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異世界令嬢短編集

冤罪令嬢、断罪イベントで酔ってゲロって、人生好転

作者: 上園 千紗
掲載日:2026/10/24

※※嘔吐描写があるため、ご注意ください※※

 ある日の夜会のことだった。


 浮気性ギャンブル依存のバカ婚約者が、会の途中で騒ぎ出した。

 私を指さして何か言っているが、頭がふわふわして、よくわからなかった。


 どう考えても飲みすぎだった。


「スピナ・ベルリオ! 聞いているのか! お前と俺の婚約を破棄すると言っている!」


 ダメだ、気持ち悪い。


 なんか願ってもないことを言われているようだけど、赤ワインが胃から溢れ出そうだった。

 口元を手で押さえて、必死に吐き気を堪えた。


「これはもう決まったことだ。俺は、このロイデン男爵令嬢と改めて婚約する」


 バカは私の前に立って、勝ち誇ったように言った。


 限界だった。


 足がもつれて、思わずバカの胸に手をついた。


「そんなに縋ったって俺の気持ちは変わらな――」

「お゛え゛えええ」


 積年の恨みと一緒に、胸につっかえていたものが全部出た。


「うわあああ!」


 その瞬間、バカが思い切り後ろに飛び退いた。

 支えを失って、私は顔面から床に突っ込みそうになった。


「大丈夫ですか?」


 床にぶつかる直前、誰かに抱き留められた。


 一体どこの聖人だろう。


 お礼を言おうと思ったが、意識がもうダメだった。


 霞む視界の中で、聖人の胸元に赤い石が光っているのが見えた気がした。





『冤罪令嬢、断罪イベントで酔ってゲロって、人生好転』





 夜会の翌日、私は自室のベッドで昼過ぎまでゴロゴロしていた。


「お嬢さま、ご気分はどうですか?」


 花瓶の花を替えながら、侍女のルリが言った。


「とっても爽快よ」


 ニッコリ笑って、私は言葉を続けた。


「だって初めてだったんだもの、前世に勝ったの」

「記念すべき勝利ですね!」


 ルリは全力で拍手しながら、力強く言った。


 物心ついたころ、私は自分が悪女になる運命を知った。

 見知らぬ女の記憶――おそらくは前世の記憶で。


 その女が遊んでいた「ゲーム」というものの世界で、私は悪女として公衆の面前で婚約破棄を言い渡されていた。


 まさに昨日の夜会と全く同じ光景だ。


 私がゲロったことを除いて。


「やっとあのバカから解放されますね」

「ええ。あ、でももう婚約者じゃないから、ちゃんとジルクさまとお呼びなさい。何かあっても庇ってあげられないから」

「かしこまりました」


 悪女にならないようがんばったが、私が何をしようとバカも周りの人間も記憶通りの行動をした。


 半ば諦めていたのだが、まさかゲロで運命が変わるとは。


 ゲームの通りなら、今ごろ身に覚えのない罪で投獄されていたはずだ。


「ルリ、今度二人でこっそりお祝いしましょう」

「いいですね! ケーキでも食べましょう」


 ケーキの話で盛り上がっていると、誰かが扉をノックした。


「お嬢さま。旦那さまがお呼びです」


 扉の向こうから聞こえた言葉に、私とルリは顔を見合わせた。


*    *    *


 恐る恐る父の部屋に入ると、案の定、父は鬼のような顔で座っていた。


 とりあえず謝っておこう。


「公衆の面前で醜態を晒し、申し訳ございませんでした」


 完璧なお辞儀をしたはずだが、父は無反応だった。

 もうちょっと声を震わせて、反省の色を見せた方がよかっただろうか。


 だんだん腰が辛くなってきたので、早く何か言ってほしい。


「着替えてジルク殿に謝罪してこい」

「え?」


 顔を上げると、父は先ほどよりさらに怖い顔になっていた。


「謝って、婚約破棄を考え直してもらえ」


 追い討ちのように告げられた言葉に、急速に心が沈んだ。


 やはり、何も変わっていないのだろうか。


「なぜ私が謝罪を?」

「あんな痴態を晒して、婚約破棄まで言い渡されたんだぞ」


 婚約破棄はゲロの前に言われていた。

 ゲロのせいじゃない。


「ジルクさまが婚約破棄を望む理由をご存じですか?」

「ジルク殿のご友人のご令嬢に、お前が嫌がらせをしたからだろう」


 どこからか広まった、根も葉もない噂だ。

 自分で言っていて疑問に思わないのだろうか。


「私がどんな嫌がらせをしたと?」

「それは……」


 父は視線を泳がせて言い淀んだ。


 その様子にハッと息をのんだ。


 今までこんなことはなかった。

 ゲロが効いているのだろうか。


 強めに押せば、話が通じる可能性がある。


「いやしかし……あの男は公爵家の跡取りで、それだけの価値が……」

「浮気、ギャンブル、借金までするクズの見本市に、どんな価値があるのですか?」


 再び黙り込んだ父に、私はさらにまくしたてた。


「私が母の形見をあのバカに盗まれたと泣いた日、お父さまは私に何と言ったか覚えていますか?」


 今でもずっと忘れていない。

 一年ほど前、バカがうちに来た後に、母の形見を入れた宝石箱がなくなった。


 普段は衣装棚の奥に隠していたが、あの日は手入れを頼もうと出しておいたのだ。


 泣き喚いて父にビンタまでしたが、返ってきた言葉は残酷だった。


「……お前が……悪いと……」


 父の顔がだんだんと青ざめていった。

 ワナワナと震える唇で、独り言のように言った。


「なぜ……なぜ、私はお前が悪いと思ったんだ……?」

「それは私が聞きたいです」


 ゆっくりとこちらを向いた父の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「ジルク殿と婚約させねばならないと……ずっと……どうしてか、そう思って……」


 父もある意味で、この世界に縛られていた被害者なのかもしれない。


 そうだとしても私にした仕打ちは消えない。

 形見も、結局戻らなかった。


「私は正式に婚約破棄をしたいです」


 一歩、父の方に歩み出て、きっぱりと伝えた。

 父はしばらく目を伏せて、何かを考えていた。


「……わかった。どうにかしてみよう。すまなか――」

「謝罪はいいので、一刻も早く、婚約破棄をお願いします」


 コートハンガーから父のジャケットを取って、胸元に押し付けた。


「でないと私、また辛さのあまり吐いてしまいますわ」


 父は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに鬼のような形相になった。


「あのバカは、父さんが今すぐに始末してくる。待っていなさい」


 殺し屋みたいな台詞を言うと、父はジャケットを着ながら駆け出していった。


 これで確信が持てた。

 世界が確かに綻んでいる。


 私の、ゲロの力で。


*    *    *


 数日後、私は知人の公爵家で開かれる社交パーティーへ向かっていた。


 目的は人探しだ。

 おぼろげにしか覚えていないが、吐いた私を介抱してくれた聖人がいた。


 どうしてもお礼が言いたかった。


「半刻したら迎えに来てちょうだい」

「かしこまりました。お気をつけて」


 公爵邸の門でルリと別れた。

 今日はガーデンパーティーらしく、使用人に案内されて、庭へ向かった。


 会場には多くの貴族が集まって賑やかだったが、私が踏み入った途端に静まり返った。


「ごきげんよう」


 笑顔でそう言って、近くの給仕から飲み物をもらった。


 誰も私に近寄ってこない。

 いつものことだが、以前はもっと鋭く、悪意のある視線を向けられていた。


 今感じるのは、夜会で失態を晒した女への哀れみだった。


「ごきげんよう、ベルリオ侯爵令嬢」

「あら、ごきげんよう。ロイデン男爵令嬢」


 いの一番に話しかけてきたのは、バカがのめり込んでいた女狐だった。

 女狐は派手な扇子で口元を隠しながら、私に言った。


「ご体調はいかがですか? 私、とっても心配していたのです。婚約破棄が辛いのはわかりますが、まさかあんなことになるなんて……」


 酔って吐いただけだ。

 どうせ牢獄に行くなら、最後にしこたま飲んでおこうと思っていた。


「ご心配ありがとうございます。婚約破棄については、父が正式な手続きを完了しました」


 淡々と返答すると、周囲がわずかにざわめいた。

 女狐は眉をピクピクと引き攣らせた。


「あら、泣いて縋っていらっしゃったのに? よかったら、私からジルクさまに、妾にでもしていただけるようお伝え――」

「結構です。ゲロつきで恐縮ですが、そちらでお引き取りいただけますと幸いです」

「なっ……!」

「では」


 丁寧にカーテシーをして、庭の奥へ進んだ。

 周りの貴族たちは、女狐を見ながら囁き合った。


「男爵令嬢風情で、なんて不躾な人なの?」

「あの露出の多いドレスも下品だわ」

「ジルクさまは、あんな女のどこが好きなのかしら」


 ゲロで世界が変わろうと、人の本質は大して変わらないのかもしれない。

 そう思いながら、庭の奥で見つけたパーティーの主催者に声をかけた。


「サフィーラさま。ご無沙汰しております」

「あら、スピナ。久しぶりね」


 サフィーラは嬉しそうに手を振った。

 由緒正しい裁判官家系の公爵令嬢だ。


 記憶の中では、投獄された私の冤罪を主張したせいで没落する運命だった。

 サッパリした彼女の性格は好きだったが、なるべく関わらないようにしていた。


「あなたが来るなんて、珍しいわね。ダメもとで招待したのに」

「人を探しているのです」

「誰を?」

「先日の夜会で、私を介抱してくださった男性に心当たりはありませんか?」


 腕を組んで、サフィーラは「うーん」と唸った。


「残念ながら、事件があった時はテラスに出ていたのよね。何か特徴を覚えてない?」


 サフィーラが言うと、まるで殺人事件の取り調べのようだった。


 母の形見が盗まれたとき、どうしても諦められなくて、一度だけサフィーラに相談してしまったことがある。


 その時も、こんな風に真剣に考えてくれた。


「そうですね……赤い石のついたネックレスをしていたような……」

「他には?」

「特に覚えてなくて……ああ、そういえば少し訛りがあった気がします」

「ふーむ。他国の方かしら?」


 サフィーラは言いながら、顎に手を添えた。

 そして、不意にその視線が私の後ろに向けられた。


「あっ、アイオラ! ちょうどいいところに」


 サフィーラの目線を辿って振り返ると、気の弱そうな少女が立っていた。

 あの夜会を主催していたモンテリオ伯爵の愛娘・アイオラだ。


「例の夜会の日、スピナを介抱してくださった殿方を探しているの。他国の方だと思うのだけど、心当たりはない?」

「他国……ですか。そうですね……」


 アイオラは私をチラチラと見ながら言った。

 若干の気まずさを感じるが、今は吐かないので安心してほしい。


「隣国に一人、父が懇意にしている方がいます。確かあの夜会にもいらっしゃっていたかと……」

「赤い宝石をつけてた? ……なんて、そこまではわからないわよね」

「はい。でも確か、宝石関係のお仕事をされていたように思います」

「隣国で宝石関係……なんだか聞き覚えあるわね……」


 サフィーラは斜め上を見ながら、何かを考えていた。

 私は身を乗り出して、話に割り入った。


「アイオラさま。お父上に、その方のことを聞いてみていただけませんか?」

「わかりました。手紙でお知らせしますね」


 お辞儀をして立ち去ろうとしたアイオラを、私は急いで呼び止めた。


「待ってください」


 アイオラはビクッと身体を震わせた。


「夜会をめちゃくちゃにしたこと、謝罪いたします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 こちらを振り返ると、アイオラは静かに答えた。


「気にしないでください。それでは」


 小さく会釈して、アイオラは人混みの中に消えていった。


 正直に言うと、ひどく罵倒されるか嫌味を言われるかのどちらかだと思っていた。

 距離は感じるが、人と人との会話ができた。


 もしかしたら私は、無意識にずっと諦めていたのだろうか。

 もっと積極的に行動していれば、運命は変えられたのだろうか。


「ビンタじゃなくて、グーパンしとけばよかったな……」

「何か物騒なことが聞こえたけど?」


 サフィーラにすかさずツッコまれて、慌てて「何でもないです」と答えた。


*    *    *


 それから数日後、アイオラから手紙が届いた。


 結果として、尋ね人の新しい情報は得られなかった。

 遠回しに書かれているが、アイオラの父は「夜会をめちゃくちゃにした女に教えるもんか」という旨の主張をしているらしい。


 至極まっとうな判断だ。


「うーん、困ったわねえ」


 ただお礼を言いたいだけなのだが。

 手紙を片付けていると、扉を叩く音がした。


「お嬢さま、お客さまです」


 ルリの声だった。

 不思議に思いながら扉を開けた。


「お客って、私に?」

「はい。若い男性です」


 ルリの目が心なしか輝いている。

 イケメンなのだろう。


「わかった。対応するわ。お茶をお願いね」

「かしこまりました」


 急いで身だしなみを整えて客間に降りると、ルリの言う通り、若い男がソファーに腰かけていた。


「お待たせいたしました」

「いえ。突然の訪問、申し訳ありません」


 聞き覚えのある声に、足を止めた。


「ラピエールと申します。私のことは覚えていらっしゃいますか? スピナ嬢」


 垂れ目がちな目元をクシャリと寄せて、男は訛りのある口調で言った。


 あの夜、私を助けてくれた聖人の声だ。

 

 私は聖人の前まで歩み寄って、深々と頭を下げた。


「助けていただき、ありがとうございました」

「そんな大層なことはしていませんよ。顔を上げてください」


 聖人はそう言って、ソファーを手で示して着席を促した。


 ソファーに座り、改めて聖人を見た。

 栗色の癖毛に、人懐っこそうな柔らかい顔立ちだ。


「私、どうしてもお礼を言いたくて、助けてくださった方を探していたんです」

「奇遇ですね、私もあなたを探していました。しかしなぜか、あれやこれやと邪魔が入って、一週間近くかかってしまいました」

「私を……?」


 お洋服にゲロをつけてしまっただろうか。

 身なりが良いので、きっと高位貴族だ。


 家宝とかにゲロをかけてないことを祈っていると、ルリが紅茶を運んできた。


「いただきます」


 ミルクをたっぷり入れて、聖人は紅茶を飲んだ。

 私も同じようにミルクを入れて紅茶を啜った。


「改めて、私はアメディオ・ラピエールと申します。どうかアメディオと気軽にお呼びください」

「スピナ・ベルリオです。失礼ですがアメディオさまは、他国のご出身ですか?」

「はい。お隣のルフサ公国の出身です」


 国境まで行くだけでも、馬車で数刻はかかる。


「モンテリオ伯爵とはお知り合いなのですか?」

「はい。私はルフサでしがない商会を経営しておりまして、その伝手で伯爵とも顔見知りに。あの日は商談でこちらに来ていたので、夜会にご招待いただいたというわけです」


 驚きでカップを落としそうになった。


 ルフサ、ラピエール、商会。

 その言葉から、一つ思い当たる節があった。


「もしかして宝石の……」

「ああ、ご存じでしたか。嬉しいです」


 ラピエール商会といえば、ルフサ公国最大の宝石商会だ。

 そしてこのお方は、その商会を取り仕切るラピエール公爵家の人間だろう。


 紅茶を置いて、恐る恐る問いかけた。


「そんな方がなぜ……私をお探しに?」

「もう一度お会いしたかったからです」

「ですから……えっと、なぜ?」

「ただそれだけです。お会いしたかった」


 アメディオは相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべていた。


 裏があるようには思えない、いい顔だった。

 訝しむ気持ちが顔に出たのか、アメディオは困ったように眉尻を下げた。


 そしておもむろに、とんでもないことを言った。


「率直に申し上げて、あなたに一目惚れしてしまったのです」

「……ゲロ女に?」

「はい」


 私は身体をのけぞらせた。


 バカと婚約破棄できたと思ったら、次はとんでもない変態を釣り上げてしまった。


「それはきっと……あれですわ、突然ゲロった女に動揺して、心臓がドキドキした際の一過性の胸の高まりを、好意だと勘違いしているのですわ」

「一過性ではありません。今もドキドキしています」

「あの時のトラウマが蘇っているのですわ」


 私は自分の言葉に何度もうなずいた。

 しかしアメディオは不満げな顔をした。


「私の話を信じられないようですが、そんなにおかしな話でしょうか?」


 どう考えてもおかしい。

 そんなに唇を尖らせないでいただきたい。


「ああ……しかし、婚約破棄したばかりの女性にこのようなことを言うのは、確かに失礼でした。申し訳ありません」


 ツッコミが追いつかなくなってきた。

 私の認識がおかしいのだろうか。


 これまで記憶通りの世界を生きていた弊害が出ている。

 ぶっ飛んだ例外への対処がわからない。


「本当は今日告白する予定ではなかったのですが……お顔を見たら嬉しくて、言ってしまいました」

「そうでしたか……」


 もはや相槌を打つことしかできなかった。

 アメディオは優雅な手つきでティーカップを取って、紅茶を口にした。


「ごめんなさい、少し混乱していて。あなたの言うことはわかるのですが、理屈がわからないと言いますか……」

「一目惚れに理屈はありません。ですが、ゲロを吐いていても愛しいと思えるのは、究極の愛ではありませんか?」


 何も言い返せなかった。


 世界の常識を語るような口調に敗北を喫した。


「文通からで構わないので、ぜひお願いできませんか」


 子犬のような切ない顔をされてしまった。


 変だが、悪意がある人ではないのだろう。

 少し迷ったが、文通ぐらいならしてみてもいいような気がした。


 それに好意がどうあれ、私を助けてくれたのは紛れもない事実だ。


「……わかりました。ではまず、文通から」

「よかった。国に帰ったら早速お送りします。もっとお話ししたいところですが、このあとはお得意さまと取引がありまして」

「お忙しいところ、ありがとうございました。お見送りいたします」


 アメディオは立ち上がろうとして、ソファーに手をついて身をかがめた。

 その瞬間、襟元に隠れていたネックレスがポロッとシャツの上に飛び出した。


 あの時見た、赤い石のネックレスだった。


 酔っていた時には気づかなかった台座の意匠を見て、息が止まった。


「あの……」


 身体が震えていた。

 ヨロヨロと立ち上がって、アメディオの胸元で揺れるネックレスを間近で見つめた。


「これ……」

「ネックレスですか? きれいでしょう。一目惚れして買い取ったお気に入りなんです」


 伸ばしそうになる手を握りしめて、堪えた。

 しかし涙は我慢できず、頬をポロポロと伝っていくのを感じた。


 間違いない。

 母の形見のネックレスだ。


 赤いしずく型の石と少し古風な台座。

 そしてしずくの頂点にチョコンと座った、ツバメの装飾。


 母の生家を象徴する鳥だ。


「どうされましたか? ご気分でも悪いですか?」


 アメディオは慌てた様子だったが、私は何も言えなかった。


 この石はもう、この人のものだ。


 譲ってほしいなどと言ったら、なにを要求されるだろう。


 ――弱みを見せるな、付け込まれる。


 二十年間、理不尽の真ん中で生き延びてきた本能が、うるさくそう叫ぶ。


「少し座りましょう。大丈夫ですよ」


 アメディオの声は優しかった。

 私の手をそっと引いて、ソファーに座らせてくれた。


「す、すみません……私のことはいいので……商談へ……」


 しゃくりあげながら、必死にそれだけ伝えた。

 アメディオは私のそばに膝をついて、落ち着いた声で言った。


「今はご自分のことだけ考えてください」


 アメディオの指先が、私の腕をトントンと叩いた。

 その手がひどく優しくて、余計に心が苦しかった。


*    *    *


 アメディオの訪問から二週間が経ったころ。


 予告通り、彼はあの後すぐに手紙をくれた。

 こちらからも返事を出して、既に何往復か文を交わしていた。


 仕事のことや好きな食べ物の話、ルフサの文化のことや、家族のこと。

 手紙の中で、少しだけルフサの挨拶も教えてもらった。


 微笑ましい彼の日常を読むのが、少しだけ楽しみになっていた。


「お嬢さま、そろそろ次のラブレターが来るころじゃありませんか?」

「ラブレターじゃないわよ。普通のお手紙」


 ルリがニヤニヤしながら言った。

 最近ずっとこんな調子だ。


「私、お嬢さまが他国に嫁いでも、ずっとついていきますから!」

「それは……ありがとう」


 意気込むルリに笑いつつも、素直にお礼を言った。

 この無邪気さに、何度救われたことだろう。


「そういえば、勝利のケーキを食べにいかないとね」

「はっ! そうでした!」

「ね、今から行っちゃいましょうか」


 ルリが目をキラキラとさせた。

 しかし、私がソファーから立ち上がった瞬間、部屋の扉がガンガンと叩かれた。


「お嬢さま! 大変です!」


 ルリが慌てて扉に駆け寄った。

 扉の向こうには、息を切らした衛兵がいた。


「ジルクさまが突然いらっしゃって、旦那さまと大喧嘩されています!」

「ええっ……」


 私より先に、ルリが面倒くさそうに顔をしかめて唸った。


「旦那さまには黙っていろと言われたのですが……スピナさまに会わせろの一点張りで客間に籠城されてしまい……申し訳ございません!」


 衛兵が勢いよく頭を下げた。


 なんて面倒なやつだ。


 私は大きく長く深く、ため息をついた。


「わかった、行くわ」


 衛兵と一緒に、私は階下の客間に向かった。


 客間では、父とジルクがソファーに座って睨み合っていた。

 二人は私に気づいて、バッと立ち上がった。


「よお、スピナ。久しぶりだな、元気だったか?」

「お前は部屋にいなさい。こいつは父さんだけで片付ける」


 同時にしゃべらないでほしい。


 父を宥めつつ、その隣に腰掛けた。


 数週間ぶりに見たバカは、少し痩せたような気がした。

 以前はこいつが目の前にいるだけで、心が握りつぶされるような感覚があったが、今は平気だった。


 なんたって私は、こいつにゲロをかけたのだ。

 あの時、バカに抱いていた負の感情も全部出た。


「それで、バ……ジルクさま。どのようなご用件でしょうか。婚約破棄の手続きは済んだかと思いますが」


 最大限に口角を上げて言った。

 怒りに震える父の膝を、ポンポンと叩いた。


「いやーあれから、俺なりに色々考えたんだよ。でさ、俺なんであの女のことが好きだったのか、よくわからなくてさ。なんだっけ、名前、ロイヤル男爵令嬢?」

「ロイデン男爵令嬢です」


 そう答えると、父が私の服を引っ張った。

 そして私の耳元に顔を寄せて、小声で言った。


「これが本当に公爵家の長男なのか?」

「はい、残念ながら」


 父は薄目でバカを見ていた。

 この残念な長男と十年も婚約関係を継続させたのは、紛れもなく父なのだが、今は何も言わないでおく。


「それで、私に何の関係が?」

「令嬢とも別れたし、もう一回婚約を――」

「ふざけるな!」


 父の顔が真っ赤になっていた。


「お父さま、落ち着いてください。私は、後腐れのないよう、キチンと話をつけたいです」


 唇を噛みしめていた父だったが、やがて大人しく座った。


「なぜですか? 婚約破棄を申し出たのはあなたでしょう?」

「あの日からさ、なんか周りの目も冷たいんだよ。親父も金くれなくなったし。どこ行ってもクスクス笑われてるような気がする」


 それは私が二十年間味わってきた地獄だ。

 たった数週間で音を上げるとは。


「吐くほど追い詰めるなんてひどい、とかなんとか、色んな人に言われんだよ。あーあ、お前が吐かなきゃよかったのに」


 清々しいほどのクズっぷりに、私は目を閉じた。


 夜会の日、私が吐かなければ、記憶通りこいつに冤罪で告発されて、牢屋に送り込まれていた。


 本当に、吐いてよかった。


「わかりました」


 ゆっくりと目を開けて、バカを見た。


「いいですよ、婚約」

「スピナ!?」

「本当か!?」

「ただし条件があります」


 私は胸に手を当てて、満面の笑みを浮かべた。


「今からがんばって吐くので、介抱してくれますか?」

「は?」


 呆然とするバカと父を尻目に、手を叩いて使用人を呼んだ。


「ワインをあるだけ持ってきて。あと、食べ物も。急いでちょうだい」

「か、かしこまりました!」

「おい、待て待て待て! ふざけるな!」


 バカは立ち上がって詰め寄ってきた。


「ふざけてなどいません。結婚式で、夫婦は何と誓うか知っていますか?」

「知るか! 今そんなことは関係ないだろう!」

「あります。病めるときも健やかなるときも、互いを愛し、敬い、慈しむことを誓うのです」


 バカに負けないよう、精一杯声を張り上げた。


「あなたは一度、病める私を見捨てました! 今ここで、誓いを証明できないなら、もう婚約はできません!」


 バカを見据えて言い切った。

 こんなに大きな声を出したのは初めてだった。


 そのまま睨み合っていたが、先に目を逸らしたのはバカの方だった。


「もういい。お前みたいな面倒な女は願い下げだ」


 バカは舌打ちすると、ソファーの上のジャケットを手に取った。

 一度扉の方に向かったが、何を思ったのか、また戻ってきた。


「なあ、少しでいいから金貸してくんねえ?」


 ぶん殴りたい気持ちを抑えて、バカの近くへ歩み寄った。

 そして足がもつれたふりをして、その胸に倒れ込んでえずいた。


「う゛うっ……」

「ひっ!」


 バカは私を突き飛ばすと、一目散に飛び出していった。

 よろめいた身体を、父が支えてくれた。


「大丈夫か?」

「ええ」

「あまり無茶をしないでくれ。寿命が縮んだぞ」


 父は額の汗を拭いながら言った。


 今回の件でよくわかった。

 私がゲロったぐらいで、人の本質は変わらない。


 バカはバカのままだし、父は私の味方になったが、怒りっぽいところは変わらない。


 だからこそ、あのどん底の夜会で手を差し伸べてくれた人を、信じてみたいと思った。


「お父さま。私、お母さまの形見の手がかりを見つけたんです」

「本当か!?」


 唐突な話に、父は目を丸くして声を上ずらせた。


「はい。その人に、お話を聞いてみようと思っています」

「そうか……わかった」


 父はそう言って、何度も首を上下に振った。


「では、私は部屋に戻ります」


 振り返ると同時に、扉が開いた。

 使用人たちがワゴンを押して、ゾロゾロと部屋に入ってきた。


「お嬢さま、こちらはどうすればいいでしょうか」


 ワゴンにはたくさんのワインやフルーツ、干し肉などが山と積まれていた。


 自分で出した注文を、すっかり忘れていた。


 私はワゴンを見回して、しばし考えた。


「お父さま、パーティーしましょ」

「パーティー?」

「悪縁根絶祝いです。使用人たちも一緒に。いいでしょう? 今日は予定もありませんし」


 ワゴンから赤ワインの入ったグラスを二つ取って、一つを父に渡した。


「仕事は終わり! あなたたちも一緒に食べるわよ!」


 手を広げて言うと、使用人たちから歓声が沸いた。

 隅っこの方で一緒になって喜んでいるルリを見て、私は大事な用事を思い出した。


「ああ、ケーキ、ケーキも食べたいわ! 誰か買ってきて! お父さま、お金!」

「あ、ああ」


 あたふたする父を尻目に、私はもう一つグラスを取った。

 使用人たちの合間を縫って、ルリのそばに向かった。


「ルリ、乾杯」


 グラスを渡して、ルリの方へグラスを掲げた。

 ルリは歯を見せて子どものように笑うと、同じようにグラスを傾けた。


「乾杯です、お嬢さま!」


 小気味良い音がチンと鳴った。

 私は思い切り上を向いて、一息にワインを飲み干した。


 その後、たらふく飲んで食べて、あっという間に夜が更けた。


 少しは反省したつもりだったが、ワインがおいしくて、ついつい飲んだ。

 千鳥足で部屋に戻ると、机の上に手紙が置かれていた。


「アメディオさまだ……」


 封を開けて、ポヤポヤする頭で中を読んだ。

 来週商談でこちらに来るので、会いたいという内容だった。


「私も会いたいです……」


 次に会った時、形見の話をしよう。

 それから、ルフサの言葉ももっと教えてもらいたい。


 返事は明日にしよう。


 便箋を封筒に戻そうとして、中に小さな布袋が入っていることに気づいた。


「なんだこれ……」


 布袋の中身は、紙包みだった。

 広げてみると、小指の爪ほどの小さな紫色の石が入っていた。


『アメシスト

 ルフサ語で「酔わない」という意味の石です

 お守りにどうぞ』


 頭の中で、あの柔らかな口調を思い出した。

 おかしくなって、笑いながらベッドに飛び込んだ。


「一足遅かったでーす」


 アメシストを握りしめたまま、私は夢の世界へ落ちていった。


*    *    *


 翌週、約束通りアメディオがうちを訪ねてきた。


 ちなみに父は、アメディオの話を聞いて渋い顔をしていたが、ラピエール公爵家の跡取りだと聞いて手のひらを返した。


 やはり父は父だ。


 玄関に出迎えに行くと、アメディオは頑丈そうな革の鞄を持っていた。

 錠前までついている。


「遅くなってすまないね。色々と準備があって」

「何の準備ですか?」

「それはあとのお楽しみだよ。それより、敬語はやめようって手紙で書いただろう?」

「うっ……手紙と対面では違うのです」


 私が言うと、アメディオは軽やかに声を出して笑った。

 客間に案内しようと思ったが、途中で踵を返した。


「どうしたんだい?」

「今日はお庭でお茶でもいいですか?」

「構わないよ。天気もいいしね」


 恐らく父とルリが、客間の隣の居間で壁に張り付いている。

 庭なら、そう易々と盗み聞きできまい。


 使用人に庭へお茶を運ぶよう指示してから、東屋に向かった。


「バラがきれいに咲いているね」

「はい。母は赤いものが好きで、赤いバラはお気に入りだったんです」


 東屋を囲うように咲き誇るバラを、アメディオは目を細めて見回した。


「アメディオさまに、お話ししたいことがあるんです」

「奇遇だね。僕もだよ」


 アメディオは机に肘をついて身を乗り出した。


「お先にどうぞ」

「いいえ、アメディオさまから」

「じゃあコイントスだ。当てた方から」


 ポケットからコインを取り出すと、アメディオは悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「どっちにする?」

「では裏で」

「僕は表だね。いくよ」


 親指で弾かれたコインが宙を舞い、骨ばった手の甲に吸いつくように落ちた。

 アメディオは、コインの上に重ねた手をどけた。


 表だった。


「じゃあ僕から。良い話と悪い話があるが、どちらから聞きたい?」

「では……良い話で」


 一体何を言われるんだろうか。

 身構えつつも、アメディオの声に耳を傾けた。


「前回ここにお邪魔したあと、お得意さまのバランシエ公爵家へ伺ったんだ」


 私はパチパチと目を瞬かせた。


 バランシエ公爵家。

 サフィーラの家のことだ。


「そうしたらなんと、『夜会で嘔吐した女性を介抱しなかったか?』とサフィーラ嬢に聞かれたんだよ。それでサフィーラ嬢と、その素敵な女性の話で盛り上がってしまってね」

「よかったですわね……」


 なんだか恥ずかしくて、それしか言えなかった。

 サフィーラが余計な話をしていないことを祈った。


「その時、サフィーラ嬢に『どうすればその女性を喜ばせられるか』と相談したんだ。彼女、とてもいいアドバイスをくれてね。僕なりにも色々考えて、あるものを持ってきたんだ」


 アメディオはそう言って、ずっと膝に抱えていた鞄の錠を開け始めた。

 やがて鞄が開くと、中から小さな箱が出てきた。


「それは?」

「開けてごらん」


 アメディオは私の前に箱を置いて、鞄を地面に下ろした。


 箱を手に取ると、ヒンヤリとした金属の質感が手に伝わった。

 蓋を少しずつ開けていくと、隙間からあるものが見えて、弾かれたように顔を上げた。


「どうして……」


 母の形見のネックレスだった。


 唇が震えて、上手く言葉が出なかった。


 アメディオは、まっすぐに私を見ていた。

 いつもの笑顔が消えて、真剣な面持ちだった。


「好きな女性を泣かせてしまったのに、何もせずにはいられないよ」


 私は唾を飲み込んで、手元のネックレスに視線を落とした。

 箱は変わってしまったが、中身は一年前と何一つ変わらない。


「宝石の販売経路を徹底的に調べたら、君の元婚約者がこれを売ったことがわかった」

「やっぱり……」


 当時、サフィーラに調べてもらっても何も出てこなかった。

 思えばあれも、この世界の縛りの一つだった可能性がある。


「けれど、僕が知っているのはそれだけだ。サフィーラ嬢からも、これが君の大切なものだとしか聞いてないんだ」


 アメディオは中途半端に開いていた箱の蓋をそっと外した。

 赤い宝石――スピネルが、眩しそうに日の光を反射していた。


 目が離せなかった。


「よければ君の口から、話を聞かせてもらえないか?」


 箱を机の際まで引き寄せて、私は口を開いた。


「これは……母の形見なんです。今日アメディオさまにお話ししたかったのは、このことです」

「形見……そんなに大切なものだったのか……」


 小さくうなずいて、話を続けた。


「一年前、元婚約者に盗まれたんです。色々なお店を回ったけど、手がかりが得られませんでした」


 アメディオは黙って聞いてくれたが、その眉間には深くシワが刻まれていた。


「諦めようと思っても、どうしても諦められなくて。十歳で母を亡くして、ずっとこれを母だと思って寂しさに耐えてきました。こうしてまためぐり合えて、本当に嬉しいです」


 今すぐ手に取って抱きしめたかったが、懸命にその衝動を抑え込んだ。

 鼻をすすって、箱をアメディオの方へ押し返す。


「でも……やっぱり、受け取れません。これはアメディオさまが買い取ったものでしょう?」

「そう言うと思ったよ」

「え?」


 アメディオは何も答えず、再び鞄を開けて手袋を取り出した。


「僕は宝石商だから、宝石の声が聞こえるんだ。この石は、君のところに帰りたがってる」


 ふざけた言葉だったが、アメディオは真面目な顔つきだった。


「そんなこと……」

「証明してみせるよ。少し貸してもらえるかい?」

「はい……」


 手袋をはめると、アメディオはネックレスを丁寧に手に取った。


「返す前に少し手入れをさせてもらったんだが、その時に気が付いたんだ」


 アメディオは言いながら、スピネルを日の光にかざした。


「少し読みにくいけど、よく見てごらん」


 私は身を乗り出して、石を見つめた。

 目を凝らすと、奥の方に文字が見えた。

 反転していたが、見慣れた文字列だったのですぐにわかった。


『スピナへ』


 ただ一言、そう書かれていた。


 私は両手で口を覆った。


 ずっと、暗い部屋でこれを握りしめて泣いていた。

 こんなに明るい場所で見たのは、初めてだった。


 ボロボロと涙が溢れてきて、止まらなくなった。


「受け取ってくれるかい?」

「ありがとうございます……本当に、本当にありがとうございます……」


 アメディオは私の前に箱を置き直した。


「あ、お、お金を……お支払いします」

「盗品にお金はもらえない」

「でも……」

「じゃあ、来月デートしてくれる? それでチャラだ」


 両手を軽く広げて、アメディオはおどけたように言った。

 私は涙を拭って、大きく首を横に振った。


「一回じゃ釣り合いません」

「え?」

「何回がいいですか?」

「え、えっと……では、お言葉に甘えて再来月も……」

「二回でも足りません」

「ちょっと僕に都合がよすぎて困惑してきたんだけど、大丈夫かい?」


 協議の結果、月一のデートを一年間ということになった。

 アメディオは毎回こちらに来るつもりのようだったが、二回に一回は私がルフサに行くという形で締結した。


「本当にいいのかい? 僕の家まで三時間はかかるよ」

「いいんです。アメディオさまにばかり負担をかけていると、誓えなくなってしまいますから」


 満足げな私を見て、アメディオは不思議そうに首を傾げた。


「それより、つけてもいいですか?」


 ネックレスを両手で大事に持って、そう問い掛けた。

 一年前に見たときよりも、ずっときれいに感じられた。


「よければ、僕がつけようか?」

「お願いします」


 アメディオはまた手袋をはめようとしたので、私はそれを遮って、ネックレスを差し出した。


「そのままで構いません」

「……わかった」


 ネックレスを手にすると、アメディオは私の背後に立った。

 私が髪をよけると、首にヒンヤリとしたチェーンが触れた。


 胸元に光るスピネルを見て、止まっていた涙がまた溢れだした。


「そういえば、悪い話をしていなかったね」


 アメディオは金具を留めながら言った。


「販売経路の情報をサフィーラ嬢にお渡ししたら、張り切ってお父上のところに行ってしまったんだ。君の元婚約者は、今ごろはもう……」


 アメディオの口ぶりに、つい噴き出した。

 あの裁判官一族は、敵に回すと恐ろしい。


 おかしくてたまらないのに、涙も止まらなかった。

 席に戻ったアメディオは、泣きながら笑う私を何も言わずに見つめた。


「アメディオさま。それは悪いお話ではなく、良いお話です」

「それはなにより」


 アメディオの口角がニヤリと持ちあがった。


 私は涙を拭いて、そっとスピネルに触れた。


「お守りが……また一つ増えました」


 上着のポケットに入れていた布袋から、石を取り出した。

 アメディオはそれを見ると、嬉しそうに顔をクシャクシャにした。


「持っていてくれたんだ」

「はい。酔わないお守りですから」

「まあ、君が酔ってくれたおかげで出会えたんだけどね。心配になるからほどほどにね」

「はい」


 斜め上を見ながら返事すると、苦笑いされた。


 アメディオの視線はアメシストからスピネルへ移った。


「スピネルの方はね、勝利のお守りなんだよ」

「勝利……」

「ああ。君にぴったりの石だろう?」


 アメディオは優しく笑うと、首を傾げた。

 私は大きくうなずいて、とびきりの笑顔をアメディオに返した。

お読みいただきありがとうございました。

ほかにも短編を公開していますので、よろしければ覗いてみてください。

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