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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

作者: あかみんご
掲載日:2026/06/09

虐待の描写、および救いのない結末が含まれます。

ご了承の上、お読みいただけますと幸いです。

 彼女は窓辺に立ち、夜の闇が庭に降りてくるのを眺めていた。冷たい大理石の床にかかとを押しつけ、指先に残る微かな埃の感触を確かめる。どこか遠くから犬の遠吠えが聞こえた。かすかに漂う潮の匂いが胸の奥をざわつかせた。


 家は静かだった。廊下の絨毯は踏むたびに軋むし、暖炉からは灰の匂いが漂っている。ここに住み始めてからもう何年も経っている。何年も。そして目に映るすべての家具、すべての影が、幼い日の景色とは何もかも違っていた。


 懐かしい我が家を思い出す。一度広間で舞踏会ごっこをしたっけ。金色に輝くシャンデリアの下で、兄の演奏するピアノに合わせて、母が笑いながら父の腕に手を置き、軽やかに回っていた。父も笑みを浮かべ、母の手をしっかりと取り、時折冗談めかして声をかけながら踊っていた。ねえやは軽くステップを踏みながら楽しそうに舞い、時折父の冗談に吹き出した。暖炉の熱。足音のリズム、ピアノの奏でる音すべてが、あの頃の温かい家庭の証だった。


 あのときは、すべてが永遠に続くかのように思えた。

 

 だが家は傾き、壁紙は剥がれ、家具は貸し手に持ち去られた。

 父の声も、兄のピアノの音も、もう遠くの記憶にしかならない。


 家と共に彼女の誇りもまた薄く剥がれていった。食べるものを確保するために、彼女は町外れの宿へ通った。洗濯場の冷たい桶に腕を浸し、粗布をこすり合わせるたび、指先は赤くひび割れ、昔のドレスの感触だけが幻のように蘇った。元お嬢様が来た―――そう言わんばかりに、他の女たちが時折目を寄せてくる。笑いではなく、哀れみでもなく、ただ好奇の色を帯びた視線。


 誰もが忙しげに布を振り回す中、彼女の動きはぎこちなく、何度も飛沫を散らし、濡れた裾を重くした。かつて母の手の温かさも、兄やねえやの笑い声も、湿った石床に滴る洗濯水の音にかき消された。


 「それじゃ汚れは落ちないよ」

 「もっと力入れて揉まなきゃ駄目だって言ったでしょ」


 慣れない叱り声が石壁に反響した。その言葉は決して悪意ではないのに、不思議なほど痛く刺さった。彼女はうなずき、指に力を込める。だが濡れた布は重く、冷たい水は骨のあたりまで染み込み、息をするたびに胸が小さく縮むようだった。


 時は静かに折れ曲がっていった。

 知らぬうちに別の季節の匂いがしていた。


 父と兄は喧嘩が絶えなくなった。声は大きく、しかしどこか滑稽で、空気を震わせるほどではない。それでも、茶色の壁紙に反響する低い響きが、かつての広間ではなく、狭く貧しい部屋の壁に染み込む。家具は古く、脚のぐらつく椅子にテーブルはかろうじて支えられ、窓の縁際に座る彼女の足先は冷たい板の床に触れた。かつて煌めいた大理石やシャンデリアのことを思い出し、胸の奥がぎゅっと縮む。


 狭い部屋での暮らしは、彼女自身の影のように縮こまり、どこかぎこちなく、呼吸を忘れたまま続いていた。父の低い怒声と兄の尖った反論がぶつかり合うたび、空気が振動して胸を潰す。彼女は手を握りしめ、窓の外の灰色の景色を見つめる。古い木材の匂いと、埃にまみれた空気が混ざり、ひんやりと肌を刺す。日差しも薄く、空は以前の輝きを忘れたかのようだった。


 やがて、兄はふと姿を消した。


 朝になっても、昼になっても、夜になっても、狭い部屋の影は空っぽのまま。父は怒鳴ることもため息をつくこともなく、ただ椅子に沈んで天井を見つめるようになった。彼女はひそかに兄の行方を思い描いたが、どこにも見つかることがなかった。


 そして、ねえやも、あの日を境にいなくなった―――忘れもしないあの日。彼女は庭先で首を括った。子どもを身ごもって、しかしその相手に捨てられたのだ。誰にも頼れず、誰かを探しに行くこともできず、大きな欅の枝の下で、死体は孤独と絶望に揺れていた。「見るな」と誰かが告げたのが聞こえた。しかし彼女は彼女から目を離すことができなかった。思考は白く凍り、ただ音だけが遠く聞こえた。世界は妙に静かになった。


 世界―――彼女は現在の自分を取り巻く、この空間を見回した。この家に嫁ぐことが決まった時、彼女は、まぁ、それなりの幸せを掴んだと思うことにしたのだ。田舎だけど海の見える広い部屋、立派な家具、朝食の香ばしい匂い——あの日に手放した筈の日常が戻ってきた。けれど実際の家は、崖の上にぽつんと立っていて、潮風は臭いし冷たく肌を刺すばかり。思い描いた柔らかな海風とはほど遠く、窓を開けるたびに不満が胸をかすめた。使用人たちは、挨拶ひとつにも硬い間を置き、彼女が通ると視線を伏せた。そのわずかな仕草が、血筋は良いけど没落した家の娘への距離を雄弁に物語っていた。


 それに―――フランクリンだ。結婚してから彼は変わった。時折彼の物静かだけど鋭い目つきを見せるようになり、言葉の端に潜む威圧は、幸福の期待を徐々に薄く裂いていった。


 今夜も、彼の影がどこかから迫っているような気がする。

 けれども目の前の闇に立ち尽くし、彼女はただ、冷たい窓枠に額を押しつけ、ひと息つくしかなかった。


 あの日の痛みも生々しい。初めて彼に手を上げられた夜。食卓の上のワイングラスが床に落ち、赤い液体が広がった。頬に残る痺れと痛み。冷たくなる指先。彼の瞳が怒りと満足の混ざった色で光っていた。


 「誰が悪い?」

 「何故、黙っている?」

 「何に対して謝ってるんだ?」


 こうしたやり取りは、その後も何度も繰り返されるようになった。正解など存在しない問い。それでも彼女は、答えを探すふりをしなければならない。胸の奥がざわつく。指先が冷え、声が出そうで出ない。沈黙が落ちる。その静寂はまるで、生温い手で首をゆっくり締められているようだった。正しく謝れない自分が悪いのだと、思い込まされていく。


 彼女は逃げたいと思い始めていた―――でも、どこに?

 暗い廊下の先に何が待つか想像するだけで、体は動かず、踏みとどまった。


 風が窓の隙間から吹き込んで、冷たい指先を撫でた。

 心臓が早鐘のように打つ。


 外では夜の闇が、屋敷の影を伸ばして揺れている。

 遠くに、荒れた崖の先に広がる海の匂いがかすかに混ざる。


 逃げるべきか、残るべきか。


 頭の奥で、母の声が反響する―――「身を正しく持ちなさい」と、廊下に響く亡霊の声。その声がもたらす想像に彼女は身を震わせた。おかあさま。父が死んだ後、母はその後を追うように病床に伏した。枕元の白いシーツに顔をうずめ、青白い手をかすかに動かすだけの姿。熱に浮かされ、かすれた声で名前を呼ぶ日々。呼吸は浅く、胸の上下に合わせて部屋中に湿った空気が漂った。かつての艶やかな肌は灰色がかり、指先は冷たくなっていった。かつて家族を照らしていた。笑顔は影を潜め、痛みに歪む顔だけが残った。彼女は小さな手を握り、母の手を温めようとしたが、母は弱々しく微笑むだけで、何も言えなかった。眠るように息をひそめ、母はやがて静かに息を引き取ったのだ。


 彼の足音が、想像の闇から響いてきたような気がした。まだ見ぬ影。まだ来ぬ影。逃げるべきか、残るべきか。窓に映る自分の顔は、蒼白で、凍りついたまま。手を握りしめ、肩を震わせ、しかし一歩も踏み出せない。夜は深く、重く、そして――決断を待っているかのように静まり返っていた。


 胸の奥で、何かが速く動いているのを感じた。手を置いた胸のあたりが、ひそかに振動している。呼吸を整えようとしても、わずかに乱れたまま残った。


 息を呑む。指先に力を込め、足を少しだけ前に出す。胸の奥でざわつく恐怖を押しのけ、暗い廊下を想像する。手に握ったドアノブの冷たさ、廊下の冷気、石畳の冷たさ――それを思い浮かべると、恐怖と決意が混ざり合い、体がゆっくりと動き始めた。足先が床をとらえ、心がわずかに震える。まだ完全ではない、まだ怖い。でも、動かねばならない。


 夜の闇を縫うように、彼女は廊下を抜け、玄関を飛び出した。冷たい石畳の感触が足の裏に響く。外の空気は潮と泥の匂いを帯び、崖の向こうに広がる海の気配が胸を押す。胸の奥が落ち着かず、何度も息を吸い込む。手のひらは汗で滑る。振り返れば、闇の向こうに彼の影はまだ見えない――しかし耳には、荒い呼吸と靴音がかすかに届いた気がした。


 思い出すのは、母の声、幼い日の舞踏会ごっこ、笑顔の父、踊るねえや、ピアノを弾く兄。逃げるべき理由は数え切れないほどあるのに、心の奥底には「身を正しく持ちなさい」という古い誓いが絡みつく。あの光り輝く日々も、ピアノの音も、今となっては同じ重みを持つ。生き延びたいのか、それとも止まったままでいたいのか、自分でもわからない。


 視界が揺らぐ。

 世界が滲む。

 頬の焔が燃えている。


 崖の端が近づく。海の匂いが濃くなる。風が顔を打ち、髪を乱す。足がふらつく。振り返る。闇の中で彼の姿が浮かび上がり、呼び声が夜に吸い込まれる。


 逃げろ……!


 自分の声ではない、どこか遠くの声が胸の奥から湧き上がる。


 彼女は躓き、地面に両手をついた。

 そのまま崖の縁の土を握りしめ、冷たい鉄のように固まる。

 彼が近づく気配。影が揺れ、声が震える。呼吸が荒くなる。


 「おい!」


 すべての海が彼女の心を覆う。自由に向かうはずの一歩は、まるで重い鎖に繋がれたかのように踏み出せない。足先は冷たく、頭の中は空白。逃げるという意志と、母の誓い、家族との思い出、恐怖、すべてが絡み合い、時間は止まった。


 「何をしている!」


 彼の声が耳を裂く。


 「戻ってこい、アリス!」


 彼女は白い顔を向けた。

 その時、その瞬間、

 何かがそっと抜け落ちたようだった。


 その目は何も移さず、恐怖も怒りも愛もなく、ただ―――沈黙と凍結した心を、夜の溜息が撫でていく。崖から投げ出されたその体は、海の荒波に揉まれ、泡と共に消えていった。


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