35 灰と錆
気が付くと、ルシェは白い通路にいた。
いつからそこにいたのか、覚えがなかった。周りを見渡し自分がどこにいるのか確かめた。
そこは〈アストラル〉へ潜った時に現れた場所だった。
まずいぞ、かなりまずい。
キティのサポートをしていたはずが、いつの間にか〈アストラル〉の内層にいる。
引きずり込まれた。
アッシュは倒した。彼の刻印装はすべて制圧したし、今は意識を完全に失っているはずだ。
では、いったい何者が自分を攻撃してこの場所へ誘導したのか。
残った可能性を考えた。そして、はっと気づく。
想定外だった。
ラストだ。彼女は〈ウィズ〉だ。
身体をすべて刻印装に置き換え、生命活動のために何年もルーンを起動し続けた結果、〈アストラル〉へ潜る能力を獲得したのだ。それも、かなり深いところまで。自分をこの通路へ捕えることができるほど、より強力に〈アストラル〉と結びついている。
状況から考えると、キティの戦況も悪くなっているはずだ。悪い、程度で済むだろうか。
ルシェは走った。まずはここから出ていかなければならない。そして、今よりも深い階層へ向かうのだ。確証はないが、自分を引きずり込めたということはつまり、ラストはそこに潜んでいる可能性が高い。
だが、ラストを見つけ出したとしてどうすればいい? 彼女の能力は未知数だ。〈ウィズ〉としてラストを倒すことができるのか? それとも彼女よりもさらに深い階層へ潜ってルーンを掌握するか? そんなことができるのか? 仮に潜れたとしても、基底現実へ戻って来られるのか?
わからない。わからないが、ルシェは進んだ。
キティを助ける。
それだけを考えて進み続けた。
キティは自分を救い出してくれた。それも二度。そして今も、命がけで戦っているはずだ。
やがて出口が見えた。前と同じだ。
光に照らされ、先が見えない出口。そこへ向かう。
その光が広がり、ルシェを包み込んだ。
目の前に灰色の海が広がっていた。波が足元に打ち寄せる。空も灰色だった。完全にモノクロの景色だ。振り返ると、地平線まで続く砂浜が見える。風は吹いておらず、何の匂いもしない。まるで下書き中の風景画の世界に入っているかのような、現実感の無い感覚だった。
ここも前に来た場所だ。一段階、深く潜ったらしい。
再び出口を探してみるがそれらしいものはない。
海と反対側、砂浜が広がる方向へ走り続けた。
走っても走っても、地平線に変化はない。
息が切れてきたので、足を止めた。
どれだけ進んだのか見ようと、海の方を振り返ってみる。
目の前に灰色の海が広がっていた。波が足元に打ち寄せる。
愕然とする。まったく進んでいない。そのままの位置だ。
より深く潜らなければ。考えろ。
目の前の風景は実在しない。〈アストラル〉の情報を五感に置き換えて認識しているだけだ。
『深く潜る』という感覚も、基底現実をベースに置き換えられた表現だ。ただの隠喩。
地平線は虚構だった。進むべきは海だ。言葉通り、海に潜れ。
じゃぶじゃぶと海の方へ進んでいく。
腰のあたりまで水面に浸った時に気づいた。この海には浮力が存在しない。それだけではなく、空気との温度差も、水流も、水圧も、存在しない。水面が当たる身体の部分に、水の感触があるだけだった。
当たり前だ。ここはエルスと二人で思い描いただけの海岸だ。想像力の欠如した、無限に広がる非現実的な空間。
頭まで海に入った。足は底についているし、呼吸もできる。
そのまま進むと、再び非現実的なことが起きた。上方に見える水面が、海底に向かってめくりあがるように裂け始めた。裂けた水面からは、やはり灰色の空が見えたが、それは砂浜で見た空とは違って、曇天のような重苦しい雰囲気の眺めだった。
裂け続けた水面はやがて自重の限界を迎えたかのように剥がれ落ち、水中でバラバラに千切れて、灰のように海底へ降り積もった。降り積もった水面は泥のように固まり、蠢きながらその形状を変化させていった。
裂け目はどんどん広がり曇天が上を覆い尽くしていった。そして、次々と零れ落ちた水面が地表の構成体となっていく。
海中の世界が裏返って、新たな階層が現れた。
瓦礫/残火/武器/強烈な死臭/無数の死体。
──戦場。
視線の先に人影が二人分=仁王立ちの女とその後ろで倒れている男。
仁王立ちの女──長い銀髪/凛々しい顔立ち/片手に剣=騎士の出で立ち。
倒れている男──アッシュ/身体中に矢を受けている/血を流し続ける。
アッシュは知っているよりも若く見えた。まだ幼さの残る顔つき。
瓦礫から何人もの兵士/全員が刻印装化した傭兵/骸骨の顔。
骸骨が一斉に女に襲い掛かる──女はアッシュを護るように応戦。
斬られる/刺される/殴られる──それでも女は戦い続ける。
その表情──不屈/決死/執着/狂気。そして絶望。
大柄の骸骨が現れる/腕が筒状の刻印装──女に向ける。
爆炎が吐き出された。
女がしゃがみ込んでアッシュを庇う=抱きしめるように。
絶叫──業火にかき消される。
ルシェは眩暈がした。炎の熱風と、肉が焼ける臭いに息が詰まった。
同時に、身体中の皮膚に激痛が走った。全身を焼かれるような激痛。いや、まさに今、業火に焼かれている。
目の前で焼かれている二人の感覚を叩きつけられている。
ルシェはこらえきれず膝をつき、嘔吐した。どす黒いドロドロの液体が吐き出される。涙が止まらなくなる。手で拭うとそれは血涙だった。何もかもがありえない現象だ。
耐えろ、すべて隠喩だ。この感覚も、身体からあふれ出ているものも実在しない。そう思い込ませて意識を保った。
だが、この場で見せられているものは何だ? 過去か妄想か? 具体と抽象が入り混じっているこの階層は何だ? 誰が何のためにこれを見せている?
炎がおさまった。
その跡=人型の黒い塊/覆いかぶさった女。その下にアッシュ/身体は無事/両手両足を失った。
周りの骸骨たちは沈黙している。
激痛はまだ続いている。痛みが何なのか考えろ。痛みは黒塊から届いている。
その意味──黒塊は生きている。
黒塊がゆっくりと起き上がる/煤をボロボロと落としながら──うなだれた姿勢。
ポタポタと何かが滴る音。
黒塊から何かが染み出している。赤い液体=血液。
流れ出る血液が全身を覆う。黒塊は動かない。
今度は軋むような/凍るような音が響いた。
全身の血液が鈍く光る銀色の物体へ変化する──金属の身体/鋼鉄の人形が生まれた。それと同時に、ルシェの痛みが止まった。
骸骨たちがゆっくりと動き出した/武器を構える。
鋼鉄の人形に赤い染みのようなものが広がっていく/血液ではない/金属の表面自体が変化したもの。そして、人形の正体に気づいた。
──錆。
全身が錆で覆われた。殺意と絶望を塗り込まれた禍々しい錆の人形が完成した。
錆の人形=ラストが身体をのけぞらせ、異常に甲高い獣の雄叫び/産声を上げた。
ラストが骸骨たちに襲い掛かる。
叩きつける/引き裂く/握りつぶす/喰いちぎる──暴虐の限りを尽くし骸骨を制圧した。
最後の骸骨を屠ると、再び動きを止めた。ルシェはその背中を見つめ続けた。
突然、ラストが振り返り、ルシェの方に駆けだす。
その場を動けない。目の前にラストが来た。
錆の腕が伸びた。躱せない。首を締めあげられる。
呼吸ができない。これは〈アストラル〉の情報だ、誤魔化されるな。そう自分に言い聞かせたが、無理だと気づいた。この苦痛は本物としか思えなかった。
錆の人形が首を傾げながら顔を近づけてくる。血塗られた刺々しさしか表現できない顔面。
首を締めあげる力が強まった。その手から首へ錆が侵食する。身体が、顔が錆で浸食されていく。ラストの意識だ。ラストが自分を奪い取ろうとしている。抵抗できない。彼女の殺意は揺るぎないものになってしまっている。
視界がぼやけてきた。無貌のラストの顔面。それが曖昧なシルエットへ変化していく。
その顔面が、様々な人物に変化していった。
キティ、レイン、フュリアス、イコライザー、アッシュ、ラスト、キュリオン、研究所の職員たち。
そしてまたキティ、レイン──
エルスがいない。
そうだ、僕はエルスと会ったことがないんだ。〈アストラル〉を通じてでしか、話したことがない。
もっと、話したかった。伝えたかった。
今まで君をどう想っていたか。
あの部屋は、ただ白いだけの場所じゃなかった。あそこにいたから、君と話すことができた。
君がいたから、あの部屋の中でも、僕は世界と繋がっていた。でも、あの頃は気づいてなかったんだ。
今の僕なら、それができるはずなのに。
君と会って、伝えたかったのに。
これで、終わりだろうか。
視界は完全に無くなり、全身が錆と一体化していく感覚に蝕まれながら、思考し続ける。
いや、そんなことはない。今の僕にもできることがあるはずだ。
彼女が僕を見つけてくれたように、この暗闇の中でもやれることがある。
ラスト、ここでの戦いは君の勝ちだ。
僕の身体を君の殻で覆って、その内側に取り込みたいのならそうすればいい。
でもそれは、君が僕の一部になるということでもある。僕がいなくなるわけじゃない。
やることは決まっている。
僕が選んだ、僕だけができる方法で、この状況を乗り越えてみせる。
僕は〈アストラル・ゲイザー〉。
僕はこれから、君に没入する。
ラスト、そしてアッシュ。まだ終わらないぞ。




