その6
「アリア、もう起きないと!今日も仕事でしょ、お休みするの⁉」
朝、階段下からのシルヴィアの大声に、がばっと体を起こした。
(うわ、まずい。寝過ごした!)
まず、手に持ったままの手紙を確認した。泣きながら寝落ちしてしまったが、変な折り皺が付いていなくてホッとする。慌てて手紙と指輪を引き出しの奥に戻し、時計を確認した。一瞬ものすごく焦ったが、普通に急げば仕事に間に合う時間だ。
それにしても、シルヴィアはいつ家に戻ったのだろう。アリアは首を傾げた。昨夜は本当に眠れなくて、朝の空がうっすらと白んでくるまでは起きていた記憶がある。
大急ぎで着替えて階下に降りていくと、シルヴィアが心配そうに出迎えた。輝くような銀の髪をゆるく後ろに束ね、薄いメイクをして、真っ白なエプロンを身に着けている。ついさっき家に帰ったばかりとは思えないような、完璧な身支度だ。
「大丈夫?具合悪いわけじゃないわよね?」
「うん、平気。ちょっと夜更かししちゃって」
寝不足で、頭が少しふらふらする。今朝はかなり冷え込んでいるが、店舗になっている一階は、それなりに暖かかった。いつの間にか薪ストーブにはちゃんと火が入っていて、その前に置かれた木製の椅子の背もたれに、アリアの黒い外套が掛けてある。
「あ、それ、ちょっと湿っぽかったから、そこで少し乾かしてるわ」
確認すると、昨夜水を浴びた布地は、いい塩梅に温かく乾いていた。いつものことながら、シルヴィアには本当に頭が下がる。冬場はこの外套がないと、外に出るのが辛い。
「ありがと。じゃあ、行ってきます」
外套を羽織り、厨房にあったクラッカーの袋を手に取って外に出ようとすると、「アリア」とシルヴィアに声を掛けられた。
「ごめんね。昨夜はその……帰りが遅くなっちゃって」
気まずそうに言われ、むしろアリアの方が気まずい感じになった。
「シルヴァは俺に気を使い過ぎだろ。ここはシルヴァの家なんだし、俺はただの居候なんだからさ」
行ってきます、ともう一度言って、急いで家を出た。早足で歩きながらクラッカーの袋を開け、一枚口に入れる。
さっき言ったのは本心ではあるが、シルヴィアが何を言いたいのかも分かる気がした。チラリとではあるが、『朝帰りかよ』と内心思ったのも事実だ。以前もこんなことがあったなぁ、としみじみ思い出す。シルヴィアは恋人ができた時、わりと分かりやすい。
だが、シルヴィアはこの家の主で、立派な成人女性だ。アリアの夜遊びをシルヴィアが咎めることはあるが、アリアがシルヴィアに対してあれこれ言うのはお門違いというものだ。アリアもそれぐらいはわきまえている。恋人ができたのなら、全力で応援するのみだ。
駅前の時計を横目で見て、少しだけ時間があることを確認し、スタンドに寄って熱いコーヒーを買った。これでいくらかは目が覚めるだろう。
―――――そして職場である印刷会社で一日働いて、ようやく終業時間。
(あー……死にそう……)
ほぼ徹夜と言っていいほど寝ていないのに、忙しい一日だった。まず朝一番に、先日納品したばかりの冊子についてのクレームが入った。午後は「若い人の意見を聞きたい」ということで打ち合わせに引っ張り出され、意見を求められた。それなりに真剣に考えて回答はしたものの、あの回答で良かったのかどうかも分からない。
とにかく、普段通りの仕事の上にその二つが突発的に入り、大変疲れた。今日やろうと思っていた分がすべては片付かず、やや来週に持ち越したが、残業をするだけの気力も体力も残っていなかった。一日まともに仕事ができただけでも褒めて欲しい。
だが、考えようによっては、一日忙しくしていたおかげで、あまり余計なことを考えずに済んだ。昨夜の落ち込みを今日にまで引きずらずに済んだことに、とりあえずホッとする。
(もう、次の日が仕事の時は、夜にライアの手紙読むのやめよう。ていうか、できるだけ読むのやめよう。いつまでもこんなことしてると、ライアに怒られる)
ぼんやりとそんなことを考えつつ、帰り支度を整えてとぼとぼ作業場の外に出ると、後ろから「アリア、お疲れー」と声を掛けながら、数人の同僚たちがアリアを追い越していった。アリアも挨拶を返し、軽く手を振った。
給料は安いが、ここの職場環境はすごくいい。職場の人たちが男も女も皆アリアより一回り以上年上で、いろいろと接しやすいところが特にいい。同年代の間だとどうしてもトラブルメーカーになりがちなアリアだが、ここでは安心して仕事に取り組むことができた。円満で風通しのいい人間関係は、社長の人柄によるところが大きい、とアリアは常々思っている。
思ったよりも外は寒くなかった。朝方はかなり冷え込んだが、日中は冬場にしては暖かな日差しが降り注いでいた。もう少し遅い時間帯になると、またぐっと寒くなるだろう。明日は仕事は休みだ。今日と同じような、いい天気になるらしい。
思い切り腕を伸ばすと、仕事終わりの安心感からか、大きなあくびが出た。するとすぐ近くで、吹き出すような笑い声が聞こえた。
「……でっかいあくび」
えっ、と慌てて口を押えながら辺りを見回すと、近くに人影があった。その人物を確認して、アリアは思わず目を丸くした。
「セ、……セイ、ア?」
「よ。お仕事、お疲れさま!」
セイアは満面の笑みを浮かべ、アリアに向けて片手を挙げてみせた。アリアは口を半開きにしたまま、近付いてくる彼の笑顔をまじまじと見つめた。ほんの少しくせのある柔らかな黒髪に、穏やかな優しい瞳。年末年始を共に過ごしているものの、久しぶりの再会に思える。
「アリア、黒髪に戻したんだな。銀髪も良かったけど、やっぱり黒い方が自然な感じ」
「あ……うん。え、いつ来たの?」
「たった今。驚いただろ」
セイアは、西国からは遠く離れた、北国に住んでいる。普通のルートで来るのであれば、船と電車を使って一週間以上かかる行程だ。前回帰国のために別れてから二週間しか経っていないことを考えると、すでに計算が合わない。




