわからないと言いますか……」
「一目惚れに理屈はありません。ですが、ゲロを吐いていても愛しいと思えるのは、究極の愛ではありませんか?」
何も言い返せなかった。
世界の常識を語るような口調に敗北を喫した。
「文通からで構わないので、ぜひお願いできませんか」
子犬のような切ない顔をされてしまった。
変だが、悪意がある人ではないのだろう。
少し迷ったが、文通ぐらいならしてみてもいいような気がした。
それに好意がどうあれ、私を助けてくれたのは紛れもない事実だ。
「……わかりました。ではまず、文通から」
「よかった。国に帰ったら早速お送りします。もっとお話ししたいところですが、このあとはお得意さまと取引がありまして」
「お忙しいところ、ありがとうございました。お見送りいたします」
アメディオは立ち上がろうとして、ソファーに手をついて身をかがめた。
その瞬間、襟元に隠れていたネックレスがポロッとシャツの上に飛び出した。
あの時見た、赤い石のネックレスだった。
酔っていた時には気づかなかった台座の意匠を見て、息が止まった。
「あの……」
身体が震えていた。
ヨロヨロと立ち上がって、アメディオの胸元で揺れるネックレスを間近で見つめた。
「これ……」
「ネックレスですか? きれいでしょう。一目惚れして買い取ったお気に入りなんです」
伸ばしそうになる手を握りしめて、堪えた。
しかし涙は我慢できず、頬をポロポロと伝っていくのを感じた。
間違いない。
母の形見のネックレスだ。
赤いしずく型の石と少し古風な台座。
そしてしずくの頂点にチョコンと座った、ツバメの装飾。
母の生家を象徴する鳥だ。
「どうされましたか? ご気分でも悪いですか?」
アメディオは慌てた様子だったが、私は何も言えなかった。
この石はもう、この人のものだ。
譲ってほしいなどと言ったら、なにを要求されるだろう。
――弱みを見せるな、付け込まれる。
二十年間、理不尽の真ん中で生き延びてきた本能が、うるさくそう叫ぶ。
「少し座りましょう。大丈夫ですよ」
アメディオの声は優しかった。
私の手をそっと引いて、ソファーに座らせてくれた。
「す、すみません……私のことはいいので……商談へ……」
しゃくりあげながら、必死にそれだけ伝えた。
アメディオは私のそばに膝をついて、落ち着いた声で言った。
「今はご自分のことだけ考えてください」
アメディオの指先が、私の腕をトントンと叩いた。
その手がひどく優しくて、余計に心が苦しかった。
* * *
アメディオの訪問から二週間が経ったころ。
予告通り、彼はあの後すぐに手紙をくれた。
こちらからも返事を出して、既に何往復か文を交わしていた。
仕事のことや好きな食べ物の話、ルフサの文化のことや、家族のこと。
手紙の中で、少しだけルフサの挨拶も教えてもらった。
微笑ましい彼の日常を読むのが、少しだけ楽しみになっていた。
「お嬢さま、そろそろ次のラブレターが来るころじゃありませんか?」
「ラブレターじゃないわよ。普通のお手紙」
ルリがニヤニヤしながら言った。
最近ずっとこんな調子だ。
「私、お嬢さまが他国に嫁いでも、ずっとついていきますから!」
「それは……ありがとう」
意気込むルリに笑いつつも、素直にお礼を言った。
この無邪気さに、何度救われたことだろう。
「そういえば、勝利のケーキを食べにいかないとね」
「はっ! そうでした!」
「ね、今から行っちゃいましょうか」
ルリが目をキラキラとさせた。
しかし、私がソファーから立ち上がった瞬間、部屋の扉がガンガンと叩かれた。
「お嬢さま! 大変です!」
ルリが慌てて扉に駆け寄った。
扉の向こうには、息を切らした衛兵がいた。
「ジルクさまが突然いらっしゃって、旦那さまと大喧嘩されています!」
「ええっ……」
私より先に、ルリが面倒くさそうに顔をしかめて唸った。
「旦那さまには黙っていろと言われたのですが……スピナさまに会わせろの一点張りで客間に籠城されてしまい……申し訳ございません!」
衛兵が勢いよく頭を下げた。
なんて面倒なやつだ。
私は大きく長く深く、ため息をついた。
「わかった、行くわ」
衛兵と一緒に、私は階下の客間に向かった。
客間では、父とジルクがソファーに座って睨み合っていた。
二人は私に気づいて、バッと立ち上がった。
「よお、スピナ。久しぶりだな、元気だったか?」
「お前は部屋にいなさい。こいつは父さんだけで片付ける」
同時にしゃべらないでほしい。
父を宥めつつ、その隣に腰掛けた。
数週間ぶりに見たバカは、少し痩せたような気がした。
以前はこいつが目の前にいるだけで、心が握りつぶされるような感覚があったが、今は平気だった。
なんたって私は、こいつにゲロをかけたのだ。
あの時、バカに抱いていた負の感情も全部出た。
「それで、バ……ジルクさま。どのようなご用件でしょうか。婚約破棄の手続きは済んだかと思いますが」
最大限に口角を上げて言った。
怒りに震える父の膝を、ポンポンと叩いた。
「いやーあれから、俺なりに色々考えたんだよ。でさ、俺なんであの女のことが好きだったのか、よくわからなくてさ。なんだっけ、名前、ロイヤル男爵令嬢?」
「ロイデン男爵令嬢です」
そう答えると、父が私の服を引っ張った。
そして私の耳元に顔を寄せて、小声で言った。
「これが本当に公爵家の長男なのか?」
「はい、残念ながら」
父は薄目でバカを見ていた。
この残念な長男と十年も婚約関係を継続させたのは、紛れもなく父なのだが、今は何も言わないでおく。
「それで、私に何の関係が?」
「令嬢とも別れたし、もう一回婚約を――」
「ふざけるな!」
父の顔が真っ赤になっていた。
「お父さま、落ち着いてください。私は、後腐れのないよう、キチンと話をつけたいです」
唇を噛みしめていた父だったが、やがて大人しく座った。
「なぜですか? 婚約破棄を申し出たのはあなたでしょう?」
「あの日からさ、なんか周りの目も冷たいんだよ。親父も金くれなくなったし。どこ行ってもクスクス笑われてるような気がする」
それは私が二十年間味わってきた地獄だ。
たった数週間で音を上げるとは。
「吐くほど追い詰めるなんてひどい、とかなんとか、色んな人に言われんだよ。あーあ、お前が吐かなきゃよかったのに」
清々しいほどのクズっぷりに、私は目を閉じた。
夜会の日、私が吐かなければ、記憶通りこいつに冤罪で告発されて、牢屋に送り込まれていた。
本当に、吐いてよかった。
「わかりました」
ゆっくりと目を開けて、バカを見た。
「いいですよ、婚約」
「スピナ!?」
「本当か!?」
「ただし条件があります」
私は胸に手を当てて、満面の笑みを浮かべた。
「今からがんばって吐くので、介抱してくれますか?」
「は?」
呆然とするバカと父を尻目に、手を叩いて使用人を呼んだ。
「ワインをあるだけ持ってきて。あと、食べ物も。急いでちょうだい」
「か、かしこまりました!」
「おい、待て待て待て! ふざけるな!」
バカは立ち上がって詰め寄ってきた。
「ふざけてなどいません。結婚式で、夫婦は何と誓うか知っていますか?」
「知るか! 今そんなことは関係ないだろう!」
「あります。病めるときも健やかなるときも、互いを愛し、敬い、慈しむことを誓うのです」
バカに負けないよう、精一杯声を張り上げた。
「あなたは一度、病める私を見捨てました! 今ここで、誓いを証明できないなら、もう婚約はできません!」
バカを見据えて言い切った。
こんなに大きな声を出したのは初めてだった。
そのまま睨み合っていたが、先に目を逸らしたのはバカの方だった。
「もういい。お前みたいな面倒な女は願い下げだ」
バカは舌打ちすると、ソファーの上のジャケットを手に取った。
一度扉の方に向かったが、何を思ったのか、また戻ってきた。
「なあ、少しでいいから金貸してくんねえ?」
ぶん殴りたい気持ちを抑えて、バカの近くへ歩み寄った。
そして足がもつれたふりをして、その胸に倒れ込んでえずいた。
「う゛うっ……」
「ひっ!」
バカは私を突き飛ばすと、一目散に飛び出していった。
よろめいた身体を、父が支えてくれた。
「大丈夫か?」
「ええ」
「あまり無茶をしないでくれ。寿命が縮んだぞ」
父は額の汗を拭いながら言った。
今回の件でよくわかった。
私がゲロったぐらいで、人の本質は変わらない。
バカはバカのままだし、父は私の味方になったが、怒りっぽいところは変わらない。
だからこそ、あのどん底の夜会で手を差し伸べてくれた人を、信じてみたいと思った。
「お父さま。私、お母さまの形見の手がかりを見つけたんです」
「本当か!?」
唐突な話に、父は目を丸くして声を上ずらせた。
「はい。その人に、お話を聞いてみようと思っています」
「そうか……わかった」
父はそう言って、何度も首を上下に振った。
「では、私は部屋に戻ります」
振り返ると同時に、扉が開いた。
使用人たちがワゴンを押して、ゾロゾロと部屋に入ってきた。
「お嬢さま、こちらはどうすればいいでしょうか」
ワゴンにはたくさんのワインやフルーツ、干し肉などが山と積まれていた。
自分で出した注文を、すっかり忘れていた。
私はワゴンを見回して、しばし考えた。
「お父さま、パーティーしましょ」
「パーティー?」
「悪縁根絶祝いです。使用人たちも一緒に。いいでしょう? 今日は予定もありませんし」
ワゴンから赤ワインの入ったグラスを二つ取って、一つを父に渡した。
「仕事は終わり! あなたたちも一緒に食べるわよ!」
手を広げて言うと、使用人たちから歓声が沸いた。
隅っこの方で一緒になって喜んでいるルリを見て、私は大事な用事を思い出した。
「ああ、ケーキ、ケーキも食べたいわ! 誰か買ってきて! お父さま、お金!」
「あ、ああ」
あたふたする父を尻目に、私はもう一つグラスを取った。
使用人たちの合間を縫って、ルリのそばに向かった。
「ルリ、乾杯」
グラスを渡して、ルリの方へグラスを掲げた。
ルリは歯を見せて子どものように笑うと、同じようにグラスを傾けた。
「乾杯です、お嬢さま!」
小気味良い音がチンと鳴った。
私は思い切り上を向いて、一息にワインを飲み干した。
その後、たらふく飲んで食べて、あっという間に夜が更けた。
少しは反省したつもりだったが、ワインがおいしくて、ついつい飲んだ。
千鳥足で部屋に戻ると、机の上に手紙が置かれていた。
「アメディオさまだ……」
封を開けて、ポヤポヤする頭で中を読んだ。
来週商談でこちらに来るので、会いたいという内容だった。
「私も会いたいです……」
次に会った時、形見の話をしよう。
それから、ルフサの言葉ももっと教えてもらいたい。
返事は明日にしよう。
便箋を封筒に戻そうとして、中に小さな布袋が入っていることに気づいた。
「なんだこれ……」
布袋の中身は、紙包みだった。
広げてみると、小指の爪ほどの小さな紫色の石が入っていた。
『アメシスト
ルフサ語で「酔わない」という意味の石です
お守りにどうぞ』
頭の中で、あの柔らかな口調を思い出した。
おかしくなって、笑いながらベッドに飛び込んだ。
「一足遅かったでーす」
アメシストを握りしめたまま、私は夢の世界へ落ちていった。
* * *
翌週、約束通りアメディオがうちを訪ねてきた。
ちなみに父は、アメディオの話を聞いて渋い顔をしていたが、ラピエール公爵家の跡取りだと聞いて手のひらを返した。
やはり父は父だ。
玄関に出迎えに行くと、アメディオは頑丈そうな革の鞄を持っていた。
錠前までついている。
「遅くなってすまないね。色々と準備があって」
「何の準備ですか?」
「それはあとのお楽しみだよ。それより、敬語はやめようって手紙で書いただろう?」
「うっ……手紙と対面では違うのです」
私が言うと、アメディオは軽やかに声を出して笑った。
客間に案内しようと思ったが、途中で踵を返した。
「どうしたんだい?」
「今日はお庭でお茶でもいいですか?」
「構わないよ。天気もいいしね」
恐らく父とルリが、客間の隣の居間で壁に張り付いている。
庭なら、そう易々と盗み聞きできまい。
使用人に庭へお茶を運ぶよう指示してから、東屋に向かった。
「バラがきれいに咲いているね」
「はい。母は赤いものが好きで、赤いバラはお気に入りだったんです」
東屋を囲うように咲き誇るバラを、アメディオは目を細めて見回した。
「アメディオさまに、お話ししたいことがあるんです」
「奇遇だね。僕もだよ」
アメディオは机に肘をついて身を乗り出した。
「お先にどうぞ」
「いいえ、アメディオさまから」
「じゃあコイントスだ。当てた方から」
ポケットからコインを取り出すと、アメディオは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「どっちにする?」
「では裏で」
「僕は表だね。いくよ」
親指で弾かれたコインが宙を舞い、骨ばった手の甲に吸いつくように落ちた。
アメディオは、コインの上に重ねた手をどけた。
表だった。
「じゃあ僕から。良い話と悪い話があるが、どちらから聞きたい?」
「では……良い話で」
一体何を言われるんだろうか。
身構えつつも、アメディオの声に耳を傾けた。
「前回ここにお邪魔したあと、お得意さまのバランシエ公爵家へ伺ったんだ」
私はパチパチと目を瞬かせた。
バランシエ公爵家。
サフィーラの家のことだ。
「そうしたらなんと、『夜会で嘔吐した女性を介抱しなかったか?』とサフィーラ嬢に聞かれたんだよ。それでサフィーラ嬢と、その素敵な女性の話で盛り上がってしまってね」
「よかったですわね……」
なんだか恥ずかしくて、それしか言えなかった。
サフィーラが余計な話をしていないことを祈った。
「その時、サフィーラ嬢に『どうすればその女性を喜ばせられるか』と相談したんだ。彼女、とてもいいアドバイスをくれてね。僕なりにも色々考えて、あるものを持ってきたんだ」
アメディオはそう言って、ずっと膝に抱えていた鞄の錠を開け始めた。
やがて鞄が開くと、中から小さな箱が出てきた。
「それは?」
「開けてごらん」
アメディオは私の前に箱を置いて、鞄を地面に下ろした。
箱を手に取ると、ヒンヤリとした金属の質感が手に伝わった。
蓋を少しずつ開けていくと、隙間からあるものが見えて、弾かれたように顔を上げた。
「どうして……」
母の形見のネックレスだった。
唇が震えて、上手く言葉が出なかった。
アメディオは、まっすぐに私を見ていた。
いつもの笑顔が消えて、真剣な面持ちだった。
「好きな女性を泣かせてしまったのに、何もせずにはいられないよ」
私は唾を飲み込んで、手元のネックレスに視線を落とした。
箱は変わってしまったが、中身は一年前と何一つ変わらない。
「宝石の販売経路を徹底的に調べたら、君の元婚約者がこれを売ったことがわかった」
「やっぱり……」
当時、サフィーラに調べてもらっても何も出てこなかった。
思えばあれも、この世界の縛りの一つだった可能性がある。
「けれど、僕が知っているのはそれだけだ。サフィーラ嬢からも、これが君の大切なものだとしか聞いてないんだ」
アメディオは中途半端に開いていた箱の蓋をそっと外した。
赤い宝石――スピネルが、眩しそうに日の光を反射していた。
目が離せなかった。
「よければ君の口から、話を聞かせてもらえないか?」
箱を机の際まで引き寄せて、私は口を開いた。
「これは……母の形見なんです。今日アメディオさまにお話ししたかったのは、このことです」
「形見……そんなに大切なものだったのか……」
小さくうなずいて、話を続けた。
「一年前、元婚約者に盗まれたんです。色々なお店を回ったけど、手がかりが得られませんでした」
アメディオは黙って聞いてくれたが、その眉間には深くシワが刻まれていた。
「諦めようと思っても、どうしても諦められなくて。十歳で母を亡くして、ずっとこれを母だと思って寂しさに耐えてきました。こうしてまためぐり合えて、本当に嬉しいです」
今すぐ手に取って抱きしめたかったが、懸命にその衝動を抑え込んだ。
鼻をすすって、箱をアメディオの方へ押し返す。
「でも……やっぱり、受け取れません。これはアメディオさまが買い取ったものでしょう?」
「そう言うと思ったよ」
「え?」
アメディオは何も答えず、再び鞄を開けて手袋を取り出した。
「僕は宝石商だから、宝石の声が聞こえるんだ。この石は、君のところに帰りたがってる」
ふざけた言葉だったが、アメディオは真面目な顔つきだった。
「そんなこと……」
「証明してみせるよ。少し貸してもらえるかい?」
「はい……」
手袋をはめると、アメディオはネックレスを丁寧に手に取った。
「返す前に少し手入れをさせてもらったんだが、その時に気が付いたんだ」
アメディオは言いながら、スピネルを日の光にかざした。
「少し読みにくいけど、よく見てごらん」
私は身を乗り出して、石を見つめた。
目を凝らすと、奥の方に文字が見えた。
反転していたが、見慣れた文字列だったのですぐにわかった。
『スピナへ』
ただ一言、そう書かれていた。
私は両手で口を覆った。
ずっと、暗い部屋でこれを握りしめて泣いていた。
こんなに明るい場所で見たのは、初めてだった。
ボロボロと涙が溢れてきて、止まらなくなった。
「受け取ってくれるかい?」
「ありがとうございます……本当に、本当にありがとうございます……」
アメディオは私の前に箱を置き直した。
「あ、お、お金を……お支払いします」
「盗品にお金はもらえない」
「でも……」
「じゃあ、来月デートしてくれる? それでチャラだ」
両手を軽く広げて、アメディオはおどけたように言った。
私は涙を拭って、大きく首を横に振った。
「一回じゃ釣り合いません」
「え?」
「何回がいいですか?」
「え、えっと……では、お言葉に甘えて再来月も……」
「二回でも足りません」
「ちょっと僕に都合がよすぎて困惑してきたんだけど、大丈夫かい?」
協議の結果、月一のデートを一年間ということになった。
アメディオは毎回こちらに来るつもりのようだったが、二回に一回は私がルフサに行くという形で締結した。
「本当にいいのかい? 僕の家まで三時間はかかるよ」
「いいんです。アメディオさまにばかり負担をかけていると、誓えなくなってしまいますから」
満足げな私を見て、アメディオは不思議そうに首を傾げた。
「それより、つけてもいいですか?」
ネックレスを両手で大事に持って、そう問い掛けた。
一年前に見たときよりも、ずっときれいに感じられた。
「よければ、僕がつけようか?」
「お願いします」
アメディオはまた手袋をはめようとしたので、私はそれを遮って、ネックレスを差し出した。
「そのままで構いません」
「……わかった」
ネックレスを手にすると、アメディオは私の背後に立った。
私が髪をよけると、首にヒンヤリとしたチェーンが触れた。
胸元に光るスピネルを見て、止まっていた涙がまた溢れだした。
「そういえば、悪い話をしていなかったね」
アメディオは金具を留めながら言った。
「販売経路の情報をサフィーラ嬢にお渡ししたら、張り切ってお父上のところに行ってしまったんだ。君の元婚約者は、今ごろはもう……」
アメディオの口ぶりに、つい噴き出した。
あの裁判官一族は、敵に回すと恐ろしい。
おかしくてたまらないのに、涙も止まらなかった。
席に戻ったアメディオは、泣きながら笑う私を何も言わずに見つめた。
「アメディオさま。それは悪いお話ではなく、良いお話です」
「それはなにより」
アメディオの口角がニヤリと持ちあがった。
私は涙を拭いて、そっとスピネルに触れた。
「お守りが……また一つ増えました」
上着のポケットに入れていた布袋から、石を取り出した。
アメディオはそれを見ると、嬉しそうに顔をクシャクシャにした。
「持っていてくれたんだ」
「はい。酔わないお守りですから」
「まあ、君が酔ってくれたおかげで出会えたんだけどね。心配になるからほどほどにね」
「はい」
斜め上を見ながら返事すると、苦笑いされた。
アメディオの視線はアメシストからスピネルへ移った。
「スピネルの方はね、勝利のお守りなんだよ」
「勝利……」
「ああ。君にぴったりの石だろう?」
アメディオは優しく笑うと、首を傾げた。
私は大きくうなずいて、とびきりの笑顔をアメディオに返した。
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