その4
何か声を掛けるべきだろうかとアリアが迷っている間に、ティファは近くのテーブルの上に置かれた水の入った大ぶりのピッチャーへと手を伸ばした。多分その場に居合わせた中で、彼女の動きが予測できた者はいなかっただろう。反射神経のいいアリアでも、全く防げなかった。
「―――――このっ、泥棒ネコッ!」
怒鳴り声と共に、ティファは思い切り右腕を振り上げた。ばしゃん、という勢いのいい音を立てて、ピッチャーの水がアリアの顔めがけて思い切りぶちまけられた。
一瞬、店内はそれこそ水を打ったように静まり返った。アリアはとっさに何が起こったのか分からず、とりあえず手で顔をぬぐった。髪からも袖からもぼたぼたと冷たい雫が落ち、だいぶ悲惨な状況になっていることが察せられる。
「ちょ、ちょっと、何するのよこの野蛮人!」
「うるさいっ!こいつはあたしがゼビアと付き合ってるの知ってて、彼を誘惑したのよ!当然の報い、っていうかこんなんじゃぜんぜんあたしは気が収まらない!」
(えー……誘惑って、勘弁してくれよ……)
レイアとティファの言い争う声に戸惑いつつ、顔を上げた。だが、言い返そうとする気持ちは、真っ赤な顔で目を潤ませているティファの姿を見て消えた。どちらかと言えばゼビアが悪い、とアリアは思っているし、その考えに変わりはない。でも、確かにこれくらいは当然の報いかもしれない、と妙に落ち着いて思う自分がいた。
大きなトレイを手に何か反撃しようとしているレイアをとりあえず後ろに下がらせ、アリアはティファに向き合った。
「いろいろとごめん、ティファ。でも、俺はゼビアと付き合うつもりはないし、さっきゼビアにもちゃんとそう言った。悪いけど、あとは二人で何とかして」
アリアがそう言うと、ティファをはじめとする少女たちは、勢いを削がれたように口を引き結んで黙り込んだ。 ティファは不満だろうが、アリアがこれ以上何を言っても言い訳にしかならない。
「あーもう、違うお店行こ!やってらんないわ、まったく!」
ふいにリーダーの女子がそう声をあげ、くるりと踵を返して店から出て行った。その後を、ティファやその他の少女が追いかける。
「どっから目線なのよ、あいつ。どうしてあんなのがモテるの、訳分かんない」
「大丈夫よ、ティファのが絶対!いい女だから。ゼビアは見る目ないよね」
「あいつ、花火大会でもよその男たぶらかしてたらしいじゃん。ほんっと、よくやるわー」
それぞれに好き放題言いながら、グループがガヤガヤと去っていくと、その場にはレイアとびしょ濡れのアリアが残された。当然だが他のお客にも結構見られていて、状況的にかなり恥ずかしい。
「わーお、派手にやられたわね、アリア。これ使って」
アリアと顔見知りのグラマラスな若い女性店員が、タオルを持ってきてくれた。ありがたくそれを使わせてもらいつつ、彼女がモップを持ってきたのを見て、そちらにも手を伸ばす。
「ごめん、俺やるよ、それ」
目を落とすと、床には飛び散った水で数か所水たまりができていた。店員は軽く眉を上げてアリアを見ると、モップをしっかりと腕に抱え込んだ。
「これは私のお仕事。あんたはもう支払い終わってるんでしょ、早く帰って服とか乾かした方がいいわ。悪いと思うんだったら、もうこういう騒ぎは起こさないことね」
正論過ぎて、返す言葉もない。改めて店員に謝り、店の他の客にも「お騒がせしてすみませんでした」と声をかけた。レイアも一緒に謝ってくれて、客からは「風邪ひくなよー」と温かい言葉をもらえた。
「なんだかんだ言って、アリアって人たらしよねー」
店を出て二人で歩き始めると、レイアがしみじみとそんなことを言い出した。
「え、そんなことないだろ」
「自覚ないの?あんたがモテるのって、まぁとびきり美人だっていうのが大きいでしょうけど、でも多分それだけでもないのよね」
「レイアもモテるじゃん」
「あたしはまぁ、あんたと違って清純系正当派美少女ですから」
「自分で言うか?しかも清純系?正統派??寝言かな」
軽口を叩きつつ、二人で帰り道を辿った。レイアはアリアにワープで帰るよう勧めてくれたが、清純系でも正統派でもないにせよ、レイアはアリアと違って普通のかわいい女の子だ。帰り道の十分程度の間に彼女の身に何かあると困るので、アリアが家まで送ると主張した。
基本的に、友だちと遊んだりご飯を食べたりした時は、アリアが護衛のような役回りになる。単にアリアがそうしたくてしているだけなのだが、それが「百合っぽい」と、さきほどのティファたちのグループなどに揶揄されたりもする。結論から言うと、女子の人間関係と言うのは非常に面倒くさい。
言葉少なく会話をしながら、レイアの家の玄関まで無事に彼女を送り届けた。軽く手を振って、レイアの姿がドアの向こうに消えたのを確かめた次の瞬間、アリアは足に力を込め、できる限り早足になって『アルテミス』までの道のりを急いだ。
店に着くと、急いで裏口から鍵を開けて店内に入る。中はまだ真っ暗で、シルヴィアは戻っていないらしい。とりあえずカウンターの小さな灯りを点け、慌てて外套を脱ぐと上着の内ポケットを探った。
(大丈夫かな。まさか水掛けられるなんで思わなかったから)
内ポケットから取り出したのは、使い古した皮張りの小さな手帳だ。心配しているのは、手帳そのものではなく、それに挟んだ一枚の写真。
手帳からそれを引き抜いて、薄明りの下で子細に確認した。写真は、右縁の部分がほんの少し水濡れしたものの、まあ無事といっていい状態だった。
(よかった……)
ホッとため息をついた。店の棚から新しいタオルを抜いて、丁寧に写真に押し当て、できる限り水分を飛ばす。この写真は、アリアにとっては非常に大切なものだ。宝物……というよりは、形見に近い。
写真には、アリアを含め五人が写っていた。四年ほど前の写真なので、写真の中のアリアはとても幼い。その隣には、少し年上の金髪の少年が立っている。アリアの生まれて初めての彼氏だ。そして、彼が写っている写真を、アリアはこの一枚しか持っていなかった。
(ライア……)
写真の中で微笑む少年は、数カ月前に他界した。投身自殺だった。写真を数秒眺めているだけで、まるで反射のように涙がこみあげてくる。
とりあえず写真の無事は確認できたので、手の平で乱暴に涙を拭い、階段へ足を向けた。『アルテミス』の店舗の二階は居住スペースになっている。濡れた外套や上着などを脱衣所に吊るし、熱いシャワーを浴びて寝間着に着替え、ようやく一息ついた。
時間的にはまだ早い。だが今夜はシルヴィアもいないし、髪が渇いたところで早めにベッドに入ることにした。寝る支度を整え、自分用の机の上に写真を伏せて置くと、布団に潜り込む。寝室はかなり寒いが、暖かな毛布にくるまれて深い呼吸を繰り返していると、いつの間にか穏やかな眠りに落ちる……はずだった。
―――――でも眠れない。いつまで経っても手足は冷たいままで、嫌な感じにずっと胸がざわめいている。ゼビアやティファの怒った顔、レイアの呆れた顔、写真の中のライアの笑顔が瞼の裏をチラつき、自分の意識とは裏腹に呼吸はだんだんと浅くなっていく。




