プロローグ 〈ハイブ〉
「あれはちょっと嫌だな」
天井に挟まっている死体を見上げて、少年は呟いた。
何がどう嫌なのかはわからないが、初めての感覚だった。少年はその感覚を言葉で表現することができなかった。それでも、あの死体と同じような存在にはなりたくないと、ただ何となく思った。
死体の大部分が天井に埋まっているので、その性別はわからない。胴体の一部と、左腕だけがはみ出ている。その腕はまるで、少年に手を差し出すかのようにぶら下がっていた。
成り行きでそうなってしまったのか、それとも誰かの意思でその姿にされてしまったのか、少年には少しも想像できなかった。
《何が?》
頭の中で少女の声が響いた。自分と同じくらいの歳の、まだ幼さを感じさせる声が。そしてその声は、少なくとも今の状況において自分にしか聞こえず、また幻聴ではないということを、少年は理解していた。
「天井に死体がぶら下がっているんだ。なんであんなところにあるんだろう」
《ええ? 何それ? でも、そういう場所だと思うしかないね。進もう》
「そうだね」
声の指示に従った。死体が差し出すその手を避けて、少年は通路を歩き出した。
その姿は薄汚いローブに身を包み、フードを深く被っている。
少年が歩いていた通路は薄暗く、奇妙な場所だった。
床、壁、天井の全面が統一感の無い──バラバラの素材で構成されている。どれも壊れた建築物から持ってきた材料のようだった。つまりガラクタである。石、木材、金属、様々な素材が並べられていて、まるで瓦礫を塗り固めて作ったかのような見た目の通路だった。先ほどの死体は、木製のドアとトタン板に挟まれるような形でぶら下がっていた。
歩く箇所によって足音が変わった。乾いた音、軋む音、裂けるような音、割れる音。
臭いも同じだった。埃の臭い、鉄の臭い、湿った木の臭い、饐えた臭い。
通路の造りと同じように、あらゆる感覚がかき集められて、モザイク模様を織り成している。
「本当にこんなところにあるの?」
《情報によればあるはず》
「わかった、信じるよ」
《信じるって、どっちを?》
「どっち? 君の言うことを、だけど」
《……頑張って。私は、海で待ってるから》
「僕も早く、そこへ行くよ」
少年はそう告げたが、声の返事は無かった。会話が終わったのだと思い、そのまま歩き続ける。
進んでいくと、広い吹き抜け構造の場所に出た。上下に空間が伸びている。上から日の光が差し込んでいるため、歩いてきた通路よりもすっと明るい場所だった。
少年は手すり壁に身を乗り出し、下方を覗いた。通路と同じように、ガラクタを固めてできた建物が伸びている。底から数十メートルほどの高さに少年はいるようだった。底は地面になっていて、中央に石で囲われた箇所がある。木でも植えられていたのだろうか。中庭のようにも見える。
「いつの間にかこんな高さまで……登るつもりは無かったのに……」
少年はフードを脱いだ。肩まで伸びた黒髪が特徴的な、整った顔立ちである。
その瞳はうっすらと青白く光り、穏やかに明滅していた。
見上げてみると、上方にもガラクタの建物が続いている。下方よりも長く伸びているようだ。頂上は百メートル以上の高さがあるように見えた。
「ダメだ。進み方がわからない」
声の返事は無かった。
「構造が複雑すぎるよ。どうやってこんな増築を……」
声の返事は無かった。
「……エルス?」
声の返事はなかった。
少年は頭の中の声が消えていることに気づき、思わず振り返った。薄暗い通路の奥。そこに見えるのは、ぶら下がった死体だけだった。
何が起きたのかはわからないが、自分がどういった状況にいるかははっきりと理解できた。
──まずいぞ、完全に孤立した。
かつて栄華を極めた王城、その成れ果てである超巨大建造物──〈ハイブ〉の中を、少年は彷徨っていた。




